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2015/10/19

『「空気」の研究』(山本七平)

 1977年に単行本化されているから、もう38年経つわけだ。でも、ぼくたちは「空気」から自由になっているわけではない。

 山本七平は、こういうことを言っていると思う。

 日本人が何かを決定し、行動に移すときの原則は、その場の「空気」である。その空気が醸成される原理原則は、対象があたかもそこにあるかのような臨在的把握である。その臨在的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、そこでは対象の分析は拒否される。

 対象は絶対的である場合、回心も起こる。たとえば、戦後は、黒板の「大和魂」を「民主主義」に書き換えただけであり、その当人に何らかの変化が起こったわけではない。ただ、当事者は、臨在的把握の一方的充足を求めてていたに過ぎない。

 この秩序を維持しようとすれば、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」を持たねばならず、全日本をこの秩序でおおうつもりなら鎖国とならざるをえない。この体制が徹底的に排除するのは「自由」と「個人」。しかし、「空気」を相対化するには、個人の自由な思考に寄るほかない。

 ただ、日本人が保持しようと努めてきた自由もあった。それは、「水」を差す自由だ。しかし、この「水」もまた現実、生きている通常性の別名だから、「空気」醸成の基であることが見逃されやすい。

 以上で記して来たように、「空気」も「水」も、情況論理と情況倫理の日本的世界で生れてきたわれわれの精神生活の「糧」と言えるのである。空気と水、これは実にすばらしい表現と言わねばならない。というのは、空気と水なしに人間が生活できないように「空気」と「水」なしには、われわれの精神は生きて行くことができないからである。
 その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである。

 最後のところ、「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念」という箇所は、思い当たることも多い。大抵、そういうキャラクターづくりに専念しているように見える。

 ぼくはここで言う「空気」の醸成を、「わたし」と「わたしたち」を同一視する傾向と呼んでおこう。ぼくたちの探究の流れからいえば、霊力思考の残存形態のひとつだ。


『「空気」の研究』

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