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2015/09/30

『日本をダメにしたB層の研究』

 ツイッターなどでときおりB層という言葉を見かけていたが、本書でその意味が分かった。これはげんなりする4象限で、縦軸がIQの高低、横軸が近代的価値への肯定、否定で分けられている。B層というのは、低IQ、近代的価値肯定の象限に当たる。ここで「近代的価値」と呼ばれているのは、「グローバリズム、普遍主義、改革・革新・革命」に当たるとされている。

 ところで、このフレームワークは、著者適菜収が設定したものではなく、これまたげんなりするのだが、2005年の郵政選挙で、自民党が広告会社に作成させた概念だという。「構造改革に肯定的でかつIQが低い層」「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」としてターゲティングされている。

 この本は、タイトルが示しているように、そのB層をこてんぱんに批判している。批判は小気味よく、たとえば、どこでもいいのだけれど、

 そもそも、宝くじを買うこと自体、どぶにカネを捨てるようなものです。
 胴元が五割もっていくギャンブルなんてそうはありません。「夢を買う」のが宝くじなら、「夢に流される」のがB層です。

 と、こういう具合いに展開されていく。

 その矛先は政治家にも向けられていて、小泉も鳩山も小沢も安倍も橋下も、批判の俎上に挙げられている。このところ、この面々のどちらかには加担する文章ばかりに出会うので、痛快ですらあった。

 ところで著者は、B層に呆れているのは確かだが、別の層から眺め降ろしているというより、いくぶんかは誰しもB層であることを踏まえて、自己理解に基づく自己批判として見えるところが、嫌な後味を残さない文章になっているのだと思う。ぼくはむしろ、毒をもって毒を制するなら、もっと毒があってもいいと思ったくらいだった。

 そのことに関わるのか、よくわからないけれど、結論的な主張として、著者はこう書いている。

 ゲーテは民主主義を病気の一種と考えていました。
 しかし、近代二〇〇年において、この疾病は急拡大し、B層社会を生み出しています。
 重要なことは、まず民主主義を廃棄すること。
 そして、自由な言論の場である議会を民主化を推進する勢力から守りぬくことです。
 それが文明社会の住人の責任です。

 けれどことはもっと面倒で、「自由な言論の場である議会」も、B層は浸透しているのだから、B層浸潤を前提として考えていかなければならないのだと思う。それには、もっと毒が必要なのではないだろうか。

 

『日本をダメにしたB層の研究』


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2015/09/29

「南島の他界観」(湧上元雄)

 湧上元雄は、考察よりも、その手前の、観察による記述の目配せのなかで本領を発揮する学者だと思える。

 たとえば、次のような箇所。

 沖縄の島々では全島または海岸平地が隆起珊瑚礁の石灰岩層に覆われ、横穴の洞窟やドリーネの陥没窪地が発達している。そこを降りて闇黒の地下トンネルを奥に進むと先細りとなり、やがて水だけが潜り抜けられるような穴になって海に通じる。このような暗黒の自然洞窟は冥府の門として風葬の場所にもなっていた。

 初期の他界への道筋がよく分かる。また、小浜島のナビンドゥが、1キロ以上も続くのを湧上の記述ではじめて知った。

古い仮面は陥没ドリーネのナビンドゥーの横穴の洞穴を一キロメートル近くも運び、わざわざ海岸の波の音の聞こえる地底に納めるという。

 また、次のような記述。

 思うに珊瑚礁の島々では人骨が炭酸カルシウムの皮膜に覆われて容易に朽ちないこともあって、南島ではことのほか人骨崇拝が盛んであった。(中略)南島人にとっても岩石は永久不変への象徴であった。共同体の成員または始祖と注目される人々の洗骨を石のセジに感染させて、死者の再生と共同体の多産豊穣を計るべく、岩石の穴や窪みに格納されたのを、フニシー(霊威の憑依した人骨)とも骨神(フニシン)ともいう(『沖縄民俗文化論―祭祀・信仰・御岳』)。

 骨神の信仰と、人骨の残りやすい地質条件とを結びつけた記述が新鮮だった。


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2015/09/28

『吉本隆明 “心”から読み解く思想』

 考察の資料として読むので、書評にはならず、著者の宇田亮一には申し訳ないのだが、『吉本隆明 “心”から読み解く思想』で、ぼくが示唆を受け取ったことはふたつだ。

言い換えれば、「原生的疎外」の時空間では外部知覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)がきわめて大きな役割を果します。これに対して「純粋疎外」の時空間では外部知覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)は直接的な役割をもっていないのです。「純粋疎外」では内部知覚(心の中の内的感覚)が大きな役割を果たすことになります。

 ヒトは「純粋疎外」の領域を持つことで、人間になったとすれば、ここでいう「純粋疎外」の領域は、霊力思考の発現にほかならない。初期の人類は、この「純粋疎外」の領域が大きな意味を持った。

 もうひとつの示唆は、「前古代社会の心的構造」として、「内臓表出(自己表出)から、体壁表出(指示表出)が分離する」と見なしていることだ。これは、「霊魂」の成立を意味している。


『吉本隆明 “心”から読み解く思想』

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2015/09/27

「沖縄の御嶽草創由来にみる精霊信仰」

 赤田光男は、『琉球国由来記』をみると、御嶽には、先祖霊を祀る由来類型の他に、動物霊、植物霊、無生物霊を祀る由来類型もあると指摘している。

 1.半蛇半人霊

 宮古島の漲水御嶽。天神の恋角の化身である大蛇と人間の女性のあいだに生まれた三人の女子が島氏神となった(蛇婿入り)。

 宮古島の大城御嶽。天降りした天女と大蛇のあいだに生れた男女が始祖となる。(蛇婿入り、かつ、母子神)。

 2.動物霊

 駿馬、「速飯奔馬」が、首里城からの帰途、突然死亡し、埋めた。「やがて骨と鞭(むち)が石に化した」。この石が、アスイ森すなわち早飯森のイベである。駿馬の霊の依り代ないし神体石。

 アスイ森には、駿馬の埋葬地が御嶽となってとも記されている。

 「嘉手志川」は「犬」。宮古島の新城御嶽は「白鳥」。

 3.植物霊

 阿謝村の「ヨリアゲ森」は、松の樹霊が祭神。「樹霊の宿る聖林に囲まれた聖地内に、神の住むイビがある。イビの神体は石、木、貝殻などである」。

 これらの例を挙げて、赤田は書いている。

すなわち御嶽の祭神は、御嶽草創当初における御嶽草創地域の御嶽草創者の神に期待する心で決定するわけであり、人間霊や精霊、あるいは両者の習合霊が祭祀対象となることは自明であろう。それが長い歴史の流れのなかで変化するのは、人間の心の変化によるものであった。

 御嶽は、死者の居場所を封じ込めた結界のような場所だ。かつそこは、死者だけではなく、御嶽を建てる段階までに、信仰の対象となった自然も封じ込められていると思える。そこに、樹木や動物が含まれるわけだ。


『精霊信仰と儀礼の民俗研究-アニミズムの宗教社会-』

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2015/09/26

「キャンプ地を去る」から「家を去らない」まで

 死者が出た場合の、「キャンプ地を去る」から「家を去らない」まで、の過程を素描しておく。ここで、遊動生活で樹上葬を行っていた種族は、定着生活に入ると、台上葬に変換すると仮定しておく。

 1.遊動
 ・死者を森のなかに移し、種族集団ごとキャンプ地を去る。

 2.定着1(共存)
 ・死者を家のなかに台上葬で葬り、家族は集落内で家を去る。

 3.定着2(区別)
 ・死者を家のなかに台上葬で葬り、骨の処理を風葬場で行い、家族は集落内で家を去る。

 4.定着3(分離)
 ・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てる。家族は集落内で家をいっとき去って戻る。

 5.定着4
 ・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てない。家族は集落内で家をいっとき去って戻る。

 6.定着5
 ・死者を風葬場で台上葬で葬り、喪屋を建てない。家族は家を去らない。

Photo_5

 問題は、喪屋を建てることと、家を一時去ることが同期しているか。それとも、喪屋を建て、家を去ることが併行することがあったかどうか、だ。いや、移行としてみれば、ありうるだろう。それより、定着3は、「分離」の段階に対応するのではないだろうか。

 だが、柳田國男は二十世紀に入ってから、久高島について、「死人を大に忌み、死すれば家をすつ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す」(『南島旅行見聞記』)」とメモしている。これは、霊魂思考が強い場合の、3の変形だと考えられる。

 この想定された段階のなかで、本質的に言えることは何か。

 まず、定着2の段階で、死者を風葬場に運ぶのは、死者が「あの世」に行くと考えられたときに、ということだ。そして、定着3の段階で、喪屋は、家は生者のものだと考えられたときに、発生の根拠を持つ。だから、死者を風葬場に運ぶのも、喪屋の発生も、定着2、定着3以外の段階でも起きうると見なせる。

 琉球弧において、「家を捨てる」習俗が長く続いたのは、「分離」が完成していないことと同義なのかもしれない。


『南島旅行見聞記』


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2015/09/25

『イスラム戦争』(内藤正典)

 内藤正典の『イスラム戦争』は、ぼくたちのイスラムに対する誤解を解き、蒙をひらくと同時に、「米国が同盟国と共に過去数十年の間、大勢のムスリムを敵に回した挙句に何の成果も得られなかった」のに、「集団的自衛権」の行使によって、日本がその戦列に加わってしまうこのを、「越えてはならない一線」として説いている状況の書でもある。 

 内藤の世界認識の力点は以下にある。

 日本の憲法はアメリカの押しつけたものだから自主憲法を制定しんかえればならない。こういう主張は現政権をはじめ国内にかなりの力を持っています。軍を持てず、軍事力の行使もできないのでは「普通の国」ではないということです。しかし、日本で集団的自衛権の行使が議論され、海外への派兵の条件を緩和しようとしているさなか、世界の方が変わってしまったことに注意を向けなければなりません。日本が憲法にしばられて、自衛隊の海外派兵を躊躇している間に、軍事力の行使ではおよそ問題が解決しない方向に変わっていたのです。

 特に、イスラム世界で起きている現在の混乱において、軍事力の行使は、紛争解決に貢献しません。国家対国家の戦争ではなくなったからです。米国と有志連合は国家の連合。対するイスラム世界をはじめとするイスラム武装勢力は、国家ではありません。すでに書いたとおり、アメリカが言い出した「テロとの戦争」は、国家対テロ組織の戦いですから、完全に「非対称戦争」だったのです。

 非対称ということは、国家の対する相手がいないということであり、どこで戦闘が起きるか、分からないことを意味している。「集団的自衛権」の行使を可能にして、日本は一人前の「領域国民国家」になれたかのように、思うかもしれないが、世界の紛争はそれでは解決できないという限界に到達している。「そのことに、私たちは一刻も早く気づけねばなりません」。

 内藤は、昨日、ツイッターでもこう発言している。

日本の政治家は、全くと言って良いほど世界に眼が開かれていない。世界は日本とアメリカと中国と北朝鮮で出来ているわけではない。安保法制はこの4国にしか目を向けていない。

