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2015/11/30

他界の方位メモ2

 日本文化の南漸に拘泥した伊波普猷は、ニライカナイは、最初北方だったのが、三山統一後に東方に変わったと説いた。柳田國男は、「それはただ新しい名の入用は以前からなかったまでで、ニルヤはそう簡単に北から東へ方角を更え得られるような信仰ではなかった」として退けた。谷川健一は、これに「承服するわけにはゆかない」と強く反発して、三山の統一後に、東方意識が極度に強化されたとみた。

 振り返ってみると、柳田國男はさすがだなと思う。北ヤポネシアから移住した人々にとって、他界の方位が北から東に変化したことはありえただろう。しかし、それは普遍的ではない。東方という方位は、どこかから変わったのではなく、出現したのだから。

 いま、遠隔化された他界の方位の根拠になるものを列挙すると、

 1.西方(太陽の沈む場所)
 2.東方(常世として。西方の反転)
 3.原郷(移動した種族にとって)
 4.憧憬(富が到来する方向)

 天界や仏教の影響のない段階としては、これらが想定される。

 「死者の魂は太陽(てだ)の沈む方向に行く」(浦添)という言葉が、もっとも自然で普遍的だ。

 cf.「他界の方位メモ」

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2015/11/29

「船と戦争-記憶の洋上モデル-」(西村明)

 叔父が二人、戦死している。一人は中国の厚生省の病院という記録はある。ただ、南洋と聞いたこともある。船員だったというのも聞いたことがある気がする。この辺り、はっきり知りたいと最近、思うようになった。乗っていた船が撃沈されてという亡くなり方は、対馬丸をはじめ、知人づてに耳にしてきた。叔父もそういう可能性があるのだと思う。

 しかし、船で亡くなるのがどういうことなのか、西村明の「船と戦争-記憶の洋上モデル-」(「思想」2015.8)を読むまではうまく想像できなかった。というより、想像したことがなかったというのが正確だ。西村が体験者から聞き取りしたところでは、それは「多くの死体とおもに漂流を続けるという事態」だった。もちろん、生き延びた時間があった場合のことだ。

敵も観方も、生者と死者も、個々人が何者かを問わず漂い、相互に出会う場が現出している。

 こういうことなのだ。しかも、そうやって見ている者も、生と死の境界にある。死が浸蝕してきて、生はぎりぎりまで追いつめられているような、生と死を両方含んだ領域だ。

 軍人軍属の死亡率21.8%に対して、汽船関係船員のそれが43.1%、就航船の撃沈率が88%というから、いかに船が危険であったか分かるし、撃沈率にいたっては言葉を失う。しかも、「軍犬、軍馬、軍鳩、その下に船員」という自嘲や、「天皇の軍隊はあっても天皇の船員はなかった」という怨恨に見られるように、地位も低かったということも初めて知った。

 夜間の運行は、敵艦に見つからないように、船は遮蔽される。だから、気温が上がる。機関室ともなれば焦熱だ。彼らはそれを「地獄」と形容している。

 そうした船の戦死者の洋上慰霊は、無縁死者の慰霊形式である「地蔵流し」というスタイルが採られてきたという。

不特定多数の死者に向けられた数多くの絵像が、海上を流れ、漂い、やがて海中で霧散霧消する。より正確には、細かい繊維に分解して沈んでいくのである。ある面から見れば、撃沈した船とともに沈んだ、あるいは脱出した後に海に漂い沈んでいった船員や民間人、将兵たちの最期をパフォーマティブに反復する儀礼にも見えるが、むしろ田中丸さんの散骨や戦時期の水葬のように、改めて沈める(シズメる)ために行なわれた儀礼として理解しておくべきだろう。

 これは洋上での水葬の際、漂流しないように、棺を沈めるのに倣ったものだ。文中に出てくる田中丸さんは、父母の遺骨とともに散骨を希望した方だ。なぜ、散骨か。田中丸さんの父が船員で、戦場で死んだ仲間を水葬したことが負い目となっていて、それを希望していたのだという。なんともやりきれないが、そうだろうなあと納得されてくる。戦後70年の年、語られていないことはまだあるということを知らされるようだった。

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2015/11/28

与論島が「根の島」と言われたことの意味

 以前、島の兄(ヤカ)に、沖縄から来た祝女が、沖縄島を、東は久高島、北は与論島、西は伊江島(だったか、忘れてしまった)が守っているという話しを聞いて驚いたことがある。でも、ひと月ほど前、霊力豊かな石垣島の写真家の仲程長治さんが、与論への撮影取材のあとに、「久高島と似ている気がした。東に久高、北に与論があって、沖縄島を守っている感じ」と言うのを聞いて、ふたたび驚き、しかし、説得力を感じるところがあった。

 驚きついでにいえば、以前から、「おもろそうし」で与論島が「根の島」、「根の国」と称されるのが不思議で仕方がなかった。何もない小さな島と思っている身にとっては、重要視されていることに戸惑いを覚えるわけだ。自分でも、「根の島としての与論は、ぼくたち与論人(ゆんぬんちゅ)自身の、島に対する歴史感覚を強く揺さぶる」(cf.「与論、かゑふた、根の島」)などと書いている。

 「おもろそうし」に見る「根の島」、「根国」の地名は、以下の通りだ。

 根の島 与論(4)、赤木名(2)、宜野湾(2)
 根国 与論(1)、中城(1)、佐敷(8)、浦添(4)、玉城(6)、糸満(5)

 これを見ても、他が名だたる地域であるのに対して、与論だけ異質に見える。その異質さの要素のなかには、与論だけが島だという点にもある。それが、「根の島」としての頻度が高いことにも現れている。

 たしかに、「おもろそうし」の時代には、北の奄美諸島攻略のための中継点という政治的意味を持っただろう。伊波普猷も、

しよりゑとの節
一 かゑふたの親(おや)のろ
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
  按司襲(あじおそ)いに
  金 積(つ)で みおやせ
又 根(ね)の島(しま)の親(おや)のろ

(930、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 などの歌を引いて、「与論島が、沖縄から大島諸島に渡る時の足溜りであったことを語る」(「あまみや考」)と書いている。

 これは認めるとして、しかし、それとは別に言うなら、こうした政治的拠点の意味を持つ前から、与論は「根の島」と言われていたのではないだろうか。

 冒頭の祝女や仲程さんの言葉を手がかりにすると、そう思えてくる。

 ぼくの仮説をいえば、これは、与論がかつて、沖縄島(北部)の人にとって、「あの世」の島だったことを意味するのではないだろうか。久高島はたしかにそうだったとぼくは思っている。神々が来訪する際に、「足留り」する島は、かつて「あの世」の島だったものが、ニライカナイが海上はるか彼方に遠隔化して以降に、かつての「あの世」を辿り直しているものだ。久高島が、神の島と呼ばれるのは、その前段は、死者(カミ)の島だったことを意味している。もちろんそれは、久高島の島人がそうだということではない。久高島を臨む位置にある沖縄島の島人にとってそうだったということだ。奥武島がそうであるように、地先の島は、「あの世」の島なのだ。

 同様に、与論も沖縄島北部の島人にとっては地先の島であり、死者が遠くに行く前の段階で、まだ近くの他界に行くと考えられたころ、与論は他界の島だったのではないだろうか。

 与論が、「根の島」と呼ばれた淵源をたどれば、どうもそういうところに行きつく気がする。こう理解すると、与論が「根の島」と呼ばれ、おもろ人にとって神聖視された理由も分かる。また、「立派な、素晴らしい集落」と翻訳したこともある「かゑふた」と呼ばれることもある理由も頷ける(cf.「「かいふた」とは立派な集落という意味」)。もちろん、この場合でも、与論に島人は住んでいたし、島人が死者(カミ)であったわけではない。ただ、そういう神聖視される土地だったということだ。

 蛇足すれば、久高島と与論島が「あの世」の島として同位相にあったとすれば、久高島が「神の島」になり、与論島が「根の島」ではあっても「神の島」にならなかったのにもいくつか理由があるだろう。与論の人はお茶目で神っぽくないから、というのは冗談として、与論島は「道之島」のひとつで実際の交通の中継地点の意味を持つのに対して、久高島は沖縄島に対して東方にあることが大きな意味を持ったに違いない。遠隔化された他界であるニライカナイが東方へ方位されたとき、久高島が沖縄島の東にあることがことのほか重要だった。それが、久高島を「神の島」にした要因のひとつだったに違いない。

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2015/11/27

小さなお家

 伊藤慎二は、琉球縄文時代の住居の傾向として、「九州以北の縄文時代の住居址と比較すると、極めて規模が小さい」と指摘している(「琉球縄文文化の枠組」)。「径4メートル以下の水準に集中」し、それは、日本列島の住居規模と比較すると、「最小規模の部類に位置づけられる」として、伊藤は「直径3メートルの竪穴住居」と表現している。

 しかも、壁は珊瑚石灰岩を積み上げ、擁壁状に仕上げており、「明確に掘り込み炉を伴うのは稀」だという。おまけに土器群も小さい。これは、「九州以北の縄文文化の一般的なそれよりも少人数を対象としている」ことを示している。

 ぼくも上野原遺跡で、復元された奄美や沖縄の竪穴式住居群をみたときに、その小ささには驚いたことがある(cf.「琉球列島貝塚時代における社会組織の変化」)。これではせいぜい寝ることくらいしかできないではないかと。

 伊藤は、少人数だったという人数の面を考えている。それはそうだとして、それ以外の面でいえば、狭く炉もないということは、家族の内閉性が強くないことを指している。言い換えれば、対幻想と共同幻想の分化がまだ弱いということだ。

 昔の島の家は積み上げられた珊瑚岩で囲まれていた。あれは、もともと貝塚時代の住居の外壁が外延されたものだ。貝塚時代の住居が、家族の存在を示すものであるところから、寝食の拠点、庭を含めた生活の拠点という対幻想の拡大の過程を、あの珊瑚の積石に見ることができる。

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2015/11/26

『野生めぐり』(石倉敏明・田附勝)

 あとがきに、「ただ、昼寝の前に本を読む。興味をもった事柄の本を読みながら、その興味を身体に入れていく。で、眠くなる。この本もそんな本であって欲しい」とあったのが気に入ったので、夜、眠る前に読んでいたら、列島に息づいた精霊たちと眠りにつけるようで心地よかった。

 ただ、文字を持たなかった時代の琉球弧の精神史を探究してきた者にとっては、興奮してかえって目が冴えることもしばしばだった。

 たとえば、宮城県登米市の民家のカマガミ。

 「炎と煙に燻された柱の上部から、訪れる者をギョロリと睨みつける異形の面。旧仙台藩領の古民家には。カマドやイロリの上部にカマガミ・カマオトコなどと呼ばれる大きな面を掲げる風習がある。

 冒頭のところでは、物珍しい気分で読んでいたが、しかし、

カマガミのルーツであるカマド神は、三方荒神や土公神とも呼ばれる荒々しい性格であって、常に死の存在感を漂わせた「異質な神」であると宮本常一は鋭く指摘している。たとえば、西日本には十月に神々が出雲に集まるという伝承があるが、カマドの神だけは家のなかに留まっていると考えられた。カマドの神はひと時も休むことなく死を生に変える「常在神」であり、ほかの神々と違って旅をすることも、空間を異同することもないのである。

