珊瑚礁と大酋長
松木武彦は、旧石器から縄文、縄文から弥生への時代転換を、日本列島の温暖化と寒冷化という大きな視点で考察していた。では、気候変動は琉球弧の歴史のなかで、どんな転換と結びついているのだろう。
松木は書いている。
沖縄本島と周辺の島々では、縄文時代早期の終わりごろにあたる七〇〇〇年前ごろよりのち、海岸の砂丘を中心に貝塚がつくられる。おりからの温暖化で、今以上に水温が高かったサンゴ礁の海にあふれる水産資源に食料の多くを頼った生活を、これら南の島々のは送っていたらしい。ただし、はっきりとした長期の定住を示す集落の跡が明らかでないことから、たくさんの人びとが寄り集まって集中的に資源をとるのではなく、少人数のグループに分かれ、季節や時機に応じて、海岸線沿いに魚介類を求めて遊動するような暮らしをしていたと考えられる。先にみた本州西部や九州などの縄文時代前半と同様だ。
このような状況が大きく変わりはじめたのが、縄文後期にあたる四五〇〇年前ごろである。沖縄本島では、はっきりとした集落が見られるようになり、その立地も、従来の海岸沿いから内陸部へと広がる。さらに、およそ三〇〇〇年前の縄文晩期のころには、数十棟の竪穴住居からなる大きな集落が、やはり内陸の台地上に営まれるようになる。
この動きは、水産資源から陸上の植物資源へという、主たる食料源の交替を伴う生活戦略の転換を示すものだろう。そして、その背後には、気候の変動により、それまで頼ってきた水産資源の種類や量や分布などが変わってしまい、旧来の技術や社会システムではうまくいかない局面が多くなり、そのことが、もとは副次的な食料源だった陸上植物の集中的な獲得や管理に力を向けさせた、という経緯が想定できる。沖縄県宜野湾市上原濡原遺跡で見つかった畑の畝らしい地面の凹凸は、その証となるかもしれない(p.175、『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』)。
まず、この文章のチューニングから行いたい。七〇〇〇年前に「遊動するような暮らし」を行っていたのには違いないが、このときはまだ圧倒的にイノシシ、つまり狩猟が優勢だ(cf.「「ウミアッチャー世」と「ハルサー世」」)。たしかに、「約7000年前以降、多くの遺跡ではサンゴ礁の形成された周辺に遺跡を立地させてきた」が、「サンゴ礁の形成は局所的であった可能性が高」いのだ(黒住耐司「貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』)。
菅浩伸によれば、「多くの島々でサンゴ礁が海面付近に到達するのは約6000~4000年前」(「琉球列島のサンゴ礁形成過程」同前掲)だ。「約4000年前には多くの海岸でサンゴ礁が沖側に形成された」。珊瑚礁の形成に符号するように、伊藤慎二は琉球弧が定着期に入るのは、約5000年前だ(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)。
松木の考察を手掛かりにすれば、後期旧石器時代後半~縄文時代前期(約2万年前~7000、6000年前まで)の温暖化を受けて、食物資源への依存が高まり、縄文前~中期(7000~4500年前)にかけて定着が促される。これとの同位相を求めれば、琉球弧では、約5000年前の定着期への移行が対応することになる。琉球弧の場合は、珊瑚礁環境の出現が大きなインパクトをなしたのだ。ただ、この時期は珊瑚礁形成の島ごと場所ごとによる差を考慮すれば、それより以前から定着は行われたと考えるのが自然だ。黒住は遺跡からもその可能性を指摘している。
前1期前半の貝類遺体の多い出土量や礁斜面でのヤコウガイ等の採集は、一時的な利用とは考えにくく、イノシシの集中的な廃棄も考えあわせると、沖縄貝塚時代にはかなり早い段階から定住的な生活が存在したのではないだろうか。(黒住耐二、同前掲)
この漁撈-採集社会は、グスク時代に入るまでの約5000年間、継続する。定着につぐ大きな転換は、約2400年前に交易期になるが、この時期にすっぽり入る。このインパクトをもたらしたのは何か。
弥生時代初頭に底を打った気温は再び上昇に転じ、弥生時代中期に頂点に達する。ここで起きた変化について松木は、九州から東海西部では「イネの生育条件が向上し、コメは増産されて人口増加に拍車をかけただろう。耕地の開発は容易だが平野の狭い九州では、これが集団同士の競争と序列化をまねき、きらびやかな装身具や舶来の品々や武器にいろどられる大酋長を生み出した」。また、瀬戸内、近畿、東海西部では大きな環濠集落を発達させた、としている(p.232)。
松木は大酋長を厳密に定義しているわけではないが、小さな国家の首長だとみなしていいと思える。ここで関わりがあるのは、「きらびやかな装身具」だ。これが交易期への転換を促したインパクトである。気候との関連でいえば、気温上昇→米の増産→集団同士の競争と序列化→大酋長という本土西部の変化がもたらしたと考えられる。
伊藤は交易期、遺跡は「沿岸に近い砂丘上に極端に集中し、小規模遺跡が激増する」としている。この後に、B式グスクという高地性集落が出現するのだろう。
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