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2015/12/31

「物言う魚」と「物言わない動物」と洪水

 後藤明の『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』を参照先として、「物言う魚」と「物言わない魚」が、人間とのやりとりの結果、洪水等を起こす伝承をピックアップしてみる。順番が不揃いだが、後で本を見返すときのために記載順のままにしてある。

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 これを見ると、「物言う魚」で多いのは「鰻」だ。「鰻」は人間のような頭をしているとも言われ、ヨナタマ伝承でいう、人面漁体がジュゴンだけの特性として考えられているわけではないことが分かる。

 「物言わない魚」の場合、蛇、鰻、鰐とそれぞれ出てくる。またここで、「物言わない」のは、魚だけに限らない。言い換えれば、「物言う」動物の場合にとくに「魚」が意識されたことになる。これは、「魚」との出会いは、「蛇」より遅く、人間が自然から分離したあと語られたからだと思える。

 このなかでは、#24 のニューブリテン島の例で、魚が特定されず、海霊とその子が出てくる点で、ヨナタマ伝承と似ている。動物が指定されないのは孤立しているわけではないということだ。 

 

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

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2015/12/30

ヨナタマ伝承の位相

 ヨナタマ伝承からは、二つの相反する考えが導かれる。

 ・ヨナタマ伝承は、始祖神話や物事の起源と結びついていない
 ・始祖神話と結びつかないところからは、トーテムの対象からは外れる
 ・また、トーテムとするには、ヨナタマは「珍しい」ので、日常的に接する動物ではなかった。いや、トーテムとして親縁を結ぶには、ヨナタマを忌避する気持ちが働いて珍しくさせた。

 ・しかし、トーテムに対するように、ヨナタマを食べることは忌避されている。
 ・ヨナタマは話せる。ヨナタマと赤ん坊は、共鳴している。また、母と子、ヨナタマと「ヨナタマ」と呼びかけるものが対応している。人間と対応させて考えている。沖縄島ではジュゴンを「赤子魚」と呼ぶ。
 ・また、ヨナタマが話せるということは他の魚は話さないということだから、この伝承自体は、人間と自然の分離が進んだところで語られたものだということになる。

 ここで、ヨナタマに「ジュゴン」を当てはめると、そのまま通用する。ヨナタマは、ジュゴンのメタファーとしての位置を占めている。

 それなら、この伝承をザン(ジュゴン)として語らずに、ヨナタマとして語ったのはなぜだろう。それは、ジュゴンの持つ両義性そのものが、ザンと名指すのをためらわせたのかもしれない。

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2015/12/29

ヨナタマ伝承と明和の大津波

 酒井卯作の『琉球列島民俗語彙』をみると、ヨナタマは、宮古島では「人魚・ジュゴンのこと」とある。

ヨナタマは南島では常に伝説的である。宮古島ではこれにふれると不漁になるといい、2人いるときは、1人はこれを魚と見、1人は人間に見えるという。

 ところが、出典としている「大森資料」をみると、伊良部島の項で出てくる。

 ユナイタマ(人魚)
人魚に触れると不漁になる。ユナイタマにはふれないのがいちばんである。二人をる時は一人は魚と見、他の一人は人間に見る事がよくあるといふ。(大森義憲「諸国叢書 第13輯」)。

 大森が沖縄を訪れたのは1935(昭和10)年とされている。ヨナタマの伝承が記された『宮古島旧史』は1748年にできたとされているので、18世紀には「ヨナタマ」の他に説明はなかったのに対して、20世紀には「人魚」が当てられている。ヨナタマに「人魚」という概念を当てはめたのだ。

 ヨナタマはサンゴ海の霊力を象徴する精霊だ。これが、はっきりとジュゴン(ザン)と名指されなかったのは、ザンがトーテムにはならなかったことを示しているのかもしれない。あるいは、津波を引き起こすものとしてジュゴン(ザン)を名指すには、ザンがあまりに似つかわしくないというためらいがあったのかもしれない。

 また、南太平洋の神話をみると、「洪水」を引き起こすものには、蛇、鰻、鰐が出てくる。伊良部島でも蛇、鰻として語られても不思議ではないのに、そうならなかったのは、サンゴ礁の海ではジュゴンのほうがリアリティがあったということかもしれない。とにかく、海の霊力の象徴をこの神話に登場させるということだけは確かに伝わってくる。むしろ、それを伝えたいものとしている。

 明和の大津波は、1771年。だから、ヨナタマ伝承はそれ以前のものだ。明和の大津波によって伝承の信憑性は強化されたのであり、明和の大津波によってこの伝承の記憶が呼び起こされたのではないことになる。

 

『琉球列島民俗語彙』


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2015/12/28

トレス海峡のジュゴン猟(松本博之)

 松本博之の「『潮時』の風景-自然と身体」(「地理学報」32号、1997)から、トレス海峡におけるジュゴン猟について備忘しておく。

 トレス海峡は6000年前まで、オーストラリアとニューギニアをつなぐ陸地だった。サフルランドの大陸棚の一部。

 潮が引くと海岸線は沖合に退く。沖合の海域のあちこちにサンゴ礁ばかりか、広大な砂堆(さたい)が現われる。巨大なシマ(洲)も。

 ジュゴンは人間についでもっとも親しんできた哺乳類。ウミガメを「目のいい奴(プルカライ)」と呼ぶのに対比して、ジュゴンを「耳のいい奴(カウラライ)」と呼ぶ。方向感覚もいい。「あいつらはコンパスを持っている」と島人は言い、解体の過程で、そのコンパスと考えている食道の一部を生食することもある。食糧としてのジュゴンと、親近感を抱く生き物としてのジュゴンを二つの核として、島人のジュゴンをめぐる「自然」はつむぎだされている。

 7、8月には、水深4メートル以浅の海域でジュゴン猟は行われる。満潮に近いころ、リーフを越える。乗り組むのは3名。モリ打ち人と中の男、船尾の男(エンジン操作者)。ジュゴンは満ち潮にのって島やサンゴ礁周辺の浅瀬の藻場に近づき、引き潮にのって沖合に戻っていく。

耳のよいジュゴンに気づかれないように、狩猟場からかなり離れたところでエンジンを止め、櫂でこぐ。その後は一切物音を立てない。息をかみ殺し、追い風を利用するために南東貿易風(ないし東風)を背に受けながら、ハンターが見につけている腰布のラバラバを船首で広げ、小さな帆として東から西へ船を流していく。

 浮いていたり息吹きするジュゴンそのものばかりか、根こじされた海藻、排泄物、行跡、泡立ちなど、水面下のジュゴンのきざしを見つけようとする。傍目には押し黙ったまま、大海原で悠長に潮と風の流れるままに身をまかせているようにみえる。それこそ風や潮と一体化して、人の気配を風音と波音のなかに消してしまおうとする。待ちと忍耐の狩猟なのだ。かつてモリ打ち台から行なわれた狩猟の際には、おびき寄せるためにジュゴンの息吹きを真似ることもあったらしい。

 ジュゴンは二分に一度の割合で長い顔の先端にある鼻孔の弁をひらいて息をつく。その瞬間がモリ打ちの唯一のチャンス。その間わずか2、3秒。表皮が堅く、皮下脂肪が厚いので、モリ打ち人はモリを持ったまま体重をのせジュゴンの上へ倒れ込むように船外へ跳び出す。モリ打ち人になると一人前とみなされるが、自他ともに認める正真正銘のモリ打ち人は数人に過ぎない。

 ヤム島では、他の生き物とは比べ物にならないほど、ヤムの島人に敬意を払われ、人間と同じようにみなされているらしい。一方で肉の味や香りを楽しんでいるにもかかわらず、捕獲したとき憐れむような表情を浮かべるという。

 ジュゴンは墓碑の除幕式(二次葬)や、さまざまな儀礼後の祝宴に不可欠な最高の食べ物である。また、マブヤグ島ではトーテムのひとつ。ワニ、犬、マダラエイ、ジュゴン。「人は死ぬと、トーテムに時を移す」。

 ジュゴンの息吹きに耳を澄ます
 海は深さを増し、
 流れはますます速くなる

 海はもっと深くなる
 ジュゴンの息吹きに耳を澄ます
 まもなく、顔を出すだろう

 この詩もいい。

 ジュゴンは、成長段階による命名がある。段階によって満ち潮は6段階、引き潮は5段階の呼び分けられている。

かれらの持つ物語のなかには、人間がココヤシの実の殻や浮力の大きいある種の樹木で作った外皮をかぶって、犬やジュゴンに変身する説話が語られている。

 「犬」は分からないけれど、ワニ、マダラエイ、ジュゴンというトーテムは、後藤明の分析にしたがえば、「鰐」型だ。(cf.『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』(後藤明))。これらはトレス海峡の島人にとってサンゴ礁が生れてからの新しいトーテム群を指すのだろう。

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2015/12/27

「魚女房」と「人魚と津波」

 『日本昔話通観』から、琉球弧の「魚女房」と「人魚と津波」の話を拾ってみる。

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 これを見ると、釣った魚は、「きれいな魚」とされることが多い。伊良部島では「えい」、「人魚」、池間島では、「小さなボラ」として釣れ、去る際には、「ジュゴン(人魚)」になっている。与論や粟国島で、「小さな赤い魚」と呼ばれるのは、沖縄島で、ジュゴンを「赤子魚(アカアングヮユウ)」と言うのを連想させる。

 「ごちそう」をつくることが多く、また「龍宮」を出自とし、「龍宮の神の子(使い)」と称する場合がある。男は、コーイ鳥になることが多いが、「石」への化身を語る場合がある。

 ここからは、「魚女房」という場合、必ずしもジュゴンが想起されているわけではないと思える。むしろ、エイは名指されている。


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 「人魚と津波」の場合は、「人魚」とされることがしばしばだ。池間島や多良間島の「ヨナイタマ」には目を引かれる。

