奥武島ブルー
仲松弥秀が「七つほど」と書いた「地先の小島」を、六つは見出せる。
玉城沖の奥武島。久米島の東の奥武島。慶良間の奥武島、本部半島のつけ根の奥武島、那覇の奥武山、北中城の奥武岬。
玉城沖の奥武島は、「絵図郷村帳」には「あふ島村」とあり、島内には耕地が少ないので、島人は漁業に従事し、「百姓地」は対岸に飛び地を持っていた(『角川日本地名大辞典47(沖縄県)』)。
久米島の東の奥武島は、無人島。「昔からセジ(霊力)高い島とされ、「あふ持ちよねの森かやうさのわかつかさすてつかさかなし」という神名の奥武御嶽がある」。
慶良間の奥武島は、慶良間島の約2km沖にある岩礁群。くば岩とうぶ岩には神が祀られている。「福を授ける神が、はるか遠くのニライ・カナイから来て上陸し、慶良間島を訪れる足がかりとなる聖なる島である」
本部半島名護の奥武島は、死者を葬る場であったし、「後生」とも呼ばれていた。
那覇の奥武山の東側には「古墳があった」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』p.299)。
北中城の奥武岬は、仲松によれば、昔からの風葬地だった。(酒井・同前p.299)。
これらの記述から分かることを整理すると下表が得られる。
分かることは、奥武島は無人島であるにもかかわらず、風葬地に選ばれたところがあること。つまり、対岸の島人が葬地にした島があること。そして同時にそこが「あの世」とされた島もある。さらに、「あの世」とされたかどうかとは別に聖地であったり、来訪する神の足留まり、つまり、神が寄る島とされていること、である。
奥武島について、仲松弥秀は、葬地だった島とし、島名から「青の島」と位置づけ、「あの世」を青色を見たのだと解した。これをほぼそのまま引き継いだのは、谷川健一で、
奥武の島は島人は人が死ぬと死体を舟で運んで葬った地先の小島であり、風葬墓に葬られた死者が黄色い世界に住むということから、青の島と呼ばれたのである。(『南島文学発生論』)
と見なした。
この仲松-谷川の理解は、島人にとってはちょっとブルーな解釈だと思う。しかも二重の意味で。ひとつは、奥武島を葬地と決めてしまったこと。もうひとつは、「あの世」の色を青にしてしまったことである。しかも最近では、筒井功によって、仲松-谷川の追求は中途半端だとまで言われて批判され、筒井がさらにこの問題意識を引き継いでいる。
しかし、不充分ながら上記の表をみるだけでも、奥武島は必ずしも葬地ではない。葬地に選ばれることがあったと言えるに過ぎない。それは、奥武島と呼ばれなくても、葬地となった島があることにも現われている。島の名づけと葬地とはもともと関わりがない。葬地を選ぶに際して、はじめてその島が島人の生活圏の視野に入ったのでない限り、島が葬地とされる前に、島名はついているからである。そして、葬地であるかどうかとは別にして、「あの世」と見なされることがありえた。そして、聖地や神の足留まりとされたこと、である。
もっと踏み込めば、久米島と慶良間島沖の奥武島が聖地であることから、この二つについては、本部半島の奥武島と同じように、かつて「あの世」の島と見られたことを意味している。そして、それがニライカナイが海の彼方とされたとき、神の足留まりとして選ばれることがありえるのだ。言い換えれば、聖地であったり、神の足留まりと言われる島は、かつて「あの世」の島だったことを指していると考えられる。
このことは、そこが葬地であったかどうかとは関わりなく言える。もちろん、本部半島の奥武島のように、葬地であるとともに「あの世」の島であることもあり得る。
仲松-谷川のちょっとブルーな理解の系譜は、「青の島」の「青」を色彩と理解したことに端を発している。しかし、地名に名づけた最初の段階では、この「青」は地先という距離概念か、海の中空にある島と考えられたか、どちらかである。それが色彩としての「青」の意味になるのはその先のことだ。
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コメント
名護市安部(アブ)の「オール島」もそうだと思いますね。
あと、意味的には「立神・トゥンパラ・ハナレ(地先の離れ島)」なども同様じゃないでしょうか?
外間守善は「離れ島が存在しないところでは、赤崎やアラ地名で代用される」みたいなことを書いています。与論の赤崎はこれに該当するのでしょう。
投稿: 琉球松 | 2015/12/14 10:09
琉球松さん
いつもヒントをありがとうございます。オール島、「立神・トゥンパラ・ハナレ(地先の離れ島)」のこと、ぼくもそう思います。
おいおいそこも考えてみます。
投稿: 喜山 | 2015/12/15 15:24