『新・台湾の主張』(李登輝)
地政学的には中国に呑み込まれるリスクが高いと言われる台湾が、そのことに対して、どう思い、どう対しようとしているのかを知りたくて、『新・台湾の主張』を読んだ。李登輝元・総統によれば、それを望む台湾人はほどとんどいない。
それは、李登輝の考えにもはっきり現れている。
総統時代の1990年に発表した「国家統一綱領」。
「統一の条件」は、
一 中国の政治が民主化されたとき
一 中国が自由経済になったとき
一 中国が公平な社会になったとき
また、こうも言う。
存在すること-これこそが台湾の外交である。存在しているからこそ、そこに希望がある。台湾の民主化も経済的発展も、まず台湾が存在することが大事なのである。
私は今まで一度たりとも「台湾独立」を主張したことはない。前述のとおり台湾はすでに実質的に独立しているのだから、ことさら国際社会に摩擦を起こすような発言をする必要はなく、むしろ台湾が台湾として「存在」することが重要だと考えているからである。
民族的な問題に対しては、「新台湾人」というコンセプトを打ち出した。これは、「省籍や族群、出身地の違いを乗り越えた」アイデンティティと言っていいのだろう。
ここで李は書いている。
歴史上、中国に領有されたことのない台湾は、中国の大中華民族主義に抵抗するため、新たなる民族論を用意しなければならないのか? 答えは「ノー」である。民主主義は世界の潮流となり、台湾は民主改革を経て民主国家に仲間入りしている今日、「民族国家」への理念に戻らなければならない理由は何もない。台湾の民主化の過程における「静かなる革命」は、かつての脱・植民地化のための「台湾民族主義」の論法に勝るとも劣らない。簡単にいえば、台湾国民の共同体意識は民族でなく、民主にもとづいたものでなければならない。
台湾と琉球・沖縄の立ち位置は異なるが、琉球独立論を考えるうえでも、ぼくは「民族」より「民主」という旗印に共感を覚える。
何度でも強調するが、過去に台湾の地に来た到着順をもって、台湾人か否かの判別基準とすべきではない。「族群」の人口規模も関係ない。こうした論法は、いまの台湾国民を「偶然の集合体」とみなすものにすぎない。
全台湾人にとって、台湾はすでに「異国」から「故郷」に変わったのである。新しい時代の台湾人は見捨てられた漂流意識を捨てなければならない。
この辺り、ぼくたちにもヒントがある。
「台湾は日本の生命線である」。にもかかわらず、日中国交回復をはじめ、冷遇されてきたのには不満がある。「台湾人による日本への思いは、長いあいだ「片思い」にすぎなかったのかもしれない」。
何か、こういうところも、変数の違いだけで、どこか共有するところが多い気がする。
ここで、対中国の話に戻ると、
中国が軍備増強を進めるいちばんの目的は、台湾の統一併合にある。もし日米が中国に配慮し、台湾を中国の領土と認めるようなポーズをとれば、そのぶん中国は安心して増長する。これはとても危険なことだ。台湾が中国の侵略を受けた場合、いちばん打撃を受けるのは日本である。台湾海峡には一日に四〇〇隻の船が通っている。日本はシーレーン(海上交通路)を中国に押さえられてしまい、喉元を締め付けられるように屈服を余儀なくされる。そして台湾の次は尖閣、琉球(沖縄)、朝鮮半島と、一歩ずつ日本に迫ってくることだろう。
そう判断するから、「日本の集団的自衛権の行使を歓迎する」と言うことになる。
日本の政治家からは感じることのなくなった真っ直ぐな意思が伝わってくる。民衆に直接語りかける姿勢も、マルクスにも言及できる視野も風通しがいい。それよりまず、エピグラフに村上春樹の『ノルウェイの森』が引用されているのには驚いた。李さんの勧める映画『KANO』も観たくなった。
◇◆◇
で、早速、『KANO』を観た。なんというか、まっすぐな青春映画にして、まっすぐな友情映画。琉球・沖縄は、日本に対してこういう友情作品を作ることはできるだろうか、とふと思った。こういう作品をつくる共同性と重力場が台湾にはある。位相は違えど、琉球・沖縄にもまだあるだろう。日本にはない。いやけれど、日本にも重力場はあるのではないだろうか。それが露わになってきている、というか。
あ、映画のエンディングは中孝介も歌ってた。
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