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2015/08/31

『経済学・哲学草稿』の自然哲学

 長谷川宏訳でマルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでみた。

 類的生活の基本は、人間の場合も動物の場合も同じだが、まずもって肉体的に人間が(動物と同じく)非有機的自然に依存して生きている点にある。そして、人間が動物を超えて普遍的になればなるほど、人間の依存する非有機的自然の広がりも普遍的になる。植物、動物、石、空気、光などが人間の意識に入りこみ、理論的な面では、ときに自然科学の対象に、ときに芸術の対象となって、精神的な非有機的自然ないし精神的な生活手段として、加工した上で享受され消化される。と同時に、植物、動物、石その他は、実践的な面でも、人間の生活と活動の一部をなしている。自然の産物のあらわれかたは、栄養、燃料、衣服、住居など種々雑多だが、肉体的存在としての人間は、そのような自然物に依存しないでは生きていけない。人間の普遍性は、実践的には、まさしく自然が自然の全体を自分の非有機的身体とする普遍性のうちにあらわれるので、そこでは、自然の全体が直接の生活手段であるとともに、人間の生命活動の素材や対象や道具になっている。自然とは、それ自体が人間の身体ではない限りにおいて、人間の非有機的な肉体である。人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体であるということであり、人間が死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、自然が自然と結びついているというのと同じだ。人間は自然の一部なのだから。

 読みやすくなったのに感心していると、別のことに今まで以上に気づかされる。

全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間との相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで、<疎外>または<自己疎外>とかんがえたのである。(吉本隆明『カール・マルクス』

 ぼくはマルクスの自然哲学を、むしろ吉本の文章で理解していたが、マルクスの意をくみ取り、この反作用の側面を取り上げたのは吉本の功績なのではないだろうか。相互関係として捉えたこと挙げは吉本がなしたことであり、そのことがことのほか重要だったと思える。


『経済学・哲学草稿』

『カール・マルクス』

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2015/08/30

『奄美の針突』

 国会図書館に無いので、近場というわけでもないが、高津図書館まで足を運んで『奄美の針突』を読んだ。

 山下文武は、奄美博物館に在籍した1948年から1953年の間に、針突の文様を蒐集しているが、一覧を見た印象は、基本となる図形に不変性は感じられるものの、場所やデザインが信仰を離れた自由度を持っていることだ。それに合わせて、入墨の動機も信仰から離れている。なかには、サザエにみえる貝そのものを描いたものもあり、のけぞった。

 隼人の残した楯との類似の指摘は関心をそそられる。渦巻と歯鋸が両者に共通しているのだ。

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(渦巻の組み合せ)

 濃く太い奄美大島や徳之島、繊細になる沖永良部島と与論島と文様のデザインを見ていると、島の性格とつながっている気がしてくる。いつか機会があれば、そういう視点で文様を眺めてみたい。


『奄美の針突―消えた入墨習俗』


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2015/08/29

呪術師・シャーマン・巫覡

 粗雑さは免れがたいけど、シャーマンについて整理しておきたい。霊力と霊魂の技術者としてシャーマンと総称するが、それぞれについては呼称を変える。

 呪術師:霊力の技術者(オーストラリア、アボリジニ)
 シャーマン:霊魂の技術者(北方アジア)
 巫覡:霊力、霊魂混融の技術者(東南アジア)

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 動物の模倣は、狩猟儀礼の骨格をないしている。ただし、アボリジニの場合は、呪術師が行うというより、種族の人々で行う。シャーマンの場合は、トランス状態に入る際に、動物の鳴き声の模倣が伴う。

 天空飛翔のテーマは、シャーマンの中核をなす行為。

 「楽園」は、共同幻想と対幻想、自己幻想が分離していない状態を指す。ドリームタイムと言ってもいい。アボリジニにとっては、呪術師の独占物ではなく、イニシエーションによって見ることができるようにする。シャーマンは、喪失後の位置にいるから、一時的な回復を試みる。巫覡にとっては、一時的な回復も試みられない。

 そこで、呪術師やシャーマンは、共同幻想の統御が、特にシャーマンにとって大きな課題になる。巫覡にとっては、共同幻想は統御の対象ではなく、同調の対象だ。

 シャーマンにも憑依は伴うが、それが中心になるのは巫覡。その違いは精霊に対する態度に現れる。シャーマンにとっては対話の相手だが、巫覡にとっては憑霊の対象。

 病気の治療に三者の違いは鮮明に現われる。呪術師は、病人から呪術によって埋め込まれたモノの除去を行う。シャーマンは行方不明になった病人の霊魂の捕獲を目指す。巫覡は、病人に憑いた悪霊を除去する。

 アボリジニでは、呪術師だけでなくイニシエーションで、水晶の埋め込みという過程が伴う。シャーマンはその入巫の際に、肉体の改造が行われる。

 三者に共通するのは、トランス状態に入ることだが、アボリジニにおいては、呪術師の独占物ではなく、種族員に共通してみられる。トランスを誘発するものは、シャーマンにおいて太鼓、巫覡はしばしば身体の律動を伴う。

 三者は、その社会の共同幻想の位相が異なる。自己幻想や対幻想との分化の度合いが、呪術師、シャーマン、巫覡の順に大きくなる。


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2015/08/28

『日本的霊性』

 琉球弧の精神史を追っていて、『日本的霊性』を読むことになるとは思ってみなかったが、鈴木大拙にしても、「日本精神史」というモチーフを抱いていたのだから自然なのかもしれない。

 霊性に目覚めなければならない。「精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である」。無分別智。分節して世界を捉えることを止めるということだと思う。すると、モノ同士がつながった世界がやってくるはずだ。

 「莫妄想(まくもうぞう)」とも書いている。「二つのもののあいだに媒介者を入れないということである」。世界の前に自己を立てずに、一体化するということだと思う。

 そして、「大地性」。「霊性(中略)ほど台地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。大地の底には、底知れぬものがある。空翔けるもの、天降るものにも不思議はある。しかしそれはどうしても外からくるもので、自分の生命の内からのものでない。大地と自分とは一つものである」。ここで鈴木は、平安を否定して鎌倉を持ち上げているのだが、古いことばを使えば、象牙の塔のなかに霊性はないと言っているのだと思う。

 「無分別智」と「莫妄想」は、ぼくたちの文脈でいえば、霊力を発動させるための方法だ。「大地性」は、琉球弧でいうなら「珊瑚礁性」ということになると思う。もっとも、大拙の言うような武士にとっての禅や農民にとっての浄土真宗のような思想的深まりが文字としてそこにあるわけではない。

 ただ、大拙が、

今までの二元的世界が、相克し相殺しないで、互譲し交歓し相即相入するようになるのは、人間霊性の覚醒にまつよりほかないのである。

 こう書くとき、琉球弧の方がそれに近い場所にいると思える。

 大拙は、この覚醒まで歩んだ人々として妙好人を挙げている。妙好人とは、「浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる人」を指す。その一人、浅原才一がいくつもの歌を遺している。

 わしが阿弥陀になるじゃない。
 阿弥陀の方からわしになる。
 なむあみだぶつ。

 「無分別智」と「莫妄想」を行えば、阿弥陀の方から自分を捉えてくる。絶対他力に通じている。

 大拙は鎌倉を持ち上げる分、平安に手厳しい。「平安人というは、大地を踏んでいない貴族である」。カナ文化を称揚するが、あきれもする。

漢字および漢語文化に反対して、日本字と日本語の文化が出来たのは有難いが、言語はとにかくとして、文字はかよわいものだ。平安文化は女性で支配せられていたから、已むを得ぬと言えば言うものの、公卿さんたちの意気地なさにはあきれる。

 意気地。いくじ、いきじ。「おもろそうし」では、これのアナグラムみたいに、いじけ、いぢけという言葉が出てくる。解釈する中で当てられ漢字は、「意地気」。「意気地」に対する「意地気」。これは何だろう。使われ方は、いじけふた(立派な集落)のように、接頭の美称辞だった。大和言葉をもとにしたとき、どうして「いくじ(いきじ)」ではなく、「いじけ」となったのだろう。大和に「いじけ」という言葉があったのだろうか。それはないとしたら、元になっているのは、「意気地」ではなく、「意地」で、それに「気」を当てたということだろうか。すると、小(ぐゎ)と同じで逆語序の感覚がここに働いていると見なせばいいのかしらん。

 もうひとつ。大拙の文脈からは離れるが目に留まった箇所。

自分の家にいた年寄ったもの、自分といっしょに長く家庭の生活をやってきた人が亡くなったからといって、その人のやっていたことは、どうしても替えにくいものである。その人の使用した道具なども、そのままにそこに据えておきたいものである。

 ここには、死者の家を捨てる習俗の遠い残響を見る気がする。


 『日本的霊性』の覚醒を標語化すれば、霊力発現、だ。これを大拙は1944年に書いている。日本の敗戦を見越してこれを書き、敗戦後の覚醒として、『日本的霊性』を置いたのだとしたら、とても本質的だったということではないだろうか。


『日本的霊性』


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2015/08/27

霊力思考からみた世界・注

 アボリジニには「時間」に当たる言葉がない。「時間」という概念がないのだ。モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人にも、「時間」に当たる言葉がないと書いていた(『ド・カモ』)。アボリジニでは、「空間」も距離のことではなく、意識と無意識を指している。近く可能jな実在が意識に当たり、見えない空間は無意識に当たる。無意識が活動するのは、睡眠中や夢を見ている場合だけではなく、常に存在している(『アボリジニの世界』。

 モーリス・レーナルトはまた、ニューカレドニアのカナク人は、世界から身体を分離していないので個体という概念がないとも書いていた。アボリジニも同じである。いや、もっと徹底しているのだろう。自己とそれ以外の対象は区別されない。主体と客体は相互に入れ替わることができる。だから、どんな生物にもなることができるし、どんな生物の意識も味わうことができる。

 北方のシャーマンは、これを動物の行動と叫び声の模倣によって、合体することで、喪失された「楽園」の一時的な回復を目指した。この合体は憑依ではないと、エリアーデは注意することを忘れていなかった(『神話と夢想と秘儀』)。シャーマンがテーマにする「楽園の喪失」の「楽園」とは、どうやら、アボリジニのいうドリームタイムのようだ。アボリジニでは、それは喪失した世界ではなく、夢見(ドリーミング)によって見ることのできる世界だ。

 アボリジニにとって、イニシエーションとは、この夢見る(ドリーミング)力のことを指していた。これが、ドリームタイム(楽園)を喪失した世界では、象徴的な死と再生の儀礼へと転換されていく。

 ドリームタイムや楽園とは、自己幻想と共同幻想が未分離な状態のことを指している。そこに分化が起きることを、シャーマンの世界では、「楽園の喪失」と呼んだわけだ。

 アボリジニにとってはドリームタイムは先祖の行った世界創造であると同時に、いまもポテンシャルとして持続しているものだ。ドリームタイムのなかでは、流動的なエネルギーは、石から植物へ、植物から動物への変身を繰り返している。霊魂思考が優位になると、それは実在の空間のなかに存在するようになり、精霊と呼ばれるようになった。同じように、諸存在の変身も、転生として信仰されるようになる。

 cf.「霊力思考から見た世界」

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2015/08/26

『世界言語のなかの日本語』

 松本克己の議論が興味深い。日本語は弥生時代に稲作文化とともにもたらされたとする考え方があるが、弥生時代の始まりである2300年ほど前というのは、言語の歴史にとっては浅い時間幅にすぎない。日本語のルーツは、縄文の過去に遡るとみなければならない。

 日本語の系統は不明だと言われる。世界には日本語のように語族のはっきりしない言語が存在する。それは、新石器時代以降に発達した人類の主要な文明の中心地から隔たった周辺地域か、あるいは地理的に周囲から隔絶した孤立地域だ。

大きな語族を形成した言語というのは、今から5~6千年前に始まった人類史上の"文明時代"に、旧属に勢力を拡張したいわば新興の言語であり、一方、系統関係の定かでない言語というのは、これらの信仰言語によって辺境に押しやられるか、あるいはそれらの勢力の及ばない隔離された地域に孤立して生き残り、従ってまた、これらの大きな語族が形成される以前の古い言語層に遡る言語と見ることができるだろう。(『世界言語のなかの日本語』

 現在の日本語は、弥生時代に指導的な役割を演じた種族ないし部族の言語が、西日本を中心にかなり急速に列島内に拡散したものだと思われる。

しかし、それは決して外部からもたらされたものではなく、縄文時代以来この列島内で行われた数多くの言語のひとつだと見てよいだろう。

 たとえば、日本語では、ラ行のl音とr音を区別しないが、多くの言語に見られ、しかも地理的に著しく偏っている。それは、ユーラシアの太平洋沿岸部から、ニューギニア、ポリネシア、そして南北アメリカ大陸にわたって分布し、地理的に限られた、しかし明らかにひとつの連続した圏を構成している。環太平洋的なのだ。これは言語の古い残存地域に見られるから、古い言語特徴の名残りと見なければならない。