 石垣島や黒島では、実際に「食べた」結果、津波(大波)が起きている。

 この例からも、必ずしも、津波がジュゴンとして必須であったわけではないことが分かる。珊瑚礁の海の霊力の姿として、焦点を結ぶひとつにジュゴンは位置している。


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2015/12/26

『沖縄のジュゴン』(盛本勲)

 盛本勲の『沖縄のジュゴン』はたくさんのヒントを与えてくれるように思う。

 琉球弧のジュゴン出土数は、奄美諸島5(うち与論島1)、沖縄諸島88、宮古諸島6、八重山諸島11。この分布について、盛本は書いている。

 ジュゴンの天然分布からみれば、奄美諸島が北限にあたることから、少ないことは首肯できるが、より天然分布域に近い地域に位置する宮古・八重山諸島が沖縄諸島より少ないことはどのように解釈すれば良いであろうか。

 この問いに対して、要因は一元的ではないとしながら、発掘調査件数の少なさや調査規模が小規模であることを理由に挙げている。この本より前に発表した出土資料から、出土数とぼくたちが注目している縄文期に該当するものをカウントしてみる(新石器時代とあるのは、含めた)。

 奄美  5(3)
 沖縄  79(47)
 宮古  8(3)
 八重山 9(5)
 (「ジュゴン骨に関する出土資料の集成(暫定)」2005年)

 宮古、八重山の出土構成比率は、17%。縄文期に限定すると14%とさらに下がる。

 端的に言って、これは、宮古、八重山では、食さない傾向があった、あるいは食するのは限定的であったことを示しているのではないだろうか。

 また盛本は、沖縄北部地域でも出土数が極めて希薄であることも指摘している。この要因についても、盛本は同様の見解を示している。ぼくはこれもまた、この地域で食さない傾向があった、あるいは食するのは限定的であったことを意味するのだと思える。

 古宇利島では、縄文後期のものが確認されているが、「歯(?)」とあるのみだが、ここには「海馬」の交接を真似て性交したという始祖伝承がある。島袋源七は、漁師はジュゴンが捕れたら浜辺で食べて家に持ち帰らないとしていた。また、大宜味村の海神祭では、ジュゴンは「神の乗り物」となっていた。

 また、蝶形骨器について、「ペンダント、ヘアピン」などの見解も示されているという。これは知りたいものだ。金関恕(1997)は、「人の遊離しやすい魂をつなぎとめる、という精神文化に関わるものであろう」としていると言う。これも調べてみよう。

 一方、ジュゴンの骨は「かんざし」として用いられていた。これも興味深い。

 骨輪もある。単独とふたつを組み合わせた複合のものと。骨製の腕輪の場合、成人の男性が腕にはめるのは、並大抵のことではない。細いからだ。そこで、その苦痛を通して、パラオでは酋長の権威を示すものにもなった。

 琉球列島における単独使用骨輪タイプの出土例は、いずれも観階級社会の縄文時代に帰属している。
 このため、酋長のようなリーダーが存在した階級社会ではなかったことから、パラオ例にみるような権力の誇示を目的とした使用法ではなかったであろうが、いずれにしてもその大きさ等から、大人の腕に嵌めるために、手の甲を通すのは容易ではなかったであろう。

 成人の男性が嵌めるのは大変だったろう。しかし、女性であればどうだろうか。琉球弧においては、原ユタであるシャーマンがつけたのではないだろうか。

 ジュゴン猟については、亀川安兵衛が仲宗根久武から聞いた話と伊波南哲の報告が載っている。谷川健一が記していたのは、仲宗根の話だと分かる(cf.「もの言う南海の人魚-儒艮」(谷川健一))。伊波南哲の話も出典を探してみよう。

 新城島の上地、下地の両島の御嶽には、奉納されたジュゴン骨が積まれていた。

 上地島 東御嶽(アールオン)、ザンヌオン、イショウ御嶽(オン)
 下地島 七門御嶽(ナナゾウモン)、イショウ御嶽(オン)

 と複数で呼称されている。両御嶽とも荒らされてしまったが、下地にはジュゴン骨が残っている。千余りの破片を復元したところ、少なくとも91頭の奉納が確認された。

 「七門(ナナゾウ)」というのは、この御嶽には放射状に七つの門が広がっていることに由来するが、これは、「海からジュゴンが上がってくる入口が多いことから」、そう呼ばれているのだという。

 2009年、ペルシャ湾の小島アカブで、b.c.3500~3200頃とされる遺跡が見つかる。それはジュゴン骨が奉納された礼拝所と見られる(cf.The oldest sanctuary in Arabia is discovered: a dugong bone mound on Akab Island)。同様のものは、オーストラリア沖でも数百年前のものが発見されている。きっとトレス海峡だろう。盛本は、この遺跡を新城島の御嶽と関連づけて考えているが、その通りだと思う。位相はずれていて、御嶽以前の聖域とアカブ島の遺跡は対応する。新城島の御嶽と奉納されたジュゴン骨は、貝塚の後身の姿だ。

『沖縄のジュゴン―民族考古学からの視座』


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2015/12/25

ヨナタマ伝承

 ヨナタマの伝承は、柳田國男が引いている「宮古島旧記」のものが、原典としてもいい。

むかし伊良部の島の内、下地という村ありけり。ある男漁に出ててヨナタマという魚を釣る。この魚は人面漁体にしてよくものいう魚となり。漁師思うよう、かかる珍しきものなれば、明日いずれも参会して賞翫(しょうがん)せんとて、炭を起してあぶりにのせて乾かしけり。その夜人静まりて後、隣家にある童子俄かに啼きおらび、伊良部村へいなんという。夜中なればその母いろいろにこれをすかせども止まず。泣き叫ぶこといよいよ切なり。母もすべきようなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわななきふるう。母も怪異の思いをはすところに、はるかに声を揚げて(沖の方より?)
 ヨナタマヨナタマ、何とて遅く帰るぞ
という。隣家に乾かされしヨナタマ曰く、
われ今あら炭の上に載せられ炙り乾かさるることと半夜に及べり、早く犀(さい)をやりて迎えさせよ と。ここに母子は身の毛よだって、急ぎ伊良部村にかえる。人々あやしみて、何とて夜深く来ると問う。母しかじかと答えて、翌朝下地村へ立ちかえりしに、村中残らず洗い尽くされて失せたり、今に至りてその村の跡形はあれども村立てはなくなりにけり。かの母子いかなる陰徳ありけるにや。かかる急難を奇特にのがれしこそめずらしけれ。(『柳田国男全集〈6〉』

 ヨナタマとは何だろうか。後藤明は、南太平洋の伝承も引いたうえで、書いている。

 南太平洋では、捕まえた鰻や蛇を食べた人は皆、毒にあたるか洪水で死んでしまうが、壺の仲から鰻の頭が話しかけるのを聞いて、その肉を食べなかったり、頭を水に返した母子は助かる、という展開になっている。そしてこれらの事例はたいてい、人類、氏族あるいは村などの始祖伝承となっている。そして日本の南島や、中国そして東南アジア各地で見られるような、必ずしも「物言う魚」を立寝たのが原因ではないが、洪水が起こり、生き残った兄妹間の近親婚から始祖が生まれるという兄妹始祖型創世神話と通ずるのである。

 これをみれば、「人面漁体」といっても、すぐにジュゴンと結びつくとは限らず、蛇や鰻も同位相にあることが分かる。実際、本土の昔話でも魚が僧侶に姿を変えるという伝承では、人間に化けるのは鰻や岩魚であることが多いと後藤は指摘している。柳田は、大鰻は耳があるからという説に言及している。また、後藤は上記では触れていないが、鰐でも同様の伝承があるから、ヨナタマは蛇、鰻、鰐であり得ることになる。

 ただ、石垣島では、ザンと呼ばれるジュゴンが、ザンの名前で同様の伝承に登場することからすると、ヨナタマをジュゴンと見なしていいのかもしれない。

 また、東南アジア大陸部やインドネシアには、ジュゴンは人間の化身だという考えが見られ、東南アジアやオセアニアでは、鰐が人間の化身だと見られている。しかし、琉球弧ではザンは、ザンが人間になることはあっても、人間がザンにはならならいから、ジュゴンは、鰐ではなく、蛇や鰻に近い存在として捉えられていることになる。

 ここでヨナタマの伝承に戻ると、ヨナタマを食べることが禁忌であることに触れていることや、ヨナタマと子を近い存在と見なしていることから、ヨナタマを祖先とする観念に行き着きそうに見える。しかし、ヨナタマ伝承は、それが創世神話に結びついていない。ザンの伝承でも、ある家の始まりにはなっても、島や村の始祖伝承とのつながりは消えている。ということは、ヨナタマを祖先とすることは、個別的にはあえりえても、普遍的ではないことを示していると思える。


『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

 

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2015/12/24

「よなたま」(稲村賢敷)

 稲村賢敷は、「人魚」について書いている。

 よなたまという魚は人魚の一種で顔に嬰児の顔を見るようだとも言い、鳴き声も嬰児のそれにそっくり似ている言う事である、友利、砂川附近では海の事を「よな」と言うんだと古老は語った、海に漁猟に行く事を「よなうり」と言い「よな下り道」「よな下り川」等という言葉がある、海岸地方の部落名に与那覇、与那越、よなんだき等の地名がある、が皆海に縁のある地名である、伊波普猷氏の「寄上げ魚場(なば)」の説からすれば寄魚(な)の詰った言葉で魚類の多く寄る海の意味に解すべきであろう、よなたまの名称は人間の顔に似ている所から「たま」という女性の名称を添えて海神の姫君という意味で呼称されているようである。(「宮古島庶民史」)

 地名の語源にもとづけば、ヨナは砂州を意味するから、「与那覇」「与那越」にしても、砂浜の発達した海岸だったはずだ。そこで、「よなうり」という言葉にも、砂浜の浜辺で準備をする漁夫の姿が浮かび上がってくる。

 「よなたま」は、砂州の海の霊力、もう少し言えば、珊瑚礁の海の霊力を指すのだと思う。

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2015/12/23

「沖縄における寄物(ザン)」(島袋源七)

 島袋源七は、ザン(ジュゴン)について、こう書いている。

 ザン(儒艮)は群をなして寄るのではなく、二三匹或は数匹が、リーフの割目に沿うて時たま浅瀬まで上って来る事がある。漁夫はこれを捕獲しても家に持ち帰らず、浜で料理して食うに過ぎない。家に持帰ったら、その家の主婦が死ぬか、家族の者が海において不慮な災難に逢うものとされている。ザンが上ると時化が来るといわれ、ノロや神人に世直しの祓いをして貰う事になっている。(島袋源七「沖縄における寄り物」「民間伝承」15巻11号(通巻162号)、民間伝承の会、1951年11月)

 島袋は今帰仁の出身で、山原について書いてきた人だから、これは宮古や八重山のことを書いたのではないだろう。古宇利島の兄妹始祖神話には、海馬としてジュゴンが出てくるから、これも国頭のこととして書いていると見なしてよいのだろう。

 そしてこの記述はとても重要なものだと思える。島袋は、それと気づかないうちに、重要なことを書き残したのだ。たぶん。

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2015/12/22

『珊瑚礁の思考』、目次構成

 『珊瑚礁の思考』は、amazonの準備も相整いました。数日中に発刊されます。仲程長治さんの写真のおかげで装丁はきれいですが、さすがに厚い。

 700枚ほど書いてしまったのを出版社の要請で500枚に圧縮したものの、推敲の過程で560枚ほどにまた膨らませてしまったのですから仕方ない。

 本来なら二、三冊に分けるべきボリュームだったのでしょうが、無名の書き手には、そういう余裕のある企画は組めませんでした。しかし、とにかく精霊(カミ)の時代から神が出現するまでをひと通りには描きたかったので、312pのボリュームになってしまいました。

 惜しむらくは、結果、値がはってしまったことですが、それだけ読みごたえはあると思います。ブログですから、節タイトルも載せておきます。どうぞよろしくお願いいたします。


はじめに 「ネシア」の野生の精神史

 文字を持たなかった時代へ
 霊力思考と霊魂思考の編み物.
 琉球弧からヤポネシアへ、太平洋のネシアへ
 ざわめきに背中を押されて

第一部 円環する生と死

一.われらアマンの子-祖先

 アマンから生まれた
 アマン―人、人―アマン
 流動的エネルギーとしての霊力
 心を残しては語れない
 霊力思考
 化身
 霊魂思考
 身をやつした姿

二.蛇からアマンへ-脱皮

 蛇の位相
 脱皮つながり
 トーテムの関係図
 全ては身に起きたこと
 わたしはジュゴン

三.いずれ、生まれ変わる-再生

 トロブリアンドの再生
 琉球弧の再生
 アマンに見ていたもの
 母系社会と「をなり神」
 わたしたちの盲点
 兄妹始祖神話の位相
 再生と祖先崇拝
 食人(カニバリズム)思考

第二部 「あの世」と「霊魂」の成立

四.境界としての洞窟-風葬

 風葬とは何か
 骨の信仰
 「キャンプ地を去る」から「家を去らない」まで
 なぜ、去ったのか
 「死者」と「家」の同一視
 移行としての生と死
 もうひとつのあり方へ
 風葬の成立
 「喪屋」の発生
 境界モチーフの展開

五.包含するニライカナイ-他界

 二つのベクトル
 地上と地下
 洞窟を塞ぐ
 反転
 海上はるか彼方へ
 包含するニライカナイ
 厚い「移行」の層

六.マブイの成立と協奏-霊魂

 霊魂の成立
 霊魂の協奏
 マブイとセジ
 霊力思考と「こころ」
 霊魂思考と「あたま」
 病の三類型
 マブイ込め
 死の前後1・添い寝
 死の前後2・悪霊払い
 死の前後3・霊魂の除去
 死の三角形

七.クチとユタの原像-呪言

 唱えることは実現すること
 自然のイメージ的身体化
 呪言(クチ)の世界
 反復するイメージ的身体化
 原ユタ
 憑依型シャーマン
 生き残ったユタの可能性

第三部 生と死の分離を超えて

八.まれびとコンプレックス-珊瑚礁

 人間と植物の同一視
 反作用を繰り込む
 「女の作った御馳走」
 むしろ、もたらされる恵み
 人見知りの基層
 珊瑚礁の発生
 母なる珊瑚礁
 珊瑚礁の思考

九.仮面がつなぐ-来訪神

 希薄な死
 希薄な同性愛
 再生の変形
 来訪神の深度
 仮面は遡行する
 仮面の発生
 原仮面
 
一〇.人、神となりて-御嶽

 守護する頭蓋骨
 円環が破れる
 「御嶽の神」の出現
 置き換えられた「あの世」
 世界は変わってしまった
 生き神の出現
 神の変形
 島世

あとがき
 

『珊瑚礁の思考 〔琉球弧から太平洋へ〕』


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2015/12/21

「沖縄のジュゴン個体群とジュゴン猟の復元に向けて」(大泰司紀之)

 なかなか見つからないジュゴンについて、大泰司紀之は、

 おそらくジュゴンは、昼間はサンゴ礁の外側で生活し、船が近づくと深みに身をひそめてやり過ごす。夜になるとひそかにサンゴ礁のなかに入ってきて、採食していたのである。(「沖縄のジュゴン個体群とジュゴン猟の復元に向けて」2005年)

 と書いている。2002年の企画調査では、奄美大島にもジュゴンが来遊する海草藻場のあることも確かめられた。

 新城島下地のザン御嶽は、ここでは七門(ななぞう)御嶽として紹介されている。大泰司は、新されたこともあった骨を調べ、頭部49頭を確認している。

 1894~1916(明治27~対照)年には、沖縄本島で47頭、宮古諸島で22頭、八重山諸島で146~207頭が捕獲されている。これを見ても、八重山での生息密度の高さがうかがえる。

 大泰司は、「御嶽のジュゴン骨は、信仰によって残された、世界でまたとない資料であり、ジュゴン分布復元のための貴重な情報が得られる」としている。


 

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2015/12/20

動物との関係

 まず、「犬」が含まれていないように不完全なものだが、おいおい補ってゆくとして、動物との関係を表にしてみる。

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 これを見ると、関係の深さと強さでいえば、「蛇」は最強だ。ただし、神であったり、シャーマンとのつながりが強く、等身大さにさえ欠けるほどだ。

 「アマン」は、トーテムとしての刻印がいちばん明瞭だ。しかし、人間との婚姻のなかでは現れてこない。それはトーテムであり続けたことを意味するのかもしれない。

 「蝶」は、「霊魂の化身」という結びつきが最も強く、その点で、シャーマンとも島人ともつながっている。

 「ジュゴン」は、人間との婚姻の結びつきがあり、トーテムとしての可能性を高めている。しかし、明瞭には出てこない。アマンや蝶のように日常的な動物ではないことも、「神の使者」へ寄る理由になっているのではないだろうか。

 「白鳥」は、ニライカナイの遠隔化の後ではないだろうか。をなり神が化身するというように、人間とは近いが、それ以上のつながりが今のところ見いだせない。

 「鮫」は、トーテムである可能性を持っている。トヨタマヒメの例があるからだ。宮古で、鮫を食べないというのは、人を食うからという理由に行き着きそうになるが、しかし、それは後代につけられた理由だとも考えられる。後藤明によれば、メラネシアの「鰐」は、鰐のいないポリネシアになると「鮫」に変換される。そういう意味では、ポリネシア型だ。

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2015/12/19

ジュゴンの骨の出土時期と使われ方

 生産道具として出土しているジュゴンは、骨錐が多く、貝塚前4~5期に集中している。後には、肋骨が針に使われたこともあった。骨製品という意味では、「蝶形骨器」を作る意味がもっとも大きかったということだろうか。

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(久貝弥嗣「貝塚時代骨製品の出土状況」)

 また、大堂原貝塚の出土状況からは、脊椎動物に占めるジュゴンは、前3~4期から後1期にかけて、目見当だけれど、約10%ほどを占めている。同程度にあるのがウミガメだが、ただし、前2~3期では、ウミガメは20%を越えている(涌泉岳二「脊椎動物遺体からみた琉球列島の環境変化と文化変化」)。珊瑚礁のことを考えれば当たり前だが、ジュゴンよりウミガメとの付き合いが長いということだ。

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2015/12/18

ザン女房譚

 宮古島狩俣の話。ただし、谷川健一によれば同種の説話は、奄美大島まで分布している。

狩俣の人が釣をしていると、浜にきれいな魚がいた。それを捕って飼っていたら美しい女になった。そこで夫婦となって、二人の間に子供ができた。夫婦喧嘩のときに、男は妻にむかい、おまえは狩俣の浜からとってきた魚で、もとは人間ではないとののしった。するとつまは、それなら私は海にかえるといって浜に降りていった。妻は腰まで浸かりながら「ほんとうにいってよいのか」と夫にたしかめた。夫は「いきなさい」といった。喉まで潮に浸かったとき、ふたたび未練げに夫にたずねた。夫はおなじ返事をした。すると妻はザンの魚のすがたになって、海の彼方に去っていってしまったという。

 この説話では、女がご馳走をつくる(排泄物をご馳走にする)でもなく、だから男が驚くこともなく、女が異類と化して子供を産むでもなく、やはりだから男が驚くでもなく、ただの喧嘩によって別れることになっている。もともとの伝承が持っていただろう核心は消えてしまっている。ただ、別れの悲哀さだけが強調されている。しかも、悲哀を抱くのは、魚の方であって男ではなく、子供は登場もしない。

 去る側に託された悲哀は、共同体の悲哀を代弁しているようにも響いてくる。

 

『神・人間・動物―伝承を生きる世界』

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2015/12/17

「もの言う南海の人魚-儒艮」(谷川健一)

