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2015/09/04

オオゲツ姫とハイヌウェレ 2

 青木正次は、オオゲツヒメとハイヌウェレの神話の違いについて書いている。

 想起される古代物語では、食物を贈与する母性は、その食財のすばらしさを気味悪がられる。母子一体生を気味悪がられて、祭場の広場へと遠ざけられる。古代的に畏怖され拝跪されるより前に、気味悪がられ遠ざけられる。前古代的な、恐怖の共同性で迎えられるのだ。怖がられて殺され、祀られる、のである。前古代的な、殺し祀る祭儀である。オオゲツ姫話とはここが違う。スサノヲは怖がりも、畏れもしていない。無礼を怒り咎めたとされる。支配するのである。それにたいし、殺し祀る時、人々は、恵みを怪しみ遠ざけて、豊かな食を遠くに祈願し、予約するのだ。それは母界を支配し蓄蔵する古代以前の、前古代的な対応である(p.28「アジア性研究・母界論2」)。

 ぼくたちの理解では、スサノオはオオゲツヒメの行為を「穢い」とみなして殺害し、ハイヌウェレでは、村人が「妬んで」殺害する。ハイヌウェレの行為を、村人は同じ霊力を持つものとみなしているが、その霊力の違いを遠ざけようとしている。スサノオは、すでにオオゲツヒメの行為を同じ霊力ではなく、反転したものとみなしている。村人とスサノオでは立っている場所が違い、霊魂思考が優位になっている。

 別のところでは、青木はこう書いている。

 食物を(食って)吐き出す者、摂取排泄する生きた管、つまり食生生命体、食う神獣として現れ出ているとされて、汚穢とみなされたのである。母性という食って産み、養うという産養者という性的位相が、それ以前の自己表出である食って吐く者、食生体という古層に遡ってイメージされたのだ。性生が食生の転化であることを、遡って見顕したのだといえる。歴史的な反省思考が、母界を外部から見直し、穢れた蛇母体のように見てとる反転の論理と同じだ(p.13「生命の自己表出4」)。

 言い方は違うが同じことを言っている。たくさんのイメージが浮かぶが、ここでは生と死の段階に対応させておきたい。どちらにしても、この神話は、青木の言う「食生」から「性生」に移行した場所で語られている。

 生と死の移行(共存)
 生と死の移行(区別) ハイヌウェレ
 生と死の分離 スサノオ

 cf.「オオゲツ姫とハイヌウェレ」

 青木の表現を借りれば、オオゲツヒメもハイヌウェレも、「食って吐く身体表出像」から「産養母界身体像」への転移を表わしているものだ。そしてハイヌウェレはこの世界内にいる。対して、スサノオの場合は、この身体像の変化を、もっと先の場所から捉えている。

子の心と成人する行為に引き裂かれているさまなのだ。母食界に養われるアジア的な母界性とみずから独り立ちする古代的な成王性と、その間に位置している共同体の表現なのだ(p.13「生命の自己表出4」)。

 古代的な王権が生成される、そういう場所から、前古代の神話を捉え返したものだ。cf.「生と死の分離としての死穢の発生」

 すると、ハイヌウェレの場合は、人間と植物との同一視による穀物起源神話を示すが、スサノオの場合は、穀物起源の意味は半分になり、母殺しの側面が強調されることになる。

 ここで、琉球弧においてなぜ、ハイヌウェレ型の神話が、空無化された形でしか残存していないのかについて、考えると、「食って吐く身体表出像」から「産養母界身体像」への転移が、農耕ではなく、珊瑚礁の恵みによってもたらされたからではないだろうか。そこには、自然に対して優位に立つ自己も、成人せんとする自己も立ち上がる必然性がない。cf.「女の作った御馳走」

 穀物起源神話は、トーテミズムの解体現象として見ることができるが、そこには石倉敏明が言うように、「母殺し」のモチーフが伏在している。野生の琉球弧は、「母殺し」の必然性に至らなかったと考えられる。


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