 こうした手がかりから松本は、語族を越えた大きな言語圏として、ユーラシア内陸言語圏と太平洋沿岸言語圏を抽出している。そして、「太平洋沿岸言語圏」は、オーストロネシア語族を含む南方群(オーストリック大語族)と、朝鮮語、アイヌ語、日本語、ギリヤーク語を含む北方群(環日本海諸語)に分けている。「日本語は紛れもなく環日本海諸語の一員として位置づけられる」。

日本語の系統は、朝鮮語、アイヌ語、ギリヤーク語など日本海域周辺の諸言語のそれと切り離して考えることはできない。これらの言語は、比較言語の及ばないもっと根の深いところでつながっている可能性があるからである。

 とても広々として気持ちのいい議論だと思う。


『世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平』

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2015/08/25

珊瑚礁の思考

 死を生からの移行として捉えた後、死者との共存に矛盾をきたすようになると、死者の居場所である他界は空間化される。その時、死者の空間の入口にいなったのは、琉球弧の場合、洞窟だった。洞窟を通じて、死者は他界へと赴く。洞窟の奥のくびれのような構造を通って、他界は開かれていく。

 こうして洞窟という穴のモチーフは、太陽の穴(てぃだがあな)や森の薄暗い場所など、光と闇が交錯するいたるところに見出されるようになる。

 そして他界の入口は設定されたけれど、死者は生者の空間と行き来をすることができた。太平洋の島々では、それは死霊の帰来として記録されてきた。ところが、この自由な行き来にも矛盾が生じると、洞窟は塞がれてしまう。琉球弧ではそのいきさつは、おぼろげな形でしか語られないが、たとえばポリネシアのマンガイア島では、生者の共同利害の矛盾が他界へと転化されていた。このことにより、他界は空間化される。死者は自由な往来ができなくなってしまう。

 けれど琉球弧では、生者と死者の空間は、分離されただけではなかった。塞がれたこの世とあの世の境界は、時に開くこともあった。いや、望めば開くことができたと言ったほうがいいかもしれない。洞窟が開くとき、死者たちは生者の空間に還ってくることができる。そのなかでも、「時を定めて」やってくるのが来訪神だ。

 生と死が分離したあとも、洞窟が開くことがある。そしてそのとき、他界の死者だけでなく、豊穣ももたらされる。この思考を琉球弧にもたらしたのは、珊瑚礁だった。

 満潮時を考えると、島は海に対している。ここで世界は、島(あるいは山)と海でできている。島はこの世であり、海はあの世の世界である。ここでは、御嶽の神が生者の空間である島を守護している。

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 ところが干潮時になると様相は変わる。大潮では、潮は引き、島と海のあいだに珊瑚礁というもうひとつの世界が立ち現われる。するとどうだろう。いままで他界の領域だった海の一部が、海の畑として豊穣をもたらすのだ。珊瑚礁は、満潮時には海だけれど、干潮時になると陸として島の一部になる。珊瑚礁は海でもあれば、島でもあるのだ。

 考えてみれば、珊瑚礁は、満潮と干潮のあいだも、この世とあの世の入口を形成している。それは満ち潮のときには、海として他界の色を強めるが、潮が引き始めると、陸として生者の空間の色合いを強める。珊瑚礁を他界への入口に見立てると、満潮時にはすっかり蓋がされてしまって、人を寄せ付けない海になるが、潮が引くと蓋が開くように他界からの往来がしやすくなる。死者だけではない。生者も歩いて自由に行き来できる。洞窟が空間化された他界の入口なら、珊瑚礁は空間であるとともに、時間化された他界への入口なのだ。

 この珊瑚礁の構造が、他界は身近にあり、そこへの通路は塞がっているけれど、ときに開かれるという琉球弧の思考を不断に告げ知らせてくれたものだ。

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2015/08/24

『メラネシアの位階階梯制社会』(序)

 大著の序文だけ取り上げるのは著者に申し訳ないが、現状の自分の知見が及ぶ範囲ということでそうさせてもらう。

 ぼくにとってありがたかった記述はここだ。

 オセアニアにおける秘密結社、階梯制結社の研究は、マリノフスキーのトロブリアンドに関する研究が公表される頃から影を潜めることになる。トロブリアンドはそれらの存在する地域ではなかったことがこの場合の大きな要因ではあるが、マリノフスキーの研究を最後として、基本的には、人類学的関心の対象はオセアニアからアフリカへと移行していった点も見逃すことは出きない。

 マリノフスキーの著書をいくら当たってもトロブリアンドの秘密結社の記事に行き当たらない理由が分かって助かった。

 これが助けになるのは、再生原理のあるところでは、秘密結社は発達せず、つまりそこでの成人儀礼も発達しないのではないかと考えてきたからだ。トロブリアンドを根拠に、そう仮説してみると、琉球弧のアカマタ・クロマタの成人儀礼で、死への接近が希薄で、死と再生の通過儀礼が本格的には問われていないことに視点をもたらしてくれる。つまり、これは逆に琉球弧での再生原理の痕跡を示しているものだと捉えることができる。

 成人儀礼における象徴的な死と再生の過程は、再生原理の解体過程の現象であり、再生を、生の内部に取り込んだものと見なすわけだ。

 またそうだとすると、象徴的な死と再生を経る成人儀礼のあるところでは、生と死は、「移行」の段階に入っていると見なすことができる。


吉岡政徳 『メラネシアの位階階梯制社会―北部ラガにおける親族・交換・リーダーシップ』

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2015/08/23

『歌とシャーマン』

 福寛美の『歌とシャーマン』(2015年)で気づかされて、酒井正子の『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』(2005年)に該当箇所を探してみた。

 徳之島の島唄、「二上がり節」だ。

 ところで《二上がり節》は「トゥギ歌」とも呼ばれ、治る見込みのない病人のトゥギ(付き添い)で一晩じゅう掛け合わされた。昔は重病人は為すすべもなく、ひと月、ふた月と家で寝る。その看病のために大勢の人が集まり、家がいっぱいになった。看病の人が眠ると「病人がいけなくなる(絶命する)」といい、夜どおし賑やかに歌をうたう。病人も歌をせがみ、サンシル(三味線)の音を聴くと子守歌のように苦痛がやわらいで安らかに眠れたという。

 この箇所だ。ぼくが注目するのは、「看病の人が眠ると「病人がいけなくなる(絶命する)」」ということが、死の前後の「霊力の転移」の一局面を指すからだ。ここで気づかされるのは、歌が「霊力の転移」の重要な媒介をなしていることだ。(cf.「殉死・食人・添い寝」

 みてきたように南西諸島の神歌や島唄には生死や神の世界の境界を越える力がある、とされていました。(『歌とシャーマン』)

 盆踊りの歌は死者も聴いている。だから一緒に踊れる、ということだ。また、歌は生と死の分離の「移行」の段階以降には、移行をなだらかにし、また「この世」と「あの世」をつばぐ媒介の役割を果たしてきたようだ。

 歌には人の心を慰め、高揚させ、命を延ばす力がある、とみなされていました。この力は歌の影響力、感動を呼び覚ます力、などと言われます。それはもちろんそうですが、筆者にはその力が霊力のように思えます。

 その通りだと思う。また、ここで言われる「霊力」は、ぼくたちの文脈でいう「霊力」ともぴったり重なる。心の発露としての霊力だ。


 『歌とシャーマン』は、巫性の悲劇として描かれることが、藤圭子への供養になっていると思えた。歌い続けることで悲劇を免れた人として、ぼくは中島みゆきを思い浮かべた。

 cf.「43.『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』」

 
『歌とシャーマン』

『奄美・沖縄 哭きうたの民族誌』


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2015/08/22

「魂(マブイ)の観念-琉球弧の民間信仰-」

 高橋孝代の「魂(マブイ)の観念-琉球弧の民間信仰-」(『こども教育宝仙大学紀要』)から。

 クスケーという呪言は、「クスケーの由来」(遠藤庄司)によれば、沖縄本島とその周辺離島のみで、奄美諸島や八重山諸島ではほとんど採取されていない。高橋も沖永良部島でも聞いたことがないという。与論で「クスケー」に当たる呪言は「クスコレバナ」だが、この場合、与論は、沖縄本島の周辺離島に該当するわけだ。江戸時代に沖縄島に伝わったとされている。

 日本本土でも古来より、魂は動物の肉体に宿って心の働きを司ると言われ、「魂(たま)し霊(び)」の意味である。「たま」というのは美しいとほめるいい方で、「し」は気息を表し、「び」は奇(くしび)の意味で、珍しいということを指す。つまり、「たましい」は古代の日本人にとっては、玉のように珍しいが、玉のように固まった固体ではなく、気や息のように目にはっきりとは見えない気体のような存在として認識されていたようである。

 この説明通りに受け取れば、「魂し霊」には、「霊力」の語感がありありとしていることになる。

 世界の他地域にもみられる魂の性質は一般的に類似性が高いが、奄美・沖縄の特徴といえる点もある。それは、死後の魂を、死者儀礼を通して丁重に供養する限り、現世で生きる子孫を守護してくれると信じる祖先崇拝という信仰の形を、ユタという宗教的職能者が支えているという、人、ユタ、祖霊の相互関係が成り立っている点である。

 少なくとも、ぼくたちが見聞できる範囲の歴史では、琉球弧は、生と死が分離し、他界が遠隔化される途上を歩んでいることになる。その遠隔化の課題に応えているのがユタということになる。

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2015/08/21

アマム図形

 琉球弧では、アマムをどのような形態として認識していただろうか。それを見るのに、入墨は最適だ。アマム図形については、小原一夫の『南嶋入墨考』がよく引用される。

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 上記の図形が刺されるのは、手の尺骨頭部だ。手首の尖った箇所のことで、「くるぶし」のような名称が見当たらないので、尺骨頭部と言うしかない。まず、1~12は右手、13~23は左手のものだ。小原は、右の「+」を魔除け、左をアマムをシンボライズしたものとして考察していた。

 しかし、これら全て入墨を施した女性から、アマムと聞けたわけではない。聞けたのは、奄美大島(14)と沖永良部島(20~21)のみである。たとえば、八つの花弁に見える八重山図形(15)は現地では「キク」と小原は聞き取っている。また、『八重山生活誌』ではカジマヤー(風車)と説明されている。ここで聴取にこだわってみる。市川重治の『南島針突紀行―沖縄婦人の入墨を見る』を見ると、左手尺骨頭部の円(沖縄島13と同じ)をアマムとした久米島で聞き取りした例を加えることができる。読谷村からは、円形がアマングヮと報告されている(『沖縄の成女儀礼:沖縄本島針突調査報告書』)。読谷村では、手の甲の部分の円も、マルブシという他、アマングヮともされている。

 どの調査にしても網羅的な全体性は望めず、また、1900年以前の生まれの女性を主としたこれらの聞き取りからは、入墨の各箇所の名称も覚束ない状況なので、限定的にならざるをえないが、聞き取りの範囲から確実に言えるのは、沖縄島、久米島、奄美大島の「円」、沖永良部島の「渦巻き」はアマム図形ということだ。完全な対称性を示す円と生命の図形である螺旋をトーテムのなかに見る視線もとても納得できる。

 小原は、入墨を施す手の位置として尺骨頭部に着目し、かつその中で共通したモチーフを持つと思われるものを抽出し、そこに共通した意味を見出そうとした。そこで、左手を「先祖」、右手を「魔除け」と仮説したのだ。この着眼は適切なものだとみなせば、奄美大島の渦巻き図形(22~23)はアマム図形に加えるてよいのだと思える。

 花弁類型(八重山(15)、与那国島(17)、喜界島(17~18))は、確言することはできない。ただし、アマムの貝に見られる筋を放射のように捉えることもできるし、八重山にはアマムを祖先とする伝承はあるから、可能性は持っていると言える。また、与論島の星型が円類型に入れられるかどうかは、花弁型と同程度の可能性は持つと思える。

 確実にアマム図形と言えるのは「円」と「渦巻き」であり、「花弁・放射」や「星」がその可能性を持つものとして挙げられるわけだ。

 位相同型のなかに入らないのは、宮古島だ。さすが、宮古島では、アマムが「神の下等な使い」として厳しい身のやつし方をしただけのことはある。ここで、アマムの入墨もあったはずだと仮定すれば、左手の尺骨頭部にときおり見られるものに「+」と「×」を重ねた八本の放射線図形が浮上してくる。宮古では、これをトウヌピサ(鳥の足)としているが、この図形を花弁類型に含め、かつ、アマム没落に伴った意味の読み換えと見なすのである。これは強弁はできないものの、可能性として指摘することはできるだろう。

