『神話と夢想と秘儀』(エリアーデ)
ミルチア・エリアーデの『神話と夢想と秘儀』で考えてみたいのは、死と不死のことについてだ。
原始人においてわれわれが調査しうる《不死性》についての諸観念はすべて-文明化された人々における場合とまったく同様に-前もっての死を含んでいる。つまり死後の精神的な《不死性》ということがつねに問題なのだ(p.95)。
これは、死を知ったあとの、かつ霊魂思考のもとでの思考だと言える。
この《精神的な》状態は、魂と肉体との分離の可能性がない、すなわち死が存在していなかったために放心というものが少しでも必要でなかったようなあの以前の状態に比較すれば、ひとつの堕落を意味している。魂を肉体から分離し、ただ《精神的な》原理のみにもとづいて死後の存続を限定することによって、全体的な人間の統一性を打ち破るのが死の出現であった。別の言葉でいえば、未開人のイデオロギーにとって今日の神秘的体験は初源的な人間の感覚的体験よりも劣っているのだ(p.133)。
これはシャーマンについて書かれたものだ。人間が不死だった楽園時代を離れると、シャーマンがそれを再現するようになった。しかし、それは霊魂の水準にとどまるものだ。
(前略)アルカイックな社会の人々は、結局、死を停止として見ることをやめ、ひとつの移行儀礼となるほどの重要性を死に付与することによって死を征服しようと努力している。言いかえれば、未開人にとっては人々はつねに本質的でないようなものに対して死ぬ。とりわけ世俗的な生に対して死ぬ。要するに死は最高のイニシエイションとして、すなわち精神的な新たな存在の開始として考えられるに至るのだ。
これは、成人式と秘密結社への入会式に、なぜ同じ図式が現れるのかについて自問自答したものだ。死を移行儀礼とするのは、再生信仰のもとでと、霊魂思考が死を移行として捉えるときとのふたつあり得る。この両者に共通して言えることがあるとすれば、楽園時代への接近への憧憬だろうか。
エリアーデの言をもとにすれば、あの死の起源神話は、楽園の喪失を契機にすることになる。
ネフスキーは、宮古島で、死の起源神話を採取することができた。
節祭(シツ)の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居ったから、人が若返り、蛇は若返らずに居った。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になったといふ(富盛寛卓)。
むかしむかし節祭(シツ)の夕に天から水を下ろして下されたら「人から先に浴びろ」との事でしたが、人間がまけて蛇が先になって浴びたので、人間は仕方なしに手と足とを洗った。だから爪だけがいくらぬいても、つぎからつぎへと生えて来るのである。蛇は死んでもどんどん蘇生してゆけるのである(垣花春綱、『月と不死』)。cf.「脱皮論 メモ」
死と不死が、人間と蛇との対比で語られるのは、よく了解できる。同時に蛇はトーテムだった可能性もあるが(琉球弧でない場合は、メラネシアなどではそうだ)、死について人間と蛇は異なっているのに、なぜ蛇をトーテムとすることができたのだろうか。
蛇と似ていると感じたことのなかには、不死が含まれていたに違いない。もっといえば、不死に対して、似ていると感じたと思える。これは矛盾するように見える。ありえる解答としては、トーテムとしたときの不死とは、すでに死を前提とした上での再生か、あるいは、エリアーデが言うように生からの移行として死を捉えるか、どちらかだと思える。
言いかえれば、蛇やアマムは、死の移行の段階までは、トーテムであり続ける根拠を持っているということだ。
こうやってみると、人類は死を知ってもなお、不死に対して追求し続けてきたものだ。考えてみれば、それは止むことはなかった。野生の思考の段階で考えられた不死への追求は以下のものだ。
1.生まれ変わるという再生
2.親族の誰かのなかで生きるという弱められた再生
3.異類への転生
4.死を移行とみなす
5.イニシエーションにおける象徴的な再生
エリアーデは身を乗り出すような筆致で本書を締めくくっている。
すなわち、もしひとがすでにこの世で死を知っていたなら、もしひとが別のものに再生するために絶え間なく無数に死ぬならば、--ひとはすでにこの世で、この地上で、この地上のものではなく聖なるもの、神にかかわるような何ものかを生きるということになる。彼は不死のはじまりを生き、次第に不死になってゆくと言えよう。その結果、不死はもはや死語の(post morterm)生存と考えられるべきではなく、ひとが絶えずつくり出してゆき、そのために準備をし、またいまから、すなわちいまこの世界においてひとがかかわり合うひとつの状態として考えられるべきなのだ。無死つまり不死とは、ある限定的な状態、すなわちひとが自らの全存在をかけて努力し、不断に死に、かつよみがえることによって征服しようとする理想的な状態なのだ。
もうひとつ、気づきを得られたこと。
女性のイニシエーションは、初潮とともに個別的に行なわれる。彼女は即座に隔離され、森や目立たない片隅などに置かれる。月経中は居心地の悪い恰好をしなければならなず、太陽に当たること、人に触れられることを避けていなければならない。あるしるしをつけられ、生のものは食べてはならない。持続期間は三日から数年まで異同がある。この間にイニシエイションを行う女性は集団になる。集団的な踊りで終わる。
多くの地域でイニシエイションのすんだ娘は人々に見せびらかされ、お祝いをしてもらい、あるいは贈り物を受けるために家々を行列を作って訪問したりする。またそのほかに例えば入墨や歯を黒く染めたりしてイニシエイションの完了を示す外見的しるしもある(p.268)。
琉球弧のハジチ(針突)も、もともとは女性のイニシエーションの一環だったのだろう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント