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2015/08/28

『日本的霊性』

 琉球弧の精神史を追っていて、『日本的霊性』を読むことになるとは思ってみなかったが、鈴木大拙にしても、「日本精神史」というモチーフを抱いていたのだから自然なのかもしれない。

 霊性に目覚めなければならない。「精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である」。無分別智。分節して世界を捉えることを止めるということだと思う。すると、モノ同士がつながった世界がやってくるはずだ。

 「莫妄想(まくもうぞう)」とも書いている。「二つのもののあいだに媒介者を入れないということである」。世界の前に自己を立てずに、一体化するということだと思う。

 そして、「大地性」。「霊性(中略)ほど台地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。大地の底には、底知れぬものがある。空翔けるもの、天降るものにも不思議はある。しかしそれはどうしても外からくるもので、自分の生命の内からのものでない。大地と自分とは一つものである」。ここで鈴木は、平安を否定して鎌倉を持ち上げているのだが、古いことばを使えば、象牙の塔のなかに霊性はないと言っているのだと思う。

 「無分別智」と「莫妄想」は、ぼくたちの文脈でいえば、霊力を発動させるための方法だ。「大地性」は、琉球弧でいうなら「珊瑚礁性」ということになると思う。もっとも、大拙の言うような武士にとっての禅や農民にとっての浄土真宗のような思想的深まりが文字としてそこにあるわけではない。

 ただ、大拙が、

今までの二元的世界が、相克し相殺しないで、互譲し交歓し相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。

 こう書くとき、琉球弧の方がそれに近い場所にいると思える。

 大拙は、この覚醒まで歩んだ人々として妙好人を挙げている。妙好人とは、「浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる人」を指す。その一人、浅原才一がいくつもの歌を遺している。

 わしが阿弥陀になるじゃない。
 阿弥陀の方からわしになる。
 なむあみだぶつ。

 「無分別智」と「莫妄想」を行えば、阿弥陀の方から自分を捉えてくる。絶対他力に通じている。

 大拙は鎌倉を持ち上げる分、平安に手厳しい。「平安人というは、大地を踏んでいない貴族である」。カナ文化を称揚するが、あきれもする。

漢字および漢語文化に反対して、日本字と日本語の文化が出来たのは有難いが、言語はとにかくとして、文字はかよわいものだ。平安文化は女性で支配せられていたから、已むを得ぬと言えば言うものの、公卿さんたちの意気地なさにはあきれる。

 意気地。いくじ、いきじ。「おもろそうし」では、これのアナグラムみたいに、いじけ、いぢけという言葉が出てくる。解釈する中で当てられ漢字は、「意地気」。「意気地」に対する「意地気」。これは何だろう。使われ方は、いじけふた(立派な集落)のように、接頭の美称辞だった。大和言葉をもとにしたとき、どうして「いくじ(いきじ)」ではなく、「いじけ」となったのだろう。大和に「いじけ」という言葉があったのだろうか。それはないとしたら、元になっているのは、「意気地」ではなく、「意地」で、それに「気」を当てたということだろうか。すると、小(ぐゎ)と同じで逆語序の感覚がここに働いていると見なせばいいのかしらん。

 もうひとつ。大拙の文脈からは離れるが目に留まった箇所。

自分の家にいた年寄ったもの、自分といっしょに長く家庭の生活をやってきた人が亡くなったからといって、その人のやっていたことは、どうしても替えにくいものである。その人の使用した道具なども、そのままにそこに据えておきたいものである。

 ここには、死者の家を捨てる習俗の遠い残響を見る気がする。


 『日本的霊性』の覚醒を標語化すれば、霊力発現、だ。これを大拙は1944年に書いている。日本の敗戦を見越してこれを書き、敗戦後の覚醒として、『日本的霊性』を置いたのだとしたら、とても本質的だったということではないだろうか。


『日本的霊性』


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