 谷川健一の「もの言う南海の人魚-儒艮」。なぜかこの文章はドキドキした。

 ゆかちゃみ 間切祝女や
 鐙引ち遊ぶ
 吾るニレー神や
 ザンぬ口取やい 暇乞い

 大宜味村の海神祭りで、神を見送るときに歌う。扇を名残惜しげに振りながら。「人魚の口を取ってもうお暇しよう」、と神を代弁して。

 馬は神の乗り物で祝女が乗るが、ザンはニライの神の乗り物。

 儒艮を、琉球弧では、「ザンの魚(いお)」と呼ぶ。琉球王府の公用書では、「海馬」と書く。

 谷川は、柳田の説を引き、「よなたま」の意味を海霊とみなしている。「よな」は、砂州が原義だから、砂浜に寄る霊のほうが近いのではないだろうか。言ってみれば、珊瑚礁の海の霊だ。

 ザンが津波を起こすという伝承を受けて、谷川は書いている。

 しかし、ザンを不吉なものとするようになったのは後代のことと考えられる。なぜならザンの肉をとってたべ、あるいはザンを先祖とする人びとが、ザンをみてそこに凶兆をおぼえたはずはないからである。むしろ強い親愛感を抱いていたにちがいない。

 不吉に感じたのは後代という見なしには共感するが、知りたいのは、「ザンを先祖とする人びと」の実際の言葉だ。出典不明なところ、谷川にはよく泣かされる。

 スクについて、面白いことが書かれている。スクの寄る前には必ず時化になるのは、時化にスクが運ばれたということだろうが、スクが時化を予知する魚であると信じられもした。伊計島では、スクは、ウンジャミ、スク、ティダハニスクと呼ばれた。しかもこれらのスクは、シヌグ、またはウンジャミ(海神)の季節に寄ってくる。ということは、スクとのあいだには必然的なつながりがあるはずだ。

スクという名称はニールスクのスクと関係があり、スク(底)の魚という意味だろうとおもわれる。つまりニールスク(ニライカナイ)からもたらされる神聖な魚であった。だからこそ、それからシヌグやウンジャミなどの海の神の祭りと関係があり、その祭りのおこなわれる時分に寄ってくると信じられた。

 これはかなり魅力的な考えだ。スクが「底の魚」ということが。しかし、あまりにおあつらえ向き過ぎて、ぼくには言い切る気になれない。スクが寄るようになったのは、もちろん珊瑚礁ができてからだ。そのとき、ニーラスクという言葉はあっただろうが、この言い方は島によってさまざまだ。そこに共通のスク(シュク)という名称を想定していいのか、ためらわれる。松山光秀によれば、徳之島では、シュクは成長段階に応じて、シュク、モハン、ワタブタ、アイヌックヮ、フルアイヌックヮと呼ばれた。この呼称の細分化は、スクの存在の大きさを教えるが、言い換えれば、島ごとの呼称もさまざまだったことが示唆される。

 ザンに戻ろう。ザンのヒレには五本の指があり、三つの関節があって握力の存在を裏づける。メスには隆起した二つの乳房があり、薄い腋毛も陰毛もある。雄雌ともに人間そっくりの性器もある。息を吸う。馬のような赤ん坊のような声を出す。人間が添い寝して乳をやるように授乳する。子供が捕えられると、母親のザンは涙を流す。

そのあまりの類似ぶりに人は心を動かさずにはすまない。こうしうた動物が海のただなかにいるときに、それを「海霊(よなたま)」とみなしたのは当然である。

 また、そう呼ばれたのは、「沖から海岸にむかってよってくるからでもあった」。

 ザンには「ザン女房」の伝承がある。

 ザンをとるには、四、五日から一週間くらい海上で過ごさなければならない。新城の島人は、ザンをとる前には必ず「ザンの御嶽」と呼ぶ場所に集まり、神女たちを先頭に立てて漁の祈願をする。イショウ・ウガンという。イショウとは漁のこと。

 まず、海の底にもぐって、ザンが鼻先で海藻をつついた跡を調べる。食跡はまっすぐにのびている。網はアダンの気根からつくる。引き潮になると、二艘の船はしだいに網をたぐって相互の間隔を縮めて海岸のほうに引き寄せる。網にかこまれたザンはあばれる。ザンの前にうっかりでようものなら、ザンは人間の手のような胸ビレで引き寄せる。ザンに抱きすくめられると、漁師は即死する。そこで折を見計らい、二人の漁師が尾びれを二、三回打って逃げる。ザンは痛さのあまり立ちあがって、尾びれでつよく潮を蹴り、その拍子にひっくり返る。そのとき、尾びれの骨が折れる。

その音を聞くと海中に立ったまま息を凝らしていた漁夫たちは、歓呼の声をあげ、思わず泣いたという。

 発掘されたザン骨は、頭蓋が打ち割られているので、ぼくたちが追っている時代は、もっとワイルドな漁法だったと思える。

 二艘の船はザンを捕ったときのよろこびの歌をうたいながら帰島する。船が見えると、島人は叫びながら浜にかけおり、出迎える。

 ザン見るんで 走りき
 亀見るんで 飛びやき

 「あまりに急いだために、若い娘がザンの夫婦につまずいてひっくりかえり、自分の恥部をさらけ出してしまった」という民謡もある。

 新城島の節祭りの巻踊りで歌われる。ザンとりの風景をみんなでうたって楽しむが、巻踊りはできるだけ男女が交互に輪をつくって踊ったといわれる。若い乙女を真ん中に置き、ザンに見立て、まわりの輪を網のようにみたてて、しだいに輪を縮め、ザンをとるときの仕草をまねるものもあった。

 陸にあげたザンは、「ザンの御嶽」に引っ張っていって感謝の祈りをささげて、頭骨は御嶽に奉納し、肉は島人が煮て食べた。内臓も食べたが、煮て脂をとり灯用に使うこともあった。お産が長引くと、ザンの皮の切れ端を削って汁をつくって飲ませた。お産が軽くすむように、と。

 この漁の一部始終は、本土の鯨漁を思わせる。琉球弧の鯨漁の実態を知らないが、きっとこれと共通するものが多いだろう。下地島の御嶽にはザンの頭骨がうず高く置かれていたという。これは、貝塚を引き継いだ光景ではないだろうか。

 ザンは砂州の海の霊力を象徴した。先祖とした人々がいるか、確かめられない。しかし、神の乗り物として、神の使いではあった。ザンは人間に化身する。人間に似ている。霊力思考を駆使しなくても、あまりに似ている。トーテムとは見なせないけれど、とても近しい間柄だったと思える。

 トーテムとして、人間との関係を結ぶという側面と、砂州の海の霊力として自然の側にいる面と、ザンは両義性を持っている。これがスクになれば、人間との親縁関係は薄れ、自然の側という側面が強くなる。

 貝塚にザンが積まれた頃、「あの世」は地先の島だった。島と地先の島を行き来する魚としてザンはいた。それが、神の乗り物になった由来ではないだろうか。

 

『神・人間・動物―伝承を生きる世界』

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2015/12/16

貝塚時代のジュゴンの骨

 貝塚のジュゴンの骨については、「海牛目」のなかで、こうある。

 沖縄の島々での発掘で出土する海棲獣類の代表的な種類はジュゴンです。本州、北海道の例のように、イルカ類やクジラの骨を多く出土するということはないようです。ジュゴンの骨も、特に数多く出土するというわけではないのですが、小さなリュウキュウイノシシしかいない沖縄の石器時代の貝塚では、目立つ存在です。

 「ジュゴンの骨は独特の質感があり、ずっしりと重い感じが」するという。「前肢の肩甲骨は大きく楕円形をして」いる。この質感と楕円形の肩甲骨は、「蝶形骨器」をつくるのに、ぴったりに見えたのだろう。そして、ジュゴンということのなかには、ただ食べるというだけではない思いが託されていたはずだ。


金子浩昌 『貝塚の獣骨の知識―人と動物とのかかわり』


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2015/12/15

『サンゴとサンゴ礁のはなし』(本川達雄)

 たくさんのイメージの広がりを与えてくれる本だった。霊力思考を発揮させて、「似ている」を見つけておきたい。

褐虫藻はサンゴの細胞中におり、そこで光合成をしている。サンゴの細胞の半分が褐虫藻で埋まっているくらいたくさんの褐虫藻が入り込んでいる場合もある。だからサンゴは半分植物だとみなせるものなのである。

 サンゴは植物に似ている。

 1.固着している
 2.雌雄同体が多い
 3.配偶行動がみられる
 4.精子と卵をばらまく
 5.無性生殖を行なう

 メモ1。サンゴは、植物的な動物。人間は、植物を内包した動物。

サンゴと褐虫藻の共生関係が、きわめてうまくいっているため、サンゴは石の家をどんどんつくっていく。そしてその表面を覆って守り、かつ清潔に保つために、粘液の膜をどんどん分泌する。この粘液がサンゴ礁の動物たちの餌となるのである。

 褐虫藻は光合成で作り出したものの九割をサンゴに手渡す。サンゴ礁は共生の宝庫。

 メモ2。サンゴ岩で家を作った島人は、褐虫藻に似ている。ただし、褐虫藻のようにサンゴにメリットを与えられているかはきわめて怪しい。

 サンゴの個体はポリプ(=サンゴ虫)。ポリプは一センチ以下の小さなもの。一個のポリプは、目を出したり体を分裂させたりして、どんどん自分の隣にポリプを増やしていく。それぞれのポリプは自分の石のコップをつくるので、多数のコップが集まると群体となる。一個のポリプは小さいが、群体は10万個以上のポリプが集まり、直径数メートルに達するのも稀ではない。まさに、「石造りのマンション」。ポリプ間には神経の連絡もあり、群体全体があたかも一個体のように協調した行動を示す。ポリプは、ポリ(たくさんの)+プス(足)というギリシャ語に基づく。

