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2015/10/27

「「日本国家」を相対化するということ」(岡本恵徳)

 川満信一、新川明を経て、こんどは岡本恵徳のいくつかの論考を読み、瑞々しい繊細さを感じた。ここでは、「「日本国家」を相対化するということ」(1972年)を取り上げてみる。

 さきに、「日本国家」の支配構造の特質は、沖縄に住むぼく(たち)からみるならば、人間を専ら機能において捉えるとらえかたと、均質の文化を絶対的な前提とするところの中央集権体制にある、ということを述べておいた。そしてそれは、体制的な死は胃の構造にみられるだけにとどまらず、反体制的な組織においても、そのような機能性を最優先するところの中央集中の組織原理としてみられるということも述べておいた。

 もしかりに、そのようなとらえかたに、現実的な根拠があるとするならば、そのような中央集権を拒否することを通して行なう支配構造の変革、あるいは中央集中にかわる組織原理の確立の試みも、ある程度の意味を持つのかも知れないと考えたりするのである(1972年)。

 これが、相対化によってしていくべきこととして岡本に握られていたことだ。このうち、「人間を専ら機能において捉えるとらえかた」は、この論考から40年以上経ったいまも、継続中であり、継続中だということは強化されている。「均質の文化を絶対的な前提とするところの中央集権体制」については、ある程度、克服されていて、特に「文化」においてはそうだと思う。

 ただ、この結論的な部分より、そこにいたる行間のほうが豊かな印象を与える。

 施政権の返還について、「異民族支配から同民族支配への転換」、「本土」と「沖縄」を対置する捉え方について、「革新」的な人たちから批判がある。それは、「共通に担うところの階級的な支配構造の問題としてとらえなければならない」、という。

 しかし、そのような原理としての正当性と現実的な根拠の有無だけに律することのできないところに、歴史と戦争・戦後の体験につちかわれた沖縄の人たちの独特な意識があった。

 こういうところで、「国家と市民社会を区別すること」という素朴な主張は、ここでいう「革新」的な人の見方と同じに見えることになるのに気づいた。しかし、単純なことで、「本土」と「沖縄」を対置する観点と、「国家と市民社会を区別すること」が、掛け算することが、切り口ではないだろうか。

 さきに、沖縄の人間が「日本国民」になる、という言葉を用いたのであるが、「日本国家」のなかで、「日本国民」になるという体験を持つのは、沖縄に生きた人々を除けば存在しない、といってよいのかも知れない。
 おそらく、明治以来のたとえば伊波普猷氏などの努力によって、沖縄人は日本人であることが明らかにされ、それらの影響を受けた大人によって教えられたことによって、ぼくたちが日本人であることに疑問を持つことはなかたのかも知れない。沖縄人であると同時に日本人でもあるけれども、日本国民であるとは意識されない、という錯綜したものがあったのである。
 しかし、現実的・具体的には、つぎつぎと継起するあらゆる難題について、沖縄の人たちは自らの手でそれらの解決を図らなければならず、そのことが、沖縄は沖縄であること以外にはない、という意識を強めることとなった。「日本国民」であることよりも先に、「沖縄人」であり「沖縄人」として生きることが、最もふさわしい生き方であろうこと、あるいはそれしか生きるより他にない、という事情が、沖縄人意識をより強固にしたといえよう。

 まず、「「日本国家」のなかで、「日本国民」になるという体験を持つのは、沖縄に生きた人々を除けば存在しない」ことはなく、奄美の復帰世代や日本の戦中世代も経験している。しかし、驚くのは、「「日本国家」のなかで、「日本国民」になるという体験」に注視したことだ。ぼくは今まで聞いたことがなかったような気がした。

 もうひとつ驚いたのは、岡本が「日本人」を自明視していることだ。ぼくは岡本より後続の世代だが、「日本人」であることを自明視できたことはなかった。それは実感から言うことで、「沖縄人は日本人であることが明らかにされ」たということからではない。

 納得するのは、「沖縄の人たちは自らの手でそれらの解決を図らなければならず、そのことが、沖縄は沖縄であること以外にはない、という意識を強めることとなった」ということ。なるほどこれは、奄美の人たちが敗戦から復帰までの期間で、広く深く醸成できなかったことだ。

 「日本人」であることは自明視され、「日本国民」である前に「沖縄人」という発想で、「日本を相対化する」という視点を持つのであれば、ここから、その足場を持った国民国家構想が生まれてくるのではないか、と、ぼくが当時の読者だったら展望を持ったのかもしれない。


『「沖縄」に生きる思想―岡本恵徳批評集』

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