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2015/09/15

母を看取った。

 一週間前、9月6日の早朝に母の最期を看取った。まさかこのブログに、祖母と父に続いて、母の追悼を書くことになるとは思ってもみなかった。

 主治医とよく相談していたので、その二日前には病院入りしていた。おかげでふた晩は、兄弟そろってベッド脇にいることができた。ひ孫の泣き声、島唄、演歌、ビートルズ。とにかく音楽祭りのように、音を絶やさなかった。ひ孫の泣き声では目を覚まし、美空ひばりの「川の流れのように」では涙を流した。ちゃんと聴いているし分かっているのだ。

 5日深夜、呼吸がはやくなり、6日未明には、落ち着きを通り越して緩慢になった。気を利かせた看護師さんが、近親者の集合をアドバイスする。ぼくは、母の手を握りつつ、マブイ、魂を呼び戻すユビコイをしていたが、やがて、息を吐くと口を閉じて息継ぎをする間が出てきた。ぼくは、哭き女とはいかない自分のユビコイを頼りなく感じ、とっさに母の妹に電話をかけ、電話越しに与論から声をかけてもらった。すると、左向きに寝ている母の左の瞳から大きな涙が流れた。母が息を引き取ったのは、それから数分後だった。

 この二年近くで母は二回、手術をしている。その度ごとに驚異的な回復ぶりをみせて、自宅での生活に復帰することができていた。それもあってだろう、通夜では「知らなかった」という声を聞くことが多かった。母は言いたがらなかったのだ。この間は闘病というより、病との共存だった。母は抗がん剤を拒否し、延命措置を拒否していた。延命措置については、「リビング・ウィル」と題した文書さえ拵えていたので、末期の緩和病棟で主治医に納得してもらうのに大いに役立った。

 するとどうなるのだろう。生活に支障が出るという理由で手術は行ったが、術後はこんどは生活に支障の出る投薬は行わなかった。母は、痛みの緩和についてのみ、投薬を望んでいた(もちろん、術後の副作用を抑える薬は飲んでいたのだけれど)。ぼくが感じたのは、健康な細胞を痛めることもないので、外見的には、急に老いていったとしか見えないだろうということだった。実際、最初の手術以後、母は病院より自宅で過ごす時間のほうが多かったし、車椅子でしか動けない状態になっても、島に帰ることができた。緩和のための投薬の効果もあるだろうけれど、癌の末期に想像しがちな、激しい痛みも見られなかった。死に顔も、余計な肉が削がれて、彫りの深い、もともとも顔立ちが立ち現われたようだった。

 母の病との付き合い方は、いまでもどちらかといえば少数派だろう。泣き虫で心配性でメソメソばかりしている人だったが、病への向きあい方だけは、道を示してくれたと思うし、それを誇りに思う。

 息を吐いたあと、口を閉じ、次の息をしなくなったときも、母の顔を直視していた。そのとき感じたのは、見届けた、というより、命を引き継いだという感触だった。そのためか、いまも混乱することなく、わりあい穏やかな気持ちでいる。哀しみはいずれ、しこたまやってくるのかもしれないけれど。

 昨日たまたま、敬愛する奄美の郷土史家の方からお電話をいただいた。母のことを伝えると、これまで風を受けてくれていた人がいなくなり、これからは全部、自分が受け止めなくてはならない。両親が亡くなったときに感じたのとはそういうことだった、と話してくれた。ぼくもまさにそういう予感があった。「無条件の肯定」の視線を送ってくれた父が突然いなくなり、そのとき得体の知れない不安に襲われたが、母を失くせば「無条件の心配」の視線がやってこなくなる。そのふたつを失くすということは、不安を通り越して痛みになるのではないか、そんな不安を抱いていた。いま、辛うじてそう感じないで済むのは、この世の役目を終える前後の母と見つめあえたからではないか、と思ってる。


 追記
 臨終に立ち会った看護師さんは徳之島出身の方だった。ぼくは「与論島慕情」と「十九の春」を流していたが、あとで、「わたしもおばあちゃんのとき、島唄を流そうと思いました」と話してくれた。そういう共感のできる島人でよかったと思う。忘れたくないので、備忘として書いておく。

 

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コメント

知りませんでした。喜山さん、ご母堂様のご急逝を悼み謹んでお悔やみ申しあげます。ひ孫の泣き声、島唄、演歌、ビートルズのあたりを読みながら、……喜山さんの温かさを感じました。私自身、わが母一人グループホームに入れていることが苦痛ですが元気な姿を見るたびに少し救われます。……その時は温かく送ってやりたいと思いました。

投稿: tssune3 | 2015/09/17 20:27

tsune3さん、ありがとうございます。

7月の末に、もう自分では思うように動けなくなった母を連れて与論に帰りました。四泊つきっきりでしたが、たったそれだけでも血縁ではない第三者の手助けが必要なことを痛切に感じました。

tsune3さんの苦痛が和らぎますようにと願います。

投稿: 喜山 | 2015/09/18 09:16

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