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 興味深いのは、宮古島や池間島ヤドカリは退場しているが、それに代わるように前腕に蟹が登場することだ。これは、没落したアマムに代わって、前腕に蟹が進出していったのかもしれない。

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(両手の肘の内側近くにある「×」を元にした図形が蟹)

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(左手の腕に、複数の十字線で展開された図形が蟹)

 実は多良間島には、アマムが出現する。しかし、『南島針突紀行』によれば、多良間島ではアマムはヤドカリではなく蟹を意味している。酒井卯作は1974年に、多良間島で当時96才の上地メガさんに聞き取りをしている。上地さんは、六歳の時に自分で針突をしたというから驚きだ。離島で針師はいなかったから、自分でやったという。「ふつうならば十二、三才でハリツキをする慣習」だが、学校でも禁止されていたので、入学前に済ませてしまったのだった。「親たちもハリツキをないと「後生」に行けないといって積極的にこれをすすめた」というから、信仰の深さが分かる。メガさんは菊や星、お膳の形を独創していったが、ただアマンだけは「伝統にしたがって左の手首にいれた」。この、多良間島のメガさんも「アマンとは蟹のことだ」と話している(「南島研究」26号)。

 多良間島のアマム名称が示すように、ヤドカリと蟹は、トーテミズム思考では位相同型と見なせるから、その意味では宮古諸島もアマム空白地帯ではないのだ。

 『南嶋入墨考』には、多良間島で「卍」を逆にしてやや斜めに反らせた図形もアマムとされている。これが宮古島では、トゥーバフと呼ばれている(意味は分からない)。『南島針突紀行』では、「卍」を逆にして、二本の線のうち一本を曲線にしたものはチビンギヤーと呼ばれ、「後を向かい合うこと」と説明を受けた市川が理解に窮している。(『南島針突紀行』にある上の一覧図では、逆「卍」は二つの線ともに曲線で出ている)。

 宮古島で先祖に見せる意味を持っているのは、手首の内側につける小さなほくろのようなウマレバンだ。

ウマレバンは富貴の印であり、後生に行けば先祖や神様に見せなければならない文様であって、これがないと神様から素手で牛の糞をつかまされた。(『南島針突紀行』

 宮古島は、ウマレバンだけでなく、点や線をモチーフにした図形が多い。かつ、入墨を施す範囲も前腕に伸びており、他島より広い。この点と線の図形の広がりを見ていると、ぼくには、宮古島が、島を目印に訪れる島ではなく、星を目印に訪れる島であるという島人の世界感受が反映されているように思えてくる。とにかく、色濃い奄美大島とは対照的だ。

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(奄美大島)

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(宮古島)

 市川は、宮古諸島で、しばしば右手の背部中央が、トウヌピサで左手中央が田の字形になることについて書いている。

 私はこの二つの文様を直感的に前者は太陽や天、火を象徴するものとし、後者は水田、水稲、地、水を象徴すするものと判断する(『南島針突紀行』)。

 ぼくは、霊魂の衣裳としての身体に施された入墨は、トーテムが根本的であり、悪霊を思考するようになって以降は、身体を保護するものとしては魔除けを意味したと解するが妥当だと思える。

 実はアマム図形を探ったほかにシャコ貝図形を見つけられないかというモチーフもあった。それは見いだせなかったが、国頭では、右手の指と掌の関節部に楕円が描かれるが、それはグジュマ(ひざら貝)とされている。また、今帰仁近くの源河では、左手の同じ位置の文様をウミヌグジュマ(ひざら貝)として聞き取っている。貝も入墨図形としてあり得るわけだ。

 ところで国頭の例では、右手の楕円に対して、左手は長方形が上下に三角に切り取られて描かれるが、これをホーミ(女陰)と呼んでいる(読谷村では、この図形はカイマタまたはクジマと呼ばれ、「海の生物の名称のようである」と報告されている。『沖縄の成女儀礼』)。那覇では、指と掌の関節部の両手の文様とも、ウミヌホウミボシ(海の女陰星)と呼んだ例も挙げられている。国頭の「貝」は、「女陰」に対応したもので、貝のシンボリズムを両手に展開したものと考えられる。しかし、「女陰」そのものを図形化するなんて、シンボリズムもへちまもなく、直接的だ。これをおおらかさと言ったら現代的な解釈になってしまうだろう。読谷村では、同じ楕円をホーミグヮ(宝貝)と、象徴化している(『沖縄の成女儀礼』)。

1
(国頭のグジュマとホーミ)

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2015/08/20

『神話と夢想と秘儀』(エリアーデ)

 ミルチア・エリアーデの『神話と夢想と秘儀』で考えてみたいのは、死と不死のことについてだ。

原始人においてわれわれが調査しうる《不死性》についての諸観念はすべて-文明化された人々における場合とまったく同様に-前もっての死を含んでいる。つまり死後の精神的な《不死性》ということがつねに問題なのだ(p.95)。

 これは、死を知ったあとの、かつ霊魂思考のもとでの思考だと言える。

この《精神的な》状態は、魂と肉体との分離の可能性がない、すなわち死が存在していなかったために放心というものが少しでも必要でなかったようなあの以前の状態に比較すれば、ひとつの堕落を意味している。魂を肉体から分離し、ただ《精神的な》原理のみにもとづいて死後の存続を限定することによって、全体的な人間の統一性を打ち破るのが死の出現であった。別の言葉でいえば、未開人のイデオロギーにとって今日の神秘的体験は初源的な人間の感覚的体験よりも劣っているのだ(p.133)。

 これはシャーマンについて書かれたものだ。人間が不死だった楽園時代を離れると、シャーマンがそれを再現するようになった。しかし、それは霊魂の水準にとどまるものだ。

(前略)アルカイックな社会の人々は、結局、死を停止として見ることをやめ、ひとつの移行儀礼となるほどの重要性を死に付与することによって死を征服しようと努力している。言いかえれば、未開人にとっては人々はつねに本質的でないようなものに対して死ぬ。とりわけ世俗的な生に対して死ぬ。要するに死は最高のイニシエイションとして、すなわち精神的な新たな存在の開始として考えられるに至るのだ。

 これは、成人式と秘密結社への入会式に、なぜ同じ図式が現れるのかについて自問自答したものだ。死を移行儀礼とするのは、再生信仰のもとでと、霊魂思考が死を移行として捉えるときとのふたつあり得る。この両者に共通して言えることがあるとすれば、楽園時代への接近への憧憬だろうか。

 エリアーデの言をもとにすれば、あの死の起源神話は、楽園の喪失を契機にすることになる。

 ネフスキーは、宮古島で、死の起源神話を採取することができた。

 節祭(シツ)の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居ったから、人が若返り、蛇は若返らずに居った。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になったといふ(富盛寛卓)。
 むかしむかし節祭(シツ)の夕に天から水を下ろして下されたら「人から先に浴びろ」との事でしたが、人間がまけて蛇が先になって浴びたので、人間は仕方なしに手と足とを洗った。だから爪だけがいくらぬいても、つぎからつぎへと生えて来るのである。蛇は死んでもどんどん蘇生してゆけるのである(垣花春綱、『月と不死』)。cf.「脱皮論 メモ」

 死と不死が、人間と蛇との対比で語られるのは、よく了解できる。同時に蛇はトーテムだった可能性もあるが(琉球弧でない場合は、メラネシアなどではそうだ)、死について人間と蛇は異なっているのに、なぜ蛇をトーテムとすることができたのだろうか。

 蛇と似ていると感じたことのなかには、不死が含まれていたに違いない。もっといえば、不死に対して、似ていると感じたと思える。これは矛盾するように見える。ありえる解答としては、トーテムとしたときの不死とは、すでに死を前提とした上での再生か、あるいは、エリアーデが言うように生からの移行として死を捉えるか、どちらかだと思える。

 言いかえれば、蛇やアマムは、死の移行の段階までは、トーテムであり続ける根拠を持っているということだ。

 こうやってみると、人類は死を知ってもなお、不死に対して追求し続けてきたものだ。考えてみれば、それは止むことはなかった。野生の思考の段階で考えられた不死への追求は以下のものだ。

 1.生まれ変わるという再生
 2.親族の誰かのなかで生きるという弱められた再生
 3.異類への転生
 4.死を移行とみなす
 5.イニシエーションにおける象徴的な再生

 エリアーデは身を乗り出すような筆致で本書を締めくくっている。

すなわち、もしひとがすでにこの世で死を知っていたなら、もしひとが別のものに再生するために絶え間なく無数に死ぬならば、--ひとはすでにこの世で、この地上で、この地上のものではなく聖なるもの、神にかかわるような何ものかを生きるということになる。彼は不死のはじまりを生き、次第に不死になってゆくと言えよう。その結果、不死はもはや死語の(post morterm)生存と考えられるべきではなく、ひとが絶えずつくり出してゆき、そのために準備をし、またいまから、すなわちいまこの世界においてひとがかかわり合うひとつの状態として考えられるべきなのだ。無死つまり不死とは、ある限定的な状態、すなわちひとが自らの全存在をかけて努力し、不断に死に、かつよみがえることによって征服しようとする理想的な状態なのだ。


 もうひとつ、気づきを得られたこと。

 女性のイニシエーションは、初潮とともに個別的に行なわれる。彼女は即座に隔離され、森や目立たない片隅などに置かれる。月経中は居心地の悪い恰好をしなければならなず、太陽に当たること、人に触れられることを避けていなければならない。あるしるしをつけられ、生のものは食べてはならない。持続期間は三日から数年まで異同がある。この間にイニシエイションを行う女性は集団になる。集団的な踊りで終わる。

多くの地域でイニシエイションのすんだ娘は人々に見せびらかされ、お祝いをしてもらい、あるいは贈り物を受けるために家々を行列を作って訪問したりする。またそのほかに例えば入墨や歯を黒く染めたりしてイニシエイションの完了を示す外見的しるしもある(p.268)。

 琉球弧のハジチ(針突)も、もともとは女性のイニシエーションの一環だったのだろう。

 cf.「エリアーデの『シャーマニズム』 1」「シャーマンの仮面」「エリアーデの『シャーマニズム』 2」

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2015/08/19

「ことばの誕生」(森山公夫)

 森山公夫の連載、「互酬性・アニミズム・シャーマニズム・トーテミズム」は、いま探究している琉球弧の精神史というテーマとぴったり重なるので、興味深い。今回の「ことばの誕生」(『精神医療 77号 特集:精神科病棟転換型居住系施設の争点』)もまさにそうだった。

 森山は書いている。「聖」も「共同体」もことばと共に生まれた。共同体がことばを持つことにより、共同体は初めて真の意味で共同体となり、氏族制度の発端、文化の発端が生起した。共同体は神話としてことばを持ったのみでなく、それ自体が名前を持った。こうした機微を明確に示しているのがトーテミズムだ。氏族共同体・聖なるもの・名前の三者は一体として成立している。

 J.E.ハリソンは、未開の社会の「動物踊り」は、獣も鳥も魚も人間の「小さな兄弟」であることを信じていた時に発生し、人が自分とカンガルーとは違うと悟り始めて初めて、「彼は昔の信仰、昔のあの仲間であることおよび一つであることの感覚を意識的模倣によって蘇らせようと務めるのである」と書く。

 わたしたちはここにもあの「楽園喪失」の神話が生きていることを知る。トーテミズムに生きる人々もすでに自分たちがカンガルーと基本的に異なることを知っていたであろう。だが彼らは、かつて生きていた自然の世界、カンガルーと同等だった楽園の世界に執着した。彼らが「カンガルー」と名乗り、同時に動物とカンガルーのその名を公認し、彼らと仲間であることを宣言した。こうして名「カンガルー」は「仲間・一体=同一性」という観念の世界を開いた。名前の確立はことばの確立だった。

 これは、ぼくたちが、トーテミズムは、人間が動植物や自然物と、人間を区別した上での同一化の思考と捉えることと重なっている。

 村瀬学は、乳幼児のことばの成立を三つの段階に分けている。

 1.ふたつの現象が似ているという事態への着目;類似同定(1~1歳半)
 2.ふたつの現象が規範=約定として同一であるという事態への着目;「指示同一」(2~2歳半)
 3.二つの現象が構成として同一であるという事態への着目;「厚生同一=変形同一」(2歳半~4歳半)

 2は、乗るモノを「ブーブー」と呼べるようになる段階。3になって、類似のなかから典型を抽象し、それを代表型としてそれとの異同を決定する段階になる。これは幾何学の誕生であり、人類史的には「農耕社会以降の出来事」だ。