 これは示唆多い。そうか、琉球弧の「火の神」は、家のなかの常在神と捉えればいいわけだ。主婦が管理するというのも頷ける。主婦は、家のなかの「をなり神」なのだから。そして、火の神は、ニライカナイへの「お通し」の機能を持つ。つまり、家屋内御嶽なのだ。

 そんな気づきの多い、楽しい本だった。

 それにしても、琉球弧は、カマドガミのような偶像化をしない。それは特徴だという気がする。

 

『野生めぐり: 列島神話の源流に触れる12の旅』

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2015/11/25

大陸に引き寄せられた小さな島嶼

 島尾敏雄の「回想の想念・ヤポネシア」のなかのくだり。

ヤポネシアというのは、そばの南太平洋周辺にミクロネシアだとか、メラネシア、ポリネシア、インドネシアなどがありますね。われわれは、これまでいつも大陸の方ばかり眺めてきたような気がするんです。地図を見ても、大陸を真中に置くから、日本はもう大陸に振り落とされまいと、はじっこの方にしがみついている形に見える。そういう視点からだけじゃなく、半分は太平洋に面しているんですから、そうした側から日本を見れば、(中略)南太平洋のもうひとつの一つの島々のグループだというふうな気がするわけです。(島尾敏雄「回想の想念・ヤポネシア―沖縄・奄美・東北を結ぶ底流としての日本」1970)

 ぼくには馴染み深い文章だけれど、45年前に発された言葉は、まだ新鮮だ。大陸の方ばかり目を向けているのは、今も変わらないのだから。もっとも、大陸の方がうるさいのだから、仕方ないとも言えるのだが。

 あらかじめこういう視点で臨んだわけではないけれど、文字を持たなかった琉球弧の島人の精神史は、はからずも島尾の視点と共鳴することになった。

 吉本隆明は、こう書いている。

 ニーチェがインド・ヨーロッパはインド・アジアの広大な大陸のひとつの岬にほかならないと書いたひそみに習えば、ヤポネシアというのは、環太平洋の多島性の一列島が押しつぶされそうな遠くまでインド・アジア大陸に引き寄せられた小さな島嶼のひとつにすぎないと言ってもいいかも知れないと思う。(「島・列島・環南太平洋への考察」)

 これは、先の島尾の文への応答にもなっているが、これまでの探究は、これもはからずも、この文章のイメージに響きあうものになった。

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2015/11/24

希薄な死と希薄な同性愛をつなぐもの

 八重山のアカマタ・クロマタ祭儀の背後で行なわれている男子結社への加入儀礼において、象徴的な死への接近が弱いことと、儀礼的な同性愛が希薄なこととを、それぞれ別の二つの特徴として捉えてきた。

 しかし、これはつながっているのかもしれない。象徴的な死への接近が弱ければ、男性同士の結束が強い必然性もなくなる。それは、儀礼的な同性愛が弱められることを意味するのではないだろうか。

 象徴的な死への接近が弱いということは、言い換えれば、まだ再生の原理が命脈を絶たれていないことを示していると思える。人間は再生しないという認識を経て、人間の生のうちに、象徴的な死と再生は組み込まれるようになった。そう考えるのだ。

 森山公夫は、「シャーマニズムと狂気(3)」のなかで、成人儀礼のなかに、「人間を殺せ」という命令がくだされるところがあるが、この過酷さは、「おそらく過去の人類形成史上の或る不幸な過程の表現である以外にない」としている。これは、「人間を殺す」という過程が、「楽園追放」のなかで起きていることを森山は見ているのだと思えるが、これはそうではなく、人間が死を受容したことを反映しているのではないだろうか。

cf.「メラネシアの「儀礼的同性愛」の系譜」

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2015/11/23

野生の心と精神

 この探究の過程でやっと分かったことのひとつは、「霊力」は野生の心であり、「霊魂」は野生の精神であるということ。この場合、心と精神をそのように分けてみているということでもある。

 そして現在、野生の心と精神は、「霊性」と呼ばれたりしている。

 もうひとつ。レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」は、ぼくの言葉に置き換えれば、「霊力思考」と「霊魂思考」の織物ということになる。

 (霊力)=(野生の心)
 (霊魂)=(野生の精神)
 (野生の思考)=(霊魂思考)+(霊魂思考)


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2015/11/22

霊魂成立の段階

 ぼくたちは、貝塚時代前3期(約4500年前)に、琉球弧では定着期に入ったのを知っている(伊藤慎二)。また、崖葬墓が確認されるのは、貝塚時代前4期(約3500年前)からだ(cf.「琉球列島における先史時代の崖葬墓」)。また、伸展位の埋葬が確認されるのも、前4期だ(cf.「南西諸島における先史時代の墓制」(新里貴之))。さらに、蝶形骨器が確認されているのは、貝塚時代前4期(約3500~約3000年前)に集中する(cf.「蝶形骨器の時代」)。

 前3期 定着
 前4期 崖葬墓、伸展位埋葬、蝶形骨器

 ここから分かるのは、琉球弧において、生と死の「共存」の段階は貝塚時代前3期で、前4期以降に「区別」の段階に入るということだ。また、ぼくたちは蝶形骨器の出現に霊魂の成立を見てきたから、それが前4期に集中していることには目が止まる。

 生と死が区別の段階に入り、死者を洞窟に運ぶようになったことと、霊魂の成立は近しいという示唆を、ここから受け取る。洞窟のくびれを通って「あの世」へ行くと考えることと、霊魂を思考するようになることとは、相関があるようだ。そこに、必然的な関係は思い描けないが、「あの世」へ行くのは霊魂と捉えるのは考えやすいことは確かだ。

 マオリでは、生と死の分離以降は、霊魂だけが「あの世」へ行き来できるようになったと語られる(cf.「入墨と霊魂」)。これは、生と死の「分離」の段階には、すでに霊魂は成立していたことを示している。そこで、生と死の「区別」の段階で、霊魂は成立したと仮定しておく。

 またここに崎山理によるオーストロネシア語族の北上を重ねると、

 前3期 定着 ハイ期
 前4期 崖葬墓、伸展位埋葬、蝶形骨器 ヨネ期

 となる。定着が進み、生と死が「移行」の段階に入ったことと、オーストロネシア語族の北上が重なっているということは、琉球弧の精神史にとって、地下の他界を持ち込んだのは、この語族だった可能性を示すものだ(cf.「日本語形成におけるオーストロネシア語族の要素」)。

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2015/11/21

『沖縄発―復帰運動から40年』

 川満信一の1998年の回顧。

 そのように叙情化したかたちで「国」を求めるというのは話にならない(「母の懐へ帰ろう」、「祖国」-引用者)。沖縄は日本の敗戦処置として切り離され、米軍の直接統治下におかれた。「国」の都合でくっつけられたり切り離されたりする。「国」というのは、なぜか日本で成立している「一民族・一文化・一国民」という奇妙な概念で成立しているのではないのです。私たちはそれを米軍による二十七年間の直接占領下において骨身にしみて知ってしまいました。ですから、日本に復帰するといっても、その前提に「日本はどういう国であってほしいか」「日本が正しい方向を向くために、沖縄になにができるか」といった問題意識のある復帰でなければだめだ、というのが、当時言っていた反復帰論なのです。

「同一民族」ということを前提にして「復帰」が唱えられるのですが、そんなものはどこにもあるわけはないし、また、みんなが望んでいるような理念を体現した近代国家などどこにもない。憲法のような自然法ももとには実際に支配・統治していくための実定法があり、しかも日本においてはもうすでに憲法の理念さえも風化している。そのような状況で、憲法原則だけを旗印にして「祖国に帰る」と言うのは幻想にしかすぎないと批判したんです。

 いまから見ると、川満は的確に「復帰」を捉えていたのだと思う。

歴史的経緯に基づく独立論は、要するに恨みつらみで「日本から離れてしまえ」という論にいきつかざるをえない。異質文化論に基づく独立論も、「おまえとはやっていけないから、三行半だ」という形になっていく。しかし日本国家の特殊性・歪みと近代国家の限界性を越え、自己存在および社会の異なるシステムを考えようとする自立・独立論は、単に日本VS沖縄という図式では処理できない問題を抱えてしまいます。

 独立論に対しても。

 しかし、

 (前略)吉本隆明氏の『異族の論理』は、確かに刺激的な論文だったし、僕にとっても参考になった。けれど僕は『異族の論理』を読みながら、こう受け止めた。「吉本さん、あなたは日本民族ということを根底的に放棄しようと思ったことはありますか? あなたは日本国民であることを根底的に自己破壊しようと思ったことはありますか? あなたが『異族』としてセッティングしているところの沖縄というのは何なのですか? あなたが日本民族として自分のしっかりした場を持っているから、そこへ『異族』という形での措定がなされているのではないでしょうか」。戦後沖縄を論じるならそこまで問い詰めて下さい、という読み方をしました。

 う~ん、川満さん。そこは自身を問うてほしかった。上記のような的確な状況判断を行なう川満にあって、「国民」や「民族」が、幻想性をまとっていることを突き詰めてほしかった。

 この本でもっとも印象的だったのは、戦中のこと。日本の兵隊は、御嶽にたくさんいる青大将を捕って食べていた。ところが、宮古では青大将は神様。

お婆ちゃんたちは「ヤマトプリヌム(大和狂人)たちは神様の皮を食べているから、ゆくゆくろくなことはない」と言っていましたね。

 宮古もそうだったのか、ということと、「ヤマトプリヌム」という言葉が与論と同じなので、よくわかった。
 

『沖縄発―復帰運動から40年』


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2015/11/20

『オキネシア文化論』

 琉球弧の精神史の古層を探る過程で、南太平洋の島々との近さに気づいたのだけれど、そうした視点が琉球弧内から発信されていないか、探して見つけたのが三木健の『オキネシア文化論』(1988年)だ。

 三木は書いている。

 およそ五十日、それらの島々を訪ね歩き、島の人びとの生活に触れてきての感想をひとことで言えば、沖縄もまぎれもなく、太平洋の一つのネシア(島)だということである。南太平洋まで出かけて、思いもかけず、いや予想通りというべきか、私は"オキネシア"を発見したのである。
 南太平洋の島々を回って、理屈抜きに湧き出てくるある親しみを抑えることができない。その親しみとは、同じシマ人としての"共通感覚"に根ざしたものであった。ゆったりした時間、人びとのやさしいもの腰、それはかつて琉球弧にも充満していたものである。人びとと接して、私は眠っていた感覚をゆさぶられる思いであった。
 パプアニューギニアの北に、ニューブリテン島という島がある。その島のキャビアンという村に、沖縄海外漁業会社の現地法人会社があった。同事務所は、いろんな事情から一九八六年に閉鎖されたが、そこにノリスさんという現地の青年が働いていた。オーストラリアの大学を出た島のインテリである。彼の運転するモーターボートで、カツオ漁の母船基地まで連れていってもらったことがある。
 ヤシ並木のプランテーションの島々を右に左に眺めながら、夕映えの海を走った。彼とつたない英語で話し合ったところによると、彼も人口わずか二、三百人の小さな島の出ということであった。私も琉球列島の小さな島の出身だ、と言うと、彼は納得したように「セイム・フィーリング」(同じ感覚だ)と言ってうなずいた。私も、彼のもの腰や考え方には共鳴するところがあって、親しみを禁じ得なかった。

 こんな旅をぼくもしてみたいものだ。南太平洋の旅で三木は「オキネシア」を発見したとすれば、ぼくもその点に関しては、三木と「セイム・フィーリング」(同じ感覚だ)なのだと思う。

