アマム図形
琉球弧では、アマムをどのような形態として認識していただろうか。それを見るのに、入墨は最適だ。アマム図形については、小原一夫の『南嶋入墨考』がよく引用される。
上記の図形が刺されるのは、手の尺骨頭部だ。手首の尖った箇所のことで、「くるぶし」のような名称が見当たらないので、尺骨頭部と言うしかない。まず、1~12は右手、13~23は左手のものだ。小原は、右の「+」を魔除け、左をアマムをシンボライズしたものとして考察していた。
しかし、これら全て入墨を施した女性から、アマムと聞けたわけではない。聞けたのは、奄美大島(14)と沖永良部島(20~21)のみである。たとえば、八つの花弁に見える八重山図形(15)は現地では「キク」と小原は聞き取っている。また、『八重山生活誌』ではカジマヤー(風車)と説明されている。ここで聴取にこだわってみる。市川重治の『南島針突紀行―沖縄婦人の入墨を見る』を見ると、左手尺骨頭部の円(沖縄島13と同じ)をアマムとした久米島で聞き取りした例を加えることができる。読谷村からは、円形がアマングヮと報告されている(『沖縄の成女儀礼:沖縄本島針突調査報告書』)。読谷村では、手の甲の部分の円も、マルブシという他、アマングヮともされている。
どの調査にしても網羅的な全体性は望めず、また、1900年以前の生まれの女性を主としたこれらの聞き取りからは、入墨の各箇所の名称も覚束ない状況なので、限定的にならざるをえないが、聞き取りの範囲から確実に言えるのは、沖縄島、久米島、奄美大島の「円」、沖永良部島の「渦巻き」はアマム図形ということだ。完全な対称性を示す円と生命の図形である螺旋をトーテムのなかに見る視線もとても納得できる。
小原は、入墨を施す手の位置として尺骨頭部に着目し、かつその中で共通したモチーフを持つと思われるものを抽出し、そこに共通した意味を見出そうとした。そこで、左手を「先祖」、右手を「魔除け」と仮説したのだ。この着眼は適切なものだとみなせば、奄美大島の渦巻き図形(22~23)はアマム図形に加えるてよいのだと思える。
花弁類型(八重山(15)、与那国島(17)、喜界島(17~18))は、確言することはできない。ただし、アマムの貝に見られる筋を放射のように捉えることもできるし、八重山にはアマムを祖先とする伝承はあるから、可能性は持っていると言える。また、与論島の星型が円類型に入れられるかどうかは、花弁型と同程度の可能性は持つと思える。
確実にアマム図形と言えるのは「円」と「渦巻き」であり、「花弁・放射」や「星」がその可能性を持つものとして挙げられるわけだ。
位相同型のなかに入らないのは、宮古島だ。さすが、宮古島では、アマムが「神の下等な使い」として厳しい身のやつし方をしただけのことはある。ここで、アマムの入墨もあったはずだと仮定すれば、左手の尺骨頭部にときおり見られるものに「+」と「×」を重ねた八本の放射線図形が浮上してくる。宮古では、これをトウヌピサ(鳥の足)としているが、この図形を花弁類型に含め、かつ、アマム没落に伴った意味の読み換えと見なすのである。これは強弁はできないものの、可能性として指摘することはできるだろう。
興味深いのは、宮古島や池間島ヤドカリは退場しているが、それに代わるように前腕に蟹が登場することだ。これは、没落したアマムに代わって、前腕に蟹が進出していったのかもしれない。
実は多良間島には、アマムが出現する。しかし、『南島針突紀行』によれば、多良間島ではアマムはヤドカリではなく蟹を意味している。酒井卯作は1974年に、多良間島で当時96才の上地メガさんに聞き取りをしている。上地さんは、六歳の時に自分で針突をしたというから驚きだ。離島で針師はいなかったから、自分でやったという。「ふつうならば十二、三才でハリツキをする慣習」だが、学校でも禁止されていたので、入学前に済ませてしまったのだった。「親たちもハリツキをないと「後生」に行けないといって積極的にこれをすすめた」というから、信仰の深さが分かる。メガさんは菊や星、お膳の形を独創していったが、ただアマンだけは「伝統にしたがって左の手首にいれた」。この、多良間島のメガさんも「アマンとは蟹のことだ」と話している(「南島研究」26号)。
多良間島のアマム名称が示すように、ヤドカリと蟹は、トーテミズム思考では位相同型と見なせるから、その意味では宮古諸島もアマム空白地帯ではないのだ。
『南嶋入墨考』には、多良間島で「卍」を逆にしてやや斜めに反らせた図形もアマムとされている。これが宮古島では、トゥーバフと呼ばれている(意味は分からない)。『南島針突紀行』では、「卍」を逆にして、二本の線のうち一本を曲線にしたものはチビンギヤーと呼ばれ、「後を向かい合うこと」と説明を受けた市川が理解に窮している。(『南島針突紀行』にある上の一覧図では、逆「卍」は二つの線ともに曲線で出ている)。
宮古島で先祖に見せる意味を持っているのは、手首の内側につける小さなほくろのようなウマレバンだ。
ウマレバンは富貴の印であり、後生に行けば先祖や神様に見せなければならない文様であって、これがないと神様から素手で牛の糞をつかまされた。(『南島針突紀行』)
宮古島は、ウマレバンだけでなく、点や線をモチーフにした図形が多い。かつ、入墨を施す範囲も前腕に伸びており、他島より広い。この点と線の図形の広がりを見ていると、ぼくには、宮古島が、島を目印に訪れる島ではなく、星を目印に訪れる島であるという島人の世界感受が反映されているように思えてくる。とにかく、色濃い奄美大島とは対照的だ。
市川は、宮古諸島で、しばしば右手の背部中央が、トウヌピサで左手中央が田の字形になることについて書いている。
私はこの二つの文様を直感的に前者は太陽や天、火を象徴するものとし、後者は水田、水稲、地、水を象徴すするものと判断する(『南島針突紀行』)。
ぼくは、霊魂の衣裳としての身体に施された入墨は、トーテムが根本的であり、悪霊を思考するようになって以降は、身体を保護するものとしては魔除けを意味したと解するが妥当だと思える。
実はアマム図形を探ったほかにシャコ貝図形を見つけられないかというモチーフもあった。それは見いだせなかったが、国頭では、右手の指と掌の関節部に楕円が描かれるが、それはグジュマ(ひざら貝)とされている。また、今帰仁近くの源河では、左手の同じ位置の文様をウミヌグジュマ(ひざら貝)として聞き取っている。貝も入墨図形としてあり得るわけだ。
ところで国頭の例では、右手の楕円に対して、左手は長方形が上下に三角に切り取られて描かれるが、これをホーミ(女陰)と呼んでいる(読谷村では、この図形はカイマタまたはクジマと呼ばれ、「海の生物の名称のようである」と報告されている。『沖縄の成女儀礼』)。那覇では、指と掌の関節部の両手の文様とも、ウミヌホウミボシ(海の女陰星)と呼んだ例も挙げられている。国頭の「貝」は、「女陰」に対応したもので、貝のシンボリズムを両手に展開したものと考えられる。しかし、「女陰」そのものを図形化するなんて、シンボリズムもへちまもなく、直接的だ。これをおおらかさと言ったら現代的な解釈になってしまうだろう。読谷村では、同じ楕円をホーミグヮ(宝貝)と、象徴化している(『沖縄の成女儀礼』)。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント