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2015/08/08

『中国古代貨幣経済史研究』の宝貝

 柿沼陽平は、中国の殷周時代の宝貝は貨幣ではなかったと考察している(『中国古代貨幣経済史研究』)。

 宝貝を陪葬(殉死者や副葬品を一緒に葬る-引用者)するのは中原(黄河中下流域の平原-引用者)文化の特徴。この宝貝の収集経路について、従来は陸路と言われていたが、可能性が高いのは、「(南海)→東南海沿岸→准夷→中原」という海路だ。

 「殷周の人びとは宝貝を死者の口に含めたり、手に握らせて陪葬しており、宝貝にはべつの呪術的な意義があったと解されている」。その呪術的要素とは何か。

殷周人が宝貝の腹部を女性性器に見立てることで宝貝を「生命と再生のシンボル」であるとみなし、それが死後の再生を願う呪術的信仰と結びついて、含貝・握貝などの習俗を生んだとする説である。

 現に、殷周宝貝の腹部のほとんどは無傷で残っている。殷周土器にみられる貝紋(ばいもん)も宝貝の腹部を強調したものだ。

 青銅器の表面に鋳込まれた金文をみると、宝貝に関する金文の95%以上は、宝貝賜与形式のものだ。ほとんどが、殷後期Ⅲ~西周ⅡB(3200年前~2850年前?)に作られている。

 賜与者と受賜者のヴァリエーションは豊富で、「一般に王権と服属諸氏族、もしくは服属諸氏族とその配下の贈与物としての役割を幅広く担っていたと考えられる」。宝貝の賜与が行われると、受賜者は祖先祭祀用の青銅器を作っている。これは、受賜の恩恵を自身の祖先まで及ぼそうとしたのだろう。

宝貝は受賜者一族の繁栄を象徴する役割を担っており、それによって賜与者(王など)と受賜者(王朝中枢官や諸氏族)の紐帯を強化する役割を担っていたのである。

 金文に宝貝が王から公への賜与という来歴がわざわざ明記されたのは、「宝貝がたんなる経済的価値のみを有していたのではなく、宝貝の来歴という象徴的な痕跡(スティグマ)こそが殷系人にとって重視すべき事柄であったと考えられる」。

 宝貝は未加工の状態で収集され、「頸部にかけた宝貝の繋がり」の意味を担って諸氏族に再分配された。

戦国時代の人びとは、(中略)「宝貝=物財一般の象徴=貨幣」という認識に基づいて殷周宝貝文化を再解釈し、それを貨幣誕生の記録として「記憶」化したのである。

 ここで否応なく思いだされるのは、柳田國男の「海上の道」だ。

どうして「そのような危険と不安の多かった一つの島に、もう一度辛苦してj家族朋友を誘うまでに、渡ってくることになったのかということになるのだが、私は是を最も簡単に、ただ宝貝の魅力のため、と一言で解説し得るように思っている。『海上の道』

 ここで柳田の仮説の当否を問いたいのではなく、言いたいのは、海を渡る危険を冒すだけの魅力が宝貝にあるということと、殷周の王権が宝貝に求めた「生命と再生のシンボル」の価値とがよく響きあっているように思えることだ。宝貝は貨幣ではなく贈与物だったという柿沼の見解はとても自然なものだと思えるが、その意味で、柳田の着眼は貝の持つ魅力に気づいたということが重要なのかもしれない。

 琉球弧の島人にとって貝は、珊瑚礁からの贈与だったが、殷周の王権は、琉球弧でいえば、珊瑚礁のポジションを取りたかったのだと言える。宝貝の提供者になることが王権の霊力の源泉でありえた。

 ただ、宝貝の受賜者が、青銅器を祖先祭祀用に作ったとすれば、「生命と再生のシンボル」の意味は、すでにその信仰は弱められた段階にあったと思える。

 琉球弧の貝が、九州大和の首長勢力の心をとらえたのは、女性性器との類似によるシンボルとしてではない。ゴホウラの貝輪は男性の右腕にはめられ、イモガイの貝輪は左または両腕にはめられた。木下尚子によれば、「南海産貝輪の形状は、一般の腕輪と著しく異なり、巻貝のうずまき構造をとりこんだ立体的な厚い造形であることを特徴としている」(「日本列島の古代貝文化試論」、「日本研究」所収、1998年)。心をとらえたのは、うずまき、螺旋である。

私は、うずまき文様がとくに農耕社会で珍重された情況から、弥生人がこれを植物の生長に関わる生命力の〇として理解したのではないかと想像している。

 ここには、何より、自身や氏族の生命力、つまり霊力を高める意味があったと思える。


『中国古代貨幣経済史研究』

『海上の道』

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コメント

 夏王朝〜殷周時代の宝貝の話題はワクワクしますね。

 以下は、去年8月に開催された「生き物文化誌学会」における名護博教授の報告原稿の一部です。参考になるでしょうか。
 ちなみに、宝貝の中国名「銭宝螺(ツェンホウラ)」は沖縄語のチンボウラにとても近い音ですが、与論ではどう呼ばれているでしょうか?