 また、2の段階におけることばの自立とともに、「ひとは「目の前にないものを見る」ことができるようになる」。

 これは、目に見えないものを見ることができるようになる。不可視の概念を捉えるようになるというのと同じことだと思う。

 レヴィ・ブリュルは、「わたしはインコである」という矛盾律や同一律では表現不可能なことを、未開の心性として「融即律」となづけたが、いま改めて「類似同一性」の視点から捉え返すことができる。

 概念と心像は相補的な関係にあるが、原初の狩猟・採取の時代は、思考が主として心像に依拠し、類的同定の方法に従っていたと考えられる。それが前論理的、神話的、魔術的と言われたことの内実だ。

農耕時代に入ってから、種をまき、実がなり、刈り取る、という生活様式に合わせて、人間の思考様式は大きく変わった。いわば因果律とか目的因とか、目的・原因・結果という時系列に沿った思考が中心になっていった。

 心像と概念の相補関係を、ぼくたちは霊力思考と霊魂思考の織物として言うことができる。森山の考察を受ければ、霊力思考とは、ふたつの現象の間に似ているものを見出して象徴化する思考であり、霊魂思考は影や水に映った映像を霊魂と見なすような概念化する思考だと言うことができる。

 また、琉球弧では、霊魂思考は農耕時代に入ってからではなく、定着による死者との共存のなかで、前面化し、死霊や霊魂の観念を生み出していったと考えられる。

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2015/08/18

『はじめての社内起業』

 企業に勤めていた頃、後半の10年くらいは、新規事業の立ち上げに携わることが多かったので、石川明の『はじめての社内起業』は、当時を振り返るよい機会になった。

 「敵は市場よりも前に、社内にいる」ということは、当初、痛感し、やがてそれが当たり前だと考えるようになったことだし、「起案者が、「思いを込められるテーマであるかどうか」はとても大切です」というのも、いたく共感できた。ぼくの拙い経験でも、うまく立ち上がった事業は、主体になった担当者の、「彼(彼女)らしい」という顔つきがサイトか、サービスの中身のどこかに現れるものだと思う。それは、その事業の個性や特徴でもあれば、癖でもあって、必ずしも強みとは限らないのだが、でもそれなしにはこの事業はないと感じさせてくれるものだ。

 うまくいったこと、うまくいかなったことでいえば、もちろんうまくいかなかったことのほうが多い。失敗について、

新規事業が「社風」や「慣習」とそぐわないことが大きな障壁になることがあります。

 という一文には、思い当たることがあった。検索ポータルサイトに勤めていた頃に、サイトのソーシャル化と、ソーシャルメディアの立ち上げを提案したことがあった。前者はうまくいったが、後者は果たせなかった。トップの了承も得て、事業化寸前まで行ったが、はじごを外されるように崩れたのだった。いきさつはいろいろあるけれど、そもそも検索ポータルサイトとソーシャルメディアの相性を、よくさせることができなかったと捉えると、自分の責任としては受け取りやすい。

 「市場開拓」、「市場浸透」、「多角化」、「新製品開発」の4象限では、各象限のそれぞれを議論することが多いが、著者は、4象限を分かつ「線」に注目を促している。

 「既存」と「新規」の間の線、それは既存事業と新規事業の間を分かつもの。つまり、その会社が新たな事業によって越えるべき「壁」です。
 新規事業を検討することは、この「壁」が何であり、なぜ「壁」になっているのか、「壁」を乗り越えたところに何があるか、乗り越えることに価値はあるか、どうすれば乗り越えることができるのか、について考えることにほかなりません。

 この、「線」を「壁」として見る視点はぼくには無かったので啓発された。また、セミナーなどで、「立てた企画を、無理解な経営者に通すにはどうしたらよいか」と聞かれることがよくある。この場合、「優れたマーケターを見てきた経験では、「情熱」だと思う」、と答えることが多いが、著者はそこを、「経営者より熱い情熱を持つこと」と主張している。うん、こちらのほうが説得力があると、頷かされた。

 この本は、「孤軍奮闘になりがちな担当者」のための「社内起業」(新規事業開)の「伴走」書なのだが、ぼくの場合、ふたたび新規事業をやりたくなる気持ちの伴走になってくれたようだ。

 易しい言葉で丁寧に説明されている。けれど、社内起業のタフさに耐えるタフな入門書だと思う。

『はじめての社内起業 「考え方・動き方・通し方」実践ノウハウ』

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2015/08/17

『母系社会のエディプス』

 母系社会にエディプス・コンプレックスはない、というマリノフスキーの主張の当否を確かめたいからではなく、マリノフスキーの言説がどのように議論されているのかに関心があって、『母系社会のエディプス―フロイト理論は普遍的か』を読んだ。

 幸い、この本のすべてがマリノフスキーの議論を俎上にしたものなので、マリノフスキーの言説の扱われ方を充分に味わうことができるが、率直な感想をいえば、スパイロが執着して微に入り細を穿つに値するほどのテーマなのかという疑問は消えなかった。もっと言ってしまえば、こんなことを追求することしかやることがないのだろうかという研究の閉塞すら感じた。

 マリノフスキーによれば、トロブリアンド諸島では、エディプス・コンプレックスは存在しない。トロブリアンドにおける中核コンプレックスは、少年がエディプス・コンプレックスの場合とは異なり、自分の姉妹を愛し、母親の兄弟を憎むという心理的布置からなる。

 しかし、トロブリアンドに見られる、「父欠損型」の神話は、逆に父親に対する敵対感情の表れと見ることができる。

 トロブリアンドの父欠損型は、父に対する無意識の敵対感情および-トロブリアンドの父はまた愛と強い好意の対象でもあるから-その感情の発生と表現を避けたいという願望の両方によって同時に動機づけられていると考えてみたい。

 エディプス・コンプレックスは、別の表象に転化されているというスパイロのこの議論にはついていけるが、父の欠損がゆえに、「父親に対する息子の敵意が普通以上に強いものであることを示している」と言われると、首をかしげてしまう。エディプス・コンプレックスは家族の構成上、大なり小なり普遍的なものだと思えるが、ここでのスパイロの視点は、マリノフスキー以上にゆがんだものが感じられ、むしろ著者自身の強いエディプス・コンプレックスを暗示するものではないかとすら感じてしまう。

 トロブリアンドやオーストラリアにおける幼児霊理論は、父の生殖上の役割に関する認識の欠如に由来するというよりは、その拒否にするのではないかというスパイロの視点は、ぼくもその通りだと思えるが、この拒否の理由を父親に対する敵意の並々ならなさに照準されると、閉口してしまう。なぜ、拒否するのか。それは、父親に対する敵意が西欧社会以上であるからではなく、幼児霊理論は彼らの再生信仰を支えてもいるからだと、ぼくなら答えるだろう。子の誕生が、母系の霊力の再来ではなく、父と母の性交によるものだと認識されたら、母系社会と再生信仰の基盤が崩れてしまうからだ。このとき、父親は並々ならない敵意の対象ではなく、得体のしれない力、不気味な力を持つ存在として対象化されるのではないだろうか。

 スパイロは、邪術師は個人の目的を果すためには、母親を殺してもかまわないと信じられているという例を引いて、母殺しのテーマにも接近している。しかし、スパイロにかかると、トロブリアンドにおいては、父殺しの方が母殺しよりも広く分布している、で片づけられている。ぼくには、この母殺しのテーマの方が追求に値するような気がした。

 マリノフスキーの主張に対しては、間違っているというよりは、修正あるいは補足をして先へ進むのが妥当ではないだろか。スパイロは自分の無意識色にトロブリアンドを染めてしまっていると思える。


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2015/08/16

「互酬性・アニミズム・シャーマニズム・トーテミズム」

 森山公夫が、「互酬性・アニミズム・シャーマニズム・トーテミズム」(雑誌「精神医療」に連載)で示している考えを図示しておく。

Photo_2


 楽園追放とともにシャーマニズムが発生。脱魂と憑依を行う。通過儀礼としてのイニシエーションは、シャーマンの入巫を手本としている。

 母子相姦の禁止は、原初の共同体の成立を意味する。兄弟・姉妹相姦の禁止は、氏族共同体へ展開する。ここで、男女別の秘密結社が生まれる。同胞愛や異性愛、同性愛を醸成する。これは、個体の成長でいえば、ギャングエイジに相当する。


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2015/08/15

セジとシー

 『沖縄の御願ことば辞典』から、霊力と霊魂に関する語彙を、セジ、シー、マブイ、タマシーに分けて挙げてみる。

 サー<セジ> 霊。霊力
 シジ<せじ> 神。神霊。不可視の霊力
 ヌーシジ<美御せじ> 神様。セジの敬称。
 シジダカサン<霊力高い> 霊力が強い。
 ウミナイウシジ<おなりの霊> ヲゥナイガミの古語的な敬語

 シー<精> 精。魂。
 シー<セジ> 神。または神仏の霊力。多くは物についた霊力をいう。
 キーヌシー<木の精> 木の神。木に宿る精霊。

 マブイ<守り> 魂。人間の体内(胸部)に宿り、生命や精神作用などをつかさどると考えられるもの。

 タマシー<魂> 魂。霊魂。死者の魂をいう。タマシ(精神)とは別。
 クチタマ<骨魂> 遺骨のこと。敬ってミクチダマともいう。
 クチマブイ<骨魂> 遺骨のこと。クチタマに同じ。

 これをみると、セジーとシーは、同一語の転訛ではないかと言ってみたくなる。人間が他の自然と自身を区別する過程で、サーとシーと分離したというように。

 タマシーは大和言葉の流入によるものと見なされる。骨の信仰に伴う語彙であることも、新しさを感じさせる。

 さらに思うことは、琉球弧の霊力と霊魂は、セジとマブイと言っていいのではないかということだ。

 

『沖縄の御願ことば辞典』


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2015/08/14

「縄文時代の葬制」(大塚和義)

 少し古い書籍になるが、大塚和義の「縄文時代の葬制」(『日本考古学を学ぶ〈3〉原始・古代の社会』)に当たってみる。

 確実に葬られた事例は、縄文時代早期中葉。大分県二日市の洞穴で、屈葬。愛媛県上黒岩岩陰でも屈葬。

 これらの洞穴や岩陰の埋葬例にみるように、縄文時代の埋葬はその出現当初から死者が生前おもな生活の場としていたところにきわめて接してなされることが一般的な特徴である。生活の場と埋葬の場を近接させるという、まさに、この点が縄文時代埋葬の基本的な性格であると指摘しておきたい。

 早期後葉の栃木県大谷寺洞穴。屈葬一体と頭蓋骨のみ三体分。

この頭蓋骨のみのものは、改葬されたものとみなされており、骨骼の他の部分よりも頭蓋骨が重視されていることは疑いない。
頭蓋骨のみを葬る例は、縄文時代を通じてしばしばみられる。(中略)遺体が白骨化してから頭蓋骨のみを移動させたと推測される。

 早期後葉というのは6000年前よりもう少し前ということだと思う。ぼくたちは頭蓋崇拝らしい例として見ることになる。

 前期中葉の葬法で特筆すべきは、「これ以前の単一なる屈葬支配をうちやぶって、伸展葬が登場することである」。

いぜんとして伝統的な屈葬が日本列島の葬法として優位を占めながらも、伸展葬がこつぜんとあらわれたことは、軽視できない背景と内容の存在を推測させる。

 ぼくたちの考えでは、これは霊魂思考に霊力思考が混融したことを示している。つまり、定着生活を送る種族に、遊動生活を止めた人が混じった可能性を持つ。

 屈葬と伸展葬の同時共存も見られる。これは、「出自・系統のちがいによるものであ」る。この大塚の考えは可能性があると思える。

 後期中葉には、伸展葬が屈葬を上回るようになる。加曾利B式期が、「縄文時代でもっとも伸展葬が顕在化することを指摘できる」。

 大塚は、乳幼児の甕棺葬が屋内で行われることを例にとり、中期後葉にみられる顕著な特徴として、「再生観念とこれまでよりかたく結びつくこと」を挙げている。これは、ぼくの今の仮説では、中期後葉に始まったことではなく、伸展葬の増加と対応している。つまり、再生観念を持った人びとの定着化が進んだことを示している。

 後期末葉から晩期には「副葬品は明確なかたちで存在する」。これは他界の空間化に対応すると考えられる。

 メモ
 ・早期後葉 屈葬と頭蓋骨
 ・前期中葉 伸展葬の出現
 ・後期中葉 伸展葬>屈葬


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2015/08/13

ネリー・ナウマンの「山の神」

 ネリー・ナウマンは山の神は動物の主であるとしている(『山の神』)。山の神は動物の主であり、動物の姿をとって現われる。たとえば、長野では猪は山の神の使いだとされ、栃木では白猪はとるなと言われている。白猪に関する観念は、奄美大島も同じだ(cf.「猪猟・性・シニグ」)。

 狩幸は山の神の贈り物であり、狩の前には祈願と供物をし、狩のあとは山の神にも一部を供える。新潟の岩船では、熊を捕えると皮を剥いで雪の上に置き、四肢を締めて頭部を尾の方に向けて皮を上に置く。そして「千匹も二千匹も三千匹も」と唱えながら四肢をもって上下する。終わり文句でもとのように顔を前に向ける。銀山平では、雪で清めたヒラに熊を四つん這いにして、熊から左の方に舌を引き出す。これでまた近くに熊が獲れる。熊の枕元にシバ(木の枝)を切って立てる。シバに銃や槍をたてかけ、みなが用意してきた絵馬形の紙をめいめい結び、熊が快く成仏するようにその耳元で真言を唱える。これを熊祭りという。

 狩の前は身を儀礼上、浄め、少なくとも一週間は性的な禁欲を守る。狩る場所はあらかじめ言わず、山に入れば、山ことばを使う。また、山の神は女だとする観念はひろくあり、情欲的で嫉妬深く、気まぐれである。

 ネリー・ナウマンは、「こうした要素が日本では、山の神の観念複合のなかで最古の基層をなしていると想定するに十分な根拠があった」としている。

 平地に人が住むようになり、また山から下りるようになり、山の神は変容する。山の神は決まった木を宿り木とする。樹木霊に影響を受けながら、山の神は死霊と結びつけられた。田の神ももともとは山の神である。

山の神と非常に密接に繋がった田の神がもともとは、こうした山中の畑の庇護者であった山の神自身であっただろうと結論した。そんな畑は焼畑によって作られ、約三年間耕作したあとでふたたび元に戻すのである。(『山の神』

 「山の神」の観念の層を、地学者のように探り当てていこうとするネリー・ナウマンの姿勢に共感する。こうでなくちゃ、と思う。

 琉球弧が狩猟、採集の段階にあったときも、同様だろう。

 この考察を「御嶽」の概念に反映させてみる。

 御嶽は、平地から見た山を連結している。霊力としてみた山はクバの葉に象徴化される。そこに祖霊の観念が重なり、それが具体像を持たないまでに抽象化されるところで高神の観念が発生する。

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2015/08/12

「昔話、神話、先史図像における時間意識と時間観念」

 ネリー・ナウマンが1989年に行った講演で、神話時代と古代以降の時間認識について比較している。

 縄文時代の時間意識は、「絶え間なく死んでふたたび蘇る天体である月」に象徴を見ていた。また、「螺旋」は「天体の運行の象徴だが、それは「単純な四分円に分割された円とともに現われ」る。「十字によって四分化された円は、月の相に基づく時間秩序だけではなく、同時に空間秩序の象徴でもある」。「時間と空間の秩序は(中略)融合している」。

 時間と空間が一体を形成するという認識は、「鶯の内裏」などの昔話に見出すことができる。若い男が銛や野原で立派な御殿にでくわして、そこで親切なもてなしを受ける。そこに住む若い娘に留守番を頼まれるが、決して入らぬように言われた部屋を除くことで、すべてがなくなり、男は一人、野原に立っていた、という筋を持つ。部屋は十二ないし四つに分かれている。これは季節の部屋になっている。時間的次元が空間的次元に転化されている。「毎月や季節に分割された一年の循環には、同様に分割された空間が対応する」。

閉じた循環であるこうした一年は、さらに継続性と現在性を示唆しています。時間は現在に限定されるので。このことは、新潟の「鶯の内裏」の昔話がとくにはっきりと示しています。そこでは、十二番目の部屋を見ることだけが禁じられますが、男がこの十二番目の部屋を開けないかぎり、年を取らないといいます・したがって、この禁を破った瞬間に、男は老人になるのです。
 こうして昔話は、現世の時間とあの世の時間が々でないことをまざまざと見せてくれます。あの世の現在そのものに、現世の過ぎ行く時間が対置されているのです。

 ところで、「常なる、不滅の生の期間」である「常世」の意味は、八世紀にはその本来の意味のつながりは希薄化し、「常世の国と海の神ワタツミノカミの宮殿とが、浦嶋の物語では簡単に結びついたほどでした」。

しかし、ワタツミノカミが支配するあの世は、常世の国とはまったく異なる由来と意味をもつ神話上の場所です。

 また、浦嶋物語では、常世は遠くにあるものの実在の国になっている。

 ネリー・ナウマンはもう少し広い話題で語っているのだが、ぼくたちの問題意識に引き寄せて引用した。彼女の言わんとするところをきちんと受け取ってみたいのだが、こういうことだろうか、ということを記しておく。

 縄文時代の時間意識は、満ち欠けを繰り返す月のように循環する現在性で示される。それが常世の意味だった。しかし、古代に入ると、その意味は分からなくなり、他界と同一視されるようになる。ただ、他界と同一視された常世と現世との違いが、循環する現在としての常世と一方向に流れる現世の時間意識の違いとして昔話に表現された。


『光の神話考古―ネリー・ナウマン記念論集』

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2015/08/11

イニシエーションと骨の儀礼の併走

 吉本隆明は、スサノオとオオゲツヒメの説話について、「女性に表象される共同幻想の〈死〉と〈復活〉とが穀物の生成に関係づけられる」ことに触れた後、次のように書いている。

 ここまでかんがえてくると人間の〈死〉と〈生誕〉を〈生む〉行為がじゃまされるかじゃまされないかのちがいだけで同一視している共同幻想が、初期の農耕社会に固有なものと推定することができる。かれらの共同幻想にとっては、一対の男女の〈性〉的な行為が〈子〉を生む結果をもたらすことが重要なのではない。女〈性〉だけが〈子〉を分娩するするということが重要なのだ。だからこそ女〈性〉はかれらの共同幻想の象徴に変容し、女〈性〉の〈生む〉行為が、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視されるのである。この同一視は極限までおしつめられる可能性をはらんでいる。女〈性〉が殺害されることで穀物の生成が促される『古事記』のこの説話がそうなのだ。(『共同幻想論』

 これまで、この説話が生きられる神話としてあったことに驚き、殺害される女性に目を奪われてきたが、その手間で、生誕と死の同一視に目を向けてみる。吉本は、この共同幻想を「初期の農耕社会に固有なものと推定」しているが、漁撈の段階で定着が始まっている琉球弧の例をかんがみ、定着化した初期の社会と捉えなおしておく。ぼくは、定着による死者との共存が、一方向に進む時間の観念を生み、生から死を移行として見なすようになったと考えてきた。

 生誕と死の同一視という共同幻想のもとでは、生誕と第二の生誕であるイニシエーションと、死と骨の儀礼は対応しているようにみえる。ロベール・エルツは、「死と入社式」について、「この二現象の類似性は、きわめて基本的なものとして考えることができる」(『右手の優越』)と書いていた。

 しかし、ではイニシエーションと骨の儀礼は常に一対の儀礼として存在してきたかといえば、そうではない。イニシエーションが見られるところでも、骨の儀礼は必須になっていない。では、死が生からの移行と捉えられたところでは、骨の儀礼は伴うのかといえば、これもそうではない。東南オーストラリアの諸族は、天を他界とし、ぼくの考えでは、死は生からの移行として捉えられているが、骨の儀礼は行われていない。

 そこで、生誕と死の同一視され、イニシエーションと骨の儀礼が同時に存在するのは、どんな共同幻想のもとでかを、これまで分かっていることをもとにする限りにおいて、掴んでおきたい。

 まず、骨の儀礼が現れるのは、生と死が「移行」であるときだけではなく、生と死がひとつながりに「円環」すると捉えられた場合でも、行われた。樹上葬や台上葬のあとに骨の儀礼を行ない、再生への道をつける場合がそうだ。また、生と死が「移行」としてあるときに、骨の儀礼がおこなわれるのは、初期農耕をし死者儀礼を行なう場合だった。

 これらをもとにすると、生誕と死の同一視され、イニシエーションと骨の儀礼が同時に存在するのは、ふたつの系列が考えられる。

 1.遊動生活を行い、霊力の円環による再生が共同幻想になっている
 2.定着生活を行い、生と死が移行であり、死者そのものが共同幻想になっている

 上記の共同幻想のもとでは、生誕と死は同一視されるとともに、イニシエーションと骨の儀礼が伴走する。設楽博己は、縄文から弥生にかけて社会変動の時期に「再葬」が行われると書いていたが(cf.『弥生再葬墓と社会』)、同様のことは上記にも当てはまるのかもしれない。


『共同幻想論』

『右手の優越―宗教的両極性の研究』


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2015/08/10

『ケルト神話と中世騎士物語』

 田中仁彦の『ケルト神話と中世騎士物語』はヨーロッパのケルトもまた、地下と海上の他界を持つことを教えている。

 4000年前に騎馬民族であるケルト人は、四方に膨張し、2400年前から2300年前にかけて最盛期を迎え、ギリシャやローマの存立させ危うくさせるが、ローマの伸長におされ、その後は後退し、いまはケルト世界を伝えるのはアイルランドだけになってしまった。

 そのケルト人の他界観を多くの伝承を辿った後で、それがときに地下であり、ときに海底であり、また地続きであることの不思議に打たれながら、田中は書いている。

 アイルランドのケルト人は、地下に去った「ダナの息子たち」が、地下に美しい宮殿を建て、大勢の妖精や小人たちと楽しく暮していると考えた。それならば、この地下世界に大きな海が広がり、そこに浮かぶ島では羊や草を食べているとしても少しも不思議ではないだろう。そう考えるなら、『美貌のコンラの物語』で、シイの女が水晶の舟で、コンラを生みの彼方に連れ去るという矛盾も矛盾ではなくなる。この海は実は墳丘やドルメンの下の地下世界に広がる海なのだからである。あるいはまたこうも考えられるかもしれない。ケルト人の想像力は、この本来は地下世界であるものを、地上世界に投影し重ね合わせたものだというように。今目の前に広がる皓々たる月に照らされた海は、この世の海であると同時に、叉あの世の海でもあるのである。同じことは、われわれが旅しているこの陸地についても言えるだろう。

 他界が陸続きのどこかであろうと、海の彼方の島々であろうと、そこに本質的な違いがあるわけではない。重要なことはそこが異次元の世界だということなのではあるまいか。『ブランの航海』が示しているように、他界の一年はこの世の数百倍にあたるし、『モルフーフとオルウェン』の物語にあるように、すぐそこにあるように見せて実は限りなく遠いのである。この時間と空間の異質性こそがケルト的他界の本質的性格であり、したがってそれはこの世のどこでも遍在し得るのだ。それは必ずしもある特定の場所でなければいけないということではない。他界は到る所にあり、突然目の前に出現したり、知らないうちにその中に迷い込んでしまったりするのである。

 心理の機微に届くように書かれた文章に、数式を当てはめるような無味乾燥なことをするようで気が引けるが、ケルト人は、生と死の移行の段階から分離の段階、そして、死者との共存から地下の他界や海上の他界へ伸びて行く、そういう各層の伝承をよく保存していたのだと言える。

 オセアニアから得られた他界のモデルがヨーロッパにも適用できる気がして、ちょっと嬉しくなった。

 

『ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険』

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2015/08/09

『霊の住処(すみか)としての家』

 カール・ヘンツッェは、「屋根付き柱と刻銘は今日に至るまで使用されている位牌の祖形であろう」と見なしている(『霊の住処(すみか)としての家』1996年)。

 中国の青銅容器の柱には「死者の戒名が書き入れられた例がある」。だが、文字のない社会では、「祖先の彫像あるいは供物を用いるよりほかない」。

 フロレス島では祖先の家は柱の上に造られる。これは中国の青銅容器の柱頭にあたる。

 1.祖先の屋根つき供物柱。
 2.祖先彫像つき柱の構造物。柱の上に死者の遺骨を納める箱があり、その前に供物を捧げる習慣がある。

 インドネシアのカイ諸島では、柱の上の祖先の家は、墓の側に立てられる。その内部に供物が捧げられる。

柱の上の小屋はしたがって、霊の住処として見られている。

 これらの例は、「遠古の習慣の残存と見なしてよいと思う」とカール・ヘンツェは書くのだが、その時、注釈として、国頭の久志で記録された、杭の上に置かれた棺の例を挙げているのを見て驚いた(cf.「琉球弧の樹上葬」)。

 ぼくたちは国頭久志の例は、台上葬を示すものだと見なした。そして同様の形態は、カリマンタン(ボルネオ)のシー・ダイヤ族やクラマン族に見出してきた。これでいえば、杭上葬の形態が位牌の祖型と言われていることになるのだ。驚かずにはいられない。

