自然の擬人化の層
自然の擬人化と人間の擬自然化について、吉本隆明は書いている。
わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。
たくさんの声が彼らの中にある。
様々な存在となって、彼らは数多くの生を生きてきた。
熊だったかもしれない、ライオンだったかもしれない、鷲、それとも
岩、川、木でさえあったかもしれない。
誰にもわからない。
とにかくこれらの存在が、彼らの中に住んでいるのだ。
彼らは、こうした存在を好きなときに使える。(『今日は死ぬのにもってこいの日』)これらは全自然物、たとえば鳥や獣や岩や樹木や河川のなかに神が(霊が)ひそんでいるというプレ・アジア的(アフリカ的)段階の自然まみれの意識だといえる。逆にいえばいつでもじぶんの意識がこれらの自然物に入り込んで、じぶんの存在でありうる例になっている。さしあたって河川も岩も樹木も鳥や獣も人(神)に擬して表現されているが、これは全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が疑似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることとが、同根になっているのだ。
熊やライオン、鷲、岩、川、木であったかもしれないというのは、自身に植物を内包しているということと、動物と食う、食われるの関係にあったことを示している。鷲を食べた、だから鷲は人間になった。ライオンに食べられた、だからライオンは人間になる。人間は植物を食べる、だから植物は人間になるし、人間も植物である。食う、食われるは関係の初源だ。
自然の擬人化はいくつかの層を想定することができる。
ドリームタイムの表象が生きていた段階では、自然物は、そのままで精霊的な存在だった。そのときは、人間もその真似をすることで、それらの自然物に同化することができた。
霊魂が成立すると、自然物のなかに霊が潜んでいると考えられるようになったとともに、不可視の物の怪の存在も考えるようになった。そこで、人間はそれらに憑依したり、憑依されたりするようになった。
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