ヨナタマ伝承
ヨナタマの伝承は、柳田國男が引いている「宮古島旧記」のものが、原典としてもいい。
むかし伊良部の島の内、下地という村ありけり。ある男漁に出ててヨナタマという魚を釣る。この魚は人面漁体にしてよくものいう魚となり。漁師思うよう、かかる珍しきものなれば、明日いずれも参会して賞翫(しょうがん)せんとて、炭を起してあぶりにのせて乾かしけり。その夜人静まりて後、隣家にある童子俄かに啼きおらび、伊良部村へいなんという。夜中なればその母いろいろにこれをすかせども止まず。泣き叫ぶこといよいよ切なり。母もすべきようなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわななきふるう。母も怪異の思いをはすところに、はるかに声を揚げて(沖の方より?)
ヨナタマヨナタマ、何とて遅く帰るぞ
という。隣家に乾かされしヨナタマ曰く、
われ今あら炭の上に載せられ炙り乾かさるることと半夜に及べり、早く犀(さい)をやりて迎えさせよ と。ここに母子は身の毛よだって、急ぎ伊良部村にかえる。人々あやしみて、何とて夜深く来ると問う。母しかじかと答えて、翌朝下地村へ立ちかえりしに、村中残らず洗い尽くされて失せたり、今に至りてその村の跡形はあれども村立てはなくなりにけり。かの母子いかなる陰徳ありけるにや。かかる急難を奇特にのがれしこそめずらしけれ。(『柳田国男全集〈6〉』)
ヨナタマとは何だろうか。後藤明は、南太平洋の伝承も引いたうえで、書いている。
南太平洋では、捕まえた鰻や蛇を食べた人は皆、毒にあたるか洪水で死んでしまうが、壺の仲から鰻の頭が話しかけるのを聞いて、その肉を食べなかったり、頭を水に返した母子は助かる、という展開になっている。そしてこれらの事例はたいてい、人類、氏族あるいは村などの始祖伝承となっている。そして日本の南島や、中国そして東南アジア各地で見られるような、必ずしも「物言う魚」を立寝たのが原因ではないが、洪水が起こり、生き残った兄妹間の近親婚から始祖が生まれるという兄妹始祖型創世神話と通ずるのである。
これをみれば、「人面漁体」といっても、すぐにジュゴンと結びつくとは限らず、蛇や鰻も同位相にあることが分かる。実際、本土の昔話でも魚が僧侶に姿を変えるという伝承では、人間に化けるのは鰻や岩魚であることが多いと後藤は指摘している。柳田は、大鰻は耳があるからという説に言及している。また、後藤は上記では触れていないが、鰐でも同様の伝承があるから、ヨナタマは蛇、鰻、鰐であり得ることになる。
ただ、石垣島では、ザンと呼ばれるジュゴンが、ザンの名前で同様の伝承に登場することからすると、ヨナタマをジュゴンと見なしていいのかもしれない。
また、東南アジア大陸部やインドネシアには、ジュゴンは人間の化身だという考えが見られ、東南アジアやオセアニアでは、鰐が人間の化身だと見られている。しかし、琉球弧ではザンは、ザンが人間になることはあっても、人間がザンにはならならいから、ジュゴンは、鰐ではなく、蛇や鰻に近い存在として捉えられていることになる。
ここでヨナタマの伝承に戻ると、ヨナタマを食べることが禁忌であることに触れていることや、ヨナタマと子を近い存在と見なしていることから、ヨナタマを祖先とする観念に行き着きそうに見える。しかし、ヨナタマ伝承は、それが創世神話に結びついていない。ザンの伝承でも、ある家の始まりにはなっても、島や村の始祖伝承とのつながりは消えている。ということは、ヨナタマを祖先とすることは、個別的にはあえりえても、普遍的ではないことを示していると思える。
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