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2015/10/09

『戦後入門』(加藤典洋)

 「国連中心主義」といえば小沢一郎を思い出すが、加藤の言う国連中心主義は、小沢のそれとは異なる。加藤は、「惜しむらくは」として、

ほかに例を見ない「平和立憲国家」の実現をではなく、単に軍事力と交戦権をもつ「普通の国」になることを訴えたのにすぎませんでした。

 小沢の言う国連は、「米国が自分の都合で使い回しする国際組織のままにとどまり、その主張も、「日米を基軸に平和維持」を行なうという提案にとどまっていた」と指摘している。

 加藤の言う国連中心主義は、「各国の交戦権は、すべて国連に「移譲」され、以後、国家の権利としては、行使されなくなる」という絵を元に言っているので、必然的に国連改革を含むものになる。それは、加藤の掲げる九条の強化案に集約されている。

 九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 二、以上の決意を明確にするため、以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は、その一部を後項に定める別組織として分離し、残りの全戦力は、これを国際連合待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第四七条による国連の直接指揮下における平和回復活動への参加以外には、発動しない。国の交戦権は、これを国連に移譲する。

 三、前項で分離した軍隊組織を、国土防衛隊に編成し直し、日本の国際的に認められている国境に悪意をもって侵入するものに対する防衛の用にあてる。ただしこの国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる。平時は高度な専門性を備えた災害救助隊として、広く国内外の災害救援にあたるものとする。

 四、今後、わさわれ日本国民は、どのような様態のものであっても、核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。

 五、前四項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。

 なぜ、国連中心主義なのか。それを加藤は、「それは当初から、その理念を「実行」しようとすれば、.国連と一対となるほかない双生児的な構想だった」こと、その理想の輝きから引き出してきている。戦争放棄を指示したマッカーサーには同時進行していた国連創設の動きが念頭にあった。

 1.すべての国は今後、武力の使用の放棄に到達しなければならない。
 2.そのために一層広範かつ恒久的な一般的安全保障制度が確立されなければならない。
 3.そこに国家の交戦権も移譲される。

 ここからみると、憲法9条の「交戦権の放棄」とは、「交戦権の剥奪(懲罰)であるとともに、前倒し的な交戦権の国際連合のような世界政府的存在への委譲(モラル・リーダーシップ)でもある」。つづめれば、交戦権の放棄とは、「懲罰」かつ「前倒し」、ということだ。

 そして、「いまや世界を動かしつつある崇高な理想(「マッカーサー・ノート」)」の背景には「原爆」があった。

 原爆は、無条件降伏と東京裁判を、いわば戦勝国の原爆使用による「劣化」の補いのために必要とさせる一方、国連と憲法九条を、その投下後の「覚醒」のただなかから、もたらすのです。

 しかし、「崇高な理想」や「覚醒」は、冷戦の始まりによってあっけなく挫け、「国連と憲法九条」は、「日米安保条約と拳法九条」に取って代わられてしまう。

 また、第二次世界大戦は、「大西洋憲章」という国益を越えた理念の実現のために闘う戦争であると編成されていった。そのため敗戦は、「不可逆的なイデオロギー転換」を伴うものになる。そこで、現状の「対米従属」からの独立(自立)を考えることは、植民地が宗主国に対して行うものとは違ってくる。そこには、

自己回復を実現するためには「米国」の後退を求めねばならず、安全保障のためにはその現存を求めなければならない」(江藤淳「戦後文学の破産」)

 あるいは、

 対米従属をはねのけようとすると、「ごく自然な心の流れにそって民族的感情に寄り添おうとすると、それではけっして戦後の国際社会には受け入れられないという黄信号が心のなかに点滅」し、また「その感情と、いまの自分のなかにある戦後の民主原則の感覚とが」「敵対関係におかれなければ、この独立要求の理由の正当性は作り出せない」と感じる、そういう二律背反、ねじれを抱えこむことになる。

 このねじれを解く、断ち切るには、

民主原則と正義と自由という国際秩序を基礎づける価値観に立ち、そこからこの無条件降伏政策、言論統制をはじめとする占領政策、また国際軍事裁判などへの批判、原爆投下への批判を行い、抵抗するという道が、唯一、私たちに可能で、また、私たちを国際社会から囲い込もうというこの方策の基本姿勢に抵抗するうえで有効な方法なのです。