 サンゴが死んでも、石造りのマンションは残り、サンゴ礁という岩礁になる。岩礁にはさまざまな生物たちが住む。

 メモ3。死んだ造礁サンゴは島を覆い、島を「石の島」にした。

 サンゴは動物。クラゲやイソギンチャクの仲間で、刺胞動物門に属する。われわれは脊索動物門。高次のレベルにおいては異なる動物。サンゴは動物界。褐虫藻は原生生物界。界がまったく異なるもの同士が、仲良く共生している。

 宝石のサンゴは造礁サンゴの住めない深海に棲息。英語のコーラルは、宝石のサンゴを指す。「珊瑚」も同じ。

 メモ。だからカタカナで、サンゴと書くわけか。

 多くのサンゴは、一個のポリプが卵も精子もつくる。雌雄同体。

 サンゴの群体は、樹枝状、葉状、塊状、被服盤状の四種類。

 動かなくても、食べなくても、息をしなくても、トイレにいかなくても生きていける生活! われわれには想像もできない日々をサンゴは送っているのですね。

 群体を構成している個体同士は、無性生殖でできたもので、同じ遺伝子組成を持つ。つまり、クローン。群体は不死身。個々のポリプには寿命があるが、群体としては定まった寿命はない。サンゴのポリプは死んでも石の殻を残し、その祖先の残した家の上に、生き残った群体が新たに家を建て増す。

 メモ4。これは母系社会のあり方とそっくり。サンゴは再生信仰を支える。

 ただし、初夏満月の夜10時、産卵をし有性生殖も行う。使い分けている。

 琉球列島のサンゴは400種類。固有種の数は世界一。造礁サンゴの北限は千葉県館山。世界最北のサンゴ礁は長崎県壱岐(2005年に発見)。

サンゴ礁とは、熱帯の浅い海域でサンゴをはじめとする造礁生物が成長し、それが死亡することによって残された石灰質の骨格が固められて、波浪に耐えるように形成された浅瀬。

 「サンゴ三角形」。フィリピンを頂点として、インドネシアからニューギニア、ソロモン群島に伸びる線を底辺とした三角形で囲まれた海域。

Photo_4
(色の濃さはサンゴの種数の多さ)

 メモ5。この海域の延長線に南ヤポネシアの琉球弧がある。

 生物が死ぬと、熱帯の海では、遺体はすみやかに分解されてしまい、生物体に含まれていた燐も窒素も海水中に溶け出して薄められ、他の生物たちが再利用しにくくなります。また、遺体は分解されつつ下に沈んでいきますが、熱帯では表面の海水は温められて軽いため、下の水と混ざり合いません。だから、いったん沈んだ燐や窒素は、海の深みに行きっぱなしになってしまい、熱帯の海は栄養に乏しい海(貧栄養の海)になりやすいのです(p.99)。
 メモ6。サンゴ礁は、貧栄養の海に出現した巨大な自然の増殖だった。

 褐虫藻が共生関係を結んでいるのはサンゴだけではなく、シャコガイも。星砂になる有孔虫も。

 メモ7。トーテムだったシャコガイも、サンゴと似ている。


本川達雄 『サンゴとサンゴ礁のはなし―南の海のふしぎな生態系』

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2015/12/14

奥武島ブルー

 仲松弥秀が「七つほど」と書いた「地先の小島」を、六つは見出せる。

 玉城沖の奥武島。久米島の東の奥武島。慶良間の奥武島、本部半島のつけ根の奥武島、那覇の奥武山、北中城の奥武岬。

 玉城沖の奥武島は、「絵図郷村帳」には「あふ島村」とあり、島内には耕地が少ないので、島人は漁業に従事し、「百姓地」は対岸に飛び地を持っていた(『角川日本地名大辞典47(沖縄県)』)。

 久米島の東の奥武島は、無人島。「昔からセジ(霊力)高い島とされ、「あふ持ちよねの森かやうさのわかつかさすてつかさかなし」という神名の奥武御嶽がある」。

 慶良間の奥武島は、慶良間島の約2km沖にある岩礁群。くば岩とうぶ岩には神が祀られている。「福を授ける神が、はるか遠くのニライ・カナイから来て上陸し、慶良間島を訪れる足がかりとなる聖なる島である」

 本部半島名護の奥武島は、死者を葬る場であったし、「後生」とも呼ばれていた。

 那覇の奥武山の東側には「古墳があった」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』p.299)。

 北中城の奥武岬は、仲松によれば、昔からの風葬地だった。(酒井・同前p.299)。

 これらの記述から分かることを整理すると下表が得られる。


Photo_2

 分かることは、奥武島は無人島であるにもかかわらず、風葬地に選ばれたところがあること。つまり、対岸の島人が葬地にした島があること。そして同時にそこが「あの世」とされた島もある。さらに、「あの世」とされたかどうかとは別に聖地であったり、来訪する神の足留まり、つまり、神が寄る島とされていること、である。

 奥武島について、仲松弥秀は、葬地だった島とし、島名から「青の島」と位置づけ、「あの世」を青色を見たのだと解した。これをほぼそのまま引き継いだのは、谷川健一で、

 奥武の島は島人は人が死ぬと死体を舟で運んで葬った地先の小島であり、風葬墓に葬られた死者が黄色い世界に住むということから、青の島と呼ばれたのである。(『南島文学発生論』)

 と見なした。

 この仲松-谷川の理解は、島人にとってはちょっとブルーな解釈だと思う。しかも二重の意味で。ひとつは、奥武島を葬地と決めてしまったこと。もうひとつは、「あの世」の色を青にしてしまったことである。しかも最近では、筒井功によって、仲松-谷川の追求は中途半端だとまで言われて批判され、筒井がさらにこの問題意識を引き継いでいる。

 しかし、不充分ながら上記の表をみるだけでも、奥武島は必ずしも葬地ではない。葬地に選ばれることがあったと言えるに過ぎない。それは、奥武島と呼ばれなくても、葬地となった島があることにも現われている。島の名づけと葬地とはもともと関わりがない。葬地を選ぶに際して、はじめてその島が島人の生活圏の視野に入ったのでない限り、島が葬地とされる前に、島名はついているからである。そして、葬地であるかどうかとは別にして、「あの世」と見なされることがありえた。そして、聖地や神の足留まりとされたこと、である。

 もっと踏み込めば、久米島と慶良間島沖の奥武島が聖地であることから、この二つについては、本部半島の奥武島と同じように、かつて「あの世」の島と見られたことを意味している。そして、それがニライカナイが海の彼方とされたとき、神の足留まりとして選ばれることがありえるのだ。言い換えれば、聖地であったり、神の足留まりと言われる島は、かつて「あの世」の島だったことを指していると考えられる。

 このことは、そこが葬地であったかどうかとは関わりなく言える。もちろん、本部半島の奥武島のように、葬地であるとともに「あの世」の島であることもあり得る。

 仲松-谷川のちょっとブルーな理解の系譜は、「青の島」の「青」を色彩と理解したことに端を発している。しかし、地名に名づけた最初の段階では、この「青」は地先という距離概念か、海の中空にある島と考えられたか、どちらかである。それが色彩としての「青」の意味になるのはその先のことだ。


 


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2015/12/13

蝶の位相

 不足していることは後で補えばいいとして、ここで蝶の位相を考えてみる。それには、蛇とアマンと比べてみるのがいいはずだ。

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 まず、蛇と蝶は、どちらもシャーマンが、一体化する対象として選んでいた。これは、アマンには見られない。このふたつについては、蛇-人間、蝶-人間という表象の片鱗を窺わせる。

 また、「人間の使い」になるのは、アマンのみに見られる。これらのことは、人間とのかかわりのなかでは、アマンが最も新しいことを示している。

 蝶とアマンに共通するのは、これが少なくとも定着以降に、家屋で殯を行なった段階を契機に人間との関係をもつことだ。微細にみれば、蝶はアマンに先立つはずだ。蝶とは、家屋内の殯でも出会うが、アマンに出会うためには、海岸近くを葬地としなければならない。

 すると、必然的に、人間との関係の順序でいえば、蛇、蝶、アマンの順になる。蝶は、アマンと蛇のあいだをつなぐ動物としてたち現われることになる。

 また、蝶形骨器の装着は、霊魂の成立を前提にしていると考えてきた。このことは、霊魂の化身と見なされることと符合している。「霊魂の化身」と言われることには、深い理由があったのだ。

 蝶形骨器の製作は、貝塚時代第4期に集中し、5期以降はこれまでのところ見つかっていない。その理由は分からないけれど、蝶のモチーフは、そこで途絶えたのではなく、三角形のモチーフとして生き続けていったのだ。

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2015/12/12

「蝶形骨器」から「背守り」へ

 琉球縄文のシャーマンを祖先へと化身させた「蝶形骨器」は、祝女の霊力を高める衣裳として、装身具として、三角形に形態化され、あるいは、玉ハベラのように名称のなかに封じ込められまでもして、継承されてきた。

 けれどそれは、ふつうの島人にも手渡されてきている。下野敏見は大事なことを書いている。

 産衣(うぶぎ)は巫装ではないが、ノロの胴衣(どぎん)と同じく体に着けるだいじな着物である。吐噶喇では産衣をオプキンというが、その装飾の発想が奄美の胴衣によく似ているのである。まず、背縫いの飾りがタテとヨコの直線縫い(九字紋)に斜線を入れてたくさんの三角紋をこしらえ、さらに小さな赤布三角袋をいくつも(九つの例が多い)付けていて、その袋の中には米粒を三粒ずつ入れてある。背当ては、幼児の魂はそこから抜け、悪魔もそこから入りやすいというので、そうならないための呪(まじな)いである。そこに、九字紋、三角紋、赤色の三角袋という悪魔除けの装置が幾通りも付けられているのである。オプキンの背縫いは、背の上部文だけに取り付けられているが、たくさんの三角紋を付けてあるのは胴衣の場合と同じ発想である。

