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2015/08/02

「埋葬と死者祭祀」(ネリー・ナウマン)

 ネリー・ナウマンの「埋葬と死者祭祀」(『生の緒』、2005年)は、細部の認識は異なるものの、問題意識が近いのか、とても共感できた。

 逐一挙げる暇がないので、琉球弧にかかわる箇所だけ拾ってみる。

 埋葬の多くは再葬とされているが、連続的に一次葬に使用されたと思われる葬祭場の例はひとつだけである。「土壙を掘れない凍土が主な原因で-死者が環状の集落内にある墓域を取り囲んだ平地式建物に安置され、これが結果として、殯宮のでの仮の埋葬でことである殯の起源となったと言われる」。

 そうした用途はありうるとはいえ、「かなり疑わしいようだ」。再葬できるまで、死者を特定の場所に曝しておいたというほうがはるかにもっともらしい。

そんな「風葬」は、つい先頃まで奄美や琉球諸島の通例であった。死体は葬地に蓆で包んだだけで置くが、棺のままで放置する。棺を柱上に曝したり、岩窟内に置いたりする島もある。一定の期間を過ぎて洗骨をして再葬がなされる。数千年も昔のそんな「風葬」用の場所が、今後特定できる望みはほとんどないだろう。
 遺骸の入った棺を集落からかなり離れた柱上や樹上に置く風習は、かつてアルタイ諸民族にも広く行われていた。しかし、一見同じに思える両者にも本質的なちがいがある。先の例では、死者はふたたびこの世に再生すると考えて、最大限に死者への配慮が施されるのに対して、この例では死者は永久に放置されて、死者と生者とのつながりは分断される。死者の行くべき世界がどんなものであれ、それは生者の世界とは完全に分離している。

 縄文時代前半に埋葬例が少ないのは、この種の曝置のせいだろう。死者のこのような扱いは、死者への恐れ、死の穢れへの恐怖を反映するだろう。それは日本神話の「黄泉の国」の観念に表現されている通りだ。「このような神話的イメージをかかる早い時代まで跡づけることができるか疑問である」。「じつに震撼すべき他界という件の観念の根本にあるのは、恐怖と不安を呼び起こす死者とその曝置にほかならない。

 ネリー・ナウマンの考えを辿るのはこの箇所にとどめるが、ぼくは驚いた。琉球弧の再葬を、再生とさらっと言い当てて、アルタイ諸民族のそれと比較し、「一見同じに思える両者にも本質的なちがいがある」と、これまたさらっと言ってのけている。ぼくたちがやっと辿り着いた認識がここでは長年の鍛錬の結果のように、要点のみくっきり浮かび上がらせている。

 自分の考えを整理する意味を込めて、細部の認識の違いだけ指摘しておきたい。まず、殯は、死者との共存のなかで、死が生からの移行という観念を得た段階で発生すると考えるので、「平地式建物」に安置された例が殯だということはありえると思う。「かなり疑わしいようだ」という理由が知りたいところだ。

 琉球弧とアルタイ諸民族では、「本質的なちがい」があるとはいえ、アルタイ諸民族では、「死者の行くべき世界がどんなものであれ、それは生者の世界とは完全に分離している」わけではいと思える。この葬法を遺したのはシャーマンで、彼らは天界を志向するが、天界の場合、生者の世界と完全に分離しているというより、移行の段階の思考を残していると思える。そして、その葬法が琉球弧の同じに見えるのは、それがアルタイ諸民族の古い葬法だからだ。後代は、その葬法をシャーマンのみが継続した。その時には、他界が発生しており、シャーマンの場合は、天界と結びつける。そして、再生はありうるという可能性の表現にとどまる。

 黄泉の国のな神話的イメージを「かかる早い時代まで跡づけることができるか疑問である」といのはその通りだ。しかし、「じつに震撼すべき他界という件の観念の根本にあるのは、恐怖と不安を呼び起こす死者とその曝置にほかならない」というのは、保留がいる。曝置のように見えるのは、そうした葬法を採っていた段階では、種族は遊動する生活を送っていたからだ。だから、死者が「恐怖と不安を呼び起こす」というのは、少なくとも、死者と共存する段階以降であるはずだと思える。

『生の緒―縄文時代の物質・精神文化』


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