「昔話、神話、先史図像における時間意識と時間観念」
ネリー・ナウマンが1989年に行った講演で、神話時代と古代以降の時間認識について比較している。
縄文時代の時間意識は、「絶え間なく死んでふたたび蘇る天体である月」に象徴を見ていた。また、「螺旋」は「天体の運行の象徴だが、それは「単純な四分円に分割された円とともに現われ」る。「十字によって四分化された円は、月の相に基づく時間秩序だけではなく、同時に空間秩序の象徴でもある」。「時間と空間の秩序は(中略)融合している」。
時間と空間が一体を形成するという認識は、「鶯の内裏」などの昔話に見出すことができる。若い男が銛や野原で立派な御殿にでくわして、そこで親切なもてなしを受ける。そこに住む若い娘に留守番を頼まれるが、決して入らぬように言われた部屋を除くことで、すべてがなくなり、男は一人、野原に立っていた、という筋を持つ。部屋は十二ないし四つに分かれている。これは季節の部屋になっている。時間的次元が空間的次元に転化されている。「毎月や季節に分割された一年の循環には、同様に分割された空間が対応する」。
閉じた循環であるこうした一年は、さらに継続性と現在性を示唆しています。時間は現在に限定されるので。このことは、新潟の「鶯の内裏」の昔話がとくにはっきりと示しています。そこでは、十二番目の部屋を見ることだけが禁じられますが、男がこの十二番目の部屋を開けないかぎり、年を取らないといいます・したがって、この禁を破った瞬間に、男は老人になるのです。
こうして昔話は、現世の時間とあの世の時間が々でないことをまざまざと見せてくれます。あの世の現在そのものに、現世の過ぎ行く時間が対置されているのです。
ところで、「常なる、不滅の生の期間」である「常世」の意味は、八世紀にはその本来の意味のつながりは希薄化し、「常世の国と海の神ワタツミノカミの宮殿とが、浦嶋の物語では簡単に結びついたほどでした」。
しかし、ワタツミノカミが支配するあの世は、常世の国とはまったく異なる由来と意味をもつ神話上の場所です。
また、浦嶋物語では、常世は遠くにあるものの実在の国になっている。
ネリー・ナウマンはもう少し広い話題で語っているのだが、ぼくたちの問題意識に引き寄せて引用した。彼女の言わんとするところをきちんと受け取ってみたいのだが、こういうことだろうか、ということを記しておく。
縄文時代の時間意識は、満ち欠けを繰り返す月のように循環する現在性で示される。それが常世の意味だった。しかし、古代に入ると、その意味は分からなくなり、他界と同一視されるようになる。ただ、他界と同一視された常世と現世との違いが、循環する現在としての常世と一方向に流れる現世の時間意識の違いとして昔話に表現された。
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