 蝶をモチーフにし、蝶の霊力を体現した島人の創造物は、赤ちゃんの背守りとして、後ろ首に止まることになる。このトカラの例は、期せずして、赤という色まで継承している。


下野敏見 『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』

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2015/12/11

「ノロの衣装」(下野敏見)

 祝女はその上半身を「蝶」で覆う。

 頭飾りには、ザバネを。

 『おもろそうし』では、ザバネは鷲の羽根であるから、いま見る白鷺のザバネとはちがい、色ザバネであったわけだ。ザバネはノロが航海によい風を呼ぶ呪具であり、風羽の意味であるので、ザバネの語源は風羽であるといえる。ハベラザバネはザバネに色とりどりのハベラ(蝶)に似た三角布を付けたものである。宇検村屋鈍の吉野家のものはアヤハベラ(綾蝶)といい、羽の長さといい、羽の長さ十九・二センチ、小琉球竹の柄の長さが三四センチで、赤、青、黄、褐、白などの色の三角布(底辺九・五センチ、高さ四・七センチ)が七個ずる三連付いているこれを二本後ろ髪に挿す。加計呂麻島の阿多地で見たハベラザバネは、やはり七個の三角布が二連付いたもので、ナナハベラと称していた。これはノロだけが祭りのとき挿す。

 下野は、伊波普猷の「かざなおり考」を引いて、カザナオリ(風直り)が、奄美大島ではザバネ(ダーバネ)となったと説明している。

 ヨーゼフ・クライナーは加計呂麻島のアラホバナで、「非常に地位の高いノロ(ウヤノロ)が首里から頂いた銀のかんざしを飾って、後ろにナナハベラ、赤とブルーの三角形が七つつながっている布地を髪の毛から下げている」と報告している(「奄美の宇宙-昭和30年代の民俗調査から」)。

 次に背には「玉ハベラ」。

 これは、首飾りと後ろ首で連なるもので、背に垂らして飾る。

とにかく小さいガラス玉をたくさん連ねて作ったもので、色・模様がさまざまで、たいへん美しい。これを背に飾り、前の方には首飾りをした姿は、ノロの姿をいっそう美しくし、その権威を高めたであろう。

 そして上半身には、胴衣(どぎん)。

胴の前後の前後の三角布群は、三角模様を連ねていて異様である。この胴衣をハベラドギンというから、蝶を意識して作られたものには違いない。その蝶は、これまで簪や玉飾り(タマハベラ)で論じてきたことを述べると、ノロのセジを高める装置であろう。

 三角形に象徴された「蝶」が祝女の頭から上半身を覆っている。玉ハベラにいたっては、三角ですらない。とにかく、祝女を守護し、祝女の霊力(セジ)を高めるのに、「蝶」が欠かせない役割を担っている。祝女と蝶との結びつきは、相当に強く、祝女が蝶に化身するというように、一体化しているイメージがやってくる。

ハベラはノロが動くたびに、蝶のようにひらひらして舞うけれども、その三角形の持つ特性すなわち鋸歯紋による魔祓い・魔除けこそが、それを付けている本当の意味ではなかろうか。

 下野はやたらと「魔除け」を力説するのだが、まったくそうではないだろう。

 ぼくたちはここに、「蝶形骨器」の現在形を見ているのだと思う。貝塚時代前4期の原ユタは、これを装着することで、祖先を体現したのだ。そして祖先として語ったのである。

 現在では、象徴化されて祝女の上半身を覆っているが、このなかに、直接的な現在形があるとしたら、ザバネだと思う。つまり、「蝶形骨器」は、後頭部につけたのではないだろうか。「蝶形骨器」がその変遷の過程で大型化していったのは、正面からシャーマンを見たときに、蝶の羽根が見えることの威力に気づいたからではないだろうか。


下野敏見 『奄美・吐カ喇の伝統文化―祭りとノロ、生活』

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2015/12/10

「沖縄縄文時代の蝶形骨製品」(金子浩昌)

 金子浩昌の「沖縄縄文時代の蝶形骨製品-その素材と形態について-」(MUSEUM 東京国立博物館研究誌 No.649)は、図表も充実していて素晴らしいので、それに添って考えてみたい。

 まずは、実物。

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 上と下では別々の製品だ。赤をバックにしているのは、これらが朱色に塗られた例があるのにちなんだものだと思う。


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 実際の蝶との比較も素晴らしい。金子の見立てに添うと、単純に形態が似ているというだけではなく、中室、脈、尾状突起もデザイン化されているということは、これはやはり「蝶」だと確信できるように思えてくる。


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 また、この分布もありがたい。以前、地図化を試みたが(cf.「蝶形骨器の時代」)、これは製品も掲載されていて一覧性がぐんと上がる。分布でビッグ・ニュースだったのは、沖永良部島西原海岸遺跡からも出土したことだ。沖縄島だけではない、ということだ。

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 蝶形製品は、ジュゴンの骨が使われる。その部位、肩甲骨や肋骨、下顎骨が具体的に分かる。

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 また、その部位のどの部分を使ったが、これで分かる。

 硬いジュゴンの骨を切断し、さらにかたちを整え彫刻するにはよほど切れ味をもつ刀器が必要であったはずである。

 それは同時に、「蝶形製品」が共同体にとってどれほど重要だったかを示すものだ。

 チョウを表現した文様は、南島地域を除いた日本列島の縄文文化の中では類例がない。この時代に人々が動物との関わりを具象的に表現しようと試みた製品には土製、骨角製の動物形製品があるが、これにチョウをみることはない。少なくとも写実的に表現されたものの中には見出し難い。

 蝶に死者の霊魂を見たのは本土も同じだが、これを特別視する精神の位相が、琉球弧には存在したということだ。

 蝶形骨製品の用途について島袋春美氏は具体的な装着例がないことから装身具としての用途に限定できないとし、また単一式から結合式への大型化を考えると「何らかのシンボル的な意味を持った使用用途が考えられる」と述べ、チョウとの精神面の繋がりについては、遺物として「蝶形骨製品はジュゴンという沖縄的素材とニライカナイの使者「蝶」が融合してつくられた考古学的な製品である」と説明し、沖縄諸島には現代でもチョウを神の使いとする信仰や伝承が残っていることを具体的にあげている。筆者も蝶形骨製品はその多くが大形で装身具としての範疇を超えていると考える。島袋氏の述べるチョウのシンボル的な用途というのはまさしくその通りである。

 思うに、これは装身具の用途に限定できるのではないだろうか。大型化もそれを妨げないと思う。大型といっても、最大のもので横が21cmほどだから、それほどでもない。ストラップや腕輪などの装身具感覚からすれば大きいというだけだ。

 また、ジュゴンは、「沖縄的素材」というより、琉球弧的なトーテムの系列に位置する動物だ。ニライカナイの「使者」というのも、この場合は適切ではない。当時、ニライカナイの原義に当たる言葉は存在した可能性はあるが、ニライカナイは海の彼方ではないし、蝶も「使者」にはなっていない。当時は、トーテム的な祖先という存在だったはずだ。

 蝶形骨器は、これを装着することで、蝶-人間としての祖先を現わした。装着したのは、もちろん、シャーマンである。これは、頭に蛇を戴いた祝女の従者の少女アラボレと同位相にあるものだ。

 金子の論文は、その確信を深めてくれるように思う。

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2015/12/09

『珊瑚礁の思考』、装丁

 出版社から装丁が届いたので、ここでもようやく紹介できます。一昨年の春から取り組んできた「文字を持たなかった時代の琉球弧の精神史」を、『珊瑚礁の思考』として刊行します。


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 ブログに書いてきたのは、調べものの備忘だったので、さぞ読み辛い思いをされてきたことと思いますが、ようやくまとまったかたちにすることができました。

 現物はもっと美しい装丁の背景は、石垣島の写真家・仲程長治さんの手になるものです。本書の世界観をビジュアルにするとまさにこれ!と感じたのですが、縁あってコラボさせてもらうことができました。感謝。

 目次を書いておきます。改めてみると、なんて無謀なことに取り組んだんだろうと身震いしますが、やっている最中は夢中で、そこに思い至らなかったのが正直なところです。ただ、島人として感じるべきことに突き当たっているという手応えは充分にありました。読む方にそれが伝わればいいなと思っています。

 ブログの「琉球弧の精神史」は続けているように、これで完了というわけではなく、まだまだ続くことでしょう。なにしろ、「文字を持たなかった時代」は、琉球列島の考古学は確定していませんが、数万年の時間の蓄積を持っているのですから。もうしばらくしたら、発売をご案内できると思います。


『珊瑚礁の思考―琉球弧から太平洋へ』

はじめに 「ネシア」の野生の精神史
 文字を持たなかった時代へ 
 霊力思考と霊魂思考の編み物
 琉球弧からヤポネシアへ、太平洋のネシアへ
 ざわめきに背中を押されて

第Ⅰ部  円環する生と死

1.われらアマンの子-祖先
 アマンから生まれた
 アマン―人、人―アマン
 流動的エネルギーとしての霊力
 心を残しては語れない
 霊力思考
 化身
 霊魂思考
 身をやつした姿

2.蛇からアマンへ-脱皮
 蛇の位相
 脱皮つながり
 トーテムの関係図
 全ては身に起きたこと
 わたしはジュゴン

3.いずれ、生まれ変わる-再生
 トロブリアンドの再生
 琉球弧の再生
 アマンに見ていたもの
 母系社会と「をなり神」
 わたしたちの盲点
 兄妹始祖神話の位相
 再生と祖先崇拝
 食人(カニバリズム)思考

第Ⅱ部 「あの世」の発生と「霊魂」の成立

4.境界としての洞窟-風葬
 風葬とは何か
 骨の信仰
 「キャンプ地を去る」から「家を去らない」まで
 なぜ、去ったのか
 「死者」と「家」の同一視
 移行としての生と死
 もうひとつのあり方へ
 風葬の成立
 「喪屋」の発生
 境界モチーフの展開

