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2015/11/08

『「戦後」の墓碑銘』(白井聡)

 『永続敗戦論―戦後日本の核心』の復習をすれば、白井は対米従属を永続化することによって、敗戦の否認を永続化することを「永続敗戦」と呼んでいる。だからこれは、「永続従属」と言っても、「敗戦の否認永続」と言ってもいいのだと思う。なぜ、対米従属をすると、敗戦の否認ができるのか。それは、戦前の支配層がアメリカの許しを得て、戦後の支配層に横滑りしたからである。横滑りしたと言っても、国内には支配の正統性を示す必要があるから、「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、「敗北に終わった戦争を天災のごときものへと国民の心象風景のなかで転化させる」必要があった。ではなぜ、敗戦を否認するのか。それは敗戦の責任を取りたくないからである。と、こうなるだろうか。

 『「戦後」の墓碑銘』でも、白井聡の舌鋒は鋭い。こうした硬質な文体で状況をばっさばっさと斬ってゆく文体は、久しく見なかった気がする。いまでも、この文体で読者を得られることに驚かされもする。ただ、立て板に水のように流れてゆくので、欲をいえば、澱みがほしくなったが、今はそこに立ち入らない。

 白井は、永続敗戦者とは異なる人として江藤淳を取り上げているので、そこに入ってみる。

 とはいえ、「日米間の権力関係の変更」の鍵を米国の国策へのより「自主的な貢献」に見出し、それによって覇者たる米国との一体化を通して敗者から勝者への転身を図ることを以て「公的な価値の回復」が実現されると妄想する、標準的な親米保守主義者と江藤が根本的に異なるのは、自己の運命の主であるという立場を回復することによってわれわれが出会うのは「敗者である自己」にほかならないとされているためである。

 しかし、「改憲によって交戦権を回復することで日本人が本当の意味で生きることができるようになるという論理」は、「戦後日本が立派な国でないのはアメリカ製の憲法のせいだ」と米国の世界戦略を支持する人が言って憚らない、という奇怪な状況を生んできた」。これは「途轍もない逆説だった」、と白井は言う。

 ぼくもそう思う。そう思うから、生きて現在の状況を論じてほしかった。それには、「閉ざされた言語空間」が、「戦後民主主義」に与えた影響だけではなく、国民会議へと結集する流れに対する影響への考察を江藤に強いたはずだからである。言い換えれば、江藤が生きていれば、「閉ざされた言語空間」での考察の先に出てゆくことができたのではないかと思う。(cf.『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』)。

 もちろんこれは無い物ねだりなのだが、江藤を引き継ぐ論理の展開を見たいということだと言ってもいい。それは逆の立場に対しても言いうる。

これまでの改憲/護憲陣営の多くが、どれほど的を外した議論で堂々めぐりを続けてきたか、ということだ。そして、不毛な議論が続く限り、改憲でも護憲でもない、民主制国家が必ず通らなければならない過程、すなわち制憲の問題は、視野の外に置かれる。このことはもちろん、永続敗戦レジームの延命に寄与する。そして、制憲権力とは革命権力にほかならない。

 ここで必要とされている「制憲権力」という問いに対する回答を、加藤典洋の『戦後入門』に見ることもできる。しかし、ぼくはこの本で初めて加藤さんの書くものに対して躓いてしまった(cf.『戦後入門』(加藤典洋))。加藤は、『戦後入門』を現実へのコミットを念頭に書いているが、開陳されている九条強化案は、理念に留まる。いや、理念でいいのだし、理念として打ち出したものと言うにとどめるのがいいと感じた。しかし、現在、必要なのは、現実と理念を埋める道筋を提示することだと思える。そういう意味では、「合理的で理性的でプラグマティックな態度」(「幻想の大国を恐れるな」)というエマニュエル・トッドの言い方にリアリティを覚える。欲張りにいえば、敗戦を正面から受け止めることができ、九条強化の制憲目標を持つ勢力によるプラグマティックな態度だ。これはありうる想定だろうか。
 

『「戦後」の墓碑銘』


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