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2015/08/05

「貝塚時代後期文化と弥生文化」(新里貴之)

 新里貴之は、琉球弧への搬入土器の所属から、貝交易の主体を割り出している(「貝塚時代後期文化と弥生文化」『弥生文化の輪郭』)。

 1.縄文時代晩期~弥生時代前期・中期初頭 九州集団
 2.弥生時代中期前半~中期後半 九州集団+奄美集団
 3.弥生時代中期後半~ 奄美集団

 つまり、九州集団から奄美集団への変遷があったわけだ。

 面白いのは、これに対応した沖縄の集落の性格を分析していることだ。まず、湧水点を中心にした「在来型拠点集落」と交易にむすびついた「交易集落」。ただし、両者は地理的に近接していた可能性は高い。

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 これは、竪穴式住居と掘立柱建物が混在する集落と掘立柱建物のみ見られる集落に対応しているのかもしれない。また、外来品も貝集積遺構も検出されない「分岐集落」も想定される。

 そして、新里が描き出している沖縄内、対奄美に対応した集落の構造はこうだ。

 A1:在来の拠点集落=交易拠点。東岸地区(宇検、浜比嘉島、津堅島)
 A2:在来の拠点集落=交易拠点。伊江島地区、西側離島地区(慶良間諸島)
 B1:在来の拠点集落と交易拠点の近接。西岸地区(嘉門)
 B2:交易拠点(拠点集落かは不明)。本部地区、名護地区
 C:対外交易に関係性希薄。本島内周辺離島

 宇検や伊江島、嘉門周辺は当時の中心地だったのではないだろうか。

 沖縄諸島では、弥生時代中期(貝塚時代後期)以降、84%の遺跡地が砂丘・沖積地という低立地になる。なぜなのか、交易に対応したという考え方はあるが、新里は書いている。

交易という外的な要因のためだけに、集落立地を変えるということはあり得るか、沖縄諸島の在地文化に大きな影響を与えていないことからすれば疑問が残る。

 確かにその通りだ。貝塚時代後期は、伊藤慎二の区分でいえば定着期に入って2600年、経過しており、漁撈・採集の生業スタイルになって久しい。内在的な理由に求めるとすれば、魚場の確保という問題が浮上してきたのかもしれない。

 一方、後期は交易に奄美集団が関与し、その比重が高まる時期に対応している。奄美集団の登場は中継ぎ機能ができたことを意味している。それまでの九州集団との交流はいわば直接的だった。もちろん九州集団も、最終的に貝製品を身につける者がやってきたわけではないが、弥生文化を身体化した九州集団と、いわば貝塚文化にいる奄美集団とでは来訪の意味が異なったと思える。

 そこで考えたいのは、奄美集団が関与する前段の、縄文時代晩期から弥生時代前期、中期初頭までは貝の提供は、交易というより贈与だったのではないだろうか。そしてその贈与的な態度は終始、続いたのではないだろうか。

 木下尚子は、「貝交易からみた異文化接触」(「考古学研究 第52巻第2号」2005年)のなかで、貝交易が長期かつ安定的に継続した理由について、「大和において「需要」が継続し、かつ南島人がこれに応じ続け、輸出品である貝殻が常に豊富だったからである」としている。「南の貝殻の需要は大和で一方的に生まれている。したがって、交易の開始や打ち切りの決定権は、つねに大和側にあった」。だから、7世紀に交易は一時、収束するのである。

 木下はもうひとつ要因を挙げている。「南島人が生産者の役割に徹し、更なる交易拡大のための行動をおこさなかった点である」としている。

南島人が鉄や穀物を歓迎していたのであれば、これをさらに多く入手するために自ら北上し、薩摩半島や北部九州によりよい文物を求めてもいいように思う。しかしそうした行為の証拠を、彼らはほとんど遺していない。南島人はなぜ自ら北上しようとしなかったのだろう。

 なぜか。交易からもたらされるものを、南島側は必需とは考えていなかった。彼らにとって、貝の提供は、贈与だった。まれびとの来訪に対して貝で応えていたのだ。奄美集団の関与から交換という意味を持ち始める、それに対応した集落や集落ごとの役割分担も持ち始めるが、贈与的な態度は基本的には変わらなかった。

 黒住耐二は南海産貝交易について、「ある種の贈答品」としているが、共感する。

出荷したゴホウラ等の対価として、沖縄の人々が何を入手していたかは、三翼鏃(ぞく)・ガラス玉等の搬入遺物は存在するものの、過去に想定されていた水田稲作および食用穀物の持ち込みはほぼ否定され、絹等の織物や液体等も指摘されているが検出が困難なこともあり確認されていない。(貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」)
 支配者層が確立し、穀類農耕の行われていた日本列島から、交易品として沖縄側が受け取った三翼鏃(ぞく)・ガラス玉・鉄器等の"威信財"は出土量として少なすぎるのではないだろうか。

 見返りは、「少なすぎるのではないか」という指摘を受けて、ぼくが考えるのも、やはり贈与である。約5000年間、琉球弧は漁労-採集経済を継続した。珊瑚礁と海からの圧倒的な贈与を受けて、社会を成り立たせてきた。その贈与に対する返礼の心は、他界からやってくる人々にも向けられていたのではないだろうか。言い換えれば、彼らの来訪そのものが贈与に値したのではないだろうか。

 

『弥生文化の輪郭 (弥生時代の考古学)』

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』

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