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2015/08/31

『経済学・哲学草稿』の自然哲学

 長谷川宏訳でマルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでみた。

 類的生活の基本は、人間の場合も動物の場合も同じだが、まずもって肉体的に人間が(動物と同じく)非有機的自然に依存して生きている点にある。そして、人間が動物を超えて普遍的になればなるほど、人間の依存する非有機的自然の広がりも普遍的になる。植物、動物、石、空気、光などが人間の意識に入りこみ、理論的な面では、ときに自然科学の対象に、ときに芸術の対象となって、精神的な非有機的自然ないし精神的な生活手段として、加工した上で享受され消化される。と同時に、植物、動物、石その他は、実践的な面でも、人間の生活と活動の一部をなしている。自然の産物のあらわれかたは、栄養、燃料、衣服、住居など種々雑多だが、肉体的存在としての人間は、そのような自然物に依存しないでは生きていけない。人間の普遍性は、実践的には、まさしく自然が自然の全体を自分の非有機的身体とする普遍性のうちにあらわれるので、そこでは、自然の全体が直接の生活手段であるとともに、人間の生命活動の素材や対象や道具になっている。自然とは、それ自体が人間の身体ではない限りにおいて、人間の非有機的な肉体である。人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体であるということであり、人間が死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、自然が自然と結びついているというのと同じだ。人間は自然の一部なのだから。

 読みやすくなったのに感心していると、別のことに今まで以上に気づかされる。

全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間との相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とかんがえたのである。(吉本隆明『カール・マルクス』

 ぼくはマルクスの自然哲学を、むしろ吉本の文章で理解していたが、マルクスの意をくみ取り、この反作用の側面を取り上げたのは吉本の功績なのではないだろうか。相互関係として捉えたこと挙げは吉本がなしたことであり、そのことがことのほか重要だったと思える。


『経済学・哲学草稿』

『カール・マルクス』

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