 同日の報道で、ロシアのラブロフ外相は、「大事な問題なので私もひと言、言いたい。開かれていない軍事同盟は地域の緊張緩和には役立たない」と、岸田外務大臣の真横で言ってのけた。外相の一撃が、内藤の言葉と響きあって聞こえてくる。

 

『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』


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2015/09/24

『DNAで語る 日本人起源論』(篠田謙一)

 篠田謙一によれば、N9bとM7aは、縄文人を代表するハブログループと見なせる。形態学的には、早期前期は全体的に華奢で、中後晩期と差が見られ、また貝塚出土の人骨は洞窟遺骨の人骨ほど華奢ではないことが知られているが、ハブログループに断絶は見られないことから、これは環境の違いを反映したものと考えられる。「M7aに関しては南方からの進入が、N9bに関しては沿海州などの北方からの流入が想定され」る。

 このような状況を考えると、縄文人は旧石器時代にさかのぼる南北双方の地域から流入した人びとが、列島の内部で混合することによって誕生したと措定できます。人骨の形態学的な研究をしている片山一道さんはかねてから、縄文人はどこからか来たのではなく、列島内で縄文人になったのだと主張しています。私たちは、これまで縄文人の起源を求めて日本の周辺の各地で人骨の形態を調査してきました。しかし、その時間の幅を現代にまで広げてみても、アイヌの人たち以外に縄文人に似た形態を持つ集団は存在しませんでした。そのため縄文人の源郷を探る試みは頓挫しているのですが、そもそも縄文人は由来の異なる人びとの集合によって列島内で誕生したと考えれば、外部に形態の似た集団を探すことに意味はないことになります。何となく青い鳥を探す話に似ていますが、現時点での縄文人のDNAデータも、このシナリオを支持しているように思えます。

 cf.『骨が語る日本人の歴史』(片山一道)

 琉球列島集団の成立については、こう書かれている。

 石垣島の白保人骨の三体。

 1.二万年ほど前の、最古の琉球列島人と言える人物のもの。B4かつ女性。古い時代に南から北上した集団の一員だった可能性。

 2.R。東南アジアや中国南部など南方地域に起源を持つと考えられる。

 3.4000年前。M7a。旧石器時代に南から北上して列島に広く分布したものと考えてよい。

 いずれも南方起源と考えられるが、ここで篠田は考古学の見解に目配せして、縄文時代相当期の先島と沖縄本島は別の文化圏に属するされているのを紹介している。沖縄本島は南九州の影響を受け、先島は台湾やフィリピンと共通の文化圏に属していたとするものだ。篠田は、

現時点では縄文時代相当期にさかのぼる琉球列島集団の遺伝的な特徴を明らかにすることができませんから、琉球列島内部での集団の遺伝的な共通性と文化がどのような関係にあったのかを知ることができません。

 として、さらなるサンプルの追加の必要性を訴えている。これは、考古学のような言い切りより受け取りやすい態度だ。文物のありようからみれば違いが出ても、これまで探究してきた精神のありようは似ているのだから。

 伊江村のナガラ原第三貝塚。2500~2千年前の三体の遺骨は、いずれもM7a。「現時点で琉球列島の基層集団がもつ主要なハブログループはこれだったと考えてよい」。

これまでの分析による貝塚時代後期のハブログループ構成からは、弥生時代から平安時代にかけての数百年の歴史のなかで、琉球列島に本土日本から徐々にハブログループD4を主体とする農耕民が流入し、在来の集団に吸収されるかたちで人口を増やしていったというシナリオが見えてきます。

 一方、沖縄島の具志川グスク崖下と石垣島白保から採取されたB4は本土日本にも存在する。

これが台湾の先住民、とくに太平洋に面した地域に非常に多いことを考えれば、海洋を通じた古代の交流によって南方から琉球列島にもたらされたと考えることもできます。白保竿根田原洞穴遺跡の旧石器人骨にもこのハブログループがあったことや、東アジアから南太平洋に展開したオーストロネシア語族の人たちの主体となったのもこのハブログループであったことを考えれば、B4は古代の海洋交流を担った人たちがもっていたハブログループだった可能性があります。(中略)オーストロネシア語族集団は、南太平洋の隅々まで展開した偉大な海洋民族ですから、北上して琉球列島に到達していた可能性も十分考えられます。海を隔てた地域は、陸上と違ったスケールの移動規模を考える必要性があり、琉球列島の成立を考えるときには常にそれを意識すべきなのでしょう。

 また、「グスクの時代は沖縄本島で一足先に完成していた在来集団と農耕民の混合が先島諸島に波及していった時代だと捉えることができそうです」。

 琉球弧の先史像が、少しずつクリアになっていくのが嬉しい。

 

『DNAで語る 日本人起源論』


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2015/09/23

『米軍と人民解放軍 米国防総省の対中戦略』

 アメリカ海軍大学が2014年に出したレポートによると、人民解放軍の近代化は、「台湾有事」に備えるもの。台湾が何らかの形で独立を宣言した場合、武力による威圧や武力行使によって台湾を屈服、ないしは併合することが想定されている。

 台湾有事における人民解放軍が採りうる台湾侵攻作戦を端的に言えば、ミサイル攻撃や台湾の港の封鎖をちらつかせ、実際に行動に移すことで台湾の意思を挫く一方、救援にかけつける米空母をミサイルで威嚇して接近させないようにすることを指している。

 こうした人民解放軍の能力を、アメリカは「A2/AD」と呼んでいる。アクセス阻止・領域拒否(Anti-Access/Area- Denial)。

 アクセス阻止(A2))とは、前方展開基地や戦域への接近(アクセス)を阻止するもので、具体的には台湾海峡危機の際、駆けつけてくる米空母打撃群や増援の航空戦力が台湾周辺に近づくことを阻止しようというものだ。アクセス阻止が外から入ってこようとする敵の接近を拒否するものであるのに対し、領域拒否(AD)はすでに展開している敵を自由に行動させないことを指す。たとえば特定の領域(海、空、宇宙、サイバー空間)を敵が自由に利用あるいは活動することを制約するものだ。端的に言えば、A2/ADとは接近しようとする米空母をはねのけて後退させたり、接近を許しても自由に動けないようにがんじがらめにしたりすることだと言っていい。

 で、これに対して、2013年、米国防総省が詳細を正式にまとめたのが、「エア・シー・バトル(Air- Sea Battle)構想」。

 ASBの主な狙いは、「人民解放軍の戦術目標の達成を妨害、遅延させてひいては「中国の戦略目標達成のコストを引き上げる」こと」。「時間、予算、装備の面における達成コストを引き上げることで、結果的に中国側に木曜達成(=軍事行動の貫徹、あるいはその発動)を諦めさせようとする」こと。

 ここで、「海上版・万里の長城」という比喩はここでも使われている(cf.「アメリカ流非対称戦争」)。

米軍、自衛隊は中国海軍の西太平洋への進出を阻止するため、琉球列島沿いに対空ミサイル、対艦ミサイル、潜水艦を配備することになる。対空ミサイルは航空自衛隊のPAC2とPAC3を九州の築城、芦屋、新田原、鹿屋、奄美大島、沖縄本島、石垣島、宮古島に配置し、巡航ミサイルを積んで飛来する中国の爆撃機や戦闘機の接近を拒否することが目的となる。これには陸海空の3自衛隊が、中心的な役割を担うことを求められる。米軍の主力は分散対比して態勢を立て直している最中であり、直接、日本防衛に投入できる主力は、嘉手納の損害を受けている航空戦力に限定されるからだ。
 海では大隅海峡と宮古海峡といった「チョークポイント」と呼ばれる戦略的に重要な海峡に護衛艦や潜水艦を配備して、中国海軍の水上艦艇の通過を阻止する。これは艦船や潜水艦の通り道である海峡という点を押さえることで西太平洋という面を防衛する、要するに中国海軍の活動を第1列島線内の中国近海に封じ込めようという試みである。

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 要するに、ASBは、台湾有事に対する抑止でもあれば、有事になれば、本土および、琉球列島を戦場にするというコンセプトである。しかも、そこでアメリカが反撃に転じるまでに戦闘に参加するのは自衛隊なのだ。しかし、この計画が進行しているということは、日本は日本国が戦場になるコンセプトを受け入れているということだろうか?

 しっかしまた、なんてこったいなシナリオだ。

 別のレポート(「日米同盟の抑止態勢をめぐる現状と課題」栗田真広)では、今年1月、国防総省はASBを名称を含め、見直すとされている。

確かに、ASB、特に CSBA が対中作戦構想として発表した時点でのそれは、我が国にとっての含意が極めて大きいものであった。ISR 面で同盟国には米軍の能力を補完することが求められることに加え55、作戦の究極的な成否が、補給・修理・出撃拠点として日本を継続的に利用できる点に依存しており、また米中戦争の初期段階で、中国のミサイル攻撃を回避するために米軍部隊がいったん退避している間、自衛隊が第 1 列島線(琉球列島)沿いの防衛ラインを設置することが期待されるという56。すなわち、琉球列島沿いに対空・対艦ミサイルを配備して爆撃機や戦闘機の飛来を防ぎ、大隅、宮古両海峡などに護衛艦や潜水艦を展開して西太平洋へ進出しようとする中国海軍を阻止して第 1 列島線内に封じ込めるほか、東シナ海や日本海でのイージス艦による弾道ミサイル防衛や、汎用護衛艦による米空母打撃群の護衛などを行うことが織り込まれているとされる。

 こうした協力は、ASB の有効な遂行、ひいては米国の通常戦力面での戦力投射能力に依拠した抑止力の維持に欠かせないものと位置付けられていた一方で、自衛隊にとっては極めて損耗が大きいと予想される。また、自衛隊の能力構築面での含意にも目を向ける必要がある。自衛隊に期待されるこれらの役割、特に第1列島線沿いの防衛ラインの設置は、概ね、我が国が中国に対して A2/AD を展開することに当たるが、この分野への注力は、シーレーン及び我が国本土から遠く離れた空域の安全確保などを含め、経済大国としての我が国がグローバルに求められる責任を果たす上で必要な能力に投資するリソースを削いでしまうとの指摘もある。

 なんとも不思議な文章だ。


『米軍と人民解放軍 米国防総省の対中戦略』


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2015/09/22

「アメリカ流非対称戦争」

 レポート(「アメリカ流非対称戦争」)によれば、「台湾海峡紛争」に対するために以下の3点が必要である。

1 適切な規模の米軍及び連合軍は、海空軍戦力により孤立させ、確保できる周辺地域において、中国の重要作戦目標に脅威を与えられなければならない。
2 この新たな戦線の展開により、中国政府に対し、政治目的達成のため人民解放軍により高いコストが必要となること、米連合軍が甚大な損害を与えうる位置に存在すること、の両者を知らしめられること。
3 作戦目標としては重要であっても、米連合軍の占める場所は、中国にとって戦略的には第二義的な所であること。