 三木は、「オキネシア」をヤポネシアから分離・独立させる形で取り出している。


『オキネシア文化論―精神の共和国を求めて』


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2015/11/19

『首狩の宗教民族学』(山田仁史)

 山田仁史は、「首狩」の習俗について、「少なくとも首狩を初期農耕民の世界像に帰属させることには賛成してよいだろう」としている。そして、初期農耕が女性たちによっては始められたと考えられることから、こう書いている。

 女性の権力や財力が大きかった。そのような社会では、男は何をしていたのだろうか。狩猟活動の重要性は、農耕によrつ安定的な蓄積によってどんどん失われていっただろう。農作業においても、開墾という筋力を必要とする仕事は別として、作物を育てる基本的な仕事全体は女性の手に移ってしまったのである。そのような環境で、男たちが能力をを発揮できる場、そのひとつが首狩だったのではないか。

 これは、ありそうな話という以上の意味を持たないのではないだろうか。

 ぼくはこれよりは、1966年に棚瀬襄爾が『他界観念の原始形態』で、「首狩」と「地上の他界」の分布の一致に着目して、個々の家族で「頭蓋崇拝」ができなくなった種族において発生したとする仮説に説得力を感じる。

 首狩によって獲得せられた首級は、同族頭蓋がそうであったように、宗教的に力を持つものである。否、複葬の廃止によって宗教的対象を失ったものが、その欠を補わんとして首狩の習俗を起したのである。かくして得られた首級は農耕の豊穣ももたらし、新築家屋を強化することにも、あるいは悪疫の駆除にも役立つとされたであろう(p.750)。

 複葬の廃止による「頭蓋崇拝」の「首狩」への転化は、頭蓋崇拝の家族宗教から共同宗教への転化を意味している。しかし、共同宗教化した頭蓋崇拝も「氏神化」への途上ではあっても、「氏神」までは至っていない。そうした位相にあると思われる。

 棚瀬の後を継いで、葬法と他界観念との関係から、「首狩」にアプローチする研究を見てみたい。(cf.「地上の他界と首狩の分布」


『首狩の宗教民族学』


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2015/11/18

「環状列石初源考」(佐々木藤雄)

 佐々木藤雄の「環状列石初源考」(「長野県考古学会誌」109号、120号)。細部の問題はいまのぼくには手に負えないので、論考の要だけに焦点を絞ってみる。佐々木によれば、環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」は、連続的な推移として見ることができる。

環状集落、「集落内環状列石」、「集落外環状列石」の三者を通して認められる際立った連続性・伝統性に着目するならば、環状列石、とりわけ重環状構造をもつ環状列石は大野のような「集落内環状列石」として環状集落内部に出現した後、大規模な「集落外環状列石」へと発達した蓋然性が高く、またこのような「集落内環状列石」成立の背景には環状集落内の中核を占める中央広場-中央墓地に対する明瞭な結界の形成、区画の特別化という事情があったことは疑いない。(「環状列石初源考(上)-環状集落中央墓地の形成と環状列石-」)

 ぼくたちはこれを生者と死者の関係、生と死の段階から捉えている。

 1.環状集落
 2.集落内環状列石
 3.集落外環状列石

 これらはいずれも、生と死が「移行」とみなされたなかで、生者と死者の空間が「区別」された段階に当たるものだ。1~3の推移は、その段階のグラデーションを示している。

 1.環状集落 区別・共存
 2.集落内環状列石 区別1
 3.集落外環状列石 区別2

 1では、まだ「共存」の感覚も強い。住居と中央墓地の間に環状列石が敷かれる2は、「区別」の明瞭な印となる。3では、区別はさらに進んでいるのが伺える。中央墓地の中心には、モニュメントがあってもおかしくない。環状集落では、中心ということ、そのこと自体がモニュメントとしての意味を持ったのかもしれない。ここでの「中心」は、琉球弧で言う「洞窟」を指している。その意味は、「この世」と「あの世」の境界だ。そしてここでの「あの世」は、地上的な場所の身近などこかにある。

 ぼくは、「共存」から「区別」の段階に入るのは、死者との共存に矛盾の意識が芽生えたときだと考えている。環状集落が人口密集地に出現することを考えれば、ここでは、それは生者と生者の共存に対する矛盾の意識が表出されたものだと考えることができる。また、1~3の過程における中央墓地からの距離の遠隔化は、死者との距離の遠隔化に対応している。それは「あの世」の遠隔化にも対応するはずだ。言い換えれば、生と死の「円環」の解体過程だ。

 また、安部明典によれば、

環状列石は、往々にして台地や丘陵の縁辺部に立地し、周辺の景色が眺望できる場所や二至二分と特定の山が重なる場所に占地していることもあり、その機能・用途に適する場所が選ばれたものであろう。これらは彼らの世界観に基づくものであると想定される。(「東北北部における環状列石の受容と集落構造」「古代文化」2011年vol.63所収)。

Photo

 この立地は、「あの世」との接点であると見なすと理解しやすい。同様に、立地についても、琉球弧の「洞窟」と同位相にあると言えるものだ。

 cf.「環状集落・環状列石・環濠集落」「谷口康浩の「祖先祭祀」」「丹羽佑一の「縄文人の他界観念」」


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2015/11/17

時間の起点としての「穴」と「頭蓋骨」

 生と死が、移行のなかで「区別」の段階に入ったとき、境界に洞窟が設定され、「この世」と「あの世」は空間的に区別されるようになる。このとき、洞窟の「穴」は、トーテムや人間が出現したはじまりの場所になる。それと同時に、はじまりの時を意味することになる。それは、一方向に進む時間認識の展開でもあった。

 しかし、トロブリアンドで最初は女性だけが出現し、そこから人びとが生まれていったとされるように、はじまりの時と場所、そこから現在までの流れは神話のなかに息づいている。つまり、そこには循環する時間という思考も生きている。

 人間が自然の加工の度合いを増し、「聖なるもの」が「穢れたもの」への反転を進め、その捩じれが一つの結び目を持つまでに極まったとき、生と死が分離する。

 このとき、シャーマンや英雄の頭蓋骨は氏神化の途次にある。琉球弧で、原ユタが根神として、その兄妹の根人と共同体を開設し、その頭蓋骨が祀られたのちは、その共同体にとっての時間が始まる。ここでも神話は生きていて、兄弟始祖神話が語られる。一方向に進む時間の認識は、共同体開設者の頭蓋骨を通じて、展開されることになり、それが共同体のメンバーに、記憶の届かない過去という時間認識の負荷を与える。それが、梃になって御嶽の神が発生する。循環する時間という思考はここで命脈を絶たれる。

 まだ、あいまいな点を残すが、現時点の理解をメモしておく。

 

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2015/11/16

『沖縄の戦後思想を考える』(鹿野政直)

 鹿野政直は、沖縄の戦後思想をテーマに一冊をものにしている。とはいえ、鹿野の主張は控えめで、さまざま思想の担い手たちの紹介に留めているので、この書を思想の概観を捉えるガイドブックとして読むことができる。

 テキストのように、ここからさまざまなテーマに斬りこんでいけるはずだが、まずは、「復帰運動観」を一瞥してみる。

 鹿野は、その思想的な意味を「自己決定の追求」としている。

 ただその場合、自己決定の自己とは何かが問われる必要があります。こういう問いの立て方は、精神的にきついでのすが、あえてその問いをまえに、こんな構図を描きたいと思います。主語を沖縄人(沖縄の人びと)とし、「国民」という言葉に照らすとき、琉球処分に始まる時期は、「沖縄の人びとが「国民」へ連行されていった時代」、それにたいして占領を基底条件とする戦後は、「沖縄の人びとがみずから「国民」であることを求めていった時代」とする構図です。それは、一つの落とし穴へのめりこんでいった思想といえるかもしれません。とともに、そこに発揮された主体性・能動性ゆえに、自立への芽を内在させていたということができます。つまり倒立した自立思想とでもいうべきものでした。

 ここでいう「落とし穴」とはどういう意味だろう。「国民」になるということが、沖縄のことなど方便としてしか見ていない日本という国に対して行われたことを指しているだろうか。そこでは、自己決定の追求は、逆にますます自己喪失につながるものとしてしか現れない。そこで、自立思想は、「倒立」したものにならざるをえない。ひとまず、そう受け取ってみる。

 鹿野の視点は、ある側面を照らしてくれるので興味深いが、琉球処分以降、復帰運動には、通底するものを見いだすのも重要だと思える。それを探せば、「国民」化を通じた自由と平等の獲得への希求と捉えることもできる。また、琉球処分と復帰運動と異なるもの、復帰運動のなかに新たに加わったものがあるとすれば、「異民族支配」からの脱却を通じて、「国民」化を果すという層だ。そしてそこには、自由と平等というなかに、「平和憲法」に象徴された「平和」が含意されていた。戦後、日米安保と憲法九条は、日本に組み込まれたが、あたかも「日米安保」は沖縄が担い、憲法九条は沖縄が担うという割り振りが行なわれたかのように、ことは推移し、また今もそのままだからである。

 「国民」化の指標を、共通語を話せるということに求めれば、現在では、沖縄の「国民」化は果たされているので、個人の感性ベースでは、自由と平等を実感できるところまで至っている。ただ、「基地」の分布でいえば、依然として自由と平等は獲得されていないことになる。ここで、「国民」化に対する疑問は反発となり、別の「国民」への希求が生まれることになる。

 

鹿野政直 『沖縄の戦後思想を考える』


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2015/11/15

時間と空間の起点としての「穴」

 トロブリアンドでは、最初の女性の祖先は、原則として「大地の穴から出てきた」。

 トロブリアンドの亜氏族はすべて、自分たちの祖先がはじめて日の光をあおいだ最初の場所を指摘できる。サンゴの露頭、泉水の穴、小洞穴が、ふつう初めの「穴」であり、彼らの言い方を借りれば、最初の「穴」または「家」である。このような穴は、まえに述べた禁断の木の群れに囲まれていることが多い。多くは集落をとりまく森のなかにあり、少数は海岸近くにあるが、耕地には一つもない(p.94)。

 つまり、「穴」とは起点の場所だ。また、「穴」はある意味jで代表的で象徴的な言い方で、そうではない場所もありうる。「サンゴの露頭」はそれを表している。「小石の山」(cf.「トロブリアンドの「穴」に関する注」)というよりリアリティがある。

 「穴」からの出現は、地下他界の存在を暗示している。しかし、「サンゴの露頭」や「小石の山」等の例は、同時に地上の他界の存在を示すものかもしれない。

 また、「呪術はつねに存在してきたものとして伝えられてきた(p.353)」。ある呪術は岩からうまれたことになっているし、カヌーの呪術は、「地面の穴から出てきた人間といっしょにもたらされたことになっている(p.354)」。

 つまり、「穴」とは起点の場所であるだけでなく、起点の時間を意味している。

 「穴」に境界を設け、「この世」と「あの世」を区別するということは、時間と空間のはじまりという観念を獲得したことと同義だ。これは、生と死が移行として捉えられたなかで、「区別」の段階に入り、一方向に進む時間観念は明瞭になったことを意味している。

 cf.『西太平洋の遠洋航海者』(マリノフスキー)


