マンガイア島とティコピア島
マンガイア島で、他界の入り口が塞がれてしまう背景にあったものをデイビッド・モントゴメリーの『土の文明史』でうかがうことができた。
2400年前ころから始められた焼畑農業は、800年前には、「耕作された斜面の表土ははぎ取られてしまい」、谷底で営まれる労働集約的な「タロイモの灌漑農業に依存するようになった」。
このような肥沃な低地は、島の地表わずか数パーセントを占めるに過ぎないため、絶え間ない部族間抗争の戦略目標とされた。人口がこの肥沃なオアシスを中心に集中するにつれ、最後の肥沃な土壌を支配することが、政治的軍事的権力を意味するようになった。
1000年前から350年前の間にオオコウモリが姿を消した(片山一道によると、マンガイア島人は、オオコウモリ猟が大好き、とあるから復活したということか)。在来の鳥類種の半分以上は絶滅した。1777年にキャプテン・クックがこの島を訪れた時には、「ブタとイヌ、そしておそらくニワトリも食べつくしていた」ことが示唆される。、
蛋白源がほとんどなくなってしまうと、先史時代の岩窟住居から発掘される埋蔵物の中に、焦げたネズミの骨の比率が圧倒的に多くなる。19世紀に訪れた宣教師によれば、ネズミはマンガイアで非常に好まれている。
焦げ、折られ、齧った跡のある人骨が紀元一五〇〇年前の岩窟住居の埋蔵物から発掘されており、ヨーロッパ人と接触するわずか二〇〇~三〇〇年前に激しい資源争奪戦があったことを証明している。絶え間ない抗争、力による支配、恐怖の文化が、ヨーロッパ接触以前のマンガイア島社会の最終状態を特徴づける。
デイビッド・モントゴメリーは、マンガイア島とは逆に、うまくやってきた例としてティコピア島を挙げている。
ティコピア島は、焼畑農業を止めて果樹栽培を導入した。
何世代もかけて、ティコピア島民は自分たちの世界を、頭上にはココナッツとパンノキ、足元にはヤムイモとジャイアント・スワンプ・タロ(キルトスペルマ・メルクシー)が茂る巨大な庭園に変えたのである。一六世紀の終わりごろには、大切な庭園に害をなすという理由で、島の首長らは自分たちの世界からブタを一掃した。
それに人口ゼロ成長を旨とする人口抑制策を実行した。
デイビッド・モントゴメリーは、マンガイア島とティコピア島の違いについて、土壌の豊かさを挙げている。また、ティコピアは島民全員が互いを知っているほど小さいという説も引用している。ティコピア島は、5㎢と、マンガイア島の10分の1の大きさしかないから、たしかに島民の総意はとりつけやすいと言える。
マンガイア島の、死者の他界への道行きは、たしかに現世の世知辛さを反映しえいるわけだ。ちなみに、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』から、ティコピア島を見ると、天の他界を持っている。来世の応報があるかという質問には、「われわれの仲間に悪者はいない」と答えたという。葬法も詳しくはないが、死の当日は、親族は石や竹刀で自身を傷つけ、妻は顔に火傷をつくり、耳朶を破る。死後10日間は毎日、墓に食べ物を手向ける。カバ酒ははじめは毎日、そして時々を六か月まで続け、その後は、墓がある限り、六か月おきに供える。この記述だけからは多くを読み取れないが、マンガイア島のような伝承はないのかもしれない。
cf.『ポリネシア 海と空のはざまで』、「マンガイア島の貝利用」、「他界への道を塞ぐ(生と死の分離の契機)」、「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」
『土の文明史』
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