5.包含するニライカナイ-他界
 二つのベクトル
 地上と地下
 洞窟を塞ぐ
 反転
 海上はるか彼方へ
 包含するニライカナイ
 厚い「移行」の層

6.マブイの成立と協奏-霊魂
 霊魂の成立
 霊魂の協奏
 マブイとセジ
 霊力思考と「こころ」
 霊魂思考と「あたま」
 病の三類型
 マブイ込め
 死の前後1・添い寝
 死の前後2・悪霊払い
 死の前後3・霊魂の除去
 死の三角形

7.クチとユタの原像-呪言
 唱えることは実現すること
 自然のイメージ的身体化
 呪言(クチ)の世界
 反復するイメージ的身体化
 原ユタ
 憑依型シャーマン
 生き残ったユタの可能性

第Ⅲ部 生と死の分離を超えて

8.まれびとコンプレックス-珊瑚礁
 人間と植物の同一視
 反作用を繰り込む
 「女の作った御馳走」
 むしろ、もたらされる恵み
 人見知りの基層
 珊瑚礁の発生
 母なる珊瑚礁
 珊瑚礁の思考

9.仮面がつなぐ-来訪神
 希薄な死
 希薄な同性愛
 再生の変形
 来訪神の深度
 仮面は遡行する
 仮面の発生
 原仮面

10.人、神となりて-御嶽
 守護する頭蓋骨
 円環が破れる
 「御嶽の神」の出現
 置き換えられた「あの世」
 世界は変わってしまった
 生き神の出現
 神の変形
 島世

あとがき

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2015/12/08

『古代ハワイ人の世界観』

 ポリネシアや北方アジアの天界が階層を持つのはどうしてなのか。それを説明する文章がある。

 水平線で、空は海に接している。カヌーは、海上を航海し続けているうちに、空の最初のレベルに到達し、それを越えてさらに進んで行く。虹が地上に達しているのと同じように、空が海上に接していることを思い浮かべることができるならば、われわれは、カヌーを、海上にありながら同時に虹の帯をいくつも航海させることができる。カヌーが、風の中をより高く高く、また地表をより高く高く登って行けば行くほど、カヌーはまた空の中をも、より高いレベルへ進み、ついにはその空が地表に達するところまで進んで航海して行く。

 つまり、水平線のところまで行くということは、空の階層がいちだん上がるか下がることを意味していることになる。そして同時にそれは、出発点が地下の階層へと下ることを意味している。天や地下の階層も、彼らの移動実感が生み出したものだということだ。すばらしい。

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マイケル・キオニ ダドリー 『古代ハワイ人の世界観 人と神々と自然の共生する世界』


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2015/12/07

「蝶形骨器」の時代2

 蝶形骨器が「蝶」をモチーフにしているなら、その発生は家内での殯の発生を前提にすると考えられる。あるいは、遊動生活のなかで樹上葬や放置的な葬法が採られていてもいいわけだが、ここでは、家屋内での葬送を前提にしてみる。しかし、それは遺跡として確認されているのか分からないので、風葬を手がかりにしみてる。

 貝塚時代前期に焦点を当てて、崖葬墓を確認すると、下記の表が得られる。

Photo
(片桐千亜紀の「琉球列島における先史時代の崖葬墓」)

 崖葬墓は、前4期には出現している。崖葬墓の年代を測るのは難しいにしても、前3期には「遊動」から「定着」に入るから矛盾はしていない。もう少し言えば、前3期に年代測定される遺跡が出てきてもおかしくない。古我地貝塚から出土した「蝶形骨器」は古形とされていて、それは前3期とされている。

 一方の「蝶形骨器」は、前4期に測定されているものがほとんどだ。ただ、「蝶形骨器」が出土された場所と崖葬墓の遺跡とが、近接するようなおあつらえ向きの事例はない。

 でも、ぼくたちの仮定からすると、「蝶形骨器」が出土した場所近くの崖葬墓の骨は、その「蝶形骨器」と同じ年代であっておかしくないことになる。

 cf.「蝶形骨器」の時代

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2015/12/06

神高い島の系譜

 久高島がよく知られた「神の島」であるのを筆頭に、神高いと言われる島もたくさんある。浜比嘉島、その名からもそれと知れる大神島、池間島、伊良部島。ほかにもいくつもあるのだと思う。これらは、かつて「あの世」と見なされた他界の島だ。それがニライカナイの遠隔化とともに、神の島、神高い島へと変容する。

 これらの系譜の特徴は、大きな島の周辺に位置する地先の島という位相が同じだということだ。北の島は南の島を、大きな島は小さな島を馬鹿にする、というのが定番になっているけれど、昔の人はそんなことはなく、小さな島を聖域し、尊重したのだった。

 上記の系譜には、神高い山、あるいは、立岩も同じ意味を持つと思う。

 もうひとつ考えられるとしたら、「神高い」と言われる意味には、高神的なものと来訪神的なものがありえるだろう。ここで挙げたのは、高神的なものの系譜で、ふつうはそれが神高いと言われるはずだ。

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2015/12/05

高神と移動の天界

 高神の観念が生まれたところでは、天の他界が発生するのは想像しやすい。棚瀬襄爾は、天界にはこの他の系列があり、それには「階層観念の存在が特色をなす(p.813『他界観念の原始形態』)と指摘した。また、ポリネシアに見られる階層の観念は、中央アジアやシベリアに分布する天の階層と同一系統であることも指摘している。

 そして、「なにゆえ天の階層という観念が生れたか(p.819)」という疑問を発する。シュミットはこれを社会階級の反映とみたが、棚瀬はこれに対して、それだけでは説明できず、「そこには思弁の余地を認めなければなるまい」と書いている。

 棚瀬の疑問に対する解答は、後藤明がダッドレイの考えを引く形で鮮やかに示している。人々が「近いオセアニア」を移動しつつあったときは、次の島、目標の島は見えていた。ところが、ところが「遠いオセアニア」に入るとそれは不可能になった。そのため、目標を目で見て行なう方法から、星を見て方向を推測する方法へ。つまり、見えないものをみる方法である。

 人々は東からの向かい風に逆らって航海した。そのため、東ないし北へ向かって航海することを登る、逆に南および西に航海することを降りる、と表現する。だからその航海は日の出ずる場所に向かう水平移動であると同時に、天に向かう垂直移動でもあった。水平線を見れば、空と海が交わっている。しかしそこに辿り着くとまたその先に空がある。人々は大海原に時おり架かる虹を見て、世界も虹のように層をなしていると考えた。今見えている水平線まで辿り着けば、天空界の第一に辿り着く。その先には第二、第三の層があると。
 一方、自分たちがやってきた西の土地は、しだいに水平線に消え、海の底に沈む。このような海底の根元がポーという概念である。所によっては、海底の岩や泥が創世神話の出発点になっているのはこのためである。それは海の生命の輪廻を目の当たりにしてきた彼らの生活観が重ねあわされているのはいうまでもない。(p.49)

 つまり、島が見えない場所での海の移動だ。後藤はツアモツ諸島の世界観の図を引用している。

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 棚瀬の『他界観念の原始形態』を参照すると、ツアモツ諸島人の他界は、天界と地下に分かれている。そして、社会階層や善悪の行為によって分かれるとされている。いずれにしても天界があるといっても、ここに高神は存在しない。彼らがもともと原始農耕民であったとすれば、社会階層や善悪の概念の発生によって、もともと持っていた天界の階層が他界に付加されたと考えることができる。

 彼らの「ポー」という概念を見れば、地下他界だからといって、暗い世界とは限らないこともよく分かる。

 cf.『ハワイ・南太平洋の神話』


『ハワイ・南太平洋の神話―海と太陽、そして虹のメッセージ』


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2015/12/04

『「青」の民俗学: 地名と葬制』(筒井功)

 前に、琉球弧の「オー」の島は、アフ、アヲが結果的には、地先の島という距離概念に転化する意味を持つようになったと書いた(cf.「青の島は、間を置いた島」)。筒井功の『「青」の民俗学』を読むと、どうやらその事情は、本土も変わりがないようだ。

 筒井は、16の海の「青島」について、島の大きさと対岸からの距離を書いてくれているので、それを図にしてみる。

(縦軸は「対岸までの距離(m)」、横軸は「島の周囲の長さ(m)」)
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 大方の島は、島の大きさに関わらず、1キロ以内の距離に島があることが分かる。ただ、この図では、愛媛県大洲市長浜町の青島の例が、島も大きく距離も長いので、これを除いた図にしてみる。

(縦軸は「対岸までの距離(m)」、横軸は「島の周囲の長さ(m)」)
2

 こうして見ると、島がより大きい場合、島までの距離も長くなる傾向が少しあるのが分かる。しかし、これは大きい島であれば遠くからでも見ることができるわけだから、当たり前ということになる。

 この海の「青島」も、地先の島と言っていい系譜にあるものだ。

 また、琉球弧で神々が来訪の際、地先の島にまず寄るのは、そこがかつて「他界の島」だったことを意味すると考えているが、それも本土にも例を見つけることができる。

 京都府与謝群伊根町のように、海に面しながら陸地へ深く切れ込んだ湾というのは、古代の海民にとって居を構えるのに絶好の場所であったに違いない。湾は、またとない漁場であると同時に、風波をしのぎやすいからである。そのような立地で、湾口をふさぐ位置に島があれば、それは必ずといってよいほど信仰の対象になっていたし、いまもそうである例が少なくない。島は大風に対する盾になってくれるだけでなく、常世(海のかなた)と現世との境界になる。すなわち、そこから先祖は常世へ旅立ち、神はそこを通って村へやってくると考えていたためである。わたしは、各地の漁村で地先の島を「天然の防波堤だ」と話す住民に何度も出合った(p.87)。