 試みにフロレス島とカイ諸島について、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』を紐解くと、残念なことにどちらも葬法についての記述はないが、フロレス島のガダ族は天の他界であり、カイ島では二つの小島という島の他界である。ガダ族については若干の記述がある。

 ガダ族は死後ながく死者の霊魂を忘れない。彼らは男の祖先のためには nadas という供物柱を建て、女の祖先のためには b'agas という供物柱を建て、古い祖先のためには村に共同の nadus を建てるし、また各家には墓柱があって、椰子酒杯や小籠をおいている。祖先の霊魂は供儀をする人を守るし、怠れば敵意を見せる。特に不自然死者の霊魂は地上をさまようとして恐れる(p.564)。

 ヘンツェが書いているのも、これのことだと思う。

 家は、もともと死者のものだった。それが、死者を家から出すようになって、家型の厨子瓶や墓所へと転移する(「23.「遷居葬の成立」」)。アイヌでは、「家を模した木棺」がそれにあたる(内山達也「樺太アイヌの埋葬形態についての一考察」)。さらに、琉球弧では霊魂の依り代はクバの葉だったが、それが位牌に取って代わられる。しかし、それがそもそも台上葬に由来するとしたら、復古ではないか。

 それにしてもこの象徴の連鎖ときたら。

 

『霊の住処(すみか)としての家』

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2015/08/08

『中国古代貨幣経済史研究』の宝貝

 柿沼陽平は、中国の殷周時代の宝貝は貨幣ではなかったと考察している(『中国古代貨幣経済史研究』)。

 宝貝を陪葬(殉死者や副葬品を一緒に葬る-引用者)するのは中原(黄河中下流域の平原-引用者)文化の特徴。この宝貝の収集経路について、従来は陸路と言われていたが、可能性が高いのは、「(南海)→東南海沿岸→准夷→中原」という海路だ。

 「殷周の人びとは宝貝を死者の口に含めたり、手に握らせて陪葬しており、宝貝にはべつの呪術的な意義があったと解されている」。その呪術的要素とは何か。

殷周人が宝貝の腹部を女性性器に見立てることで宝貝を「生命と再生のシンボル」であるとみなし、それが死後の再生を願う呪術的信仰と結びついて、含貝・握貝などの習俗を生んだとする説である。

 現に、殷周宝貝の腹部のほとんどは無傷で残っている。殷周土器にみられる貝紋(ばいもん)も宝貝の腹部を強調したものだ。

 青銅器の表面に鋳込まれた金文をみると、宝貝に関する金文の95%以上は、宝貝賜与形式のものだ。ほとんどが、殷後期Ⅲ~西周ⅡB(3200年前~2850年前?)に作られている。

 賜与者と受賜者のヴァリエーションは豊富で、「一般に王権と服属諸氏族、もしくは服属諸氏族とその配下の贈与物としての役割を幅広く担っていたと考えられる」。宝貝の賜与が行われると、受賜者は祖先祭祀用の青銅器を作っている。これは、受賜の恩恵を自身の祖先まで及ぼそうとしたのだろう。

宝貝は受賜者一族の繁栄を象徴する役割を担っており、それによって賜与者(王など)と受賜者(王朝中枢官や諸氏族)の紐帯を強化する役割を担っていたのである。

 金文に宝貝が王から公への賜与という来歴がわざわざ明記されたのは、「宝貝がたんなる経済的価値のみを有していたのではなく、宝貝の来歴という象徴的な痕跡(スティグマ)こそが殷系人にとって重視すべき事柄であったと考えられる」。

 宝貝は未加工の状態で収集され、「頸部にかけた宝貝の繋がり」の意味を担って諸氏族に再分配された。

戦国時代の人びとは、(中略)「宝貝=物財一般の象徴=貨幣」という認識に基づいて殷周宝貝文化を再解釈し、それを貨幣誕生の記録として「記憶」化したのである。

 ここで否応なく思いだされるのは、柳田國男の「海上の道」だ。

どうして「そのような危険と不安の多かった一つの島に、もう一度辛苦してj家族朋友を誘うまでに、渡ってくることになったのかということになるのだが、私は是を最も簡単に、ただ宝貝の魅力のため、と一言で解説し得るように思っている。『海上の道』

 ここで柳田の仮説の当否を問いたいのではなく、言いたいのは、海を渡る危険を冒すだけの魅力が宝貝にあるということと、殷周の王権が宝貝に求めた「生命と再生のシンボル」の価値とがよく響きあっているように思えることだ。宝貝は貨幣ではなく贈与物だったという柿沼の見解はとても自然なものだと思えるが、その意味で、柳田の着眼は貝の持つ魅力に気づいたということが重要なのかもしれない。

 琉球弧の島人にとって貝は、珊瑚礁からの贈与だったが、殷周の王権は、琉球弧でいえば、珊瑚礁のポジションを取りたかったのだと言える。宝貝の提供者になることが王権の霊力の源泉でありえた。

 ただ、宝貝の受賜者が、青銅器を祖先祭祀用に作ったとすれば、「生命と再生のシンボル」の意味は、すでにその信仰は弱められた段階にあったと思える。

 琉球弧の貝が、九州大和の首長勢力の心をとらえたのは、女性性器との類似によるシンボルとしてではない。ゴホウラの貝輪は男性の右腕にはめられ、イモガイの貝輪は左または両腕にはめられた。木下尚子によれば、「南海産貝輪の形状は、一般の腕輪と著しく異なり、巻貝のうずまき構造をとりこんだ立体的な厚い造形であることを特徴としている」(「日本列島の古代貝文化試論」、「日本研究」所収、1998年)。心をとらえたのは、うずまき、螺旋である。

私は、うずまき文様がとくに農耕社会で珍重された情況から、弥生人がこれを植物の生長に関わる生命力の〇として理解したのではないかと想像している。

 ここには、何より、自身や氏族の生命力、つまり霊力を高める意味があったと思える。


『中国古代貨幣経済史研究』

『海上の道』

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2015/08/07

『奄美の奇跡』

 連日の暑さで頭がぼんやりする。そのぼんやりのせいでもあるまいが、何かはっきりしない後味の残る本だった。

 この本は、なぜ書かれなければならなかったのか。読み進めても、それが分からなかったのが、「あとがき」に来てやっと手がかりを持った。井上邦子さんとの出会いがきっかけだという。

 彼女は、著者の永田浩三にこう告げている。

 これまで語られてきた奄美の本土復帰運動と、実際に運動に関わったひとたちの実感との間にズレがあるのではないか。いっしょにほんとうのことを書いてみませんか。

 「ほんとうのこと」とは何だろうか。これも著者が「井上さんからの手紙」として紹介しているくだりが雄弁かもしれない。

 軍政下でゴーリキーの『母』を読んでいただけで、CIC(防諜隊)の情報官からガサ入れを受け、怯えなければなりませんでした。こんな時代があったこと、それをはね返そうとした若者たちがいたことをわかってほしい。6歳の少女の目、13歳の少女の目を書いてください。こうしたことを二度と再び起こしてはいけません。

 素直にみれば、井上はアメリカの軍政下を6歳から13歳時に経験したということだろう。たしかにこの本では、軍政は当初こそ理想的な面を持ったが、共産化を恐れるという当時の世相を反映してか、権力は腐敗することを地で行ったためか、ロクなものではなくなっていった過程が分かりやすかった。引いては、復帰運動の熱の由来をいままでより知ることができたと思う。

 この本のよいところは、復帰運動に関わった人々の現在の肉声を写真とともに、豊富に掲載していることで、こうした声を知ることができるのは大切に思える。ただ、なんというか、NHKのドキュメンタリーを見たあとのような、目配せをした全体像がつかめるが、肝心なことは語られないとでも言うようなもどかしさが、どうしても残る気がした。それは、ぼくが仮にも奄美の出身者だからかもしれない。あるいは、奄美の果ての与論出身だからかもしれない。

 すさまじい時代だった。しかし、同時に、若者たちが輝く時代であったことを知った。復帰運動の前史としてアナーキズム運動があったことも驚きだった。

 復帰運動はなぜ成功したのだろうか。日米の外交文書の断片を見る限り、占領にこだわる軍部の強硬姿勢に対して、国務省は、コストがかかり、抵抗が強い軍政を広範囲に続けることにかなり早い段階で疑問を持ち始め、このことが奄美の返還に結びついた。一方奄美や本土では、この時期、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発と重なり、返還は難しいという悲観論が広がっていた。
 壁を打ち破ったのは、驚異の率に到達した署名であり、子どもまで参加した断食祈願であった。断食は、ダレスを激しく怒らせたようだが、わかりやすい実力行使は本土に対してもアメリカに対しても、鋭く斬りこんだ。プライドと人権意識を直撃し、巨大な岩が動いたのだ。

 運動の最終段階で起きた、人民党の排除は有効だったのだろうか。わたしはNOだと考える。運動の盛り上がりと成長は、奄美共産党や人民党、青年団、中村学校の奮闘なしにはありえなかった。運動が認知され軌道に乗った後での排除は、内向きの論理といえなくもない。しかし、だれもが返還のスキームを想像・予測するなかでの、必死にもがいた結果なのであり、責めるのは酷なように思う。最終段階とわたしは書いたが、嵐のただなかにある当事者に、運動がいる終わるのか、先が見えなかったのは当然のことだった。どの立場のひとでも、奮闘したのは確かであり、高所から訳知り顔で批判するのはフェアではない。それぞれの主人公に敬意を抱く。愛おしい気持ちがあふれる。

 奄美ルネッサンスと言われたきたように、本書からも「若者たちの輝き」は伝わってきた。それが井上の念願だったとしたら、それはぼくにも届いた。場は人をつくる、というか、当時の奄美大島は、確かに舞台だったのだ。

 社会主義的な理想家たちの手によって始められた運動が、後半になり排除されていく過程が描かれる必要があったというなら、それもぼくに届いたように思う。当時の奄美大島は面白い。そうも感じる。

 しかし、内側のことが内側のこととしてのみ語られるという、これまの奄美復帰運動に関する語られ方と同じ歯がゆさは、全く解消されることはなかった。外側からの視線がないのだ。奄美の復帰を沖縄の人はどう見たのか(それは、奄美からの出稼ぎ者に対する冷淡に、その一端は垣間見れるかもしれない)、本土鹿児島県人はどう受け止めたのか、そういう声もあれば、立体感は出るのかもしれない。

 ただそれ以前に、奄美の復帰とは何だったのか。そこで、果されたことは散々、語られているとはいえ、なしえなかったことはないのか、沖縄と同じ復帰だったらどうなっていたのか、そういう批評や思考実験はないまま、結局は自画自賛の空気に覆われて、他者からはよく分からないものになっている、その再生産がこの本でもなされてしまってはいないだろうか。奄美の復帰運動が遠い。

 書名を見たときにも躓いたが、読後も激しく躓くのが、「奇跡」という言葉だ。それはあまりにも違うのではないだろうか。せめて、「奇跡」とは名づけないでほしかった。


『奄美の奇跡 「祖国復帰」若者たちの無血革命』

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2015/08/06

『西太平洋の遠洋航海者』(マリノフスキー)

 出版から1世紀近く経って、いくぶんかの予備知識をもってこの本に臨む者にとっては、クラ交易を行なう過程での夥しい呪術の数々に驚かされることになる。マリノフスキーは、クラと呪術について、最後にそれぞれ章を設けて論じているが、そこに辿り着く前に、呪術に感心しきりになっている。

 たとえば、交易先の島に着いて浜辺で行なう身体洗浄の儀礼では、カイカカヤの呪文が唱えられる。

 「おお、カタトゥナの魚、マラブワガの魚、ヤブワウの魚、レレグの魚よ」
 「塗るための彼らの赤い塗料、愛しあがめられるための彼らの赤い塗料」
 「彼らは、彼らだけで訪れる。われわれは、いっしょに訪れる。彼らは彼らだけで、われわれは、いっしょに首長を訪れる」
 「彼らは、私をふところに入れて抱きしめる」
 「偉大な婦人が、壺の煮えたぎるところで、私の味方となる。善良な婦人が、腰かける台の上で、私の味方となる」
 「二羽のハトが、立ち上がって回る。二羽のオウムが、飛び回る」
 「もはやそれは、私の母ではなく、あなたこそ私の母だ。おお、ドブーの婦人よ! もはやそれは、私の父ではなく、あなたこそ私の父だ。おお、ドブーの男性よ もうそれは高い台ではない。高い台は彼の腕だ。もうそれは、腰かける台ではない。腰かける台は、彼の足だ。もうそれは、私の石灰のさじではない。私の石灰のさじは、彼の舌だ。もうそれは、私の石灰の壺ではない。私の石灰の壺は、彼の食道だ」