 この基準を満たせば、「中国政府は選択の余地を失う」。あるいは、「中国にとっては本質的に重要でない土地を巡っての、高リスク、高コストの事態に突入する」ことになる。

 ここで多数のシナリオのひとつとして挙げられているのが、「琉球諸島」だ。

この列島は、黄海、東シナ海から太平洋の外洋に出るためのシーレーンを扼するように立ちはだかっている。中国海軍は、台湾の脆弱な東海岸に脅威を与え、かつ戦域に集中しようとする米軍に対処するためには、琉球諸島間の狭隘な海峡を通り抜けざるを得ない。中国の指導部は、さらに台湾に対する強制作戦に先立ち、支援作戦として諸島の最も西寄りの部分(訳注:先島諸島と考えられる)を先制的に確保したいとの誘惑に駆られるかもしれない。
 このように、狭小な、外見は些細な日本固有の島嶼を巡る争いは、通峡/通峡阻止を巡る戦いでは、紛争の前哨戦として一気に重要になるのである。反対に、列島の戦略的な位置は、日米にとり、形勢を中国の不利に一変させる機会を与える。
 米国及び日本にとって、この列島の戦略的位置が中国政府との関係をひっくり返すチャンスとなるのである。島嶼に固有のアクセス阻止(anti-access)エリア拒否(area-denial)部隊を展開することにより、日米の防衛部隊は、中国の水上艦艇、潜水艦部隊及び航空部隊の太平洋公海への重要な出口を閉鎖できるのである。

 琉球列島は、中国に対する台湾防衛、あるいは中国の太平洋進出の防波堤として位置づけられている。ぼくたちは、ここで「南西諸島」に対する自衛隊配備計画の意味を知ることになる。(「南西諸島に自衛隊配備へ【対中国】」)。

 レポートは、これによって「海上の万里の長城建設以上のことが可能である」としていて、ぞっとさせる。しかし、レポートは、アメリカの作戦としているが、実際に配備が計画されているのは、自衛隊だ。

 伊波洋一は、これは、自衛隊と中国が戦争するためのものだと説明している。


 

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2015/09/21

「先史琉球社会の段階的展開とその要因」(伊藤慎二)

 伊藤慎二は、北琉球の貝塚時代人について、

狩猟採集民と規定するには食糧獲得に伴う計画的で集約的な自然改変度合いが大きく、農耕民と規定するにはあまりにも主作物が不明確で食料資源利用が過度に多角的である。(『先史・原史時代の琉球列島―ヒトと景観』

 と指摘している。

 「自然改変」と伊藤が呼んでいるのは、イノシシの幼獣を多数獲得して、離島にまで持ち込んだこと、沖縄北部に群生するイタジイを、中南部にも持ち込んでそこで生育したこと、オキナワウラジロガシや蘇鉄を利用していたとすれば、何段階もの複雑な処理を施したことを挙げている。

 「食料資源利用が過度に多角的」というのは、栽培植物の可能性も指摘されるものの、それは主要作物とするほどではなく、堅果類や、ブダイ(イラブチャー)、マガキガイ(ティラジャー、トィビンニャ)、イノシシ、ジュゴン等、多様なことを示すだろう。

 そこで、伊藤は、定着期以降を、森林・サンゴ礁性新石器文化と呼んでいる。

 北琉球の貝塚時代は、

 ・熱帯雨林よりも食料資源の豊富な温帯林分布域の南限に位置する
 ・沿岸水産資源が安定的に獲得容易なサンゴ礁地域の北限に位置する
 ・イノシシが多数生息する生態環境

 この3つの利点が複合的に存在することで成立可能な文化だったとしている。

やがて定着期に入ると、それらの資源を集約的に管理可能な場所として、内陸資源の利用が容易で沿岸漁場を見通せる丘の上を集落立地に選び、交易期のための経済的利便性から丘から下りて沿岸砂丘に居を構えたと推測される。

 だいぶ、見透しのよくなる整理だ。ありがたい。



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2015/09/20

『高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?』

 しきりに鳥のさえずる大きな椋の木の下で、『高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?』を読んでたら、鳥のさえずりが議論に聞こえてきた。ぼくがもっとも共感したのは、次の発言。

牛田 でもルソーもそうなんですけど、ヨーロッパ的な「契約」の概念って、近代の「人間」しか考えられていないんですよ。自律した個人同士の契約しか想定できていない。さらに未来の人や過去の人が入っていない。それはまずいんじゃないかって僕は考えていて。たとえば、アメリカのインディアンたちは、大地は未来の子孫から借りたものという考え方をする。時間を逆行してる。そもそも、ヨーロッパは前に進む時間間隔だけど、彼らにはむしろ未来から現在に戻ってくる時間感覚がある。だからみんなで決めるといったときも、今までの歴史の人も未来の人も想定して決めていかなきゃいけないんじゃないかって思うんですよね。

 今後、SEALDs が党派にも前衛にも陥らずに、駆け抜けていくといいと思う。

 

『高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?』

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2015/09/19

『琉球独立宣言』(松島泰勝)

 松島の琉球独立論を追ってきた者にとって真っ先に目につくのは、今回の『琉球独立宣言』では、奄美はその対象から除外されていることだ。

 なお本書では沖縄県を指す言葉として「琉球」を使いました。「琉球」のほうが、国であって時代から現在までの長い歴史と文化をこの島々が持っていたことを示せると考えたからです。つまり、「琉球」は、かつて国であったことを想起させる言葉なのです。琉球文化圏とは奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島などの歴史や文化を共有する文化圏です。この場合「琉球」は奄美諸島も含みます。しかし、1609年の島津藩の琉球侵略以後、奄美諸島は琉球国から切り離されて島津藩の直轄領になりました。1609年以後の時期において、本文中で使用される「琉球」は沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を指しています。

 文化圏としては奄美を含むが、「独立宣言」の対象になる「琉球」は奄美を含まない。そのように読める。また、独立のシミュレーションでは、こう書かれている。

 琉球はかつての王国に戻るのではなく、共和制を採用するでしょう。沖縄島、なかでも那覇市を中心に他の琉球の島々が従うという政体ではなく、「一島独立」を理念とする連邦制が島嶼国に適しています。琉球連邦共和国として独立するかどうかは、島それぞれの住民投票で決定されるでしょう。八重山諸島、宮古諸島または西表島、与那国島だけで独立国になるのかもしれません。大きな国になることが独立の目的ではなく、琉球人が死活している島で平和と発展を実現できることが重要なのです。琉球文化圏という歴史的、文化的、自然的な共通の土台を踏まえて独立したいと考える人々が住む各州によって、琉球連邦共和国が構成されます。

 例示のなかでは、奄美は除外されているが、琉球文化圏という括りでは、暗に含意されているとも言える。

 松島は、なぜこのたびの本では、奄美も対象であることを明示しなかったのだろう。この議論に対する奄美側の冷淡、とは言わないまでも、低温あるいは沈黙の反応がそうさせたのかもしれない。また松島が「琉球民族」の存在の根拠とする「琉球国之図」(1750年)には奄美が含まれていないからかもしれない。

 けれど、この点については、独立の構想は、奄美を含めて考えるべきだと思うし、そうしてほしいと思う。

 歴史的事実として過去に琉球国が日本に属しない。つまり領土ではない時期が長期にわたって存在していました。日本の統治時代は1879年から1945年まで、1972年から現在までの109年程度でしかありません。

 同じ文脈に乗れば、奄美の場合は、「日本の統治時代は1879年から1945年まで、1953年から現在までの128年程度でしか」ないのだから。この観点からみれば、いわゆる「琉球処分」とは奄美も含めて捉えられるべきことなのだ。そうした議論が、沖縄のなかでも皆無のように、奄美を対象とすることは、議論をすっきりさせない迂回や負担を抱えこむように映るのかもしれないが、その迂回や負担を忌避しないことを望む。それは、マイノリティは、そのなかのマイノリティを無視するのであれば、マイノリティが抗している相手と同じ態度に過ぎなくなるから、というだけではなく、琉球文化圏という共通性を重く感じるからだ。このことは、奄美内部からの目でなければ、気に留められることもないばかりか、気づかれすらしないだろうから、特に記しておきたい。

 その文化圏の根拠になるものは何か。それは松島によっても言及されている。

 琉球において珊瑚礁を埋め立てて基地をつくるのは今回が初めてです。琉球は珊瑚礁から生まれた島であり、島の住民も珊瑚礁、そのなかに棲息する海洋生物によって生活の糧を得ることができました。(中略)
 イノーを埋め立てることは、琉球という島の母体であり、住民の記憶、信仰、生活の場を破壊することを意味します。(中略)
 琉球人のアイデンティティ形成において非常に重要な場所であるイノーがつぶされることは、自らの手足がもぎ取られることと一緒だと考える琉球人が少なくありません(p.101)。
 琉球の島々は珊瑚礁によってつくられてきました。珊瑚が生きている限り、島もすこしずつ大きなっており、人間のように成長しています。珊瑚の破壊は、琉球の島としての生命の破壊につながります。琉球人の魂のふるさとは珊瑚礁であり、そこでアイデンティティが形成されてきました(p.198)。

 ぼくも琉球弧における珊瑚礁の存在の大きさを同じように認識している。その自然とそれに培われた文化の共通性は、深い根底があると思っている。これに比べれば、琉球王国の存在は軽い。

 しかし、現在の独立構想にとってはそうでないのかもしれない。

 琉球人という民族は、1879年に琉球国が日本政府によって滅亡させられた前後から、王国の復興、独立を求める運動を21世紀の現在まで続けています。これを琉球ナショナリズムと呼びます(p.78)。
 琉球全体の歴史のなかで日本の一部であった時期は、ほんの一時期でしかありません。琉球独自で存在してきた歴史のほうがより長いのです。琉球史の長期波動といえる「琉球独自の時代」つまり「国であった時代」に再び参入しようとしているのが、今の琉球ではないでしょうか(p.159)。

 松島はこうはっきりとは明言してこなかった気がするが、もしこの通りなら、ぼくには響いてこない。当初から琉球独立と聞いて真っ先に感じたのは、いまさら国家?という何ともいえない疲労感だった。というのも、島人は近代民族国家にさんざんやられてきたのではないかったか、という思いが過るからだ。ぼくの感じ方でいえば、国家が存続する限り、島人は場末の辺境として無視されるだろうし、その間、ロクでもない連中が我が物顔を続けるだろう。ぼくたちに光明があるとすれば、国家が廃絶されるとき、廃絶を通告する側に立つその瞬間に、わずかに訪れるにすぎないだろうと見なしてきた。それが、諦念でもあれば希望でもあった。そういう思いを抱いてきたから、改めて近代民族国家を構想することに、飛びつくことはできなかった。

 この態度に、どれだけ島人としての普遍性があるかどうかは分からない。けれど、これは別の視点でみれば、この感じ方は、日本が半身は、ポスト・ナショナリズムの段階に入っていることを意味していると思える。本当は、明言したいが、市民的な感性としてはポスト・ナショナリズムと言えても、ナショナリズムへの回帰を志向する政権が力を振るうところからして、まだ半身と言わざるを得ない気がする。

