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2015/09/10

霊力の転移としての死

 殯、添い寝、慰み、ムン祓い、マブイ別シなどの、死の前後の作法を見ていくと、琉球弧の島人はよく死を、生と死を見つめてきたのだと思う。折口信夫は、昔は「生と死の区別がはっきりしては居なかった」、「生死が訣らなかつた」と、殯の意味を説明したが、たしかにそういう側面はある。しかも初期の殯では、死は生からの移行であると考えられていたのであれば、生と死に現在的な意味で区別を設けていなかったのだ。しかも、「生死が訣らなかつた」とはいえ、では現在は科学的には分かっている部分が大きくなっているとはいえ、脳死や家族の集合を待って、死を特定の時間で切断するという中途半端なやり方をしているのに比べたら、むしろ生死をよく分かっていたという観方もできる。

 けれども、生と死をよく見つめてきたというとき、その視点の場所には特徴があると思える。

 たとえば、アイヌの神謡には、しばしば上方から下を見ている視線が現れる。

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です。
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
降る降るまわりに」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと、(子供等は)私の下を走りながら
云うことには、
「美しい鳥! 神様の捕り!
さあ、矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは、一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者、ほんとうの強者だぞ」(知里幸惠『アイヌ神謡集』

 この神謡を生み出すのにアイヌの人々が駆使したのは、臨死体験ではないだろうか。臨死体験で頻繁に報告されるのは、死にかけている自分の周りに医者や家族がいて、それをベッドの上から見ていたという光景だ。そのとき、手当てをしている医者の後頭部まで見えたと具体的に報告される。アイヌの人々も、実際にかイニシエーションなどの儀礼を通じてか、この体験をしていた。それが、この神謡のなかの視線を支えていると思う。

 この鳥、梟は貧乏な子の矢に当たってやり、その子の家族に大事に扱われたのに対して、宝物を授けてあげるのですが、その際、「私は私の体の耳と耳の間に坐っていましたが」と解説をする。この、「私の体の耳と耳の間に坐って」という記述は、霊魂として見ていることを示している。霊魂思考を発達させたアイヌの人々ならではの記述の仕方だ。梟は貧乏な子の矢に射られて死んでしまったのだが、梟の霊魂は生きて、貧乏な子の家族のもてなしに報いたいと考える。これは霊魂思考における死からみた視線だと言える。

 このアイヌの神謡を引き合いに出すのは、琉球弧の神話や伝承には、この上からの視線が希薄だと思えるからだ。そして死にまつわる島人の所作をみても、霊魂思考による死の場所から、死を見ていない。

 むしろ、そこに見られるのは霊力の転移という視線だ。ここで、霊力の転移とマブイの安定、マブイの遊離や悪霊の憑依の三点を頂点とした三角形を思い浮かべることができる。霊力の転移は、マブイの安定(生)とマブイの遊離・悪霊の憑依(病)に対して絶対的で特権的な場ではなく、マブイの安定(生)に対してもマブイの遊離・悪霊の憑依(病)に対しても配慮を行う。人間は、マブイの安定(生)とマブイの遊離・悪霊の憑依(病)の間を行ったり来たりしながら、死という場面では、霊力の転移の頂点で、生者に霊力の転移を行うのだ。

 そして、この霊力の転移を頂点たらしめているのは、その背後に、永遠の現在が反復し、死者とこれから生まれてくる者を包含したドリームタイムの場があって、それに吊り上げられるようにして頂点を構成しているのではないだろうか。そこでは、死は終点ではなく、転移の一様式だ。琉球弧では、生と病を霊魂の動向によって説明している。にもかからわず、生と病を照らすのは、「霊魂の離脱」としての死からではなく、「霊力の転移」としての死の場所からなのだ。それが、琉球弧の島人の死に対する視線の特徴だ。死は、「霊魂の離脱」というより、「霊力の転移」なのだ。

 cf.「琉球弧の死の三角形」

 

『アイヌ神謡集』


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