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2015/10/26

「「非国民」の思想と論理」(新川明)

 「沖縄側は“本土”を本土国人と本土政府=国家権力=を混同して考える傾向がある」という見解を、新川は退けている。新川によれば、この見解が暗黙の前提にしている「連帯・共闘」は、「軽薄な楽天主義」の発想だ。ここには、「無意識にしろ、沖縄人が日本(人)に対して持つ歴史的な「差意識」=異質感が、大勢破砕の可能性(爆発力)を強く内在させていることを明敏に感知し、ひそかにおそれているからにほかならないとわたしは考える」。

 国家と市民社会の人々は区別されなくてはならない、ということは、ぼくも言っていることだから、ここでの新川の物言いには関心を持つ。

 さきの日本の新聞記者や在日沖縄人の指摘をまつまでもなく、わたしたちがみずからのたたかいにおいて「敵」を明確にすることは重要である。沖縄のたたかいにおいて、日本政府=国家権力と被支配の階級としての日本人民を混同し、これを同一視することの幼稚な誤りはいわれるまでもなく自明のことである。しかしながらそれとともに、「敵」としての国家権力(現時ではその体現者である自民党政府)を打ち破っていくための沖縄のたたかいにおいて、そのエネルギーを思想的に支えていくものは、ほかでもなく、いかなる意味においても、いかなる形においても〈国家〉それ自体の存在を決して容認しないという強固な国家否定の思想、すなわち「非日本国民」の思想でしかないということも、また動かし難いことであるだろう。

 すでに東江平之が、沖縄人の日本(人)に対する「差意識」の知覚現象の研究として、沖縄人にとっても府県間の差が問題にならず、「本土」は全部同質的に知覚される、と心理学的に論証したことからも容易に知ることができるように、沖縄(人)にとって日本(人)とは、国家権力もその国民である被支配者・民衆も、十把ひとからげに同質のヤマトゥであり、ヤマトゥンチュである。沖縄(人)から発せられる土着の言葉としてのヤマトゥ(ヤマトゥンチュ)が包括する概念は、まさにそのような意味内容を備えた言葉として存在するのである。まさしくその点に、沖縄(人)の対ヤマトゥ認識の、思想的弱さがあることは争えない事実だとわたしは考えるが、しかしそれと同時に、まさしくその点にこそまた、沖縄(人)の対ヤマトゥ認識の思想的強さ、その強固なる可能性が深く秘められているといわなければならないと考えるのだ。

 国家と人々を混同するのは、「幼稚な誤り」なのは自明だ。しかし、国家権力を打ち破っていく闘いのエネルギーを支えるのは、「非日本国民」の思想だ。沖縄人が、「十把ひとからげ」に日本人をヤマトゥンチューとして同質的に扱うのは、「思想的弱さ」であるが、同時に「思想的強さ」が秘められている。

 ここはよくよく読まないと、何を言っているのかが分からなくなる。国家と市民社会の人々を混同するのは、誤りで思想的な弱さであるが、反日本(非日本国民)であることによって、国家否定の思想的強さを持つのである。こう言っていることになるだろうか。反日本を通じた国家否定。その足場としての沖縄。

 国家権力とその走狗たちによる、政治的、経済的な圧倒的な専横と蹂躙による沖縄に対する新しい形での徹底的な収奪と抑圧は、沖縄(人)を再び破滅的な被抑圧者として苦渋と悲惨の底に突き落し、呻吟させることだろう。しかしその時こそ沖縄(人)が、こんどこそ〈国家としての日本〉の、国家権力それ自体のすさまじく冷酷な本性をいやおうなく知覚させられるにちがいない。単にその国家権力を支える独占資本のそれだけでなく、どのような形にせよ、国家権力それ自体の、苛烈な本性を、生活感覚的にも知覚させられるにちがいない。沖縄(人)はその時、ようやくその意識の基層を規定している「日本」に対する決定的な異質感を、実感として蘇らせ、みずからをそこに落し込めた日本志向の「復帰」思想の欺瞞性と反人民性に、具体的に気づくことを期待するほかないのである。

 その時、沖縄(人)が、〈国家としての日本〉に対して、本当の意味でのたたかいに目覚めるを得ない状況の到来を意味するし、被抑圧の歴史を歩みつづけた沖縄(人)が、〈国家〉に対する執拗な加害者としてみずからを転化させ得る時でもある。沖縄(人)がこのようにいま再び、みずからが幻想した「母なる祖国」の徹底的な蹂躙と抑圧に身をさらすという、地獄の底に身を落すことによってしか、みずからが歴史的に所有してきたたたかいの本来的な可能性を、みずからの手に取り戻すことができないとすれば、思えば愚かしくも悲しいことである。

 しかもその時、当然のこととして政治的にも経済的にも、もろもろの痛苦として果てしない混乱が沖縄(人)のたたかう部分に招来されることだろう。

 が、その痛苦と混乱の中で、「革新」の面相をもって沖縄(人)のたたかいの可能性を、〈国家としての日本〉に埋没させてきたニセ者たちの仮面は容赦なく剥ぎ落され、言葉の正しい意味における「変革」の担い手たち―いうまでもなくそれは日本との決定的な異質感に立つ無告の民衆たちなのだが、―は、混乱と痛苦の中からその真実の姿をあらわしてくるにちがいない。(1971年)

 新川の目には、いまがその時である、と見えているだろうか。前半で、国家と人々を区別しないのは、「国家否定の思想」のためだと書いていたが、この後半では、「国家否定」の文言は無くなり、「国家としての日本否定の思想」になっているように見える。新川明の「国家否定」は看板に偽りありで、「国家としての日本否定」のための方便になってしまったのではないだろうか。

 しかし、新川の言説を追っていくと、なぜ、国家と市民社会の人々は区別されなくてはならないという素朴で基本的なことを指摘しなければならないのか、なぜ、琉球という民族性が素朴に主張されるのか、理由が分かる気がしてくる。ウチナーンチュとヤマトゥンチュという図式の単純化と絶対化、国家と市民社会を区別しないという視点の許容あるいは推進は、新川自身がやってきたことだったのだ。

 
 
『反国家の兇区―沖縄・自立への視点』


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