藤内遺跡の蛇体頭髪土偶
蛇体頭髪土偶(藤内遺跡の第16号住居跡から発見された。縄文中期中葉のもの)については、ネリー・ナウマンが、「生の水をもつ月神」だと解釈している。頭部にとぐろを巻いた蛇はその水を飲んでいる。ここにあるのは、月という象徴を通じた不死のモチーフだ。
中国の仰詔文化(約5000年前)に属する羊山遺跡からは、首をうねりながら頭頂部に頭を載せて口を開いている蛇を描いた彩陶が出ている。トルコ(原文)東南部のネバリ・チョリから出土した9000年以上前の彫像は、蛇が頭蓋のうしろに垂れ下がり、頭は頭蓋の頂上にあって前向きになっている。
イラン西部から出土した動物型製品では、「蛇が動物の背中をうねりながら進み、角のあいだにその頭を載せている」。角は、三日月状に湾曲している。蛇の頭が三日月形の角の中間にあることに表れているのは、蛇が角が形づくる三日月から水を飲んでいるということだ。
三日月を模した角は、盆の形状をとることもある。三日月は盆である。藤内遺跡の蛇体頭髪土偶の顔は窪んでいるが、それは盆である。
ネリー・ナウマンの神話的思考の読みが妥当なものかどうかを判断するのはぼくの手に余る。ただ、違和感があるとすれば、「神」という表現で、「生の水をもつ月の化身」という表現の方が受け取りやすい。
蛇体頭髪土偶に引きつけられたのは谷川健一だった。谷川は、金久正の文章を読んでいたからだ。
昔の呪女(のろ)神は、よく波布(ハブ-引用者)を制し、アヤナギを這わすといってアラボレ(十五、六才の娘らよりなる、呪女の従者)をたちの頭髪に波布を巻きつけたという。(『奄美に生きる日本古代文化』金久正)
アヤナギは「綾蛇」で、蛇の美称だ。これを読むと、谷川が興奮するのも無理はない。頭髪に波布(ハブ)を巻きつけたアラボレの姿は、蛇体頭髪土偶そのものに見えるからだ。誰だって、それが既知のものになっていなければ、心躍りながら両者をむすびつけるだろう。
谷川は脇目も振らず仮説する。
この女人土偶は何を示すか。私の考えでは、縄文中期に巫女が出現したことを意味する。それは日本における神観念の黎明を告げるものである。そう判断するには考古学者のおきまりの埒をこえた想像力が必要である。(『蛇―不死と再生の民俗』)
それは一気に定理へと突き進む。
はじめに巫女があった。巫女は神とともにあり、巫女は神であった。
これは谷川にとっては発見であり、「南島の民俗と比較して、これがどういう意味であるのかを述べたのは、わたしが最初です」と強調している。考古学者に対してだけでなく、自説のごとく自著に展開しているとして、同じ業界の女性民俗学者に対しても噛みついているから、この「発見」は谷川にとって重要な意味を持っていた。
しかし、巫女をわざわざ土偶化するモチーフは何だろう。そこが解かれなければならないが、ぼくはそれを考えるより、ネリー・ナウマンの考察に一定の信憑を置けば、不死もしくは死と再生をモチーフに含んだ蛇体頭髪土偶の像があって、巫女はその出現の際に、そのモチーフを体現したということではないだろうか。
蛇体頭髪土偶の図像のモチーフは、中国、中近東へと連なるだけでなく、ネリー・ナウマンも宮古島の死の起源神話を引用しているように、琉球弧にもつながるから、アラボレと蛇体頭髪土偶をつなぐのは不自然ではないと思う。しかし、谷川の、蛇体頭髪土偶と巫女との同一視と、巫女と神との同一視は、時間をかけて成立していったものを一点で把握しているように見える。
縄文時代中期中葉に属する藤内遺跡は環状集落であり、段階としては生と死は移行の段階に属している。自己幻想と共同幻想は分化から分離へと進む途上にあるから、ここで巫覡が出現する根拠を持っている。ぼくたちは、蛇体頭髪土偶は、琉球弧の巫覡のモチーフだったと考えておきたい。
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