『西太平洋の遠洋航海者』

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2015/11/14

「魔のトライアングル」とは、どういう三角形か。

 仲里効は、新川明、川満信一、岡本恵徳の三者について、「魔のトライアングル」と呼んでいる。

 近現代を貫いて沖縄民衆の意識を同化主義的に染め上げた復帰思想を裂開し、超え出ていく〈反復帰〉論の名とともに強烈な思想の戦線を構築した新川明、川満信一、岡本恵徳の文の抗争は、私たちにとって避けては通れない門になり壁となった。かつて私は三者の影響力を思い余って「魔のトライアングル」と呼んでみた。思想の強度ゆえの離脱し難さについて言いたかったからである。いわばその三辺が作る囲いのなかに捕捉され、思想のハジチ(突針)を施されたわけであるが、その吸引力と格闘しいかに抜け出していくのかが私たち世代の思考を特徴づけていく。

 それなら、「魔のトライアングル」とはどのような三角形か。『沖縄の思想』に収録された、新川明の「「非国民」の思想と論理 沖縄における思想の自立について」、川満信一の「沖縄における天皇制思想」、岡本恵徳の「水平軸の思想-沖縄の共同体意識について-」から探っていく。

 まず、「沖縄と本土」という構図への接近の仕方から、三者の立ち位置を見てみる。

 新川明。

沖縄(人)にとって日本(人)とは、国家権力もその国民である被支配者・民衆も、十把ひとからげに同質のヤマトゥであり、ヤマトゥンチュである。沖縄(人)から発せられる土着の言葉としてのヤマトゥ(ヤマトゥンチュ)が包括する概念は、まさにそのような意味内容を備えた言葉として存在するのである。まさしくその点に、沖縄(人)の対ヤマトゥ認識の、思想的弱さがあることは争えない事実だとわたしは考えるが、しかしそれと同時に、まさしくその点にこそまた、沖縄(人)の対ヤマトゥ認識の思想的強さ、その強固なる可能性が深く秘められているといわなければならないと考えるのだ。

 川満信一。

 沖縄人の「心理」一般とか、沖縄の「利害」一般というものはほとんどの場合ないといってよい。そのような意識や幻想をつくり出すのは、全体という名分のもとに特定の目的を達成しようとする特定の階級または組織だけである。かつての蘇鉄地獄の時期においても沖縄内で米の飯を飽食している層はあったのだ、という至極単純な事実から「差別」論の思想的欺瞞性を見破ることはた易いことなのである。
 制度的差別の問題にしても、差別された制度の内側ではその差別のほとんどを下層の被支配者に転嫁していく重層の差別制度が成り立たないという根拠はどこにもない。また制度が改革されても階級社会では改革された制度施行システムのなかにいわゆる「差別」は活きる。したがって本土対沖縄というような無階層の差別論は、すくなくとも思想としては無意味だし、その方法では下層民のカオスの深みに錘鉛をおろし続けるのも不可能だといえる。

 岡本恵徳。

沖縄の被害者意識が、つねに「本土」とのかかわりにおいて発想されるということ、すなわち日本国民であることに、対峙するものとして沖縄の人間があり、そのことによって「本土」対「沖縄」という平面化した把握があって、そのために沖縄を等質化して被害者のように考える結果、「本土」に対する戦争責任の追求はあっても、沖縄内部でも責任追求を不可能にしてしまうのである。戦争というのが、国家と国家の対立であることが、いわば日本国民であることから一様にはみだした沖縄の人たちに、そのように受け取られることを一層可能にしたにちがいない。

 新川は「沖縄」を絶対化し、川満はむしろ、「無階層の差別論」は思想的には無意味だとし、岡本は「本土と沖縄」の構図において、「沖縄」が均質化される理由の一端を述べている。少なくともここでは、新川と川満の見解は対立している。

 新川が、「十把ひとからげに同質のヤマトゥ」と見なすことは「思想的弱さ」であるが、同時にそれは「思想的強さ」であるとする流れは、この引用だけからは、理由が分からないので、もう少し足してみる。

 だがしかし、沖縄が所有した歴史的、地理的条件の所産として、日本(人)に対して持つ根深い差意識=異質感を、国家否定の思想として内発させ、これを持続的な反国家権力のたたかいの思想的拠点とすることによって、そのような対日本知覚(認識)はすぐれて階級性を持つだけでなく、たたかいの主体がみずからの所有してきた歴史性をそのたたかいの基底に引き据えることで、真の意味の科学性を持ち得るといえるだろう。沖縄(人)の対ヤマトゥ認識における思想的の強さとはそのことにほかならない。

 やっぱり分からないのだが、「本土と沖縄」を通貫する「階級性」より、「本土」と「沖縄」が別個の「階級性」を持つと言いたいのだと受け取るしかない。ここにあるのは、論理というよりは情念だ。

 それは「独立論」に対する認識にも現れている。

 わたしのいう、日本相対化のための沖縄の異質性=異族性の主張が、それらの人々にみられた退行的な独立論発想の琉球ナショナリズムと無縁であることはいうまでもない。それは〈国家としての日本〉を破砕するための思想的拠点として、-つまり現在の国家体制(日米安保体制に支えられた)を成り立たせるために不可欠の要件となっている沖縄の存在の内側から-〈国家としての日本〉を突き刺し、その国家体制を破砕するエネルギーを噴出させていくために、日本との決定的な異質性=異族性をつき出していくことによって同化思想で培養される国家幻想を打ちすえるという意味においていっているのである。

 「沖縄の異質性=異族性の主張」は、あくまで「日本相対化」のためであって、「退行的な独立論発想の琉球ナショナリズム」ではないと言う。しかし、「退行的」かどうかはともかく、「独立論発想の琉球ナショナリズム」と有縁であったことは時の経過とともに自身が証明してしまった。独立論への言及の分かりにくさも、論理であるよりは情念であるためだと思える。

 「独立論」についても、川満は、「国家体制への埋没志向にすぎない民族独立」とはっきり相対化している。岡本はどうか。

 戦後沖縄でめざましい動きをしめしたものに、沖縄の伝統文化の復活と隆盛があり、また“沖縄独立論”がその内容の無意味さにかかわらず、ある程度の心情的な共感を得ているのは、沖縄戦のさ中での日本国家の崩壊と、その後国家をあたえられなかったということで、すくなくとも自分たちの拠りどころは沖縄以外にはありえないのだという意識と、一世紀に近い廃藩置県以後の歴史の記憶が結びついて出てきたのだといえるし、戦後世代が、沖縄自立の思想を考え、国家を相対化する思想を構築しなければならないと決意するその思想的な基盤は、かかって沖縄の戦争体験(戦中の愛国心と戦後の空白を含めた)の中にひそんでいるといえるのである。

 「本土と沖縄」の構図の由来を語るように、「独立論」の由来を、岡本は語る。語るけれども、吟味はしない。そういう態度が感じられる。「沖縄」を絶対化する新川、相対化する川満、「沖縄」に理解を寄せる岡本、と言えばいいだろうか。

 新川は、「非国民」と言うだけあって、その国家否認の思想からは、「母なる祖国」、「異民族支配からの脱却」、「同一民族として本来の姿に立ちかえる」、「子が母を恋ふる」と形容される「復帰」が幻想に過ぎないことをはっきりさせている。しかし、その国家否認は、日本否認の裏返しであるため、両者はときに混同されたままに話しが進むので、論理よりは情念が噴出されている。新川は国家否定を言うのなら、その思想を徹底させなければならなかったと思う。あるいは、日本否認の情念を、国家否定の装いを施さずに思想化すべきだった。それが中途半端なために、「思想的弱さ」はそのままにされ、国家否認が日本否認へ横滑りしてしまうのだ。

 岡本は、「本土と沖縄」とは別に「階級性」についても、理解を示している。

 ところで、こういうあたらしい支配の形態に対する抵抗の原理として、「階級的視座の確立」が要求されるということがある。そのことは、原理的に正しい問題の提起のしかたであるが、しかしそれが、これまで述べてきたように、過去において強烈に機能し、現に復帰運動の中でも機能している「共同体的生理」の機能と構造を正確に対象化することを通してなされないかぎり、その理論は沖縄に生き、定着することはすくないのであり、かつて成功したような国家からの支配、「共同体的生理」の機能を巧妙にとらえたかたちで行なわれる新しい支配を阻止する力にになりえないと考える。

 岡本は、このことを、あの古くて新しい山之口貘の詩、「会話」から掘り起こしている。この詩の、「女」からとらえられた「僕」と、「僕」自身のとらえた「僕」のあいだのどうしようもないずれ。相手には語る言葉がある。それに対して、こちらも返そうとするのだが、それが言葉にならない。その、言葉にならないものは何か。という問いを介して、「共同体的生理」という言葉は掴まれていると思える。

 では、その「共同体的生理」を形成するのは何か。それが岡本のいう「水平軸の発想」だ。言ってみればそれは、「横へのかかわりにおいて人間関係をとらえようとする発想の仕方」だ。そこでは、「人間関係は、支配・被支配などの上下関係としてよりも、「位置」と「距離」が自分に近接しているかどうかのかかわりとして、より強く機能しているようにみえる」。

 これはぼくたちの眼からは、国家を志向する発想を持たないことを意味していると思える。それは、岡本の「沖縄の思想」の展開自体についても言える。

「本土」の人たちにとって自明の前提である、「日本国民」であるというのは、沖縄の人たちにとって決して自明ではありえなかった。それはむしろ成長していくにつれてみずから獲得していく意識であった。とりわけ戦後世代にとってはそうであったといえる。沖縄の戦後世代にとっては、日本国民であるより前に、沖縄の人間であったのだ。

 かつ、

沖縄の風俗や習慣や言語を保持したままで、沖縄の人間は日本国民でありうるのだし、またそうでなくてはならないのだという考え方はほとんど根付かなかったように見える。

 そのため、「日本国民」になることが、「沖縄」の否定によるほかなかった、ということだ。

 しかし岡本はここで興味深い視点を出していると言える。沖縄人にとって「日本国民」は自明ではなかった。それは、近代以降そうだったという面と、敗戦から日本復帰までは、名実ともにそうだったという面を含んでいる。米軍支配時には、「米国民」でもなければ「日本国民」でもなかった。この「戦後の国家の空白」は、復帰世代に特有のものだった。そうだとしたら、この空白期の意味を通じた、国家(無化)構想が生まれる可能性を持っていたということを意味している。そのような試みは無かったのだろうか。

 少なくともここでの岡本は、その視点を挿入しながら、そこへ向かうのではなく、「沖縄」の否定による「日本国民」の獲得の方へ、議論を進めている。ここでも言い換えると、これは、「沖縄」において、国家と社会は分離されておらず、それが一体となった共同体として捉えられていることを示していると思える。そこでは、「水平軸の発想」のために、国家構想を生むこともない。

 実は岡本はここで不問に付していることがある。「日本国民」は自明ではなかった。しかし、「“自然的存在”として意識されていた「日本人」意識」と、「日本人」意識はあったというのだ。もし、岡本がここで立ち止まってくれたら、つまり、自らの「日本人」意識の自明さを組み込んでいたら、彼の示す「沖縄」への理解をもう一段、踏み込む可能性となったはずだ。岡本は、「沖縄」の「水平軸の発想」を抽出した。しかし、その岡本自身も「水平軸の発想」にとどまり、そこから出ようとしていないように見える。そこにはがゆさを感じる。

 三者のなかで思想的にもっとも遠くまで歩んでいるのは川満信一だと思える。ただ、「沖縄における天皇制思想」は、うまく掘り下げられているとは言えない。しかしそれは、これらの論考から半世紀近くを経た現在だから言えることもあるから、そのことを具体的に言うことはしないけれど、当時において捉え損ねていると思う点のみを挙げてみる。