 ここからみるとき、琉球ナショナリズムや松島が繰り返し強調する「琉球民族」ということ挙げは、とても窮屈に思える。「「琉球と自分は一体である」という自覚を持つ琉球人が増えています(p.90)」と言われると、やはり、待ってくれと言いたくなる。これは、松島に何度か伝えた、国家と市民社会の人々の区別をしてほしいという願いともかかわる。「琉球と自分」を一体視してはいけない。というか、一体になりようがない。

 最近のことでいえば、安倍首相の談話を思い出す。そこにはこういうくだりがあった。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 ぼくにはこれは詭弁に映ったが、ここが最も評価されたという報道を聞いて、まだそうなのかと思わざるを得なかった。謝罪するのは国家であって、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」が「謝罪を続ける宿命」は、そもそも背負っていない。現在のぼくたちも背負ってはいない。謝罪すべきなのは、それができるのは国家であって、ぼくたち個々人には謝罪する自由が手渡されているだけだ。だから、これは巧妙な言い逃れだと感じたが、安倍首相やその周辺の原稿作成者たちが真剣に言っているとしたら、日本はまだ、国家と市民社会の人々を同一視する観点から抜け出ていないのだ。ぼくはもちろん談話のことを言いたいのではなく、松島にこの観点に立ってほしくないと言っているのだ。

 国家と市民社会の人々、言い換えれば、日本政府と日本人を区別してほしい。批判の対象になるのは第一義的には日本政府であって、日本人については個別的であるという観点を取り入れてほしいのだ。そして今回の本ではもうひとつ、政治と文化を区別してほしいという提案も加えたい。

 松島は柳宗悦と岡本太郎の「日琉同祖論」として批判しているが、岡本についてこう書いている。

 琉球に対面した岡本は、「何もないことの眩暈」と言って驚きました。しかし実は琉球には近代文明の先端である米軍基地が居座っていたのです。岡本は八重山諸島や久高島など米軍基地が存在しない島々におもむいて、「何もないこと」に感動したのです。琉球を全体的に見ず、自分の先入観にとって都合のいい島を訪問して考えだされた「沖縄文化論」と言われてもしかたありません。岡本は米軍基地を真正面から見据えようとしません。最初から米軍基地を避けて、「原初的な場所」を探し歩くことが意図されていたのかもしれません。しかし八重山諸島や久高島の人々にとっても、島の日常は「原初的」という牧歌的なものではなかったはずです(p.57)。

 米軍基地に触れずんば語る資格なし、と取られかねない評価は避けるべきだと思う。これでは、かつてのマルクス主義文学が、文学においても政治的価値がなければ文学的価値もないとした観点に通じてしまう。米軍基地を見ようが見まいがそれは岡本の勝手であって、彼の「沖縄文化論」の価値は、その中身によってのみ評価されるべきことだ。それに、「原初的」という岡本の評価は、そこに「牧歌的」というニュアンスを含んではいないと思える。

 ぼくは、松島の琉球ナショナリズムが、それこそ、ナショナリズム隆盛期のそれに陥らないように願う。あくまで、ポスト・ナショナリズムの段階にいる視点から、独立なら独立を構想することを期待する。

 それは対中国への観点についても言える。松島の言うように、琉球が独立をすれば中国が侵略するという中国脅威論は、「根拠薄弱」な面があるだろう。また、日本人のなかには不可思議と思える蔑視観が出ることもあるが、これに対して、沖縄ではむしろ親和感のあることが、対中国外交には有効に働くだろう。しかし、一方で、中国は民主化されておらず、中華思想を持つナショナリズムの段階にある国家だということも、現段階では勘定に入れざるを得ないと思える。ナショナリズムの段階にあるということは、かつての西欧列強や戦前日本のように、ナショナリズムが膨張主義となる危険性を持っていないか、注意を払う必要があるということだ。

 この場合、侵略がなくても、琉球に傀儡政権を樹立することまではリスクとして見なければならないのではないだろうか。そうなれば、日本との関係は緊張を孕んだきついものになるし、新琉球国の北部は、北を睨んだ武装化を余儀なくされるかもしれない。その前に、琉球国内部も、言論の自由は封殺されるかもしれない。それは現在の台湾が孕むリスクとも似ている。長期的にみれば、台湾は軍事的、経済的に中国に飲み込まれるとしても、民主化という意味では、中国は台湾に飲み込まれる関係にある。琉球にとってもそうなるかもしれないが、その間、言論の自由もなくなることを誰が望むだろう。そういう判断が働く場合、誰しもつぶやかざるをえない。中国よりはアメリカがまし、と。

 そこで、松島の言う「非武装中立」と多国間での平和条約の構想で、島人の不安に応えることができるだろうか。抑止力というものが本当にあるのかどうか、ぼくには分からない。すべて虚妄なのではないかと言ってしまいたいところもある。しかし、抑止力という共同幻想があるのは確かだから、それを踏まえる限り、「非武装中立」という構想は、現実的ではないのではないかと思える。現実的ではないという意味は、島人の不安に応えられないのではないか、ということだ。

 ただ一方、松島は琉球ナショナリズムを標榜するが、松島の目指すものは、近代民族国家とは少し違うようにも見える。

 琉球は、近代国民国家という既存の国家を目指すのではなく、「島嶼海洋国家」という政体がふさわしいのではないでしょうか。後者の国は、国連に加盟し、国境、領土、領海、領空、国民、主権という国家の基本要素を持ちます。しかし国境の壁を下げ、諸外国との経済的、文化的交流をうながし、世界との関係性を緊密にする国になります。世界の国々との友好的な関係性の構築によって、平和と発展を実現します(p.242)。

 この、「国境の壁を下げ」というところは、明確にポスト・ナショナリズムの観点に立つものだと言える。この点、琉球ナショナリズムのこと挙げと国家像とはちぐはぐに見えてくる。言い換えれば、まだ独立の構想は練り上げられる余地が多いのではないだろうか。

 ぼくは、強度の琉球ナショナリズムに依らない、ポスト・ナショナリズムという段階に立った、独立構想を望む。それは、もはや独立というべきなのか、自治、自立というべきなのかは分からないけれど。松島は参照先として、イギリスのスコットランドやスペインのカタルーニャの独立運動を挙げている。明らかにポスト・ナショナリズムの段階にあるEUにおいて独立運動が起きるのは不思議にも思えるし、ぼくはその内実を知りたいと思うが、よくは知らない。けれど、琉球民族を梃にした琉球ナショナリズム運動と同じ俎上にある運動ではないのではないだろうか、という疑問は持っている。

 しかしそれでも松島が、自治、自立を退け、独立を構想するのは、「本土決戦」を遅らせるために、沖縄に地上戦を強い、いままた米軍基地を押し付けられているように、「日本の犠牲になりたくない(p.24)」という思いがある。「琉球で戦争を再び起こさないことが、琉球が独立する目的の一つです(p.96)」ということであり、そこには、「日本人は米軍基地問題も人ごとのように眺めています(p.80)」という日本政府と日本人に対する不信感がある。

 太平洋戦争後、日米安保と憲法9条はセットで導入された。けれども、日米安保の実態である基地は、ほぼ沖縄に押しつけられきた。すると、本土では「憲法9条」だけが見え、沖縄では「日米安保」だけが見えるとでもいうような状況が続いてきた。それだから、本土からの議論は、「日米安保」の実態である基地の実質的な負担感のない安保依存や、同様の「憲法9条」主義に傾きがちにみえる。

 民意が日米安保を支持するのなら、ここはやはり、本土から基地負担を引き受ける声、しかも辺野古基地の代替案の提案があってしかるべきところだ。それはなくてはならないのではないだろうか。奄美の視点に立つと、秘かに期待するのは、ここで鹿児島県本土からの名乗りだ。かの地はかつて軍事力を誇り、現在も軍事に対して抵抗感が少ない。もし、その名乗りがあるなら、明治維新と西南戦争で歴史が止まってしまった時計の針はふたたび動き出すだろうし、南の島々との歴史的なもつれの解消にも大きく寄与すると思える。底意地悪く言うのではなく、沖縄の隣人として真剣に検討してもらえないだろうか、と思う。

 ぼくは、琉球は独立すべきであるとも、日本に留まるべきだとも考えていない。しかし、独立しかないという局面がありうると考えておくことは必要だと思っている。ぼくがこのテーマにこだわる経緯を紐解けば、「琉球民族独立総合研究学会」の発起人に誘われたが、静かに断った。それは趣意書にある、「琉球の独立が可能か否かを逡巡するのではなく、琉球の独立を前提とし、琉球の独立に関する研究、討論を行う」という文言に躓いたからだった。「琉球の独立を前提」とする考えはぼくにはなく、「逡巡」するからだ。標語にすらならないが、逡巡こそわが足場なり、と考えて、参加を見送った。けれど、事態はひっ迫しているのかもしれない。辺野古の基地が強行されれば、すぐにでも独立しかないという局面が生まれるかもしれない。そのとき、琉球の独立構想は優れた選択肢でなければならないと思う。それだけが重要だとすら考えている。そうでなければ、仮に独立できたとして、歴史の後退を招きかねないからだ。それはいざという時の備えという以上に、日本ともどもこのどん詰まり感を抜け出し、歴史を前に進める契機にならなくてはならないと思える。

 

『実現可能な五つの方法 琉球独立宣言』

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2015/09/18

「帯状集落」(伊藤慎二)

 文字以前の琉球弧の精神史を探究する者にとって、伊藤慎二の琉球縄文の考察は刺激的だ。

 伊藤によれば、定着期(貝塚前3~5期、4500年前~2500年前)の後半に「帯状集落」ができる。「帯状集落」とは、「地形に沿って帯状に群集した多数の住居址を伴う拠点的な集落」のことだ。墓域(集団埋葬)、食物貯蔵域、廃棄域(貝塚)などの土地利用の区別もしだいに明確化される。安定した居住活動が確立されている。

 伊藤は、琉球弧の「帯状集落」は、東日本の「環状集落」に対比されるという。「琉球列島で初めて明確な地形改変を伴う文化景観が形成されたのがこの定着期といえる」(「先史琉球社会の段階的展開とその要因」)。ここでは、「集落の居住用地を確保するために、人為的に段丘面を造成してその段差を石積みで擁護するような、同時期の国内有数規模の土木事業を行った例も、沖縄本島うるま市宮城嶋のシヌグ堂遺跡や高嶺遺跡で知られ」、「琉球列島で初めて明確な地形改変を伴う文化景観が形成された」(「琉球貝塚文化における社会的・宗教的象徴性」)としている。

 ぼくたちにとって示唆的なのは、地形改変を伴なう文化景観の形成とは、生者の空間と死者の空間の区別を意味していると考えられることだ。自然を加工することに及んだとき、自然との関係は変わり、それはつまり死者との関係が変わることを意味するからだ。

 伊藤は「帯状集落」の出現を、定着期の後半としているので、貝塚前4期からと理解すればいいだろうか。約3500年前に該当する。

 ぼくはこれまでばくぜんと、死の「区別」の段階に入るのは交易期(2500年前~)と想定してきたが、貝塚前4期から交易期にかけてと見なせばいいのだと思う。このことは島ごとのばらつきも大きいだろうから、幅を持たせて考えておきたい。


