清祓行為の内実
吉本隆明は、『古事記』をもとに、清祓(きよはらい)について考察している。
もちろん清祓行為が、〈法〉的な意味をもつためには、それ自身に〈制裁〉的な要素がなければならない。
清祓行為はつぎのいくつかの要素からできていることがわかる。
(1)〈醜悪な穢れ〉に感染(接触)したものを身体から脱ぎ捨てる。
(2)水浴などで身体から〈醜悪な穢れ〉そのものを洗い落とす。
(3)〈醜悪な穢れ〉の禍いを祓う。
(4)身体を水に滌いで清める。とくに眼と鼻を洗う。
そして『古事記』の神話では、こういった要素のすべてからそれぞれ〈神〉が生れることになっている。このばあい清祓行為のなかに〈法〉的な規範の要素をもとめるとすれば、〈醜悪な穢れ〉に感染したもの、または〈醜悪な穢れ〉そのものを身体から除去するという(1)および(2)の部分に〈刑罰〉的な意味が存在している。いいかえれば物件を科料として提出させられるかわりに、ここでは〈醜悪な穢れ〉という幻想を科料として、剥ぎとられるとかんがえることができる。また清祓行為を〈宗教〉的な規範としてかんがえれば、(3)の〈祓い〉の行為に宗教的な意味がふくまれる。(「規範論」)
いまここで考えたいのは、宗教と共同規範の分離についてではなく、死の穢れを祓い方の内実についてだ。吉本が挙げた要素に基づくと、「脱ぎ捨てる」、「洗い落とす」、「洗う」という行為は、どれも霊力思考にもとづくものだ。具体的にいえば、霊力思考が「聖なるもの」としてきたものが、霊魂思考の関与により「穢れたもの」に反転し、それを霊力思考の仕草で解除する方法になっている。
吉本は、(3)の「禍いを祓う」について宗教的な意味が含まれるとしているが、ぼくたちの観点からいえば、(3)では霊魂思考が独立して霊力思考に依ることなく清祓行為がなされていることになる。
また、清祓行為から「神」が生まれるということは、「聖なるもの」が「穢れたもの」へ反転すると、霊力の発揮の仕方も反転することを意味している。
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