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2015/11/29

「船と戦争-記憶の洋上モデル-」(西村明)

 叔父が二人、戦死している。一人は中国の厚生省の病院という記録はある。ただ、南洋と聞いたこともある。船員だったというのも聞いたことがある気がする。この辺り、はっきり知りたいと最近、思うようになった。乗っていた船が撃沈されてという亡くなり方は、対馬丸をはじめ、知人づてに耳にしてきた。叔父もそういう可能性があるのだと思う。

 しかし、船で亡くなるのがどういうことなのか、西村明の「船と戦争-記憶の洋上モデル-」(「思想」2015.8)を読むまではうまく想像できなかった。というより、想像したことがなかったというのが正確だ。西村が体験者から聞き取りしたところでは、それは「多くの死体とおもに漂流を続けるという事態」だった。もちろん、生き延びた時間があった場合のことだ。

敵も観方も、生者と死者も、個々人が何者かを問わず漂い、相互に出会う場が現出している。

 こういうことなのだ。しかも、そうやって見ている者も、生と死の境界にある。死が浸蝕してきて、生はぎりぎりまで追いつめられているような、生と死を両方含んだ領域だ。

 軍人軍属の死亡率21.8%に対して、汽船関係船員のそれが43.1%、就航船の撃沈率が88%というから、いかに船が危険であったか分かるし、撃沈率にいたっては言葉を失う。しかも、「軍犬、軍馬、軍鳩、その下に船員」という自嘲や、「天皇の軍隊はあっても天皇の船員はなかった」という怨恨に見られるように、地位も低かったということも初めて知った。

 夜間の運行は、敵艦に見つからないように、船は遮蔽される。だから、気温が上がる。機関室ともなれば焦熱だ。彼らはそれを「地獄」と形容している。

 そうした船の戦死者の洋上慰霊は、無縁死者の慰霊形式である「地蔵流し」というスタイルが採られてきたという。

不特定多数の死者に向けられた数多くの絵像が、海上を流れ、漂い、やがて海中で霧散霧消する。より正確には、細かい繊維に分解して沈んでいくのである。ある面から見れば、撃沈した船とともに沈んだ、あるいは脱出した後に海に漂い沈んでいった船員や民間人、将兵たちの最期をパフォーマティブに反復する儀礼にも見えるが、むしろ田中丸さんの散骨や戦時期の水葬のように、改めて沈める(シズメる)ために行なわれた儀礼として理解しておくべきだろう。

 これは洋上での水葬の際、漂流しないように、棺を沈めるのに倣ったものだ。文中に出てくる田中丸さんは、父母の遺骨とともに散骨を希望した方だ。なぜ、散骨か。田中丸さんの父が船員で、戦場で死んだ仲間を水葬したことが負い目となっていて、それを希望していたのだという。なんともやりきれないが、そうだろうなあと納得されてくる。戦後70年の年、語られていないことはまだあるということを知らされるようだった。

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