 

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2015/09/17

「死人を大に忌み、死すれば家をすつ」

 見当たらないと思っていた記述をやっと発見。

死人を大に忌み、死すれば家をすつ。埋葬なし。棺を外におき、親族知己集飲す。(p.157、柳田國男『南島旅行見聞記』

 1921(大正10)年に、柳田が沖縄島を訪れたときにノートしたものだ。知念村の項で、久高島に「位牌なし」と書いた次に出てくるので、「家をすつ」は久高島のことを指すと思われる。

 死者が出ると家を捨てる習俗が、大正まで存続していることに驚かされる。しかも、土地が潤沢とはいえない小さな島において。この習俗の根強さ、普遍性を示唆するものだ。

 「死人を大に忌」むことと、久高島が神の島であることは対応していると思う。


『南島旅行見聞記』

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2015/09/16

「沖縄の穀物起源説話」(馬淵東一)

 馬淵東一は、「沖縄の穀物起源説話」について類型化を試みている。

 Ⅰ.天界または海の彼方の国から(a.授受 b.無作為取得 c.盗)
 Ⅱ.地下界から
 Ⅲ.通例では女神または女子の屍体から

 馬淵によれば、まず琉球においては、Ⅱ、Ⅲの型は見られず、もっぱらⅠ型が出現する。

天界または海の彼方の国(深山の住民にあつては時として峯々の彼方の国、ただしいずれも死者の国とは別)と人間界とを媒介するものとして鳥類が登場してくるのは、日・琉から南洋にかけてひろく見出されるところである(後略)。
琉球では、ある天の神、または海の彼方の神から贈物として穀物が与えられる話が更に広く知られていて、そのばあい、事情によつては、神の代りに単に見知らぬ人物というのが出てくることもある。

 Ⅰ-a型

それでアマミキョは天に祷いのって、鷲わしをニライカナイに遣わして求めさせたら、三百日目に三つの穂を咬くわえて還かえって来た云々と『御規式之次第おぎしきのしだい』にはあり、奄美大島の方では鶴つるがその稲穂を持って来たことになっていて、伊勢の神宮の周辺にあったという言い伝えともやや接近している。(柳田國男「海神宮考」)

 同じく奄美大島にある鯨の腹のなかに入っていたという説話(cf.「鯨の腹の中に稲種が入っていた」)。

 Ⅰ-b型

ニライ・カナイから、久高島に五穀の種子のはいった小さい甕が寄って来たが、「しらちやね」(米)が一つ足りなかったので、アマミキョが天に祈って、鷲をニライ・カナイに遣わして、これを求めさせたら、三百日目に三穂を咬えて帰ってきたのを、ウケ水・ハリ水(もと田の中から湧出る清水の義で、今帰仁辺では今だに原義で用いられている)に蒔いた(その田を三穂田ともいっている(後略)(伊波普猷「南島の稲作行事について」)。

 大宜味の兎に海神では、「鷲」が「鴛鴦(オシドリ)」になっている。

ある男が西北の村の海岸近くに漂う幾つかの稲穂を見つけて始めて稲が得られたこと、そして、これらの稲穂は海の彼方のどことも知れぬ国から、ある鳥が運んできて海面に落としたことが語られる。(波照間島)

 Ⅰ-c型

 彼女はシナで始めてチムを食べ、美味だと知った。彼女はシナの「王」に少し種子を乞うたが、貰えなかった。人々が収穫したチムを日向で干していて、彼女は鳥の見張番をするように命ぜられた。彼女はイツァム(女子用の褌で、腰巻きではない)を取りはずして、乾いたチムの上に坐った。若干のチムの粒が彼女の陰部に付着して、盗み帰ることが出来たのであった。(大神島)

 ぼくが確認したかったのは、穀物が他力本願的に獲得されるというありようだ。

『馬淵東一著作集 (第2巻)』

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2015/09/15

母を看取った。

 一週間前、9月6日の早朝に母の最期を看取った。まさかこのブログに、祖母と父に続いて、母の追悼を書くことになるとは思ってもみなかった。

 主治医とよく相談していたので、その二日前には病院入りしていた。おかげでふた晩は、兄弟そろってベッド脇にいることができた。ひ孫の泣き声、島唄、演歌、ビートルズ。とにかく音楽祭りのように、音を絶やさなかった。ひ孫の泣き声では目を覚まし、美空ひばりの「川の流れのように」では涙を流した。ちゃんと聴いているし分かっているのだ。

 5日深夜、呼吸がはやくなり、6日未明には、落ち着きを通り越して緩慢になった。気を利かせた看護師さんが、近親者の集合をアドバイスする。ぼくは、母の手を握りつつ、マブイ、魂を呼び戻すユビコイをしていたが、やがて、息を吐くと口を閉じて息継ぎをする間が出てきた。ぼくは、哭き女とはいかない自分のユビコイを頼りなく感じ、とっさに母の妹に電話をかけ、電話越しに与論から声をかけてもらった。すると、左向きに寝ている母の左の瞳から大きな涙が流れた。母が息を引き取ったのは、それから数分後だった。

 この二年近くで母は二回、手術をしている。その度ごとに驚異的な回復ぶりをみせて、自宅での生活に復帰することができていた。それもあってだろう、通夜では「知らなかった」という声を聞くことが多かった。母は言いたがらなかったのだ。この間は闘病というより、病との共存だった。母は抗がん剤を拒否し、延命措置を拒否していた。延命措置については、「リビング・ウィル」と題した文書さえ拵えていたので、末期の緩和病棟で主治医に納得してもらうのに大いに役立った。

 するとどうなるのだろう。生活に支障が出るという理由で手術は行ったが、術後はこんどは生活に支障の出る投薬は行わなかった。母は、痛みの緩和についてのみ、投薬を望んでいた(もちろん、術後の副作用を抑える薬は飲んでいたのだけれど)。ぼくが感じたのは、健康な細胞を痛めることもないので、外見的には、急に老いていったとしか見えないだろうということだった。実際、最初の手術以後、母は病院より自宅で過ごす時間のほうが多かったし、車椅子でしか動けない状態になっても、島に帰ることができた。緩和のための投薬の効果もあるだろうけれど、癌の末期に想像しがちな、激しい痛みも見られなかった。死に顔も、余計な肉が削がれて、彫りの深い、もともとも顔立ちが立ち現われたようだった。

 母の病との付き合い方は、いまでもどちらかといえば少数派だろう。泣き虫で心配性でメソメソばかりしている人だったが、病への向きあい方だけは、道を示してくれたと思うし、それを誇りに思う。

 息を吐いたあと、口を閉じ、次の息をしなくなったときも、母の顔を直視していた。そのとき感じたのは、見届けた、というより、命を引き継いだという感触だった。そのためか、いまも混乱することなく、わりあい穏やかな気持ちでいる。哀しみはいずれ、しこたまやってくるのかもしれないけれど。

 昨日たまたま、敬愛する奄美の郷土史家の方からお電話をいただいた。母のことを伝えると、これまで風を受けてくれていた人がいなくなり、これからは全部、自分が受け止めなくてはならない。両親が亡くなったときに感じたのとはそういうことだった、と話してくれた。ぼくもまさにそういう予感があった。「無条件の肯定」の視線を送ってくれた父が突然いなくなり、そのとき得体の知れない不安に襲われたが、母を失くせば「無条件の心配」の視線がやってこなくなる。そのふたつを失くすということは、不安を通り越して痛みになるのではないか、そんな不安を抱いていた。いま、辛うじてそう感じないで済むのは、この世の役目を終える前後の母と見つめあえたからではないか、と思ってる。


 追記
 臨終に立ち会った看護師さんは徳之島出身の方だった。ぼくは「与論島慕情」と「十九の春」を流していたが、あとで、「わたしもおばあちゃんのとき、島唄を流そうと思いました」と話してくれた。そういう共感のできる島人でよかったと思う。忘れたくないので、備忘として書いておく。

 

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2015/09/14

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』

 エマニュエル・トッドの『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』。どうしてこんな過激なタイトルになるかといえば、

アメリカとドイツは同じ諸価値を共有していない。大不況の経済的ストレスに直面したとき、リベラルな民主主義の国であるアメリカはルーズベルトを登場させた。ところが、権威主義的で不平等な文化の国であるドイツはヒトラーを生み出したのだ。

 こういう懸念をトッドが持つからだ。

 トッドは、「自分たちがいちばん強いと感じるときには、ドイツ人たちは、より弱い者による服従の拒否を受け入れることが非常に不得意だ」という言い方もしている。これは直近のギリシャに対するドイツの態度にも言えるのかもしれない。

 トッドの指摘から気づかされるのは、歴史的な経緯をもって、国家が見られているということだ。

 「ドイツというシステム」は驚異的なエネルギーを生み出し得るのだということを認める必要がある。歴史家として、また人類学者として、私は同じことを日本についても、スウェーデンについても、あるいはまだユダヤやバスク地方やカタロニア地方の社会文化についても言うことができる。好むと好まざるとにかかわらず認めるほかない事実として、ある種の文化はそんなふうなのだ。

 こういう視点から日本を眺めれば、アメリカが抑えていてくれたほうが安心だという見方も成り立つだろう。

 そういうトッドは、

 早い話、自分のことを言わせてもらえば、自分の属するネイションの自律性の消滅に直面している一フランス人として、もしドイツの覇権かアメリカの覇権か、どちらかを選べと言われたら、私は躊躇なくアメリカの覇権を選ぶよ。

 この断言がどきっとさせるのは、「自律性の消滅」を「自律性の不在」に、「ドイツの覇権」を「中国の覇権」に置き換えたら、ほぼ今の日本の気分に合致するのではないかと思わせるところだ。

 「現在生まれつつある世界状況の中で自らを方向づけるためには」、

 この世界を戦略的現実主義学派、たとえばヘンリー・キッシンジャーの一派がしているように見ることを受け入れなくてはならない。つまり、政治的な価値観の問題を持ち出すことなしに、各国間の諸システムの間の純然たる力関係を見るということだ。

 この視点が、目下、必要とされているということは、ぼくも受け入れなければならないと感じた。


 追記。雑誌「文藝春秋」にもトッドの記事が載っていた(「幻想の大国を恐れるな」)。

ヨーロッパも日本も、かつてはナショナリズムの時代を経験しましたが、それを克服し、現在はポストナショナリズムの時代にいます。しかしいまの中国はナショナリズムの時代にいる。その古い時代に引きずり込まれることは、断固拒否すべきです。
そんな日本が一番乗ってはいけないのが、できるだけ世界と距離を置いて自分だけの殻に閉じこもってしまおうという孤立志向の誘惑です。この孤立志向は日本の社会文化的な特徴といえますが、それに反してまで積極的に世界の安定化に寄与していくべきだと思います。