 白い被衣を着て、神歌をうたいながら村のお嶽で踊る司女(のろ)たちの祭式にくらべて、天皇(制)にまつわる種々の儀式は、いってみれば「異神」の祭として感受されていたように思う。そういうわけで、天皇信仰も天皇(制)思想も、主体のなかに核を形成しないうちに戦乱へ投げ込まれたため、なんら血液のなかに澱をつくるものとはなり得なかった。
 天皇信仰の定着の度合いはともかく、全体として、沖縄の天皇信仰は急速に冷めてしまった、とみてよい。

 これは事態を的確に捉えていないのではないだろうか。天皇信仰は、現在も生きているからである。ここで、「下層民のカオスの深みに錘鉛をおろし続ける」ことができていたら、この論考も、もう少し立ち止まらせるものを持てたのではないかと思える。

 「魔のトライアングル」とは、どういう三角形だろうか。それぞれの頂点が指し示す特徴は、新川明における「沖縄」の絶対化、川満信一における「沖縄」の相対化、岡本恵徳における「沖縄」の内閉化、だ。内閉化が言い過ぎであるとしたら、内在化と言ってもいい。これが三角形の入口の目印になる。

 この後、「沖縄の思想」はどう展開されただろうか。

 

『琉球共和社会憲法の潜勢力: 群島・アジア・越境の思想』


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2015/11/13

『沖縄の民衆意識』(大田昌秀)

 大田昌秀の『沖縄の民衆意識』を読んだ。分厚くて最初たじろいたが、ジャーナリストの筆致で読みやすかった。ただ、書名に「民衆意識」とあるが、主に「琉球新報」、「沖縄新聞」、「沖縄毎日新聞」の動向や記事に拠るところが大きく、そこから推し量る「民衆意識」は、掘り下げるべき余地を残していると感じた。むしろ、大田が浮かび上がらせているのは「知識人の意識」だと思える。

 たとえば、近代以降の皇民化の動きに対して、「琉球新報」は書いている。

 故に吾人はこれを称して中央の政治家木馬に鞭うつの策という。けだしその数十万の人民をして彼らの父母を忘れしめ、彼らの歴史的記憶を湮滅し去りその人民の上に政治を施行せんと欲す。これすなわち県民を以って木馬となしこれに騎せんと欲するものにあらずして何ぞや。騎士如何に名手なりとするも、これに鞭うって何等の効果あるべからざるなり。幸いにして県出身の教育家中その人あるあり中央政府のこれらの政策に反対し、これをとりやめさえ本県人民をしてその由来するところをあるを知らしめ、以って鼓舞作興するところあり(1906(明治39)年)。


 大田は、「国民的同化」を鼓吹することを編集の基本方針にした「琉球新報」でさえ、こう書くようになったと指摘している。

 また、島袋全発の「郷土人の明日」について、大田は書いている。

 彼は、日本国民は、同化吸収の力に富んでいるから琉球人や朝鮮人の民族性を殊更に破壊しなくてもこれを同化することはたやすいことである。だから沖縄的なものを抹殺すべきではないし、いっぽう、県民自体も自らの長所は、人為的に伸ばし、一そう深くその国民性の内容を豊富に形づくるべく努めなければならないということを強調した。

 大田はこれを、「沖縄学」の台頭と同様、「けっきょく、より早くより完全な形で皇民化を促進しようとする時流の一側面でしかなかった」と指摘している。あるいはここには、柳田國男の民俗学が皇民化を補完したという、ときに見かける主張のような側面が胚胎しているかもしれない。けれど、琉球弧の場合、結果的に「民族性を殊更に破壊」することになったのだから、「琉球新報」や島袋の主張のようにはならなかった。また、大田は「時流の一側面でしかなかった」と書くが、それでも、彼ら知識人たちの主張が力を持てば、皇民化の一側面に過ぎなくても、「民族性を殊更に破壊」することにはならなかっただろう。

 でさえ、という意味では、「クシャメすることまで他県人を真似よ」と、説いた大田朝敷ですら、こう述べたという。

 日本は、きわめて長い期間、封建割拠的生活をへてきたので、言語風俗から住民の気質に至るまでいずれの地方も、かなり濃厚な地方色を帯びている。ところが、他の地方では解し難き方言を聞かされ、異なった風俗を見せられても、誰も怪しみもせず、そのためにその地方人の評価を軽減するようなことはない。が、ひとりわが沖縄県にかぎりなぜ総体的に差別待遇を受けなければならないのか。
 これは、言語風俗の相違から来るのか、気質や性格に相容れぬところがあるのか。民度に甚だしきへだたりがあるためなのか。種族が果して他の地方と異なるのか。あるいは、この他になんらかの原因が存するのか? と反問し、本県にたいする差別観念の由ってくるところを深く考慮し、その因果関係を明らかにするのはわれわれ沖縄県民たるものの、けっして軽々に看過すべき問題ではない。

 同化を主張していた人士でさえ、反論をするに至ったのに、なぜ、それは実現できなかったのか。大田は、教育界について、「郷土史も教えるべきだとする地元の教員とそれに反対する他府県出身の教師との間に隠微なあつれきがあった」と指摘する。

 この、「“沖縄的なもの”を蔑視する外来者の言動が、つねに蔑視感に苦しめられてきた地元民を刺激したといってよい」。大田によれば、下駄は相手に預けられているわけで、責任は相手にある、と言っているのだと思える。

 それはそうには違いないのだが、ここから民衆意識の掘り下げをしてほしいところだ。それはなされていないので、ぼくはここに民衆の積極的なのめりこみを見る必要があるのだと思う。そうでないと、この問題を充分に、自分たちのことに引き寄せられない気がする。

 この分厚い研究のなかで、大田は実に丹念に「知識人の意識」を追っていると思えるが、その大田自身が、もう少し、近代沖縄の「知識人の意識」からはみ出たところで書いてほしいという欲求が湧き上がってくる。

 大田は、「日本にとって沖縄とは何か、沖縄にとって日本とは何か」と問うている。「日本にとって沖縄とは何か」。領土拡張の欲求にかなった辺境であり場末である。「沖縄にとって日本とは何か」。近代に武力で併合を強いた文化の近い民族国家である。というのが初期形であ。そして、この初期の認識を日本はまだ脱し切れておらず、政権によっては露骨に再生している。というドライだけれど、これ以上の意味を国家に付与させないことが必要はのではないだろうか。これを「果てしない」問いにしない。つまり、そこに「祖国」というような過度の期待心情を持たないこと。それが、相手を過剰に見ないために必要なことだという気がする。もちろんここで、国家と社会は区別して捉えるわけだ。


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2015/11/12

トロブリアンドの「穴」に関する注

 マリノフスキーの『バロマ』の注に、こんな記述がある。亜氏族(ダラ)は、自分たちの起源を一人の共通の先祖へ辿る。

そうした先祖は最初に特定の場所の土の中から出現したのである。そして原則としてそのダラは、その場所に、もしいくはその近辺に住んでいる。-この「穴」は、たいてい村をとり囲む森の中にあるが、村の真中にも見られる。「家」(ブアラ)と呼ばれるこれらの穴は、今日では、水たまりか小石の山か、小さな浅い窪みのいずれかになっている。(中略)原則として一つのブアラから一つのダラとなる。(p.191『バロマ』)

 ここで注目したいのは、「穴」の場所が、「森の中」にあるが、「村の真中」にも見られることだ。ここで墓の位置の記述はないが、「森の中」と「村の真中」は、墓域の遠隔化に伴い、「村の真中」にあったのが「森の中」へと移動したものではなく、等価なのだと思える。これが環状集落を指して書かれたものだとしたら、「村の真中」とは、墓域の中心というようにも取れる。

 また、その「穴」が、「小石の山」であるのは、もともと「穴」だったところが埋められたのではなく、「小石の山」も「穴」と同等に見立てられたのではないかと思える。

 cf.『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』

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2015/11/11

琉球弧、貝塚時代の編年

 時代区分が、参照なしには思い出せないので、伊藤慎二の編年に従った表をあげておこう。ここに、生業の変化とオーストロネシア族の北上の研究も重ねておく。与論島の歴史は、確認されている限りでは、貝塚時代前5期あたりから始まる。琉球弧全体でみれば、定着期に入って以降だということになる。
 

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2015/11/10

清祓行為の内実

 吉本隆明は、『古事記』をもとに、清祓(きよはらい)について考察している。

 もちろん清祓行為が、〈法〉的な意味をもつためには、それ自身に〈制裁〉的な要素がなければならない。
 清祓行為はつぎのいくつかの要素からできていることがわかる。
 (1)〈醜悪な穢れ〉に感染(接触)したものを身体から脱ぎ捨てる。
 (2)水浴などで身体から〈醜悪な穢れ〉そのものを洗い落とす。
 (3)〈醜悪な穢れ〉の禍いを祓う。
 (4)身体を水に滌いで清める。とくに眼と鼻を洗う。
 そして『古事記』の神話では、こういった要素のすべてからそれぞれ〈神〉が生れることになっている。このばあい清祓行為のなかに〈法〉的な規範の要素をもとめるとすれば、〈醜悪な穢れ〉に感染したもの、または〈醜悪な穢れ〉そのものを身体から除去するという(1)および(2)の部分に〈刑罰〉的な意味が存在している。いいかえれば物件を科料として提出させられるかわりに、ここでは〈醜悪な穢れ〉という幻想を科料として、剥ぎとられるとかんがえることができる。また清祓行為を〈宗教〉的な規範としてかんがえれば、(3)の〈祓い〉の行為に宗教的な意味がふくまれる。(「規範論」)

 いまここで考えたいのは、宗教と共同規範の分離についてではなく、死の穢れを祓い方の内実についてだ。吉本が挙げた要素に基づくと、「脱ぎ捨てる」、「洗い落とす」、「洗う」という行為は、どれも霊力思考にもとづくものだ。具体的にいえば、霊力思考が「聖なるもの」としてきたものが、霊魂思考の関与により「穢れたもの」に反転し、それを霊力思考の仕草で解除する方法になっている。

 吉本は、(3)の「禍いを祓う」について宗教的な意味が含まれるとしているが、ぼくたちの観点からいえば、(3)では霊魂思考が独立して霊力思考に依ることなく清祓行為がなされていることになる。

 また、清祓行為から「神」が生まれるということは、「聖なるもの」が「穢れたもの」へ反転すると、霊力の発揮の仕方も反転することを意味している。
 

『共同幻想論』


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2015/11/09

『ジオエコノミクスの世紀』(イアン・ブレマー・御立尚資)

 Gゼロというコンセプトを提示したイアン・ブレマーだから、あまりにアメリカ政府に近い立場にいるジョセフ・ナイよりも、アメリカがさらに相対化されている印象を受けた(cf.「『アメリカの世紀は終わらない』(ジョセフ・ナイ)」)。だからといってブレマーがアメリカは衰退すると言っているわけではない。別の面から言えば、ナイの主張は紳士的なので、読んでいるうちにアメリカが実際のアメリカよりも紳士的に見えてくる錯覚を覚えるが、ナイの主張にはそういった感じはしなかった。ナイの議論は冷静で多角的だけれど、それ以上にブレマーの議論には風通しのよさがある。たとえば、

 今の若い世代は冷戦を知りません。親世代や祖父母世代と違い、こうした若者の多くはアメリカのリーダーシップが、アメリカ本国や世界にとって価値があるとは考えていないのです。