 ドブーとはいましがた着いたばかりの島のことだが、唱える本人にとっても呪文の意味はすでに充分には分からなくなっている。ぼくももちろん、分からないのだが、自然の擬人化と自在な化身との織り成す比喩に接していると、呪術が、人間が自然から自分を区別したあとに生まれる空隙を埋めるための行為だということが分かる気がする。人間は自分自身を自然とは異なる存在だと認識してしまった。だからそれは、局面が変わるたびに、唱えなければならないのだ。

 マリノフスキーによれば、「呪術は、つねに存在したものとして伝えられてきた(p.353)」。ある呪術は、地面の穴のなかから出てきた人間といっしょにもたらされたとか、穴から出てきた最初の祖先の手で地下から持ってこられたものとか、要するにトロブリアンド諸島の他界からもたらされたと考えられている。これは地下に他界を表象した時に編集されものだと思えるが、それは自然からの分離を意識したときに遡るのだと思う。マリノフスキーが、「呪術は、人間にとって、父祖の時代との伝統的なつながりの本質をなすもののように思われる(p.359)」と書くのは、そのことを指していると思える。

 神話と呪術は、国家と法に似ているかもしれない。神話や国家は、根本をなし、呪術や法が、それと日常の現実の橋渡しを行うという意味では。でも、神話と国家ではまるで違うのも確かだ。国家は、そのもとの市民との非対称性を際立たせるが、神話は生きる現実そのものであり、そのなかに人間のありかたもしっかり組み込まれている。

 あとはトロブリアンド諸島は、霊力思考が優っているから、そのもとでの呪術のあり様がよく伝わってくる。

 すべての呪術は、地下の世界でむかし発見された。われわれは、決して夢のなかで呪文を見つけない。もしそういったら、うそになるだろう。精霊はけっしてわれわれに呪文を与えない。歌や踊りを与えてくれるのはたしかだが、呪術はくれない。
 トロブリアンド諸島の悪魔学においては、呪術師は、霊に、行けとか仕事をせよとか命令を発しない。仕事は呪文の力によって行われ、呪文は、それに随伴する儀式に助けられ、それにふさわしい呪術師によって行われる。呪術の力のみが積極的なものであり、霊と呪術の関係は、呪術を行なう者と呪術の力の関係と同じである。霊は、呪術師を助けて呪術の力を適切に発揮させる。しかし、霊は、決して呪術師の道具にはならない(p.394)。

 呪術の際に、霊や精霊の助力を求めるわけではない点は、霊魂思考が優位な北方のシャーマニズムとの相違点だ。

 呪術では、「物体が、声の十分とどく範囲内の適当な位地に置かれる」。「呪術を正しく行うためには、声が直接に物質に伝えられなければならない(p.365)」。だから、着物に呪術をかけるときでも、口を近づけて行う。聞こえないからではない。声をあたかも物質と見なしているように、直接、触れるという感触が必要なのだ。それをマリノフフスキーは、「呪術のことばは、いわば、たえまなくくりかえして物質にこすりつけられるのである(p.372)」と書いている。霊力思考のもとでは、モノであることが重要なのだ。

 また、呪術は「腹のなかにしまっている(p.373)」と言われる。これも、呪術が内臓を根拠にした霊力であることを示している。

 さらに、トロブリアンドでは、妖術師は恐れられるが、「人々が死者の霊に関しては、そのような恐怖の感じをまったくもたない(p.391)」。これは、彼らが再生信仰を持ち、生と死について移行の段階の心性をよく保存しているからだ。

 さて、クラにおいて、赤色の貝の、長い首飾りソウラヴァは時計回りに、白い貝の腕輪ムワリはその反対方向にめぐる。それらは各島で滞ることなく、一年、二年以上は保有することなく、まるでトロフィーのように、次の島に手渡され、二年から十年をかけて一周する。そしてそれが延々と続けられる。

 これは交易には違いないが、基本的には贈り物として渡される。ソラヴァを贈ったた、その見返りとしてムワリを受け取るだろう。しかし、その場ではなく、時間をおいて受け取る。遅延された交換なのだ。そして、物々交換や商業交易は、クラに付随して行われるのだ。

 この絶え間ない贈り物の流れが、島々をつなぎ、大きな輪が描かれる。そこには、円環する大きな霊力の流れが生まれているようにみえる。けれど、円環と表現するのはちょっと当たっていないようだ。クラの航海の映像作品を撮ったジュッタ・マルニックに、トロブリアンド出身でクラの指導者でもあるジョン・カサイプワロヴァはこう話している。

 思考にはリニアと螺旋という、二つのやり方がある。あなたがリニアな思考法で、たった一つの点に集中していると、自分を孤立させることになる。自分を一つの方向に狭めてしまうからだ。でも、生命の世界は樹木やまわりにあるすべての自然で出来ていて、あなたが生きているあらゆる瞬間に、あなたに何かを与えている。あなたがグムの原理を、螺旋の中心点の原理を理解できたときには、あなたは疲れ果て死に絶えて惨めな結果に終わるクラと、力強い目的にあふれたクラとを、はっきり見分けることができるようにるだろう。成功裏に終わるそういうクラは真実の冒険であり、真実の冒険とは螺旋の姿をしている。われわれのおこなっているクラははじめ魔術から生まれたものだが、みんなの経験によって豊かに発達してきたものなのだ・・・。(p.433)

 つまり、円環ではなく螺旋として思い描くのが正確なようだ。ぼくたちはここで、リニアと螺旋の思考を、霊魂思考と霊力思考として理解することができる。また、クラが霊力を枯れさせることなく、人びとを豊かにする潜在力を持つものであることに、心を動かされる。

 クラは、マリノフスキーも「珍しい型の民族学的事実であるように思われる」と書くように、ニューギニアの東の海だけで生まれた独創的な贈与の螺旋の例なのかもしれない。けれど、螺旋のようにめぐる贈与の霊力というイメージは、普遍性を持っているように思える。

 cf.『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』『未開家族の論理と心理』『未開人の性生活』

 
『西太平洋の遠洋航海者』

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2015/08/05

「貝塚時代後期文化と弥生文化」(新里貴之)

 新里貴之は、琉球弧への搬入土器の所属から、貝交易の主体を割り出している(「貝塚時代後期文化と弥生文化」『弥生文化の輪郭』)。

 1.縄文時代晩期~弥生時代前期・中期初頭 九州集団
 2.弥生時代中期前半~中期後半 九州集団+奄美集団
 3.弥生時代中期後半~ 奄美集団

 つまり、九州集団から奄美集団への変遷があったわけだ。

 面白いのは、これに対応した沖縄の集落の性格を分析していることだ。まず、湧水点を中心にした「在来型拠点集落」と交易にむすびついた「交易集落」。ただし、両者は地理的に近接していた可能性は高い。

Photo

 これは、竪穴式住居と掘立柱建物が混在する集落と掘立柱建物のみ見られる集落に対応しているのかもしれない。また、外来品も貝集積遺構も検出されない「分岐集落」も想定される。

 そして、新里が描き出している沖縄内、対奄美に対応した集落の構造はこうだ。

 A1:在来の拠点集落=交易拠点。東岸地区(宇検、浜比嘉島、津堅島)
 A2:在来の拠点集落=交易拠点。伊江島地区、西側離島地区(慶良間諸島)
 B1:在来の拠点集落と交易拠点の近接。西岸地区(嘉門)
 B2:交易拠点(拠点集落かは不明)。本部地区、名護地区
 C:対外交易に関係性希薄。本島内周辺離島

 宇検や伊江島、嘉門周辺は当時の中心地だったのではないだろうか。

 沖縄諸島では、弥生時代中期(貝塚時代後期)以降、84%の遺跡地が砂丘・沖積地という低立地になる。なぜなのか、交易に対応したという考え方はあるが、新里は書いている。

交易という外的な要因のためだけに、集落立地を変えるということはあり得るか、沖縄諸島の在地文化に大きな影響を与えていないことからすれば疑問が残る。

 確かにその通りだ。貝塚時代後期は、伊藤慎二の区分でいえば定着期に入って2600年、経過しており、漁撈・採集の生業スタイルになって久しい。内在的な理由に求めるとすれば、魚場の確保という問題が浮上してきたのかもしれない。

 一方、後期は交易に奄美集団が関与し、その比重が高まる時期に対応している。奄美集団の登場は中継ぎ機能ができたことを意味している。それまでの九州集団との交流はいわば直接的だった。もちろん九州集団も、最終的に貝製品を身につける者がやってきたわけではないが、弥生文化を身体化した九州集団と、いわば貝塚文化にいる奄美集団とでは来訪の意味が異なったと思える。

 そこで考えたいのは、奄美集団が関与する前段の、縄文時代晩期から弥生時代前期、中期初頭までは貝の提供は、交易というより贈与だったのではないだろうか。そしてその贈与的な態度は終始、続いたのではないだろうか。

 木下尚子は、「貝交易からみた異文化接触」(「考古学研究 第52巻第2号」2005年)のなかで、貝交易が長期かつ安定的に継続した理由について、「大和において「需要」が継続し、かつ南島人がこれに応じ続け、輸出品である貝殻が常に豊富だったからである」としている。「南の貝殻の需要は大和で一方的に生まれている。したがって、交易の開始や打ち切りの決定権は、つねに大和側にあった」。だから、7世紀に交易は一時、収束するのである。

 木下はもうひとつ要因を挙げている。「南島人が生産者の役割に徹し、更なる交易拡大のための行動をおこさなかった点である」としている。

南島人が鉄や穀物を歓迎していたのであれば、これをさらに多く入手するために自ら北上し、薩摩半島や北部九州によりよい文物を求めてもいいように思う。しかしそうした行為の証拠を、彼らはほとんど遺していない。南島人はなぜ自ら北上しようとしなかったのだろう。

 なぜか。交易からもたらされるものを、南島側は必需とは考えていなかった。彼らにとって、貝の提供は、贈与だった。まれびとの来訪に対して貝で応えていたのだ。奄美集団の関与から交換という意味を持ち始める、それに対応した集落や集落ごとの役割分担も持ち始めるが、贈与的な態度は基本的には変わらなかった。

 黒住耐二は南海産貝交易について、「ある種の贈答品」としているが、共感する。

出荷したゴホウラ等の対価として、沖縄の人々が何を入手していたかは、三翼鏃(ぞく)・ガラス玉等の搬入遺物は存在するものの、過去に想定されていた水田稲作および食用穀物の持ち込みはほぼ否定され、絹等の織物や液体等も指摘されているが検出が困難なこともあり確認されていない。(貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」)
 支配者層が確立し、穀類農耕の行われていた日本列島から、交易品として沖縄側が受け取った三翼鏃(ぞく)・ガラス玉・鉄器等の"威信財"は出土量として少なすぎるのではないだろうか。

 見返りは、「少なすぎるのではないか」という指摘を受けて、ぼくが考えるのも、やはり贈与である。約5000年間、琉球弧は漁労-採集経済を継続した。珊瑚礁と海からの圧倒的な贈与を受けて、社会を成り立たせてきた。その贈与に対する返礼の心は、他界からやってくる人々にも向けられていたのではないだろうか。言い換えれば、彼らの来訪そのものが贈与に値したのではないだろうか。

 

『弥生文化の輪郭 (弥生時代の考古学)』

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』

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2015/08/04

アイヌのイム

 憑依状態を指すアイヌのイムについて、N・G・マンローは書いている。

この病気は、自分の感情を急激にさらけ出すのが特徴であって、他人の言葉や動作をすぐに真似てみたり、他人から指図や依頼をされるとそれとは全く逆の言動に走るという傾向を持っています。しかし、このような子供じみた精神状態に逆もどりするのも、ほんの束の間の行為として終わってしまいます。この発作は、蛇や〈アシトマ イコンパプ〉(恐ろしい毛虫)の話に触れただけでも、〈イム〉の症状のある女性はびっくり仰天したり怖がってぎょっとなったりして特有の発作を起こしますが、それでも通常はやがてにこにこした笑顔が戻り、恥ずかしそうに片手を唇の上にあてがうのです。このような状態にならない限りはでは、その女性は正常な妻であり正常な母親であって、決して他の女性たちと較べて知性が劣っているわけではありません。(『アイヌの信仰とその儀式』

 イムは、誰もが憑依状態になれた段階の面影を残したもののようだ。『語る記憶』のなかで、大月康義はそのことに触れている。

昔アイヌの女性は皆巫女であったといわれ、ある巫女は一日中巫術を行っていたとも伝えられている。現代とは異なり、当時、解離状態は日常的なことであり精霊と魂を交流させている姿も普通のこととして受け入れられていたのであろう。