 ナショナリズムという段階のあったこと、自分の殻に閉じこもりがちという日本のある側面は的確に捉えられていると思う。安保法制についてはどうだろう。

 日米の安全保障強化を否定的に見る人たちは、軍事的にも産業的にも日本がアジアでは唯一の大国で、非常に攻撃的だった一九三〇年代に、すぐに思いを馳せてしまいます。(中略)
 私が日ごろから非常に不思議だと感じているのは、日本の侵略を受けた国々だけではなく、日本人自身が自分たちの国を危険な国家であると、必要以上に強く認識している点です。
 長い日本の歴史の中で、日本が侵略的で危険な国であったのは、ほんの短い期間にすぎません。しかも日本が帝国主義的で軍国主義的だった二十世紀の前半は、ヨーロッパの大国も同じことをやっていました。当時の欧州は今とは比べ物にならないくらい帝国主義的、膨張主義的だったのです。当時の情勢を俯瞰してみれば、日本はそういった世界の趨勢に追随したようにしか見えません。ですから、当時の日本の攻撃的な性格はもともとあったもので、日本という国家の決定的な本質であるかのような議論は、まったく非現実的だと思うのです。
 いまの日本は平和的な国家であり、一定の軍事力をもって、世界の安定化に積極的に貢献することができる資質を持っています。日本がフランスなどのようないわゆる「普通の国」になって、何がおかしいというのでしょうか。

 日本は、「帝国主義的、膨張主義的」な「世界の趨勢に追随した」に過ぎないという視点が、ヨーロッパの知識人にはあるのは、重要なことかもしれない。ここには、「敵国」という観方はないからだ。

 ただ、トッドが「非現時的」とみなす議論については、内側から応えなければいけないことが含まれている。「日米の安全保障強化」が、敗戦を否認し戦前への回帰を目指す団体を頼みにした政権によって推進されていること。にもかかわらず対米追随が激しい政権は、いざというとき、理念の押しつけに容赦のないアメリカに対して、無条件に追随する危険性が大いにあるということ。これらが限りなく不安を惹起することに対して、トッドの発言は充分に応えるものではない。言い換えれば、「侵略的で危険な国」であったことを、この国は克服しきれていないと思える、ということだ。

 

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』

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2015/09/13

「敬箋」と「焚字炉」

 沖縄における道教の影響について、真境名安興は書いている。

 その外、敬箋のこと即ち文字を大切にすることも亦道教の教義である、置県前の沖縄では文字の書かれた紙片はこれを踏みつけたりすることは絶対になく道路に墜ちたものは悉くこれを拾いあつめて焚字爐に投じたもので、これで善根を養ふ一つの方便としたもので、借字便覧などといふ本が広く読まれたのである。(『沖縄教育史要 (1965年)』

 「敬箋」は文字を大切にすること、敬うこと。「焚字爐」の創建については、「球陽」巻二一、天保九年の条に「本年創建焚字炉」と出てくる。「善根を養ふ」とは、善を生む力を育むというほどの意味だろう。

 焚字炉にみられる道教の受容は、まれびとコンプレックスのなかでは、文字もまだ神であったことを示すものだと思う。

 
 cf.「「焚字炉」と「御字拝み」」「まれびとコンプレックス」

 

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2015/09/12

霊魂の成立の背景

 縄文時代の中期以降に、土偶は立体的になる。これは、対象化された身体像が獲得されていることを意味している。そして縄文後期になると、土偶仮面が登場する。これは、霊魂の成立を意味している。

 また、縄文後期になると環状集落が廃れて人々は分散していく。この背景には地球の寒冷化が再び始まったことによる。

 まず、環状集落ならではの資源獲得の方法、つまり、ある季節にたくさんとれる特定の食料資源を多人数でいちどきに収穫・貯蔵するという暮らしが、寒冷化による食糧の収穫量や分布の変化によって、しだいに従来どおりにいかなくなってきたと推測される。それまでのとりすぎによる資源への負担が、気候の変化によって一気に表面化した場合もあったかもしれない。(松本武彦『列島創世記』

 この居住の分散化は、生者と死者の世界の区別を生む。死者、つまり過去の生者と自分たちは違うという意識を生む。これは同時に、生者間の区別の意識を生む。分散した共同体同士は観察し、観察される主体になる。そこで、対象化された身体像が獲得されるようになる。

 同時にこの過程はトーテミズムの解体を招く。

 もはやどうしても、他の動物と同一の類のうちにとどまることが不可能なようにみえはじめたとき、原初の人間には呪的な宗教が、いいかえれば自然宗教があらわれる。またいいかえれば、〈自己聖化〉があらわれる。かれらの表出したすべての自然存在が〈聖化〉されるとおなじように、原初の人間の自画像もまた聖化される。かれらは対象的観念のなかでのみ、すべての自然存在と交感することも〈化身〉することもできるようになる。すべての自然存在からの〈類別〉を疑いえなくなったとき、〈対象化識知〉のなかでのみ自在さを獲得しようとつとめるのだ。(吉本隆明、p.112『心的現象論本論』

 「対象的観念」のなかで、「すべての自然存在と交感することも〈化身〉すること」ができなくなる。すると、人間とトーテムとの融合した表象がなくなり、代わって、トーテムに実際に化身するという観念があらわれる。ここで「対象化識知」は、「自体識知」のくびきから逃れて身体像を獲得するようになる。言い換えれば、他人と自己の像を区別できるようになる。ここに霊魂が成立する基盤ができる。そして、人間の再生というほかに、霊魂が動物に入るという転生信仰が加わるようになる。

 この過程は、琉球弧の場合、どういう形で現れるのか。

 地球の温暖化は、琉球弧の場合、珊瑚礁の成立を伴った。そこで、島人は定着するようになる。寒冷化の影響は直接的には現われていない。次の温暖化の弥生時代に、九州では大酋長が生まれ、その背景をもとに、貝交易が始められる。これに応じる琉球弧では、貝塚時代後期に、遺跡立地の84%が砂丘・沖積地という低地立地になるという変化が見られる。新里貴之は、この遺跡は定住集落だけでなくキャンプサイトとして機能した可能性も検討する必要があると指摘している。ぼくたちはここに生と死の区別の標識を見ることになる。


『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』

『心的現象論本論』

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2015/09/11

蟹行事考

 沖縄島南風原の大城和喜による「命名見聞」では、命名儀礼のなかに、バッタと蟹が出てくる。

 父親が、赤ちゃんの額からバッタを勢いよく飛ばす(海辺に近いところでは、お年寄りが、子蟹をもったまま、赤ちゃんの額の上を這わせる)。バッタや蟹の生命力にあやかろうというもの。(宮城喜久蔵『魂込め(マブイグミ)と魂呼ばひ―「ヤマト・琉球」比較文化論』

 ぼくたちには金久正が紹介した奄美以外に沖縄にも「蟹」が使われた事例として矯味深い(『奄美に生きる日本の古代文化』)。吉野裕子は、「蟹」について、「蛇」の代用だとしていた。

 私見によれば、この蟹行事の基本にあるものこそ、じつは蛇である。時代がくだるにつれて、蛇を使用するためらいが、蟹を代用させることになったまでのことであろう(『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』)。

 蛇と蟹は、トーテミズムの思考の系譜として、蛇が蟹にとって代わられたことを示している。両者に通底するのは脱皮だ。だから、代用というわけではない。そして、蟹以前には、蛇を這わせていたというのでもないと思う。

 蛇が蟹に代わられたとき、脱皮は通底するものの、トーテミズムの解体現象を伴っていた。死者に群がる蟹やアマンをみて、祖先を蟹やアマンに見るというのは、すでにドリームタイムの表象が豊かではなかうなっていることを意味している。ドリームタイムを通すなかで、蛇-人間、人間-蛇を表象することが難しくなっているからこそ、現実に、死者が蟹に化身する場面からトーテムを思考しているのだから。

 この場合のトーテミズムの解体は、生と死が円環と考えられてきたところに、生と死を移行とみなす新しい考え方が出たところで生まれる。移行の段階の初期には、円環の思想との混融で、生から死、死から生への移行が同型であると捉えられるようになる。そこで出現するのが蟹行事だ。

 これは、「バッタや蟹の生命力にあやか」るものではなく、死から生への移行が、人間から蟹という筋を辿るように、死から生への移行が、蟹から人間へという筋を辿る。この蟹から人間への脱皮を表わすのが、蟹行事の本質だ。

 吉本隆明は、イザナギとイザナミの黄泉の国での応酬、豊玉姫の出産、オオゲツヒメの説話を取り上げ、そこに生誕と死を同一視する思考を取り出している。そして、この思考は、「初期の農耕社会に固有なものだと推定することができる」と考えている。

かれらの共同幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生む結果をもたらすのが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。(『共同幻想論』

 琉球弧の蟹行事やアマンをトーテムと見なす思考を、ぼくたちは遊動生活から定着生活に入った初期の社会にみられるものと考えてきた。定着による死者との共存が、生と死を移行とみなす思考を生んだというように。ここからみると、『古事記』の説話の記述にも、生と死の移行の段階の思考を見ることができる。この、生と死の移行が、初期の農耕社会では、「女性だけが生む」ということに焦点が当てられたものと見なすことができる。


『日本人の死生観―蛇信仰の視座から』

『共同幻想論』

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2015/09/10

霊力の転移としての死

 殯、添い寝、慰み、ムン祓い、マブイ別シなどの、死の前後の作法を見ていくと、琉球弧の島人はよく死を、生と死を見つめてきたのだと思う。折口信夫は、昔は「生と死の区別がはっきりしては居なかった」、「生死が訣らなかつた」と、殯の意味を説明したが、たしかにそういう側面はある。しかも初期の殯では、死は生からの移行であると考えられていたのであれば、生と死に現在的な意味で区別を設けていなかったのだ。しかも、「生死が訣らなかつた」とはいえ、では現在は科学的には分かっている部分が大きくなっているとはいえ、脳死や家族の集合を待って、死を特定の時間で切断するという中途半端なやり方をしているのに比べたら、むしろ生死をよく分かっていたという観方もできる。

 けれども、生と死をよく見つめてきたというとき、その視点の場所には特徴があると思える。

 たとえば、アイヌの神謡には、しばしば上方から下を見ている視線が現れる。

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です。
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴
降る降るまわりに」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと、(子供等は)私の下を走りながら
云うことには、
「美しい鳥! 神様の捕り!
さあ、矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは、一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者、ほんとうの強者だぞ」(知里幸惠『アイヌ神謡集』

 この神謡を生み出すのにアイヌの人々が駆使したのは、臨死体験ではないだろうか。臨死体験で頻繁に報告されるのは、死にかけている自分の周りに医者や家族がいて、それをベッドの上から見ていたという光景だ。そのとき、手当てをしている医者の後頭部まで見えたと具体的に報告される。アイヌの人々も、実際にかイニシエーションなどの儀礼を通じてか、この体験をしていた。それが、この神謡のなかの視線を支えていると思う。