 こういう視点は、ナイから聞こえてくることはなかった。ナイが言及しないことでいえば、ブルマーは、エドワード・スノーデンにも言及していて、アメリカ政府が、ドイツのメルケル首相の携帯電話を盗聴していたことで、メルケルは激怒し、結果、「アメリカの外交政策に対するドイツの援助体制が大きく崩れてしまった」と指摘している。

 インタビュアー(対談相手?)の御立尚資は、

 ある意味では、中国は第二次大戦前の私たちと同じ轍を踏むかもしれません。この心配がなくなれば、日中関係はもっと友好的なものに向かっていくのですが。

 と、いかにもな日本人の心配を投げかけている。それに対してブルマーは、「さらに厳しい状況」に言及している。が、それは軍事的な問題というより、中国は人口、経済、資源などの深刻な国内問題に直面していくことになるのに、「日本経済は、ますます中国の安定に依存するようになる」ことを挙げている。どうやらブルマーは、軍事より経済を重視しているように見えるが、それがはっきりするのは、「相互確証経済破壊」という概念だ。

 米ソ対立の際には、核攻撃は相互に壊滅的な破壊をもたらすことは目に見えているから、それゆえに応酬しあう可能性が低くなる「相互確証破壊」という概念が生まれた。「相互確証経済破壊」は、それを経済概念で応用して言っていることになる。「どちらの側にしても。自ら痛手を被らずに相手に打撃を与えることは難しくなる」とうことだ。

 そういう視点からみれば、台湾についても、

自主独立の精神を謳う野党・民主進歩党は、2015年後半の台湾総統選挙戦で返り咲きを果せそうですが、だからといって、それを機に米中が台湾をめぐって対立する可能性は低いのです。

 ことになる。「中国の脅威」言説が、妖怪のように徘徊しているなかで、ブレマーの議論は冷静に見える。

 日本に対する観方も新鮮なところがあった。

日本では、一連の経済政策である「アベノミクス」のさじ加減が難しく、さらには変動するアジアにおける自国の役割が不透明なために、国民は積極的な安全保障政策を支持したがりません。

 国際政治の論者は、国民の声を無視するか、現実を知らないと揶揄するかで議論を進めがちだが、そこに権利を与えていることが新鮮に思えるし、この観方が当たっているかどうかはともかく、共感できる。

 他にもあった。2013年に比べて、日本の地政学的状況は改善されている。ブレマーが言うのは次の三点で、

 1.安倍首相が歴史と戦争を語る際、「被害者感情を傷つける発言を控えるようになった」こと。
 2.中国指導部が国の改革政策に自信を深めている。近年の東アジアにおける一連の対立後に日本が対中投資を減らした事態が、中国経済と他国への評判に不必要なダメージをもたらしたことに気づいたこと。
 3.インドが領土をめぐって中国のライバルになりつつあり、それが「中国の日本に対する敵対心」を弱めるように作用すること。

 これまで読んできた論者は、安倍外交礼賛に走りがちなので、ここにも国民視点が生きていることに新鮮さを感じる。日本に対するアドバイスもある。

歴史を経て、日本は軍隊を持たない国になりました。これは平和主義な文化です。日本はその文化を大切に守ってきました。日本政府にアドバイスするのは非常に難しいことですが、あえて言わせてもらえば、国家安全保障問題にこだわりすぎないことが必要だと思います。
安倍首相の政治生命は、政権が国内経済を再生させられるか否かにかかっています。首相は自らの支持率を下げる覚悟で、改革の名の下に、一部の有力な国内産業と労働団体の特権にメスを入れるべきです。

米中の競争が激化して対立に発展しかねない世界で、日本がアメリカの重要な同盟国だという事実をうまく利用することです。中国の台頭が、アメリカの同盟国としての日本の価値を、イギリス、ドイツ、イスラエル、サウジアラビアの価値以上に高めてくれるのです。

今の日本の軍備拡張には自ずと限界があります。もとより日本の安全保障は、軍事力より経済に頼るところがはるかに大きいでしょう。軍事力に頼る道を選べば、最大の危険が伴い、最少の見返りしか得られません。

他のアジア諸国と通商や安全保障上の関係を深めれば、中国やアメリカが日本を犠牲にしてアジアを支配しようとする事態を確実に防ぐことができるのです。

 二つ目などほとんど賛成だ。もっと突っ込んで聞いてほしいところもあるが、御立はその役を果たしていないのが歯がゆかった。が、とても新鮮で、ぼくには受け入れやすい議論だった。

 

『ジオエコノミクスの世紀 Gゼロ後の日本が生き残る道』


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2015/11/08

『「戦後」の墓碑銘』(白井聡)

 『永続敗戦論―戦後日本の核心』の復習をすれば、白井は対米従属を永続化することによって、敗戦の否認を永続化することを「永続敗戦」と呼んでいる。だからこれは、「永続従属」と言っても、「敗戦の否認永続」と言ってもいいのだと思う。なぜ、対米従属をすると、敗戦の否認ができるのか。それは、戦前の支配層がアメリカの許しを得て、戦後の支配層に横滑りしたからである。横滑りしたと言っても、国内には支配の正統性を示す必要があるから、「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、「敗北に終わった戦争を天災のごときものへと国民の心象風景のなかで転化させる」必要があった。ではなぜ、敗戦を否認するのか。それは敗戦の責任を取りたくないからである。と、こうなるだろうか。

 『「戦後」の墓碑銘』でも、白井聡の舌鋒は鋭い。こうした硬質な文体で状況をばっさばっさと斬ってゆく文体は、久しく見なかった気がする。いまでも、この文体で読者を得られることに驚かされもする。ただ、立て板に水のように流れてゆくので、欲をいえば、澱みがほしくなったが、今はそこに立ち入らない。

 白井は、永続敗戦者とは異なる人として江藤淳を取り上げているので、そこに入ってみる。

 とはいえ、「日米間の権力関係の変更」の鍵を米国の国策へのより「自主的な貢献」に見出し、それによって覇者たる米国との一体化を通して敗者から勝者への転身を図ることを以て「公的な価値の回復」が実現されると妄想する、標準的な親米保守主義者と江藤が根本的に異なるのは、自己の運命の主であるという立場を回復することによってわれわれが出会うのは「敗者である自己」にほかならないとされているためである。

 しかし、「改憲によって交戦権を回復することで日本人が本当の意味で生きることができるようになるという論理」は、「戦後日本が立派な国でないのはアメリカ製の憲法のせいだ」と米国の世界戦略を支持する人が言って憚らない、という奇怪な状況を生んできた」。これは「途轍もない逆説だった」、と白井は言う。

 ぼくもそう思う。そう思うから、生きて現在の状況を論じてほしかった。それには、「閉ざされた言語空間」が、「戦後民主主義」に与えた影響だけではなく、国民会議へと結集する流れに対する影響への考察を江藤に強いたはずだからである。言い換えれば、江藤が生きていれば、「閉ざされた言語空間」での考察の先に出てゆくことができたのではないかと思う。(cf.『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』)。

 もちろんこれは無い物ねだりなのだが、江藤を引き継ぐ論理の展開を見たいということだと言ってもいい。それは逆の立場に対しても言いうる。

これまでの改憲/護憲陣営の多くが、どれほど的を外した議論で堂々めぐりを続けてきたか、ということだ。そして、不毛な議論が続く限り、改憲でも護憲でもない、民主制国家が必ず通らなければならない過程、すなわち制憲の問題は、視野の外に置かれる。このことはもちろん、永続敗戦レジームの延命に寄与する。そして、制憲権力とは革命権力にほかならない。

 ここで必要とされている「制憲権力」という問いに対する回答を、加藤典洋の『戦後入門』に見ることもできる。しかし、ぼくはこの本で初めて加藤さんの書くものに対して躓いてしまった(cf.『戦後入門』(加藤典洋))。加藤は、『戦後入門』を現実へのコミットを念頭に書いているが、開陳されている九条強化案は、理念に留まる。いや、理念でいいのだし、理念として打ち出したものと言うにとどめるのがいいと感じた。しかし、現在、必要なのは、現実と理念を埋める道筋を提示することだと思える。そういう意味では、「合理的で理性的でプラグマティックな態度」(「幻想の大国を恐れるな」)というエマニュエル・トッドの言い方にリアリティを覚える。欲張りにいえば、敗戦を正面から受け止めることができ、九条強化の制憲目標を持つ勢力によるプラグマティックな態度だ。これはありうる想定だろうか。
 

『「戦後」の墓碑銘』


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2015/11/07

『日本の敵』(宮家邦彦)

 受験秀才がアメリカ輸入業者になって為政者目線で語っている。悪口になってしまうが、そんな印象だった。『日本の敵』というタイトルの回答が、「日本の最大の敵は自分自身」というのだからずっこけてしまう。すごんでもいるが、ポーズにしか見えない。まだ、「文芸春秋(11月月号)」の「安倍外交が対峙する「日本の敵」」の方が、語るに落ちるものを伏せられる短いエッセイの分だけ、読ませた。思うに、自分は決して大衆ではないし、軍人になることもないという場所から書いているのだと思う。

「生き残り」において最も大切なのは、常に「勝ち組に残る」、「勝ち馬に乗る」ことだ。では、何が「勝ち組」で、何が「勝ち馬」なのか? 状況判断を誤ることは、国家の「死」に直結する。日本はサバイバルに向けた戦略を正しく組み立て、それを実行しなければならない。

 この、「はじめに」で躓いたのだから、ぼくも色眼鏡で見てしまっているかもしれない。しかし、何というか、内容に踏み込んで書こうという気は萎えてしまった。
 


宮家邦彦 『日本の敵 よみがえる民族主義に備えよ』


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2015/11/06

『物欲なき世界』(菅付雅信)

 以前は、島に帰ると、美味しいコーヒーとお酒を飲みたいという他は、潮が引くように欲求が後退していき、自分が欲望に吊り下げられているのを実感していた。けれど最近では、島に帰っても、相変わらず美味しいコーヒーとお酒は飲みたくなるのだが、欲求の引き潮は感じなくなった。それは、自分のライフサイクルがそういう段階に入ったことを示すのか、物欲が減っているかは分からない。もともと物欲が強いほうではないから、減るにしても大したものではないのだけれど。

 また、母の見舞いを繰り返すうち、思うところあって、一日ほぼ一食、しかも野菜中心にして一年近く経つ。これも、自分のライフサイクルなのか、時代を身体が感じ取っているのかは分からない。けれど、なぜあれだけ三度三度、生真面目に食べていたのか。しかも、ご飯を必須のように思っていたのか、不思議に思えてくる。そのくらいには自身の変化があるのも確かだ。

 菅付(すがつけ)雅信の『物欲なき世界』は、この「物欲」の減少が時代精神なのかどうかを(著者はそう結論づけようとしているが)、追った本だ。

 消費が万人のものになると、消費は意味を持たなくなる。ほしいものは自分たちで作るというムーブメントが定着する。ほしいものは、自ら関わる、作る、交換する、そういう主体的、参加的消費/生産が奨励される。新しい、見た目がいい、機能が多い、高級といった価値観よりも、関わっている人の顔が見える、信用/信頼できる、長く使える、公益的といった価値に重きが置かれるようになる。

低成長下、さらには定常型社会に向かう中で、シェアやレンタルが当たり前の「物欲なき世界」に突入し、買い物リストを埋めることに積極的な意味を持たなくなると、幸福のあり方が変わらざるを得ない。