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表題:前方後円墳に化した沖縄産巻き貝ゴホウラ(護宝螺)
「南海産巻き貝と王権」研究会 名護 博

要旨:弥生時代前期末〜古墳時代前期にかけて、有力者の墳墓に副葬された巻き貝製の腕輪は、一部は既に明 治時代に発掘され知られていた。しかし1969年に「ゴホウラ」と同定されるまで、九州近海に生息するオオニシなどと長年誤り伝えられてきた。武蔵石寿の『目八譜』は明治以前の最良の貝類図鑑で、それによると「ゴホウラ」は「護宝螺」で、屋久島以南、特に琉球諸島に生息する巻き貝である。さらに近年の貝類解説本などを 合わせ見ても「○○宝螺」という名称の巻き貝は、「銭(幣)宝螺」すなわち貨幣や子安貝として使われた「真のタカラガイ」と「護宝螺」の二種だけである。墳墓中の護宝螺製の腕輪は弥生時代中期に九州・瀬戸内地方を超えて「東遷/東征」し、古墳時代になって近畿に入ると、独特のゴホウラ形を保ったままに北陸産の石製品に転化する。前方後円墳からの出土状況をみると三角縁神獣鏡より格上に扱われ、両者の地域別数量分布は比例的である。演者自身の幾つかの「発見」を合わせ下記項目のように論じる。

1)ヤマト王権のシンボルとしての護宝螺は、文化誌的にはタカラガイ(銭宝螺)の一種であり、歴史的意義としてのタカラガイ(銭宝螺)は「前・宝螺」、一方ゴホウラ(護宝螺)は「後・宝螺」とみなせよう。護宝螺は「護符的な宝螺(宝貝)」の意義を持つ中国的名義である。

2)琉球最古のグスクとされ、祖神アマミコ(女神)が造ったとされる「タマグスク」の全体図(縄張り)は、細部まで護宝螺を写したものらしい。 隆起石灰岩を刳り貫いて造られた一の郭の石門は夏至の太陽の方角に向き、その形は立岩型貝輪である。入り口内部正面の御嶽も腕輪を模した形状であり、タマグスク(玉城)は玉(腕輪)づくしのグスクである。

3)世界的にタカラガイの最も古い出土例は、西アジアのナトウーフ文化期にある。中国の最古例は黄河最上流、甘青地区の馬家窯類型(BC3000年頃)。タカラガイは麦や青銅器の渡来ルートで、西アジアから西王母(母性性)の原像(のちに桃に代替)として中国へ伝来したか?

4)夏殷周代(およそBC2000〜BC1000頃)になって多量消費の時代になると、タカラガイは琉球海域などから中原地域へ運ばれた可能性が高い(東母から変じた東王父の原像か?)

5)「前・宝螺」の断面形状は殷周代の饕餮(トウテツ)紋を形成し、原初中華政権のシンボルとなる。宝貝の世界通有のシンボル性である母性(女陰、ホト)・目・財(貨幣)は、饕餮神の性格に顕現している。巻き貝を補填した日本と中国の中核的神話は相似形をなす。

6)夏・周の「半母権的政権」崩壊の頃、宝貝に込められた母権思想は人々の移住を伴って戦乱初期の弥生時代、日本列島に伝わった。沖縄の神歌に残るその思想の核心的呼称は「赤椀の世直し」別称「赤銅の世直し」であり、護宝螺に込めたその思いは、「非戦・平和」であったらしい。前方後円墳は護宝螺の形を起源とし、「母権と非戦・平和」を形にしたものであった。

投稿: 琉球松 | 2015/08/08 10:23

琉球松さん

ありがとうございます。ぼくは、原始・未開の段階からアプローチしているので、なかなか名護さんの書かれたものとの接点が見つけられなかったですが、貝を掘っていくと、見い出せるかもしれません。「宝貝に込められた母権思想」といった辺りです。

チンボウラ、歌にもありますね。与論では、シューヌシビとか呼ばれますが、他にも呼称はありそうです。宿題にさせてください。

投稿: 喜山 | 2015/08/09 11:17

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