 この鳥、梟は貧乏な子の矢に当たってやり、その子の家族に大事に扱われたのに対して、宝物を授けてあげるのですが、その際、「私は私の体の耳と耳の間に坐っていましたが」と解説をする。この、「私の体の耳と耳の間に坐って」という記述は、霊魂として見ていることを示している。霊魂思考を発達させたアイヌの人々ならではの記述の仕方だ。梟は貧乏な子の矢に射られて死んでしまったのだが、梟の霊魂は生きて、貧乏な子の家族のもてなしに報いたいと考える。これは霊魂思考における死からみた視線だと言える。

 このアイヌの神謡を引き合いに出すのは、琉球弧の神話や伝承には、この上からの視線が希薄だと思えるからだ。そして死にまつわる島人の所作をみても、霊魂思考による死の場所から、死を見ていない。

 むしろ、そこに見られるのは霊力の転移という視線だ。ここで、霊力の転移とマブイの安定、マブイの遊離や悪霊の憑依の三点を頂点とした三角形を思い浮かべることができる。霊力の転移は、マブイの安定(生)とマブイの遊離・悪霊の憑依(病)に対して絶対的で特権的な場ではなく、マブイの安定(生)に対してもマブイの遊離・悪霊の憑依(病)に対しても配慮を行う。人間は、マブイの安定(生)とマブイの遊離・悪霊の憑依(病)の間を行ったり来たりしながら、死という場面では、霊力の転移の頂点で、生者に霊力の転移を行うのだ。

 そして、この霊力の転移を頂点たらしめているのは、その背後に、永遠の現在が反復し、死者とこれから生まれてくる者を包含したドリームタイムの場があって、それに吊り上げられるようにして頂点を構成しているのではないだろうか。そこでは、死は終点ではなく、転移の一様式だ。琉球弧では、生と病を霊魂の動向によって説明している。にもかからわず、生と病を照らすのは、「霊魂の離脱」としての死からではなく、「霊力の転移」としての死の場所からなのだ。それが、琉球弧の島人の死に対する視線の特徴だ。死は、「霊魂の離脱」というより、「霊力の転移」なのだ。

 cf.「琉球弧の死の三角形」

 

『アイヌ神謡集』


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2015/09/09

『魂振り: 琉球文化・芸術論』

 高良勉は、琉球語の「ゆー(世)」には重層的で多様なイメージが込められていると書いている。

 歴史を「ハダカユー」、「ウサチユー」などと表現してきたこと。宮古の「ユークイ(世乞い)」祭祀では、「豊穣」や「豊年」を意味すること。「ユンテル(豊穣よ、満ちよ)」と唱和され、「ユンクイ・ユンクイ」とはやし立てられる。現在の島唄にも「ユーヤナウレ(世や直れ)」というはやしが繰り返しが表わされること。琉球弧の神人たちは、時間の深度と空間の広さを「クニ(国)、ユー(世)、ウフユー(大世)」の三分法で表現している。

 したがって、琉球弧の島ジマの祭祀における祈りの中心に「ユークイ」とか「ユーニガイ」と「ユーヤナウレ」という祈りがあることがわかります。琉球弧の島人にとって「ゆー」は一年に一度、再生してもらわねばならないのです。
 すると「ゆー」は過去、現在、未来を包摂する根源的なエネルギーのイメージであることも理解できると思います。また、「ウフユー(大世)」とは宇宙そのものであることも。

 ぼくの言葉でいえば、霊力思考が豊かだったときに、反復する永遠の現在と自己と世界が同じことを指していた段階の時空性を「ゆー」と呼んでいると受け止めることができる。

 高良は、陶芸家の大嶺實清が、「常に始原に回帰しながら前に進みたい」と語ることを紹介している。思うに、「常に始原に回帰しながら前に進みたい」というのは、琉球弧の島人の生活思想なのではないだろうか。

 

『魂振り: 琉球文化・芸術論』

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2015/09/08

ユタの三冊

 ユタに対する関心が高まっているらしい。ここ十年内のことじゃないだろうか。

 琉球新報社の調査では、ユタに悩み事を相談すると答えた人は、2001年で19.4%、2006年には17.1%と減少している。

 地域別にみると、宮古島も減っているが、高い(39.6%(2001年)→23.9%(2006年))。沖縄北部は微増している(18.9%(2001年)→19.6%(2006年))。(『ユタとスピリチュアルケア―沖縄の民間信仰とスピリチュアルな現実をめぐって』

 奄美大島の男性ユタの言葉。

「自然に頭を下げることを忘れるなよ」って神から言われますよ。神や仏から外されても人間は生きていけるけど、自然から外されたら生きていけないでしょ。たとえばね、月と海はひとつなんです。月は海の生命の誕生と死に影響を与えるでしょ。人間は海の満ち潮で生まれて、引き潮のときに死ぬ。自然に合わせて生きてきた人間は、自然に合わせて死ぬんです。太陽と水もまたひとつです。太陽がなければ大地の作物は育たず、雨が降らなければ枯れてしまいます。ともに生物全体に「ありがとう」なんです。これらに対して手を合わせて拝む気持ちが大切なんです。ところが神より人間が「上」だと思っている人が多い。そのくせお金なら10円でももらえると、「ありがとう」っていう。(『「ユタ」の黄金言葉』

 この言葉では、自然と神がほとんど同義に見なされているのが、らしいなと思う。

 奄美大島の葉月まこは、「神繋ぎ」という言い方をしている。説明はないけれど、斎場御嶽、久高島、今帰仁をまわって、祈りをささげている。神繋ぎ、印象的な言葉だ。死者たちをつなぐ。それは生者たちをつなぐ前段になるのかもしれない。(『ユタ』

 ぼくは彼女たちの口から、現代の呪言や神話が発せられるようになるといいと思う。


『ユタとスピリチュアルケア―沖縄の民間信仰とスピリチュアルな現実をめぐって』

『ユタ―遥かなる 神々の島―』

『「ユタ」の黄金言葉―沖縄・奄美のシャーマンがおろす神の声』

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2015/09/07

自己表出の展開(青木正次)

 青木正次の自己表出の展開図から、文字以前の琉球弧の精神史に関わる箇所をメモしておく。

 1.物理的融合(電子・原子)レベル
 2.化学的合成(分子)レベル
 3.植物的呼吸生・排気レベル
 4.動物的食生・声レベル
 5.母子的性生・うたレベル
 6.王的権力生・ものがたりレベル
 (「生命の自己表出史 1 原論」)


 2.〔分子化合〕レベル

 ・すべてが「生きもの」として感じられるようになった世界相の感じ方。
 ・すべては生きているとかんじられるような世界のありようと感じかた。

 ぼくたちの言葉でいえば、霊力思考そのものだ。

 3.〔呼吸〕レベル

 ・「植物的な」生命というふうに感じる時の、世界の感じとり方
 ・自己表出が表現に転化した、初めの相。
 ・「イキをする=生きている」といった自己表出としての表現になる。

 つまり、「呼気」が霊力の表現として見出されたわけだ。

 4.〔食〕レベル

 ・「動物」生命として感知する
 ・食うことがそのまま食われることであるような、共動世界
 ・言語発生の機構、その始原にかかわる。

 狩猟・採集の初期世界を連想させる。

 5.〔性〕レベル

 ・食い食われる共動生命は、たがいを共鳴して感知する世界になる
 ・食う作動は共振する場を吐いて、生命じたいを包むように感知される。母胎
 ・食う作動は声を吐いて、そこに界像を含むようになり、その共鳴する生命は「うた」声をなす
 ・生命システムは「特定の空間内に実現していく」のである。

 ここは、琉球弧でいえば、珊瑚礁の成立と定着以後に当たると思える。また、別の視点からは、親子婚、兄弟姉妹婚の禁止以後。

 6.〔権力レベル〕

 ・生命は「我ら」という世界の中心位置にある観念をうみだして、そこに棲む。観察者としてあらわれる。
 ・母界像は、自然観念になり山林河海の環界が我らをムラから分離して、その周囲を囲むように現れる。
 ・異族という時間性の始源像がそこから去来するようになる。

 御嶽の発生以降だ。霊魂思考の進展。世界視線の獲得。


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2015/09/06

アジア的段階の入口

 アジア的な段階の入口について、吉本は書いている。

「神武記」以後の記述では、山は解体して頂きの盤石を祭り、河川もまた源流に坐す神として祭るようになり、樹木も神格を与えられた神社になり、自然現象もまたそれぞれ、雷、科戸(風)の神などとして、村里の周辺や要所に分離されて、次第に神社信仰にかわってゆく。この最初の自然物の宗教化、自然と人里の住民との分離の意識からアジア的な段階がはじまるといっていい。経済的にいえば王権による河川や山の傾面の灌漑水としての管理と整備、平野の田、畑の耕作など野の人工化がはじまったとき、アジア的な段階に入ることになった(p.60)。

 「自然と人里の住民との分離の意識」は、生と死の分離として思考された。アジア的なもののは始まりを神社に対応させれば、琉球弧の場合は、御嶽がそれに当たる。このとき、精霊としてのカミは、対称性を失って神化する。

 本土日本からみて、琉球弧に古いものがあるように見えるのは、古いものが10~11世紀以降に新しく始まったことによる。それは、プレ・アジア的なものについても言える。しかし、琉球弧の場合、プレ・アジア的なものが、珊瑚礁によって形成されているという点が、特異であり、本土日本との差異を表現している。


『アフリカ的段階について―史観の拡張』


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2015/09/05

自然の擬人化の層

 自然の擬人化と人間の擬自然化について、吉本隆明は書いている。

わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。
たくさんの声が彼らの中にある。
様々な存在となって、彼らは数多くの生を生きてきた。
熊だったかもしれない、ライオンだったかもしれない、鷲、それとも
岩、川、木でさえあったかもしれない。
誰にもわからない。
とにかくこれらの存在が、彼らの中に住んでいるのだ。
彼らは、こうした存在を好きなときに使える。(『今日は死ぬのにもってこいの日』)

 これらは全自然物、たとえば鳥や獣や岩や樹木や河川のなかに神が(霊が)ひそんでいるというプレ・アジア的(アフリカ的)段階の自然まみれの意識だといえる。逆にいえばいつでもじぶんの意識がこれらの自然物に入り込んで、じぶんの存在でありうる例になっている。さしあたって河川も岩も樹木も鳥や獣も人(神)に擬して表現されているが、これは全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が疑似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることとが、同根になっているのだ。

 熊やライオン、鷲、岩、川、木であったかもしれないというのは、自身に植物を内包しているということと、動物と食う、食われるの関係にあったことを示している。鷲を食べた、だから鷲は人間になった。ライオンに食べられた、だからライオンは人間になる。人間は植物を食べる、だから植物は人間になるし、人間も植物である。食う、食われるは関係の初源だ。

 自然の擬人化はいくつかの層を想定することができる。

 ドリームタイムの表象が生きていた段階では、自然物は、そのままで精霊的な存在だった。そのときは、人間もその真似をすることで、それらの自然物に同化することができた。

 霊魂が成立すると、自然物のなかに霊が潜んでいると考えられるようになったとともに、不可視の物の怪の存在も考えるようになった。そこで、人間はそれらに憑依したり、憑依されたりするようになった。