 著者は後半で、「幸福」や「資本主義の限界」といった難しいテーマにも挑んでいる。しかし、本書の魅力は、「物欲なき世界」は、時代精神かどうかを取材を通じて探究している個所にあると思う。その事例の数々には、得るところが多かった。

 「物欲」の減退は、低成長に適応した結果だという側面がある。この適応は不思議ではない。人類は、モノに対する欲望に吊り下げられることなく生きてきた時間の方が圧倒的に長いのだから。一方で、靴は一足よりは二足のほうがいい。社会的な場面とカジュアルな場面で使い分けられるくらいはあったほうがいい。でも五十足も百足も要らない。この場合は、欲望の臨界点に当たる。現在の社会は、どちらにも見えるから、その先行きを判断するのは難しくもある。だから、そこをもっと追求してくれたらという願望は残った。たとえば、ミニマリストに取材し、彼らの欲望のありかを探ってゆくこと、などだ。実際に、「物欲なき世界」にいると思しき人々の欲求のあり方を知りたかった。

 ただ、プレニテュード(Plenitude(Plenum + attitude))の概念は分かる気がした。プレニテュード=豊かさの定義。

 1.新たな時間の配分
 2.自給(自分のために何かを作ったり、育てたり、行ったりすること)。自分の時間を取り戻すことは、自給を可能にし、買わなければならないものが少ないほど稼ぐ必要も少なくて済む。
 3.消費に対して、環境を意識したアプローチをすること。

 「時間は物質的なモノをしのぐ」、ということだ。これなどは、ミニマリストが言及する充足感でもある。


 本書の文脈とは外れるが、3Dプリンターは「現在のミシン」で、3Dプリンターで作っているものはハンドメイドなのだ、というチャド・ディッカーソンの言葉が刺戟的だった。

 
『物欲なき世界』

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2015/11/05

『なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか』(石平)

 中国国家がいかに中華思想に囚われているか、それを「切ない宿命」とまで言って説いている本。一点の迷いも留保もなく、ぐいぐい押してくる。

 「中華に恭順する朝鮮、反抗するベトナム」という来歴がよく分かったし、それは現在にも当てはまることにも驚かされた。歴史は終わったわけではなく、歴史のなかにぼくたちも立たされているのを知らされる。

 でも、もっとも驚いたのは奥付きで、著者の石平(せきへい)氏が、中国生まれで民主化運動に傾倒した人物なのを知ったときだった。琉球処分や安倍外交に対する記述が一方的、というか、内側からみると、どう見えるかという視点が無いのに違和感を持ったが、その理由も合点した。


『なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか』


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2015/11/04

『アメリカの世紀は終わらない』(ジョセフ・ナイ)

 書名に『アメリカの世紀は終わらない』とあるけれど、原題は、"Is the American century over?" なので、邦題は著者のジョセフ・ナイの結論でもあると知るまでは、日本的希望のように思えていい気がしなかった。

 中身については、ナイは妄想的でも攻撃的でもなくいたって冷静なので説得力を感じる。アメリカが衰退するわけではないという根拠はたくさん提示されているが、ひとつだけ圧倒的だと思えるのは、移民だ。「多くの先進国では今世紀のこれから先、自在不足に見舞われる」が、「アメリカの人口は二〇一〇年から二〇五〇年にかけて四二パーセント増え」る。

アメリカの社会は外の世界に開かれ続けており、移民の受け入れによって自らをまた新たなものにしていくことが他国よりもうまくできている。

 このことだった。

 中国に対してはどうか。

中国の軍備増強というトレンドが続く中で、アメリカがこの地域の同盟国に安全保障上の安心感を与えつづけようとするなら、アメリカ側は、中国が進める領域拒否の戦略-自国のそばに米軍が接近し、自由に行動することを阻止する戦略-に対する戦力面での弱みを消さなければならない。そのための投資はかさむだろう。

中国が軍事力の配備などであまりに攻勢を強めると、近隣諸国は対抗して連合を組む。結果的に中国のハード・パワーもソフト・パワーも弱めることになる。

アメリカ、日本、インド、オーストラリアおよびその他のアジアの国々は、中国のパワーが拡大し、攻撃的な行動に出る可能性に備えつつ、互いに協調して、中国を責任ある行動へ仕向けることができるはずである。

中国の台頭にそのように反応することは(太平洋の東側にアメリカが引っ込むこと-引用者)、関係国のアメリカに対する信頼を粉々にする。そして、この地域の国々をアメリカと一緒になって中国に対抗させるどころか、むしろ、勝ち馬となった中国の側に追いやってしまう。

中国を封じ込められるのは中国自身だけである。

 いたずらな煽りも思わせぶりな言辞もなく、的確な見解に思える。台湾や沖縄への言及はなかった。

 日本に対する言及はこうだ。

日本が近代化と民主化に成功したことや、海外で人気の大衆文化は、ある程度ソフト・パワーに貢献するだろうが、自国民中心主義的な姿勢と政策は、むしろ足を引っ張る。

 これは、どうかそこに陥らないようにと、エマニュエル・トッドも指摘していることだった。ここはもっとも立ち止まらされるところだが、そう見えるということは両氏の言及でよく分かった。

 中東に関しては、こう書いている。

アメリカは侵攻や占領に手を染めるべきではない。ナショナリズムが盛り上がり、ソーシャル・メディアなどによって多くの人々を動員できる時代にあっては、外国勢力による占領は鬱積した恨みの感情を育ててしまう。

 アメリカの一知識人がこういう認識を持っていることは心にとまる。沖縄の現状は、日本政府よりはアメリカの方が聞く耳を持つのではないかと思わせるところだ。

 

『アメリカの世紀は終わらない』

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2015/11/03

死穢と他界

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』から、葬制における死穢が存在する場合の他界の所在を一覧化してみる。

 確かめたかったのは、「聖なるもの」が「穢れたもの」へと反転するのが、「生と死の分離」の前に起きるかどうか、ということだった。

Photo

 見る限り、「生と死の分離」以前に、死穢は発生している。「生と死の分離」というより、棚瀬が言うように、屈位の埋葬であることとの相関が高い。つまり、原始農耕は死穢の観念を伴う。ただ、この段階でも死霊は帰来できる。モノ島では死霊は島の居場所を持つほどだ。ムヌヌヤーという言葉を思い出す。ここでは、生と死は分離していない。

 このなかで、「生と死の分離」以後と見なせるのは、カヤン族とニコバル族のみだ。おそらく、「生と死の分離」以後は、「聖なるもの」の「穢れたもの」への反転は必然化される。反転がきわまったところで、分離は起きると仮定しておきたい。反転のねじれが結節点を持つに到ったとき、分離は必然化される、と。


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2015/11/02

「沖縄の自立と日本の自立を考える」(座談会)

 大田昌秀、新川明、稲嶺惠一、新崎盛暉の座談会が面白かった。県知事経験者ふたりを交えて、これだけ日本を相対化した議論ができるのは、沖縄だけじゃないかと思える充実した内容だと思う。後半の座談会をメインのコンテンツにして、各自の論考は後半に、小さ目の字で展開しても、本の力を損なわないと思った。

 そのうえで、感じたことを備忘しておきたい。

 まず、大田がしきりに言う言葉が気になる。

大田 (前略)「いったい日本にとって沖縄とは何なのか」と、改めて問いかける人たちも多くなっている。

 そんなの、辺境にして場末に決まっているではないか。それは、与論に対する鹿児島の扱いっぷりからでも分かる。それに、こういう指摘は、46年前に行われている。

 政治的にみれば、島全体のアメリカの軍事基地化、東南アジアや中国大陸をうかがうアメリカの戦略拠点化、それにともなう住民の不断の脅威と生活の畸型化という切実な課題にくらべれば、そんなことは迂遠な問題にしかすぎないとみなされるかもしれない。しかししそうてきには、この問題の根拠とねばり強い探求なしには、本土に復帰しようと、米軍を追い出そうと、琉球・沖縄はたんなる本土の場末、辺境の貧しいひとつの行政区として無視されつづけるほかはないのである。そして、わたしには、本土中心の国家の歴史を覆滅するだけの起爆力と伝統を抱えこんでいながら、それをみずから発掘しようともしないで、たんに辺境の一つの県として本土に復帰しようなどとかんがえるのは、このうえもない愚行としかおもえない。琉球・沖縄は現状のままでも地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている。ただ、本土の弥生式以後の国家の歴史的な根拠を、みずからの存在理由によって根底から覆えしえたとき、はじめていくばくかの曙光が琉球・沖縄をおとずれるにすぎない。(「異族の論理」1969年)

 大田の嘆きを前に置くと、吉本隆明の「異族の論理」は全く色褪せてないのに驚かされる。吉本が、「本土に復帰しようと、米軍を追い出そうと、琉球・沖縄はたんなる本土の場末、辺境の貧しいひとつの行政区として無視されつづけるほかはないのである」としているのは、大和朝廷以降の歴史的経緯や当時の政府の見識からいってそうだと言っていると思える。と同時に、ここには近代民族国家が、必ず中心と周縁を生み出し、内外に差別を作り出さずにはおかないという認識も控えている。挙げようとすれば、ここには人間の持っている差別感も入れるこことができるかもしれない。けれど、吉本自身は、ここではそのことは含ませていない。それは、人間が今も脱することができないでいる動物性のようなもので、さらに射程を長く取らなければならない問題だからだ。

 大田はこうも言う。

大田 沖縄の人びとが、絶えず人間としては処遇されずにモノ扱いばかりされてきた事実は、否定できないのです。

 これにしても、人間の持つ差別感の層で言っては身も蓋もなくなる。それは別の場面ではブーメランとなって自身に返ってくるものだ。大田の言うことに対応するのは、近代民族国家という層だと思える。げんに現政府は、自衛隊員をモノのように扱う言動をしてはばからない。そしてこの層で考えたとき、ここには、「モノ扱いばかりされてきた」というところには、本土の人もそうなのかもしれない、という内省をさしはさむ必要がある。

 ただ、稲嶺がこう言うとき、感銘に近いものを受けた。

稲嶺 だからやはり本当のマイノリティに対する思いやりとか意識とか、実はなかったと。言われてみて初めてかなり大きな問題だということを認識したと。これはある意味では非常に寂しかったですね。

 県知事を務めた者までがこう言う。島人のよさは、やっぱりこういう素朴な、純朴なところだと思う。

 問いの立て方を変えたいと思うのは、「祖国」も同様だ。

新川 沖縄人には日本に対する「祖国」意識が、根っこの部分にまだ強くある。この部分、今後僕たちが突き詰めて考えるべき問題だろうと思います。
新川 「祖国」とは「祖先以来住んできた国。国民の分かれ出たもとの国」(『広辞苑』)という字義に従う限り、かつて独自の主権を有した独立国であった琉球王国が日本国を「祖国」と観念するのはその語義に照らしてもおかしいことは明らかである。

 新川は、日本は「祖国」ではなく、琉球が「祖国」である。日本を「祖国」とする幻想を打破しなければならない、と言うのだが、これまで新川の言説を辿ったかぎりでは、新川の琉球を「祖国」とする幻想も打破したほうがいいのだ。

 この、「祖国」という捉え方のなかに、国家と社会を一体とみなす思考がにじみ出ている。大田の嘆きも、そこを分離できないから、人間の持つ差別感にまで含意が及んでいると思える。

