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2015/07/10

『幕末日仏交流記』

 この本の第一印象はまず、暗澹たる気分になることだ。1844年、ペリー来琉の9年前、フランスは琉球を訪れ、通商条約の締結を求める。その二年後、暗に断った琉球に対し、艦隊の提督は、その旨、皇帝に伝え、遅くとも一年後には別の艦が来ることを記した書簡を琉球側の総理官に渡した後の、二人のやりとりはこうだ。

[総理官] 「大変に重大な事柄なので、即答はできかねます」
[提督] 「用はすんだし、答はいりません。そちらが私の要請を拒絶したので、そのことを皇帝に報告すると、私は言ったではありませんか。皇帝が決定を下すまで、これ以上どうしろと言うのですか」
[総理官] 「大変に重大な問題ですから、よく考えて答えさせていただきます」
[提督] 「閣下自身がここで応えられるのですか。それともまた首里に戻らなければならないのですか」
[総理官] 「分かりません。書簡をもう一度読み、よく考えてから決めさせていただきます」
[提督] 「閣下がすぐにご自身で答えられるのなら、待ちましょう。そうではなくて、また首都に帰らなければならないのなら、二ヵ月後にサビーヌ号を派遣しますから、艦長に返事を渡して下さい。私はもう待てません。朝鮮で大事件が起きたので、できるだけ早く行かなければなりません。同国の王府がフランス人三名を死刑にしたということなのです。この処刑が正当か不当かを調べに行くようにとの皇帝の命令を受けました。もし不当なものであれば、莫大な賠償を要求しなければなりません。というのもフランス人は世界のどこにいても皇帝の臣民であり、保護されているからだということで、[それを]よく覚えておいて下さい」

 総理官は、目に見えて動揺して言った。
[総理官] 「いつご出発なさいますか」
[提督] 「できるだけ早く」
[総理官] 「先の件については前向きに対処しなければならないと思っております。明日か明後日には何らかのお返事を申し上げましょう」
[提督] 「朝鮮遠征の帰路に、私がここに来ることもできるので、その場合は首里まで最終的な解答を取りに行きます」

 総理官は、この心遣いをそれほど喜んでいないようで、この親切な申し出に何も答えない。提督は言った。
[提督] 「私の通訳としてフォルカード師とオーギュスタンを朝鮮に連れて行きます。前に言った通り、オーギュスタンは戻りませんが、フォルカード師はサビーヌ号で戻り、書簡で示した条件のもとに滞在します。ルテュルデュ師は、彼[フォルカード]が不在の間、泊に置いてある身の回りの品を管理し、彼[フォルカード]が戻ったら、一緒に暮らすことになっています」

 これに対しては、私の記憶に残るような答えはなかった。気の毒な総理官は、家畜小屋の中で狼と一緒になった羊のように、絶えず戸口の方を眺め、何かというと立ち上がって、辞去のあいさつを始めるのだが、その度に「少し待ってください、まだ終わっていません」と言われて、ひどくがっかりするのであった。
 やがて話がかの有名な度佳喇島に及ぶと分かると、彼は港の名や他のこともいろいろと聞かれると思ったようで、「私たちには分からないのです。ここにはそうしたことをお話しできる者はおりません」と、うわずった声で言った。
 そしてすぐに戸口に向かい、逃げ出したのである。

 暗澹たる気分になるのは、フランスの提督に対する琉球官僚の態度に怯えとことなかれを見てしまうからだ。しかし、この対応も、琉球側の政策であり、『ペリーと大琉球』で整理されていた「偽装策」と「遅延策」のたまものだ。遅延策の方便ではこの問答にも現れているし、「総理官」自体が偽装であり、実際の官僚である三司官はことに当たっていない。

 偽装に対して、フランス側は、琉球ができるだけ小さく貧しく見せようとしていることに対しては、すぐに見破っているが、「総理官」と「度佳喇島」の偽装については、この時点で気づいていない。しかし、提督ら一行は、日本本土に向かう際に、このうち「度佳喇島」の偽装については知ることになる。

 南西の正面に島が見えます。提督殿、昨日私が派遣されたにもかかわらず、誤解があったために上陸できなかったのはその島です。手で島を指して、その名を尋ねました。なんと驚いたことに、二、三人が度佳喇だと言いました。そこで私は沖縄の船長に、『それではあの島があなた方が通商を行っている度佳喇なのか』と言いました。彼はそうだと答えました。私はあ然としました。というのも沖縄の人たちの言うことを信じれば、あらゆるものがこの島から来るということだったからです。つまり彼らの国にとってこの島は貯蔵所であり、倉庫でもあるのです。ところが目の前にある島は、ご覧の通り、大変小さく、その土地は不毛でほとんど耕されていません。彼らが思い違いをしているか、嘘をついているのかもしれないと思って、その時は居合わせなかった別の日本人に後で聞いてみましたが、答は同じでした。もはやこれが事実だということは疑う余地がなく、沖縄ではこの点についても、他の多くのことと同様に、臆面もなく偽りを言っていたのだと結論せざるを得ません。

 「度佳喇」偽装が、実際に外からはどのように見えたのか、その一端が知れて興味を引く。もともと、日本との交流がないという見かけをつくるために「度佳喇」偽装は行われたが、一方で、琉球側が婉曲的にフランスとの通商を断るもに、日本が何と思うか、と言及しているのだから、偽装自体もほころびを見せる段階に入っていたのだろう。現在の単純な感覚からは、「なんのために?」と突っ込みを入れたくなるところだ。

 ただ、実際、フォルカードは滞在の二年間で、本来の目的である布教について何も成果を挙げられなかったのだら、その点については、偽装と遅延が効を奏したと言えばいえる。なにしろ、始終監視がついて、島人と自由に話すことも覚束なかったのだから。ただ、全くなかったわけではない。

 我々はもう一度屋我地島に散策に出かけた。散歩しても、尾行はなく、私は六十がらみの老人と出会って話をすることができた。とりとめのないことを少しばかり話してから分かれた。その後でまた彼が藁葺きの家の戸口に八十歳になる彼の父と二人の息子と共に経っているのに出会った。急いで持って来てくれた火で提督が葉巻を吸っている間、私は気軽に再び話をすることができた。善良そうなこの人たちは、私が彼らと同じ言葉を話すのを聞くのが嬉しくてたまらないようで、打ち解けて、素朴な気持ちで応じてくれた。別れ際には、「もしここに自由があれば、やがて事態は改善されるでしょうに」とお互いに言ったのである。確かにどの通りだ。

 ほんの何回か、フォルカードは島人との会話を書きとめていて、その間だけは気持ちのよいひと時を過ごすことができているし、読む方も、そこだけはほっとする。人は個人同士であれば、すぐに打ち解けることもできるのに、国を介した途端、訳の分からないことになるという今も同じことを感じさせる。その一方で、屈託なく異国の人と話す島人と、琉球官僚は全く別のタイプではなく、同じなのだと思う。偽装と遅延の策とはいえ、というか、その実行のなかから滲み出てくる怯えやことなかれは、自分のこととして、島人だと感じさせるからだ。

 琉球を北上した一行は、長崎に着き、こんどは、奉行所の面々の威圧的な態度に憤慨している。奉行所の武士たちも役割としてやっているとはいえ、慣れや武力は、人の態度を変えてしまうようにも感じられ、印象的だった。

 

『幕末日仏交流記―フォルカード神父の琉球日記』


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