『西太平洋の遠洋航海者』(マリノフスキー)
出版から1世紀近く経って、いくぶんかの予備知識をもってこの本に臨む者にとっては、クラ交易を行なう過程での夥しい呪術の数々に驚かされることになる。マリノフスキーは、クラと呪術について、最後にそれぞれ章を設けて論じているが、そこに辿り着く前に、呪術に感心しきりになっている。
たとえば、交易先の島に着いて浜辺で行なう身体洗浄の儀礼では、カイカカヤの呪文が唱えられる。
「おお、カタトゥナの魚、マラブワガの魚、ヤブワウの魚、レレグの魚よ」
「塗るための彼らの赤い塗料、愛しあがめられるための彼らの赤い塗料」
「彼らは、彼らだけで訪れる。われわれは、いっしょに訪れる。彼らは彼らだけで、われわれは、いっしょに首長を訪れる」
「彼らは、私をふところに入れて抱きしめる」
「偉大な婦人が、壺の煮えたぎるところで、私の味方となる。善良な婦人が、腰かける台の上で、私の味方となる」
「二羽のハトが、立ち上がって回る。二羽のオウムが、飛び回る」
「もはやそれは、私の母ではなく、あなたこそ私の母だ。おお、ドブーの婦人よ! もはやそれは、私の父ではなく、あなたこそ私の父だ。おお、ドブーの男性よ もうそれは高い台ではない。高い台は彼の腕だ。もうそれは、腰かける台ではない。腰かける台は、彼の足だ。もうそれは、私の石灰のさじではない。私の石灰のさじは、彼の舌だ。もうそれは、私の石灰の壺ではない。私の石灰の壺は、彼の食道だ」
ドブーとはいましがた着いたばかりの島のことだが、唱える本人にとっても呪文の意味はすでに充分には分からなくなっている。ぼくももちろん、分からないのだが、自然の擬人化と自在な化身との織り成す比喩に接していると、呪術が、人間が自然から自分を区別したあとに生まれる空隙を埋めるための行為だということが分かる気がする。人間は自分自身を自然とは異なる存在だと認識してしまった。だからそれは、局面が変わるたびに、唱えなければならないのだ。
マリノフスキーによれば、「呪術は、つねに存在したものとして伝えられてきた(p.353)」。ある呪術は、地面の穴のなかから出てきた人間といっしょにもたらされたとか、穴から出てきた最初の祖先の手で地下から持ってこられたものとか、要するにトロブリアンド諸島の他界からもたらされたと考えられている。これは地下に他界を表象した時に編集されものだと思えるが、それは自然からの分離を意識したときに遡るのだと思う。マリノフスキーが、「呪術は、人間にとって、父祖の時代との伝統的なつながりの本質をなすもののように思われる(p.359)」と書くのは、そのことを指していると思える。
神話と呪術は、国家と法に似ているかもしれない。神話や国家は、根本をなし、呪術や法が、それと日常の現実の橋渡しを行うという意味では。でも、神話と国家ではまるで違うのも確かだ。国家は、そのもとの市民との非対称性を際立たせるが、神話は生きる現実そのものであり、そのなかに人間のありかたもしっかり組み込まれている。
あとはトロブリアンド諸島は、霊力思考が優っているから、そのもとでの呪術のあり様がよく伝わってくる。
すべての呪術は、地下の世界でむかし発見された。われわれは、決して夢のなかで呪文を見つけない。もしそういったら、うそになるだろう。精霊はけっしてわれわれに呪文を与えない。歌や踊りを与えてくれるのはたしかだが、呪術はくれない。
トロブリアンド諸島の悪魔学においては、呪術師は、霊に、行けとか仕事をせよとか命令を発しない。仕事は呪文の力によって行われ、呪文は、それに随伴する儀式に助けられ、それにふさわしい呪術師によって行われる。呪術の力のみが積極的なものであり、霊と呪術の関係は、呪術を行なう者と呪術の力の関係と同じである。霊は、呪術師を助けて呪術の力を適切に発揮させる。しかし、霊は、決して呪術師の道具にはならない(p.394)。
呪術の際に、霊や精霊の助力を求めるわけではない点は、霊魂思考が優位な北方のシャーマニズムとの相違点だ。
呪術では、「物体が、声の十分とどく範囲内の適当な位地に置かれる」。「呪術を正しく行うためには、声が直接に物質に伝えられなければならない(p.365)」。だから、着物に呪術をかけるときでも、口を近づけて行う。聞こえないからではない。声をあたかも物質と見なしているように、直接、触れるという感触が必要なのだ。それをマリノフフスキーは、「呪術のことばは、いわば、たえまなくくりかえして物質にこすりつけられるのである(p.372)」と書いている。霊力思考のもとでは、モノであることが重要なのだ。
また、呪術は「腹のなかにしまっている(p.373)」と言われる。これも、呪術が内臓を根拠にした霊力であることを示している。
さらに、トロブリアンドでは、妖術師は恐れられるが、「人々が死者の霊に関しては、そのような恐怖の感じをまったくもたない(p.391)」。これは、彼らが再生信仰を持ち、生と死について移行の段階の心性をよく保存しているからだ。
さて、クラにおいて、赤色の貝の、長い首飾りソウラヴァは時計回りに、白い貝の腕輪ムワリはその反対方向にめぐる。それらは各島で滞ることなく、一年、二年以上は保有することなく、まるでトロフィーのように、次の島に手渡され、二年から十年をかけて一周する。そしてそれが延々と続けられる。
これは交易には違いないが、基本的には贈り物として渡される。ソラヴァを贈ったた、その見返りとしてムワリを受け取るだろう。しかし、その場ではなく、時間をおいて受け取る。遅延された交換なのだ。そして、物々交換や商業交易は、クラに付随して行われるのだ。
この絶え間ない贈り物の流れが、島々をつなぎ、大きな輪が描かれる。そこには、円環する大きな霊力の流れが生まれているようにみえる。けれど、円環と表現するのはちょっと当たっていないようだ。クラの航海の映像作品を撮ったジュッタ・マルニックに、トロブリアンド出身でクラの指導者でもあるジョン・カサイプワロヴァはこう話している。
思考にはリニアと螺旋という、二つのやり方がある。あなたがリニアな思考法で、たった一つの点に集中していると、自分を孤立させることになる。自分を一つの方向に狭めてしまうからだ。でも、生命の世界は樹木やまわりにあるすべての自然で出来ていて、あなたが生きているあらゆる瞬間に、あなたに何かを与えている。あなたがグムの原理を、螺旋の中心点の原理を理解できたときには、あなたは疲れ果て死に絶えて惨めな結果に終わるクラと、力強い目的にあふれたクラとを、はっきり見分けることができるようにるだろう。成功裏に終わるそういうクラは真実の冒険であり、真実の冒険とは螺旋の姿をしている。われわれのおこなっているクラははじめ魔術から生まれたものだが、みんなの経験によって豊かに発達してきたものなのだ・・・。(p.433)
つまり、円環ではなく螺旋として思い描くのが正確なようだ。ぼくたちはここで、リニアと螺旋の思考を、霊魂思考と霊力思考として理解することができる。また、クラが霊力を枯れさせることなく、人びとを豊かにする潜在力を持つものであることに、心を動かされる。
クラは、マリノフスキーも「珍しい型の民族学的事実であるように思われる」と書くように、ニューギニアの東の海だけで生まれた独創的な贈与の螺旋の例なのかもしれない。けれど、螺旋のようにめぐる贈与の霊力というイメージは、普遍性を持っているように思える。
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