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2015/08/11

イニシエーションと骨の儀礼の併走

 吉本隆明は、スサノオとオオゲツヒメの説話について、「女性に表象される共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる」ことに触れた後、次のように書いている。

 ここまでかんがえてくると人間の〈死〉と〈生誕〉を〈生む〉行為がじゃまされるかじゃまされないかのちがいだけで同一視している共同幻想が、初期の農耕社会に固有なものと推定することができる。かれらの共同幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生む結果をもたらすことが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するするということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。この同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることで穀物の生成が促される『古事記』のこの説話がそうなのだ。(『共同幻想論』

 これまで、この説話が生きられる神話としてあったことに驚き、殺害される女性に目を奪われてきたが、その手間で、生誕と死の同一視に目を向けてみる。吉本は、この共同幻想を「初期の農耕社会に固有なものと推定」しているが、漁撈の段階で定着が始まっている琉球弧の例をかんがみ、定着化した初期の社会と捉えなおしておく。ぼくは、定着による死者との共存が、一方向に進む時間の観念を生み、生から死を移行として見なすようになったと考えてきた。

 生誕と死の同一視という共同幻想のもとでは、生誕と第二の生誕であるイニシエーションと、死と骨の儀礼は対応しているようにみえる。ロベール・エルツは、「死と入社式」について、「この二現象の類似性は、きわめて基本的なものとして考えることができる」(『右手の優越』)と書いていた。

 しかし、ではイニシエーションと骨の儀礼は常に一対の儀礼として存在してきたかといえば、そうではない。イニシエーションが見られるところでも、骨の儀礼は必須になっていない。では、死が生からの移行と捉えられたところでは、骨の儀礼は伴うのかといえば、これもそうではない。東南オーストラリアの諸族は、天を他界とし、ぼくの考えでは、死は生からの移行として捉えられているが、骨の儀礼は行われていない。

 そこで、生誕と死の同一視され、イニシエーションと骨の儀礼が同時に存在するのは、どんな共同幻想のもとでかを、これまで分かっていることをもとにする限りにおいて、掴んでおきたい。

 まず、骨の儀礼が現れるのは、生と死が「移行」であるときだけではなく、生と死がひとつながりに「円環」すると捉えられた場合でも、行われた。樹上葬や台上葬のあとに骨の儀礼を行ない、再生への道をつける場合がそうだ。また、生と死が「移行」としてあるときに、骨の儀礼がおこなわれるのは、初期農耕をし死者儀礼を行なう場合だった。

 これらをもとにすると、生誕と死の同一視され、イニシエーションと骨の儀礼が同時に存在するのは、ふたつの系列が考えられる。

 1.遊動生活を行い、霊力の円環による再生が共同幻想になっている
 2.定着生活を行い、生と死が移行であり、死者そのものが共同幻想になっている

 上記の共同幻想のもとでは、生誕と死は同一視されるとともに、イニシエーションと骨の儀礼が伴走する。設楽博己は、縄文から弥生にかけて社会変動の時期に「再葬」が行われると書いていたが(cf.『弥生再葬墓と社会』)、同様のことは上記にも当てはまるのかもしれない。


『共同幻想論』

『右手の優越―宗教的両極性の研究』


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