「お通しの思想」(折口信夫)
折口信夫は、「琉球の宗教」のなかで、「お通しの思想」について書いている。
二 遥拝所――おとほし
琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。
御嶽拝所(オタケヲガン)は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻シマジリに於ける久高島、国頭に於ける今帰仁のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。
多くの御嶽は、其意味で、天に対する遥拝所であつた。天に楽土を考へる事が第二次である事は「楽土」の条クダりで述べよう。人をおとほしするのには、今一つの別の原因が含まれて居る様である。古代に於ける遊離神霊の附著を信じた習慣が一転して、ある人格を透して神霊を拝すると言ふ考へを生んだ様である。近代に於て、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考へたからでもなく、巫女に附著した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を観じて居るものゝやうである。
琉球神道に於て、香炉が利用せられたのは、何時からの事かは知られない。けれども、香炉を以て神の存在を示すものと考へ出してからは、元来あつたおとほしの信仰が、自在に行はれる様になつた。女の旅行者或は、他国に移住する者は、必香炉を分けて携へて行く。而も、其香炉自体を拝むのでなく、香炉を通じて、郷家の神を遥拝するものと考へる事だけは、今に於ても明らかである。また、旅行者の為に香炉を据ゑて、其香炉を距てゝ、其人の霊魂を拝む事すらある。だから、村全体として、其移住以前の本郷の神を拝む為の御嶽拝所を造る事も、不思議ではない。例へば、寄百姓で成立つて居る八重山の島では、小浜島から来た宮良の村の中に、小浜おほんと称する、御嶽オタケ類似の拝所をおとほしとして居り、白保の村の中では、その本貫波照間島を遥拝する為に、波照間おほんを造つて居る。更に近くは、四箇しかの内に移住して来た与那国島の出稼人は、小さな与那国おほんを設けて居る。
此様におとほしの思想が、様々な信仰様式を生み出したと共に、在来の他の信仰と結合して、別種の様式を作り出して居る所もあるが、畢竟、次に言はうとする楽土を近い海上の島とした所から出て、信仰組織が大きくなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所オタケヲガンさへも出来て来たのである。だから、御嶽オタケは、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。
折口が、「お通し」として考えているのは、次の四つだ。
1.集落から離れた海上の小島を神のいるところとして遥拝すること。
2.巫女を媒介にして神を見ること。
3.香炉を通じて神の存在を示すこと。
4.移住以前の神を拝むための御嶽を持つこと。
「お通し」とは、神を遥拝あるいは招請する場であり、その行為だ。
折口は、「集落から離れた海上の小島を神のいるところとして遥拝すること」を、「おとほしの最古いものであらう」としている。
そうだとしたら、「お通しの思想」は、生と死の分離による、他界の遠隔化が要請したものだが、「巫女を媒介にして神を見ること」も「お通し」だとしたら、そうとも言えなくなる。むしろ、「お通し」は、「霊力の転移」の表現のひとつと見なせばいいのではないか。
「お通し」を、「この世」を「あの世」をつなぐことと言い直せば、それは洞窟に象徴される境界モチーフの展開のひとつだ。そしてここには、単につなぐというだけはなく、「霊力の転移」の機能が備わっている。
琉球弧の精神史では、境界とは分け隔てるものでありながら、隔たれたものをつなぐ、霊力の転移の場であるとも捉えられている。
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