『沖縄発―復帰運動から40年』
川満信一の1998年の回顧。
そのように叙情化したかたちで「国」を求めるというのは話にならない(「母の懐へ帰ろう」、「祖国」-引用者)。沖縄は日本の敗戦処置として切り離され、米軍の直接統治下におかれた。「国」の都合でくっつけられたり切り離されたりする。「国」というのは、なぜか日本で成立している「一民族・一文化・一国民」という奇妙な概念で成立しているのではないのです。私たちはそれを米軍による二十七年間の直接占領下において骨身にしみて知ってしまいました。ですから、日本に復帰するといっても、その前提に「日本はどういう国であってほしいか」「日本が正しい方向を向くために、沖縄になにができるか」といった問題意識のある復帰でなければだめだ、というのが、当時言っていた反復帰論なのです。「同一民族」ということを前提にして「復帰」が唱えられるのですが、そんなものはどこにもあるわけはないし、また、みんなが望んでいるような理念を体現した近代国家などどこにもない。憲法のような自然法ももとには実際に支配・統治していくための実定法があり、しかも日本においてはもうすでに憲法の理念さえも風化している。そのような状況で、憲法原則だけを旗印にして「祖国に帰る」と言うのは幻想にしかすぎないと批判したんです。
いまから見ると、川満は的確に「復帰」を捉えていたのだと思う。
歴史的経緯に基づく独立論は、要するに恨みつらみで「日本から離れてしまえ」という論にいきつかざるをえない。異質文化論に基づく独立論も、「おまえとはやっていけないから、三行半だ」という形になっていく。しかし日本国家の特殊性・歪みと近代国家の限界性を越え、自己存在および社会の異なるシステムを考えようとする自立・独立論は、単に日本VS沖縄という図式では処理できない問題を抱えてしまいます。
独立論に対しても。
しかし、
(前略)吉本隆明氏の『異族の論理』は、確かに刺激的な論文だったし、僕にとっても参考になった。けれど僕は『異族の論理』を読みながら、こう受け止めた。「吉本さん、あなたは日本民族ということを根底的に放棄しようと思ったことはありますか? あなたは日本国民であることを根底的に自己破壊しようと思ったことはありますか? あなたが『異族』としてセッティングしているところの沖縄というのは何なのですか? あなたが日本民族として自分のしっかりした場を持っているから、そこへ『異族』という形での措定がなされているのではないでしょうか」。戦後沖縄を論じるならそこまで問い詰めて下さい、という読み方をしました。
う~ん、川満さん。そこは自身を問うてほしかった。上記のような的確な状況判断を行なう川満にあって、「国民」や「民族」が、幻想性をまとっていることを突き詰めてほしかった。
この本でもっとも印象的だったのは、戦中のこと。日本の兵隊は、御嶽にたくさんいる青大将を捕って食べていた。ところが、宮古では青大将は神様。
お婆ちゃんたちは「ヤマトプリヌム(大和狂人)たちは神様の皮を食べているから、ゆくゆくろくなことはない」と言っていましたね。
宮古もそうだったのか、ということと、「ヤマトプリヌム」という言葉が与論と同じなので、よくわかった。
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