『アフリカ的段階について―史観の拡張』


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2015/09/04

オオゲツ姫とハイヌウェレ 2

 青木正次は、オオゲツヒメとハイヌウェレの神話の違いについて書いている。

 想起される古代物語では、食物を贈与する母性は、その食財のすばらしさを気味悪がられる。母子一体生を気味悪がられて、祭場の広場へと遠ざけられる。古代的に畏怖され拝跪されるより前に、気味悪がられ遠ざけられる。前古代的な、恐怖の共同性で迎えられるのだ。怖がられて殺され、祀られる、のである。前古代的な、殺し祀る祭儀である。オオゲツ姫話とはここが違う。スサノヲは怖がりも、畏れもしていない。無礼を怒り咎めたとされる。支配するのである。それにたいし、殺し祀る時、人々は、恵みを怪しみ遠ざけて、豊かな食を遠くに祈願し、予約するのだ。それは母界を支配し蓄蔵する古代以前の、前古代的な対応である(p.28「アジア性研究・母界論2」)。

 ぼくたちの理解では、スサノオはオオゲツヒメの行為を「穢い」とみなして殺害し、ハイヌウェレでは、村人が「妬んで」殺害する。ハイヌウェレの行為を、村人は同じ霊力を持つものとみなしているが、その霊力の違いを遠ざけようとしている。スサノオは、すでにオオゲツヒメの行為を同じ霊力ではなく、反転したものとみなしている。村人とスサノオでは立っている場所が違い、霊魂思考が優位になっている。

 別のところでは、青木はこう書いている。

 食物を(食って)吐き出す者、摂取排泄する生きた管、つまり食生生命体、食う神獣として現れ出ているとされて、汚穢とみなされたのである。母性という食って産み、養うという産養者という性的位相が、それ以前の自己表出である食って吐く者、食生体という古層に遡ってイメージされたのだ。性生が食生の転化であることを、遡って見顕したのだといえる。歴史的な反省思考が、母界を外部から見直し、穢れた蛇母体のように見てとる反転の論理と同じだ(p.13「生命の自己表出4」)。

 言い方は違うが同じことを言っている。たくさんのイメージが浮かぶが、ここでは生と死の段階に対応させておきたい。どちらにしても、この神話は、青木の言う「食生」から「性生」に移行した場所で語られている。

 生と死の移行(共存)
 生と死の移行(区別) ハイヌウェレ
 生と死の分離 スサノオ

 cf.「オオゲツ姫とハイヌウェレ」

 青木の表現を借りれば、オオゲツヒメもハイヌウェレも、「食って吐く身体表出像」から「産養母界身体像」への転移を表わしているものだ。そしてハイヌウェレはこの世界内にいる。対して、スサノオの場合は、この身体像の変化を、もっと先の場所から捉えている。

子の心と成人する行為に引き裂かれているさまなのだ。母食界に養われるアジア的な母界性とみずから独り立ちする古代的な成王性と、その間に位置している共同体の表現なのだ(p.13「生命の自己表出4」)。

 古代的な王権が生成される、そういう場所から、前古代の神話を捉え返したものだ。cf.「生と死の分離としての死穢の発生」

 すると、ハイヌウェレの場合は、人間と植物との同一視による穀物起源神話を示すが、スサノオの場合は、穀物起源の意味は半分になり、母殺しの側面が強調されることになる。

 ここで、琉球弧においてなぜ、ハイヌウェレ型の神話が、空無化された形でしか残存していないのかについて、考えると、「食って吐く身体表出像」から「産養母界身体像」への転移が、農耕ではなく、珊瑚礁の恵みによってもたらされたからではないだろうか。そこには、自然に対して優位に立つ自己も、成人せんとする自己も立ち上がる必然性がない。cf.「女の作った御馳走」

 穀物起源神話は、トーテミズムの解体現象として見ることができるが、そこには石倉敏明が言うように、「母殺し」のモチーフが伏在している。野生の琉球弧は、「母殺し」の必然性に至らなかったと考えられる。


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2015/09/03

『日本列島人の歴史』

 この本の面白さは、なんといっても時代区分の名称だと思う。

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 これによって、世界史的な段階は見えにくくなるものの、政治的な中心地を名称の根拠にすることで、列島の重心移動の時代変化が分かりやくなる。なにより、縄文期以前を「ヤポネシア時代」としたことで、琉球弧の側からみても、本土との歴史の違いが掴みやすい。ぼくが琉球弧の精神史を探究するなかで見えてきたのも、ヤポネシアだった。

 著者はDNA情報が専門なのだが、この本はゲノムの分析のみで考察されているのではなく、考古学や人類学などの広汎な学問の成果を取り入れることで構成されている。これは、ゲノム情報のみでは辿れないものを、他の分野の知見を入れることでしか構成できないことから来ていると思えるが、そこで研究者によって仮説やストーリーが異なる余地が生まれるのだと思う。たとえば、片山一道では、二重構造説は否定されていたが(cf.『骨が語る日本人の歴史』)、この本では裏づけられている、というか、掘り下げられ相対化されることになっている。

 ぼくなどには、アイヌに対する親近感や、東北に似たものを感じることが、視点の置き方によって、見えてくることが興味深かった。

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 著者は、日本列島人の来し方についても、モデルを組み立てている。

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 第1段階(約4万年前~約4000年前)
 ・第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の全体にわたってやってきた。
 ・現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きく異なる系統。

 第2段階(約4000年前~約3000年前)
 ・日本列島の中央部に第二波の渡来民。
 ・朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた沿岸部およびその周辺。
 ・日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、少しずつ人口増。
 ・日本列島中央部の北側と北部および南側では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった。

 第3段階前半(約3000年~約1500年前、ハカタ時代と弥生時代前半)
 ・朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いながら若干異なる第三波が到来。
 ・水田稲作などの技術を導入。
 ・日本列島中央部の東西軸に沿って居住域を拡大し、急速な人口増。
 ・その周辺では、第三波の影響は少なく、第二波のDNAが色濃く残存。
 ・日本列島の北部と南部、および東北地方では、第三波渡来民の影響はほとんどなし。

 第3段階後半(約1500年~現在、ヤマト時代後半以降)
 ・第三波の渡来民が引き続き朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住。
 ・東北に居住していた第一波の渡来民の子孫は、北海道へ。
 ・日本列島南部では、おもに九州から第二波渡来民の子孫を中心としたヤマト人が多数移住し、さらに江戸東京時代には第三波の渡来系の人々も加わって、現在のオキナワ人が形成。
 ・日本列島北支では、北海道の北部に渡来したオホーツク人と第一波渡来民の子孫とのあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成。

 直感的に言うしかないけれど、このモデルは、ぼくたちがどこで大和人と共通性を感じつつ違和感を抱くのか、アイヌへの親近感はどこからくるのか、勘所を教えてくれるような気がした。

 もちろん、細部を見れば、

DNAでは弱いながらアイヌ人との共通性が見出されたオキナワ人は、それまで話していた言語から、グスク時代の前後に古代日本語におきかわり、その後琉球語として発展していった可能性があります。

 のように、「古代日本語」に完全に置き換わったのではなく、逆語序や取り入れ方に古代日本語以前のものが残されている、と修正を加えたくなるのはあるにしても。

 「三段階渡来モデル」の詳細を知りたいと思う。

 


斎藤成也 『日本列島人の歴史』

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2015/09/02

『骨が語る日本人の歴史』

 片山一道の『骨が語る日本人の歴史』は、「縄文顔か弥生顔か」など、一概に言えないとしている。

 おそらく倭人は、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに、北部九州から日本海沿岸部にかけて住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いて、そのあたりを中心に両者が混合して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。ことに西日本では、弥生時代の後期頃に世相が激しく騒擾し、いっそう複雑な「弥生人」の人間模様が生まれたのではなかろうか。
 そうだとすれば、倭人あるいは「日本人」の内訳は、一方で縄文人の流れを強く受け継ぐ人々がいた。その対極に渡来人の系譜につながる人々がいた。そして、さまざまな形で混合する大勢の人びとがいた。そんな構図となろう。ともかく、大小色とりどりのビー玉を混ぜるがごとき文化の混合とは異なり、人間の混合は油絵の具をかき混ぜるようなものである。なにがどう混ざったか判定するのは難しい。「縄文人系か渡来人(弥生人)系」か、あるいは「縄文顔か弥生顔か」など、よく耳にする「日本人二分論」など、とても無理筋なのではなかろうか。

 この書き方から分かる通り、弥生人イコール渡来人なのではなく、片山は弥生時代に生きた人のことを、弥生人とニュートラルに呼んでいる。片山は、縄文時代の人の身体や顔つきが共通しているのに対して、弥生時代の人がバリエーションに富むため、それをひとくくりで呼ぶためにそうせざるを得ないと考えているのだ。

 縄文時代の人は、身体や顔つきが共通しているとはいえ、共通の出自を持っているということではなく、さまざまな地域からやってきた人々が、長い時間を列島で過ごすうちに、共通の生活様式が生み出した共通性だと見なされている。だから、一方で、縄文人の渡来ルートはさまざまであるのに、弥生人の渡来ルートはシンプルなのかもしれない、と言っている。

 縄文人というのは、いなくなった人々ではなく、日本人の基底をなしている、というのが片山の主張だ。

 

『骨が語る日本人の歴史』


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2015/09/01

『しまくとぅばの課外授業』

 石崎博志の『しまくとぅばの課外授業』(2015年)は、コラム集の装いをしているけれど、なかなかハードですらすらと軽く読み進められる本ではない。

 ぼくも地名に興味があるので、そこを取っかかりにすることにして、「保栄茂(ビン)」のコラムを見る。

 『海東諸国紀』(1501年)の発音体系に照らすと、「保栄茂」は、ポエモ[poemo]だったと考えられる。

 『おもろさうし』では、「ほゑむ」と表記されているが、

 ・当時は半濁音表記が存在しない。
 ・『おもろさうし』では、しばしば濁音が省略される。

 『おもろさうし』の発音を17世紀と仮定すれば、この時代には、ポエム[poemu]、ボエム[boemu]になる。

 ここで、p音→h音という変化、濁音はそのままということを踏まえれば、「おもろ」時代は、ボエム[boemu]だということになる。

 16世紀か17世紀にかけて、ポエモ[poemo]→ボエム[boemu]、あるいは、ボエモ[boemo]→ボエム[boemu]になった。

 ここから「ビン」までまだ距離があるけれど、その過程では、狭母音化が起こる。要するに三母音化だ。石崎は、「首里・那覇」の母音が三母音になるのは、1800年代前後と見ている。

 先史からの時代の長さを考えると、1800年前後というのは、ずいぶん最近のことだし、しかも急激な変化に見える。ここからは素人の推論に過ぎないけれど、この三母音化は、歴史的には、三母音に戻ったことを意味しないだろうか。グスク時代以降の大和からの移住と大量の大和言葉の流入により、琉球語は五母音化されるが、それが再び1800年前後に、三母音へと回帰したと捉えてみるのだ。

 この本から刺激を受けて得た着想としてメモしておく。

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