 地先の島から常世へ旅立ったかどうかは、伝承などを確かめないと分からない。より正確に言えば、これは、地先の島から海の彼方へと他界が遠隔化したことを示しているのだ。

 筒井は、

青島の対岸に古墳がある例は、偶然とは考えにくいくらい多いのである。
古墳は大島を遥拝する場所に築造された可能性が強いといえるのではないか。

 としているが、その通りだと思える。この場合、「青島」が他界の島そのものであるか、他界への入口と考えられたか、どちらかだと思える。

 筒井は、仲松弥秀や谷川健一と同様、「青が古代日本語で葬送の地を指す言葉であり、その痕跡が青の地名に残っている」と考えている。しかし、それなら青地名と葬地が重ならなければならないが、必ずしもそうはなっていないとして、その理由をたくさん挙げている。

 また、色としての青がもともとは、黒と白の中間を指したことから、

 これから考えて、原義的にhが何かの色を指す言葉ではなく、「どちらにも属さない、中間の位置または状態」を意味していた可能性が強いように思える。
 この推測が当たっているとすれば、アオ(古い表記ではアヲ)とは元来、「あの世とこの世とのあいだ、境、中間」を指していたのではないか。そこはぼんやりと薄暗い、もしくは薄明るい世界だと意識されていたのではないか。その感じが、古代から今日までつづく色彩語としての青に反映しているのかもしれない(p.191)。

 筒井はとてもいいところまで詰め寄っている。しかし、色を離れよ、そうすればとてもすっきり解けてくる。筒井さんを存じ上げていれば、そう伝えたいところだ。


『「青」の民俗学: 地名と葬制』

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2015/12/03

天の他界への契機

 天界が他界と思われるようになるひとつの契機は、高神の発生だと思える。それは、天に昇るのが最終年忌にしばしば現れることに示されている。

 宇検村では、三十三年忌に、「天に昇りんしょうれ」と言って拝む。最後の供養のときに、墓地に木を立てて燃やし、その煙で、天に昇るとするところもある。竜郷では、三十三年忌に、「天とうに昇れ」と言って墓に薄を刺す。

 徳之島徳和瀬では、三十三年忌に、墓石に建てた椎の木の下に枯葉の枝を立てて、位牌とともに焼く。そして、「はれ天とお押し上げて、神どなれていぃ」とを繰り返す。与論島では、「今日で三十三年忌を終りました。今後はタカガミとなって子孫を見守ってください」と唱える(大山彦一)。

 木を焼いて天に昇り神になるというのは、高神が木に降下するのを逆に辿ったものだ。神になるタイミングが、天と結びつくことは、天の他界が高神を契機にしているのを示している。

 もうひとつは、オーストラリアや北方アジアで見られるように、広大な土地を遊動する種族が、移動の体験を媒介に天の他界を考える場合だ。

 琉球弧で、それが当てはまるのは、星を頼りに航海せざるをえない宮古諸島だと思う。池間島の北端には、小高い山があって、ここを昔から「北の部落の天へ昇る道」と呼んだ。その付近は恐ろしいところだっと言って、ふだん島人は行きたがらない。

 宮古島にとって池間島は、他界の島だったと見なしてきたが、その池間島では、北の小高い山が他界であり、生と死の分離以後は、天へ移行したことが示されている。

 (参照は、酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』から)

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2015/12/02

アボリジニの霊の三分割

 改めて読み返してみても、アボリジニには霊魂という概念は明瞭には現れていない。

 海岸地帯に暮らすアボリジニの部族は例外なく、沖合に自分たちの島を持っている。また内陸部に住む多くの部族も同じような島を描いており、その島こそ、死者が最初に赴く先と考えている。さて、アボリジニは、一連の浄化儀礼を経ることで、体力、美貌、知性のすべてにおいて絶頂にあったころの「状態」へと戻ってゆく。死者の島は、天空の旅への出発点であり、その終着点が宇宙なのだ(p.474)。

 これを読むと、「島」から「天」へと他界は移行したように見える。他界は遠隔化されている。それはつまり、生と死は分離されているということなのだが、そうは見えない。

 そうは見えないというのは、たとえば、ここではトーテムとの連関は失われていない。

 1.トーテム霊

 身体を支える生命の源にまつわる霊。この「生命の源」は、生命と動植物種の霊の生まれ故郷ともいうべき「地上の場」であり、人の血統と密接な関係にあって、一生を通じて滋養を吸い上げてきた源である。人が死ぬと、かつてはその精神と肉体とに宿っていたトーテム霊は、儀礼を通じて、動植物をはじめ、岩、水、陽射し、火、木々そして風といった生命維持には不可欠の自然霊へと立ち返る(p.462『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』)。

 そして、天へ行くのは、「先祖霊」だとされている。

 2.先祖霊

 「ドリームタイム時代の想像力溢れた偉大なる先祖と共鳴する」。「不変の「超自然的元型である」ドリームタイム時代の先祖」が支配する領野とは、天空にある「死者の国」にほかならない(p.462)。先祖霊は、夜空の特定の位置に輝く星座へと赴く。

 「来世の生活ってのはどのみち、現世における最終狩猟生活そのものなんだよ。ただ天空には獲物はもっとたくさんいるんだがね(p.470)」。

 この「先祖霊」として、霊魂が明瞭に現われてもよさそうだが、そうは説明されていない。

 3.自我霊

 この霊力は、場所との因縁が強く、妻、夫、親類縁者とはもちろん、道具や衣服といった物品との結びつきも強い。それは人間を有限な特定の対象と結びつけると同時に、個々人同士の関係や個々人が担うべき責任や慶びに結びつける霊力である。

 「自我霊」などは、そう説明されているように、霊力の側面が露わだ。

 「死者の国」という言葉はあり、天にそれを想定しているのだから、「あの世」の概念はある。しかし、「現世には死霊があふれて(p.461)」いるという言葉からは、生と死が移行の段階にあるように見えてくる。

つまりここではあの世とこの世の区別というものはない。世は一つ、この村だけであり、これと異なる他界のことは全然考える必要がない。神は常にここにいて下さるのであって、神のいないこの世というものは存在しないのであるから、もはや来訪という考え方はないのである。(ヨーゼフ・クライナー『南西諸島の神観念』)

 たとえば、加計呂麻島の神女のこの言葉を本質をとらえたものと見なせば、高神から想定される天界は、天界であっても他界に直結しない。「あの世とこの世の区別というものはない」というのだから。でもこれは「あの世」はないと言っているわけではない。この言葉は、生と死の分離のあとに、地上的な「あの世」を抑圧する言葉としてあった。しかし、それでもというべきだろうか、天に他界は想像されてゆくようになるのである。

 結局、この本で説明される、死による「霊の三分割」とは、霊力の三分割を指している。「霊魂」という概念が生み出されなくても、生と死の分離の段階を経ることはできる。しかし、この場合、死者との共存も区別も、つまり「移行」の段階の様相も残ることになっている。いわば、霊魂は、個々の霊力の運動の裏面にはりついていて、決して前面化してこない。それが、一方で高神の概念を生み出しながらも、トーテムを失っていない理由になっている。

 人間は、「まだ生まれていない者の世界」、「生者と死にかけている者の世界」、「死者の世界」の三領野から構成されていて、「死者の霊はいずれも、この領野をただ一度だけ通過してゆく」。こういうところからは、霊魂思考による時間概念も獲得されているように見える。けれど、霊魂という概念は現れてこない。ここが特徴だし、不思議なところだが、この本の内容に従うなら、アボリジニとは、霊魂概念なしに、生と死の分離を経たケースとして捉えることができそうだ。


『アボリジニの世界―ドリームタイムと始まりの日の声』

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2015/12/01

蛇頭の位相

 蛇頭のアラボレを、プロト・ユタ(原ユタ)として考えたきた。蛇と人間がモチーフになっているニューギニアのコルワル像では、頭部に蛇を巻きつけた例は見当たらず、どちらかと言えば、人間は蛇を持っている。小林眞はこれについて、「蛇を持つコルワルの男性は勇敢な戦士を表している(p.79)」と書いている。

蛇は最初の祖先(蛇頭=男根)として人間たちに秘密をもらし、社会的規範を伝授し、人間に恩恵を与えてきた。蛇との結婚によって女は蛇に服従する。

 脇に逸れるが、これを見ると、沖縄で浜下りの由来譚として語られる蛇婿の伝承、付き合った男性が蛇だと知って驚き、女性が浜辺で蛇を産むという話しは、蛇=祖先の拒否を語っていることになる。これを、蛇が女性であるバージョンで語られるのは、蛇女房の伝承だ。そこでは、蛇となって、つまりトーテムとなって子供を生む姿を夫に見られた女性が、子育てのための目玉を残して夫を去る。去ることによって、母なる環境へと転化する。だからこれは、トーテムを信じられなくなるということが、定着以降の段階にあることを示唆しているように見える。

 話を戻そう。蛇を持つコルワル像が示しているのは、蛇に対する人間の優位性が示されているように見えて、蛇頭からは時代が進展したものだと見なせる。

 小林が挙げている、蛇を持つコルワル像のなかで、蛇がより人体の上に来る例になるのは、蛇を肩越しにかついだニューアイルランド島の蛇餅死者像ウリと、セピック河中流域の蛇付き精霊像だ。

 特に蛇付き精霊像は、上の人面には顎で蛇がつながり、下の顔は鼻が蛇とつながっていて、蛇と人間が一体化した表象を持っている。これなどは、蛇体頭髪土偶やアラボレの位相と近しいものだと思える。

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(小林眞『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』)

 ポリネシアでは、虹が首長あるいは王の象徴になる。この場合は、頭上に虹=蛇が位置することになる。蛇が権力と結びつくとき、それは頭上に来ることが示されている(後藤明『ハワイ・南太平洋の神話』。これは、蛇体頭髪土偶やアラボレというシャーマンでも同じことだ。

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(後藤明『ハワイ・南太平洋の神話』)


『環太平洋民族誌にみる肖像頭蓋骨』


『ハワイ・南太平洋の神話―海と太陽、そして虹のメッセージ』

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