 それに、島人は「祖国」なら、わざわざ決めなくても、すでに持っている。ぼくの場合を挙げれば、与論島がそうで、これ以上の祖国はないし、これで充分である。もっとも与論は小さな島だから、大きな島の島人にしてみれば、シマ(集落)がそれに該当するだろう。島人は、シマ(島)に対して持つ「祖国」感を素朴に国家にも投影するのだ。しかし、島人がそうするのは自然な観方だとしても、構想を立てるときには、少なくとも、国家と社会は分けて考える必要がある。そうするためには、自分のシマ(島)以外には、「祖国」という言葉を適用しないのがいい。

新崎 その頃に新川さんが強調していたのは、これは独立論ではないということでしたよね。それでむしろ精神的独立論とか、日本などに頼るなというか、沖縄の独自性に目覚めよという主張であったと僕は理解していましたし、そのことは当時書いた本の中でも触れています。これがどうして独立論に変化したのかということも疑問です。
新崎 僕なんかからすると、今は独立という形で新しい国家を形成するような時代ではないのではないかという気がします。独立を丸々否定はしていません。独立はあり得るかもしれない。(中略)僕などが目的とするものは、新しい国家を作ることではなくて、むしろ国境を低くして、国境を開いて周辺地域の人たちと平和的な関係を作っていく、そういうことではないだろうか。

 これを読むと、新崎もぼくと同様の疑問を持ったことが分かる。また、見通しとしては、ぼくは新崎の見解に賛成だ。

 新川はどう応答したか。

新川 先ほどから言っている、沖縄はどうあるべきか、その将来構想を問うときに、現時点でその手段として独立論を唱えることが最善の方法じゃないかということなんです。だからといってそれが今すぐ具体化される話ではないということはずっと言っているわけです。(中略)
 それとまた僕は、沖縄が独立をして、それで今の日本と同じようなミニ国家を作るだけなら意味がないよ、といろいろなところで繰り返し言っているんですよ。つまり、僕の言う「独立論」の究極の目標は人間的に解放された社会を目指すことで、新崎さんは「国境を低くして周辺地域と平和な関係を作っていく」と言うわけですが、僕の目指す理想は、国境による領土の囲い込みをなくして、世界連邦的なあり方を意味します。その辺のところが、ちゃんと理解されていないと思います。

 これは回答たりえていない。「独立論」を言ってみてるだけ、と言っているのと同じで、独立論に真剣に取り組んでいる諸兄に失敬ではないだろうか。「今の日本と同じようなミニ国家を作るだけなら意味がないよ」と言うのも、あらゆる国家を否定すると言ってきたことに対して筋が通らない。それに、マルクスを思い出させる「人間的に解放された社会」ということも、どうしてそれが「独立論」と結びつくのか、分からない。というか、独立すればそうなるという考えは、それこそ幻想だ。

 必要なものは何か、という問いに、新川は「琉球人としての自覚と誇り」といい、

新川 (沖縄が独立すべきだと考える沖縄人が少ないのは-引用者注)「復帰」運動で培養された、日本を「祖国」と考えさせられた国民教育(日本化教育)による日本人意識が大きな要因だろうと思います。(中略)  従って、まず琉球人としての自覚と意識を高めていく。

 と言う。これは迷惑だと思う。それは、現政府が教科書を都合のいいように改編しているのが迷惑なのと同じだ。「琉球人としての自覚と意識を高めていく」という、目的の立て方は、かつて、「日本人としての自覚と意識を高めていく」ことを強いられたのと同様のきつさをもたらさずにはいられないだろう。島を知る、ならまだ分かる。

 たとえば、方言は大事だと思う。それは、「琉球人としての自覚と意識を高める」から、ではなく、その言葉でなければ拓かない世界があるからだ。神女はどうだろう。呪詞を標準語で唱える神女など想像できるだろうか。「開けゴマ」と言わなければドアは開かない。どうように、それまで使ってきた言葉でなければ、神女は、呪詞が望んだ世界を拓けなくなるだろう。神女を持ち出さなくても、ぼくたちだって、島言葉で話すときと、標準語で話すときとでは、そこに拓かれる情感や見える世界がまるで違うのを知っている。その世界の奥底にあるものとのつながりを失うのはあまりに「寂しい」。だから、方言は大事だと思う。親が伝えられなくなっているのなら、教育が代替するのも仕方ないと思う。しかし、日本人教育をしたら日本人になり、琉球人教育をしたら琉球人になる、という人工的なものではない。時の政府の意向に沿った教科書で教育を受けたら、その通りの人間になってしまうわけではない。その時は真に受けるかもしれないが、重要なのは、その後、何かのきっかけで、問い返しを行ったとき、自身で考えることができるようにすることだ。そのとき、たとえば、方言は大事な手がかりになるものだ。

 この座談会のなかでは、新崎や稲嶺の立てる現実的な問題意識の方が少しく大切なものに思えた。

稲嶺 戦争経験があるかないかというのは、ものすごく大きいと思うんですね。(中略)野中広努さんが(中略)八重山の皆さんに対して対中国の問題を話しておられたのですが、平和友好裏にやるべきだ、というわけですね。戦争体験者というのは、そういう意識を非常に強く持っておられるんです。

新崎 (前略)いわば最悪の政府に今どう対応していくかを、我々は考えていかなければならない時期なんですね。

稲嶺 本土の知識層の人も、先入観を持っているんですね、今回の基地の問題も、最終的には沖縄は「うん」と言うであろうと。そうした先入観の理由の一つには、昨2012年11月のシンポジウムでもお話ししたように、いま沖縄経済に占める基地関連収入のウェイトは5%なんですが、たしかに昔は30%の時代もあったわけで、何かいまだにそういうイメージを本土の皆さんが持ち続けていることを感じました。

稲嶺 この状況のなかで沖縄の基地問題について本土の人たちに分かってもらうというのは、はっきり言って相当困難だと思います。なぜかというと、防衛の問題を自分たちのことと考えていないんですよ。沖縄に任せて、俺たちは知らないぞと。これは東京など東京電力の管内に住んでおられる皆さんが、原発を新潟に持っていったり、あるいは東北に持っていったりしている、それと同じ意識なんですよ。これが非常に怖いと思います。

稲嶺 私は知事として一つ非常に残念だったのは、他の県の知事というのは、地域産業の問題、教育の問題、福祉の問題にかなり詳しいんです。ところが沖縄の知事は、やるべき仕事七割以上が、実は基地問題なんです。

 稲嶺の原発発言は、ビートたけしも言及したことがある。東京湾の真ん中に作ればいいじゃないか、って。


『沖縄の自立と日本―「復帰」40年の問いかけ』

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2015/11/01

「「祖国」意識と「復帰」思想を再審する」(新川明)

 『沖縄の自立と日本』(2013年)は、現在に近い時点で出されたものなので、新川明の視点への理解にいくらか近づけそうな気がした。

 「「祖国」意識と「復帰」思想を再審する」のなかで、新川は、1951年頃から、「祖国」と「復帰」という言葉が急速に生まれそして消えていった。しかしそれは消えたのではなく、潜伏している。2013年、サンフランシスコ講和条約発効の日を「主権回復の日」とした日本政府に対して、沖縄は「屈辱の日」としたが、このときにも「祖国」は貌を出している。として、新聞投書を引いている。

 「屈辱の日」を広く全国の同胞の皆さまにアピールし、真の祖国への復帰を実現させようではありませんか。

 ここに祖国意識の刷り込みを見ることができる。

 しかし、琉球はかつて琉球国だったのだから、祖国とは琉球に他ならない。だから、「祖国日本に復帰」という自己規定は、

琉球・沖縄が古来から日本国の主権(権力機構)に従属してきた存在であって、歴史的にも自己決定権を持つ主体でないことを、琉球・沖縄人の総意として自ら表明したことになる。

 かつ、

 日本国による加害の歴史を問うことなく、その膝下に拝跪する心根は奴隷根性以外の何物でもないわけで、かつて伊波普猷は明治政府の「琉球処分は一種の奴隷解放」と言ったが、「処分」以後の歴史は、「解放」とは逆に自らすすんで奴隷の道を歩んできたことを現実の姿としてここに見せているといえるのではないか。

 そこへ来て注目されるのは、独立論の動きである。

 これまで政治党派の「独立党」のほか、さきに触れた『うるまネシア』を拠点にする知識人グループの活動はあったが、学者、研究者を柱とする学際的な総合研究と実践活動を目的に組織された学会の設立は、その設立趣意書で「琉球史上はじめて創設された琉球独立に関する学会」と謳っているように、歴史的な快挙といって過言ではない。

 と、急ぎ足で見てきたが、ここには、かつて、「いかなる形においても〈国家〉それ自体の存在を決して容認しない」と啖呵を切った新川明はいない。あれは当時の思想の流行に乗ったポーズに過ぎなかったのか。でも、ぼくは半畳を入れたいわけではないから、やはり、この推移は気になる。

 ぼくが違和感を持つのは次のような箇所だ。2013年、日比谷野外音楽堂で行われた「東京集会」には支援団体など約4000名が集まり、「大成功」を印象づけた。だが、引き続き行われた銀座パレードでは、立ち止まって見る人は少なく、一部団体の糾弾活動もあった。琉球新報は、「集会の熱気との大きな落差に要請メンバーは落胆」したという。

「一部団体の糾弾活動」とは、「銀座を代表する場所の一つ、数寄屋橋交差点付近には日章旗や旭日旗、米国旗を手にした団体が陣取り、警察の厳重な警備を挟んで道路を行進するパレード参加者に、「嫌なら日本から出て行け」¥などと罵声を浴びせていた」現実を指す。
 日本国の首都の中心部における琉球・沖縄をあげての東京行動に対する無関心と糾弾の精神構造は、そのまま日本国政府の沖縄対応にもあらわれる。菅義偉官房長官は、「建白書」手交後の記者会見で、「建白」をあえて「陳情」と表現したうえで、「重く受け止めている」と述べる口先だけの発言にも象徴されている。
 以上のような日本国民多数の沖縄認識や同政府の沖縄対応は特に目新しいことではなく、戦後一貫したものであるから今更目くじらを立てることではない。

 まさか新川は、「一部団体の糾弾活動」と一般市民の「無関心」を同列に考えているわけではないだろうが、でもそういう見做しをして済ませてしまったいるのではないだろうか。より正確に腑分けすれば、ここには、政府と一部団体に「糾弾」があり、一般市民に「無関心」がある、ということになる。そして、その「無関心」の目には、「パレード参加者」と糾弾活動を行なう「一部団体」は、同じ色合いに見えてしまうのである。大事なのは、ここでの「無関心」は沖縄に対して向けられたものだけではなく、自国の政府の行動に対して向けられているものでもあるということだ。

 新川は、「祖国」とは幻想である、という。しかし、その新川も「琉球」という「祖国」には同様の幻想を持っているのではないか。つまり、「祖国」日本に幻想を抱く心情が沖縄市民に仮にあるとして、それと同様の「精神構造」を新川も持っているのではないか。だから、新川が癪に障るのは、その「祖国」を沖縄市民が「日本」に向けることであり、それが、本来、「琉球」に向けるべきであるという主張に繋がっている。こう理解すると、新川の、「いかなる形においても〈国家〉それ自体の存在を決して容認しない」という70年代の主張が消え、「琉球民族独立総合研究学会」を「歴史的な快挙」と見なすことが、つながってくる。

 そこで、依然として課題は、「国家」と「社会」を区別することである、という考えに導かれる。

 

『沖縄の自立と日本――「復帰」40年の問いかけ』


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