 細やかな文脈を荒削りで引用してしまっているが、こうした視点から導き出されたのが、加藤の「憲法九条の理念の実現の回路を見出す」、「国連中心主義」だ。

 条文に戻ると、ぼくは、第三項の「国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる」というくだりが、最も胸のすく思いがした。シモーヌ・ヴェイユは、戦争は、他国の労働者を使って自国の労働者を殺させることと喝破したが、その前に、ダグラス・ラミスがどこかで書いていたように、軍隊は他国の国民より自国の国民を殺害する数の方が多い、という暴力装置の予防になる。

 第四項に見られるように、核武装は考えられていない。しかし、核抑止が伴わないということではない。加藤は、ここで、もうNPT(核拡散防止条約)には脈がないとするロナルド・ドーアの新核国際管理の提案(『日本の転機』)を引く形で、第四項を導いてる。

 その提案には、とても驚かされる。

 一、NPTでは核保有国、非核保有国が固定されているが、新システムでは署名国は自由に二つの資格、核保有国(Nuclear Powera[NP])と被保護国(Protected Powers[PP])のいずれかを選ぶことができる。
 二、NP(核保有国)は核兵器を所有するとともに、少なくともPP(被保護国)三ヵ国に対し「核の傘」をさしのべる。つまり「報復の確実性」を提供する用意があり、その実行能力がなければならない。
 三、PP(被保護国)は、後に述べるようなさまざまな理由からPPたることを選ぶ国からなるが、あらゆるPPが少なくとも三ヵ国のNP(核保有国)と「代行確証復讐条約」を結ぶ。三ヵ国のうち、一国は従来、軍事的な同盟関係のないNPから選ばなければならない。

 ポイントは、すべての国が核保有国と非核国の選択が自由に行なえることで、そのことにより、「従来型の核保有国の戦略的優位性が際立って減衰してしまう」ことだ。日本は、NPTの脱退とともにこれを国際社会に提案する。憲法九条に非核条項を持つ。

そこで日本は、これらの積極的な国際社会への関与を背景に、米国に対して、戦後はじめてとなる原爆投下に対する抗議と、謝罪要求を行なうのがよいというのが、私の考えです。

 この加藤の考えは、先の「ねじれ」解きの方法から真っ直ぐにやってくるものだ。

 第五項については、矢部宏治の提案を受けたもので、ぼくたちも以前、通過してきたので(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』)、細部に違いはあるけれど、ここでは省くことにする。

 加藤は、この条文はもっと鍛え上げられなければならないとしながらも、「日米同盟からこの国連中心主義への転換の提案を、対米自立をかちとるための起死回生の唯一の方途」としている。

 これが理想だな、というか、理想とはこういうものだなと納得させられるのだが、浄土に行けるのに浮かないのはなぜ、と親鸞に尋ねた唯円のような心持ちになってしまう。なぜだろう、とあれこれ考えてみるが、これが理想だとして、あまりに遠く感じてしまうからかもしれない。

 しかし、考えてみれば加藤は、この提案は、自分にしては珍しく状況にコミットしたものだと言っている。つまり、現政権ではダメだという時、どういう選択肢ならあり得るのか、という問いを立てているのだ。そうすると、ぼくのうかなさは、少し焦点が絞れてきて、中国が軍事力を増強させていった場合、取れるから取るとでもいうような、ならず者的ナショナリズムの行為に対して、台湾や琉球・沖縄はどう対していけばいいのかということに、道筋が見えないことからやってくるように思える。

 もちろん、ここには外国軍の基地を置かないことを憲法に盛り込むという、沖縄の基地問題に対する解決策も挙げられており、励まされるのだが、このことひとつ取ってみても、米国の撤退は中国の招来というような、身も蓋もない現実感で思考が止まってしまう。その近未来のリスクの可能性をどう考えていけばよいのか。

 また、国連の信頼性はどう担保されるのか。この条文では国家と国家間の関係のみが考察されているが、現在は、解体を念頭に入れざるを得ない民族国家と民族国家、そして民族国家を造成する諸勢力のせめぎ合いが問題になっており、そこに照準を当てる必要があるのではないか。などなど、疑問というより、考えるべきことが次々にやってくる。

 しかしまずは、戦後の意味を、できる限り深く掘り下げてくれたおかげで、考える足場を持つことができる、そのことに感謝しよう。

 


『戦後入門』


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