 大月はさらに、日常的なイムの他に、古層にあるものとしてのイムを抽出している。北見地方の古謡「サルコペ」(英雄詞曲)。

 金の小ばちで
 太鼓の胴を打てば
 太鼓の唄う声
 鏘然の音して
 美しく鳴りわたり
 跳躍が二つも(tu usa imu)
 跳躍が三つも(re usa imu)
 つながって出る
 どこから来る巫謡
 なのだろうか
 二つの巫謡のふし
 三つの巫謡のふし
 長々と続く

 ここから大月は、「イムは巫者が異常意識に入って太鼓の胴を打つ音から反射的に行う跳躍」という意味を取り出している。「太鼓の音に驚き跳躍するとともに入神状態になって巫謡を謡いだすというように、入巫することにイムがうまく組み込まれていることがわかる」。

 蛇を見てイムを発症するということは、蛇をいずなとして憑依していた時代の名残りだということだ。

 
『語る記憶―解離と語りの文化精神医学』

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2015/08/03

マンガイア島とティコピア島

 マンガイア島で、他界の入り口が塞がれてしまう背景にあったものをデイビッド・モントゴメリーの『土の文明史』でうかがうことができた。

 2400年前ころから始められた焼畑農業は、800年前には、「耕作された斜面の表土ははぎ取られてしまい」、谷底で営まれる労働集約的な「タロイモの灌漑農業に依存するようになった」。

このような肥沃な低地は、島の地表わずか数パーセントを占めるに過ぎないため、絶え間ない部族間抗争の戦略目標とされた。人口がこの肥沃なオアシスを中心に集中するにつれ、最後の肥沃な土壌を支配することが、政治的軍事的権力を意味するようになった。

 1000年前から350年前の間にオオコウモリが姿を消した(片山一道によると、マンガイア島人は、オオコウモリ猟が大好き、とあるから復活したということか)。在来の鳥類種の半分以上は絶滅した。1777年にキャプテン・クックがこの島を訪れた時には、「ブタとイヌ、そしておそらくニワトリも食べつくしていた」ことが示唆される。、

 蛋白源がほとんどなくなってしまうと、先史時代の岩窟住居から発掘される埋蔵物の中に、焦げたネズミの骨の比率が圧倒的に多くなる。19世紀に訪れた宣教師によれば、ネズミはマンガイアで非常に好まれている。

焦げ、折られ、齧った跡のある人骨が紀元一五〇〇年前の岩窟住居の埋蔵物から発掘されており、ヨーロッパ人と接触するわずか二〇〇~三〇〇年前に激しい資源争奪戦があったことを証明している。絶え間ない抗争、力による支配、恐怖の文化が、ヨーロッパ接触以前のマンガイア島社会の最終状態を特徴づける。

 デイビッド・モントゴメリーは、マンガイア島とは逆に、うまくやってきた例としてティコピア島を挙げている。

 ティコピア島は、焼畑農業を止めて果樹栽培を導入した。

何世代もかけて、ティコピア島民は自分たちの世界を、頭上にはココナッツとパンノキ、足元にはヤムイモとジャイアント・スワンプ・タロ(キルトスペルマ・メルクシー)が茂る巨大な庭園に変えたのである。一六世紀の終わりごろには、大切な庭園に害をなすという理由で、島の首長らは自分たちの世界からブタを一掃した。

 それに人口ゼロ成長を旨とする人口抑制策を実行した。

 デイビッド・モントゴメリーは、マンガイア島とティコピア島の違いについて、土壌の豊かさを挙げている。また、ティコピアは島民全員が互いを知っているほど小さいという説も引用している。ティコピア島は、5㎢と、マンガイア島の10分の1の大きさしかないから、たしかに島民の総意はとりつけやすいと言える。

 マンガイア島の、死者の他界への道行きは、たしかに現世の世知辛さを反映しえいるわけだ。ちなみに、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』から、ティコピア島を見ると、天の他界を持っている。来世の応報があるかという質問には、「われわれの仲間に悪者はいない」と答えたという。葬法も詳しくはないが、死の当日は、親族は石や竹刀で自身を傷つけ、妻は顔に火傷をつくり、耳朶を破る。死後10日間は毎日、墓に食べ物を手向ける。カバ酒ははじめは毎日、そして時々を六か月まで続け、その後は、墓がある限り、六か月おきに供える。この記述だけからは多くを読み取れないが、マンガイア島のような伝承はないのかもしれない。

 cf.『ポリネシア 海と空のはざまで』「マンガイア島の貝利用」「他界への道を塞ぐ(生と死の分離の契機)」「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」
 
 
『土の文明史』

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2015/08/02

「埋葬と死者祭祀」(ネリー・ナウマン)

 ネリー・ナウマンの「埋葬と死者祭祀」(『生の緒』、2005年)は、細部の認識は異なるものの、問題意識が近いのか、とても共感できた。

 逐一挙げる暇がないので、琉球弧にかかわる箇所だけ拾ってみる。

 埋葬の多くは再葬とされているが、連続的に一次葬に使用されたと思われる葬祭場の例はひとつだけである。「土壙を掘れない凍土が主な原因で-死者が環状の集落内にある墓域を取り囲んだ平地式建物に安置され、これが結果として、殯宮のでの仮の埋葬でことである殯の起源となったと言われる」。

 そうした用途はありうるとはいえ、「かなり疑わしいようだ」。再葬できるまで、死者を特定の場所に曝しておいたというほうがはるかにもっともらしい。

そんな「風葬」は、つい先頃まで奄美や琉球諸島の通例であった。死体は葬地に蓆で包んだだけで置くが、棺のままで放置する。棺を柱上に曝したり、岩窟内に置いたりする島もある。一定の期間を過ぎて洗骨をして再葬がなされる。数千年も昔のそんな「風葬」用の場所が、今後特定できる望みはほとんどないだろう。
 遺骸の入った棺を集落からかなり離れた柱上や樹上に置く風習は、かつてアルタイ諸民族にも広く行われていた。しかし、一見同じに思える両者にも本質的なちがいがある。先の例では、死者はふたたびこの世に再生すると考えて、最大限に死者への配慮が施されるのに対して、この例では死者は永久に放置されて、死者と生者とのつながりは分断される。死者の行くべき世界がどんなものであれ、それは生者の世界とは完全に分離している。

 縄文時代前半に埋葬例が少ないのは、この種の曝置のせいだろう。死者のこのような扱いは、死者への恐れ、死の穢れへの恐怖を反映するだろう。それは日本神話の「黄泉の国」の観念に表現されている通りだ。「このような神話的イメージをかかる早い時代まで跡づけることができるか疑問である」。「じつに震撼すべき他界という件の観念の根本にあるのは、恐怖と不安を呼び起こす死者とその曝置にほかならない。

 ネリー・ナウマンの考えを辿るのはこの箇所にとどめるが、ぼくは驚いた。琉球弧の再葬を、再生とさらっと言い当てて、アルタイ諸民族のそれと比較し、「一見同じに思える両者にも本質的なちがいがある」と、これまたさらっと言ってのけている。ぼくたちがやっと辿り着いた認識がここでは長年の鍛錬の結果のように、要点のみくっきり浮かび上がらせている。

 自分の考えを整理する意味を込めて、細部の認識の違いだけ指摘しておきたい。まず、殯は、死者との共存のなかで、死が生からの移行という観念を得た段階で発生すると考えるので、「平地式建物」に安置された例が殯だということはありえると思う。「かなり疑わしいようだ」という理由が知りたいところだ。

 琉球弧とアルタイ諸民族では、「本質的なちがい」があるとはいえ、アルタイ諸民族では、「死者の行くべき世界がどんなものであれ、それは生者の世界とは完全に分離している」わけではいと思える。この葬法を遺したのはシャーマンで、彼らは天界を志向するが、天界の場合、生者の世界と完全に分離しているというより、移行の段階の思考を残していると思える。そして、その葬法が琉球弧の同じに見えるのは、それがアルタイ諸民族の古い葬法だからだ。後代は、その葬法をシャーマンのみが継続した。その時には、他界が発生しており、シャーマンの場合は、天界と結びつける。そして、再生はありうるという可能性の表現にとどまる。

 黄泉の国のな神話的イメージを「かかる早い時代まで跡づけることができるか疑問である」といのはその通りだ。しかし、「じつに震撼すべき他界という件の観念の根本にあるのは、恐怖と不安を呼び起こす死者とその曝置にほかならない」というのは、保留がいる。曝置のように見えるのは、そうした葬法を採っていた段階では、種族は遊動する生活を送っていたからだ。だから、死者が「恐怖と不安を呼び起こす」というのは、少なくとも、死者と共存する段階以降であるはずだと思える。

『生の緒―縄文時代の物質・精神文化』


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2015/08/01

藤内遺跡の蛇体頭髪土偶

 蛇体頭髪土偶(藤内遺跡の第16号住居跡から発見された。縄文中期中葉のもの)については、ネリー・ナウマンが、「生の水をもつ月神」だと解釈している。頭部にとぐろを巻いた蛇はその水を飲んでいる。ここにあるのは、月という象徴を通じた不死のモチーフだ。

 中国の仰詔文化(約5000年前)に属する羊山遺跡からは、首をうねりながら頭頂部に頭を載せて口を開いている蛇を描いた彩陶が出ている。トルコ(原文)東南部のネバリ・チョリから出土した9000年以上前の彫像は、蛇が頭蓋のうしろに垂れ下がり、頭は頭蓋の頂上にあって前向きになっている。

 イラン西部から出土した動物型製品では、「蛇が動物の背中をうねりながら進み、角のあいだにその頭を載せている」。角は、三日月状に湾曲している。蛇の頭が三日月形の角の中間にあることに表れているのは、蛇が角が形づくる三日月から水を飲んでいるということだ。

 三日月を模した角は、盆の形状をとることもある。三日月は盆である。藤内遺跡の蛇体頭髪土偶の顔は窪んでいるが、それは盆である。

 ネリー・ナウマンの神話的思考の読みが妥当なものかどうかを判断するのはぼくの手に余る。ただ、違和感があるとすれば、「神」という表現で、「生の水をもつ月の化身」という表現の方が受け取りやすい。

 蛇体頭髪土偶に引きつけられたのは谷川健一だった。谷川は、金久正の文章を読んでいたからだ。

昔の呪女(のろ)神は、よく波布(ハブ-引用者)を制し、アヤナギを這わすといってアラボレ(十五、六才の娘らよりなる、呪女の従者)をたちの頭髪に波布を巻きつけたという。(『奄美に生きる日本古代文化』 金久正)

 アヤナギは「綾蛇」で、蛇の美称だ。これを読むと、谷川が興奮するのも無理はない。頭髪に波布(ハブ)を巻きつけたアラボレの姿は、蛇体頭髪土偶そのものに見えるからだ。誰だって、それが既知のものになっていなければ、心躍りながら両者をむすびつけるだろう。

 谷川は脇目も振らず仮説する。

この女人土偶は何を示すか。私の考えでは、縄文中期に巫女が出現したことを意味する。それは日本における神観念の黎明を告げるものである。そう判断するには考古学者のおきまりの埒をこえた想像力が必要である。(『蛇―不死と再生の民俗』

 それは一気に定理へと突き進む。

 はじめに巫女があった。巫女は神とともにあり、巫女は神であった。

 これは谷川にとっては発見であり、「南島の民俗と比較して、これがどういう意味であるのかを述べたのは、わたしが最初です」と強調している。考古学者に対してだけでなく、自説のごとく自著に展開しているとして、同じ業界の女性民俗学者に対しても噛みついているから、この「発見」は谷川にとって重要な意味を持っていた。

 しかし、巫女をわざわざ土偶化するモチーフは何だろう。そこが解かれなければならないが、ぼくはそれを考えるより、ネリー・ナウマンの考察に一定の信憑を置けば、不死もしくは死と再生をモチーフに含んだ蛇体頭髪土偶の像があって、巫女はその出現の際に、そのモチーフを体現したということではないだろうか。

 蛇体頭髪土偶の図像のモチーフは、中国、中近東へと連なるだけでなく、ネリー・ナウマンも宮古島の死の起源神話を引用しているように、琉球弧にもつながるから、アラボレと蛇体頭髪土偶をつなぐのは不自然ではないと思う。しかし、谷川の、蛇体頭髪土偶と巫女との同一視と、巫女と神との同一視は、時間をかけて成立していったものを一点で把握しているように見える。

 縄文時代中期中葉に属する藤内遺跡は環状集落であり、段階としては生と死は移行の段階に属している。自己幻想と共同幻想は分化から分離へと進む途上にあるから、ここで巫覡が出現する根拠を持っている。ぼくたちは、蛇体頭髪土偶は、琉球弧の巫覡のモチーフだったと考えておきたい。

 

『生の緒―縄文時代の物質・精神文化』

『復刻 奄美に生きる日本古代文化』

『蛇―不死と再生の民俗』

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