「縄文時代の葬制」(大塚和義)
少し古い書籍になるが、大塚和義の「縄文時代の葬制」(『日本考古学を学ぶ〈3〉原始・古代の社会』)に当たってみる。
確実に葬られた事例は、縄文時代早期中葉。大分県二日市の洞穴で、屈葬。愛媛県上黒岩岩陰でも屈葬。
これらの洞穴や岩陰の埋葬例にみるように、縄文時代の埋葬はその出現当初から死者が生前おもな生活の場としていたところにきわめて接してなされることが一般的な特徴である。生活の場と埋葬の場を近接させるという、まさに、この点が縄文時代埋葬の基本的な性格であると指摘しておきたい。
早期後葉の栃木県大谷寺洞穴。屈葬一体と頭蓋骨のみ三体分。
この頭蓋骨のみのものは、改葬されたものとみなされており、骨骼の他の部分よりも頭蓋骨が重視されていることは疑いない。
頭蓋骨のみを葬る例は、縄文時代を通じてしばしばみられる。(中略)遺体が白骨化してから頭蓋骨のみを移動させたと推測される。
早期後葉というのは6000年前よりもう少し前ということだと思う。ぼくたちは頭蓋崇拝らしい例として見ることになる。
前期中葉の葬法で特筆すべきは、「これ以前の単一なる屈葬支配をうちやぶって、伸展葬が登場することである」。
いぜんとして伝統的な屈葬が日本列島の葬法として優位を占めながらも、伸展葬がこつぜんとあらわれたことは、軽視できない背景と内容の存在を推測させる。
ぼくたちの考えでは、これは霊魂思考に霊力思考が混融したことを示している。つまり、定着生活を送る種族に、遊動生活を止めた人が混じった可能性を持つ。
屈葬と伸展葬の同時共存も見られる。これは、「出自・系統のちがいによるものであ」る。この大塚の考えは可能性があると思える。
後期中葉には、伸展葬が屈葬を上回るようになる。加曾利B式期が、「縄文時代でもっとも伸展葬が顕在化することを指摘できる」。
大塚は、乳幼児の甕棺葬が屋内で行われることを例にとり、中期後葉にみられる顕著な特徴として、「再生観念とこれまでよりかたく結びつくこと」を挙げている。これは、ぼくの今の仮説では、中期後葉に始まったことではなく、伸展葬の増加と対応している。つまり、再生観念を持った人びとの定着化が進んだことを示している。
後期末葉から晩期には「副葬品は明確なかたちで存在する」。これは他界の空間化に対応すると考えられる。
メモ
・早期後葉 屈葬と頭蓋骨
・前期中葉 伸展葬の出現
・後期中葉 伸展葬>屈葬
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