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2015/07/25

葬法とシャコ貝

 木下尚子は、『南島貝文化の研究』のなかで葬法とシャコ貝の関係を考察している。

 シャコ貝は「葬送行為に関連してのみ認められる」。その最古の例は、具志川島岩立遺跡。縄文晩期から弥生時代併行期には、地上標識や地下の遺体に伴い、使用率も4割を越える。古代から中世併行期には、岩陰墓や洞穴墓の入り口付近に置く風習が見られる。

 私は、南島の貝塚人が葬送の具としてとくにしゃこがいを選んだのは、結局、その生態的特徴と貝殻の造形的特徴に導かれたためではないかと考えている。これらがある解釈によって人の死と結びつけられることになったのであろう。両者連結の鍵は"海底に開いた口"から連想される海底の奥の異界ではなかっただろうか。古代人はしゃこがいを異界と現実の世の通路を開け閉めする装置として認識していたのではないか、私はこのように考えてみたい。

 また、「しゃこがいを伴う被葬者の大半は、伏臥葬であった。南島においても伏臥葬は稀な葬法である」。

彼らは東武に巻貝の尖った頂部をあてられていたり、斜めに葬られていたり、不自然な二次葬であったりした。しゃこがいを伴う被葬者から受ける印象は、死の安静ではなく死の不気味さであり、異常さに対処しようとする遺された人々の抵抗である。
 しゃこがいは、死の異常性に対する役割を負ってとくに使用されたのではないだろうか。私には被葬者の身体のある部分にしゃこがいを配することで、この異常さを具体的に処理しようとしているようにみえる。

 死者に伴うしゃこがいは、「頭部への集中がいちじるしい」。

これにすばやく閉じるしゃこがいの海中でのイメージを重ねると、被葬者は海底のしゃこがいに捕獲されていると見立てられる。しゃこがいの口に海底の異界入口のイメージを重ねると、被葬者は異界へ引き込まれていると見立てられる。この場合、しゃこがいによって異界に封じ込められるべき対象は頭部にある、とみなされたのではないか。人の死が異常であればあるほど、これを厳重に異界に封じ込める必要があったのではないか。このようにして強引に封入されるべき対象は、やはり、死霊であろう。

 こうして、木下は、シャコ貝を「死霊の捕獲・封入の呪具」と見ている。嵩元政秀・当間嗣一も、「明らかに死者の霊魂を鎮圧、封じ込めようと意図する呪術的な習俗を示している」(「南島研究22号」)と書いた。酒井卯作も、ここには「強い死霊観念」があり、「死霊の封じ込めを意味していたとしか考えられない」(「南島研究」25号)と同様の認識を示している。

 さらに木下は、シャコ貝の呪力の変遷図を試みている。

 1.捕獲・封入の呪力Ⅰ(貝塚時代前期~)
 2.捕獲・封入の呪力Ⅱ)第一尚氏~)
 3.阻止の呪力(近世琉球~) アジケーの成立
 4.返しの呪力(近代~) 石敢當やシーサーと同様。

 ⅠとⅡは、本来と派生。アジケーの成立は、十字形に交差することが呪力を持つことの意味だ。

 これらの解釈を前にすると、ぼくはなんだか、死霊への恐怖一辺倒で気持ちが塞がってくる。木下の変遷図によれば、それは貝塚時代の前期からだとうのだから、なおさらだ。

 いま、新里貴之の整理をもとに、木下が、シャコ貝を伴うとした遺跡をプロットしてみる。

Photo

 確認された範囲では、シャコ貝が伴うのは、貝塚時代前4期以降になる。前4期(4000年前)は、琉球弧が定着期に入って1000年を経過している。岩陰墓も見られるので、生と死は、移行から分離の段階に入っている。その意味で、「古代人はしゃこがいを異界と現実の世の通路を開け閉めする装置として認識していたのではないか」という木下の視点は面白い。「開け閉め」は過剰解釈で、他界への「お通し」ほどの理解のほうが受け取りやすい。

 死霊の鎮圧、封じ込めという一辺倒の理解に違和感を持つのは、シャコ貝がトーテムとみなされた段階、地域があったと考えられるからだ。

 酒井が「きわだって貝の産地として知られている」(「南島研究」25号)宮古島には次の創世神話がある。

昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。(宮古島)

 この、人間の前に出現するシャコ貝のポジションは、石垣島の創世神話におけるアマム(ヤドカリ)と同位相にある。つまり、シャコ貝をトーテムとみなした段階、地域があった。それは琉球弧だけでなく、ポリネシアに於いては、貝や蟹がトーテムになっている。

 こうしたトーテムとしての象徴性を持つシャコ貝が、死霊の封じ込めの呪術としてのみ語られることに違和感がある。それは、あったとすれば、アマム(ヤドカリ)が、トーテムから神や神の使いまで身をやつしていく解体過程の表現として存在するのではないだろうか。

 エリアーデは、「イメージとシンボル」(『エリアーデ著作集〈第4巻』のなかで、牡蠣、鹹水(かんすい・塩分を含んだ水)の貝殻、巻貝、真珠のシンボリズムンを挙げている。

 月、水、そして「女陰との類似による」女性とのむすびつき。

貝殻と牡蠣はこんな風にして子宮の呪術的な力を分有するものである。汲めども尽きぬ泉のように女性原理のしるしならどんなしるしからも迸(ほとばし)り出る創造力がそれらの中にたち現われ、力を振るっているのである。

 そこから、女性に受胎を容易ならしめて、女性を保護する。さらに、「愛と婚姻のしるしに囲まれて姿をあらわす」。貝殻と牡蠣は、「生誕と再生のシンボリズムを表わす」のだ。

 貝殻は、インドネシア、メラネシア、オセアニアにおいて、第二の生誕でもある加入礼でも現われる。そこから葬礼のなかで果たす使命も出てくる。

 中国の陵墓では、硬玉と真珠が用いられる。

 硬玉と貝殻はあの世でよきめぐり合せに逢うよう競って力を貸すというのだ。もし硬玉が死体の腐敗を防ぐ役目を果すとすれば、真珠と貝殻は亡き人に新しい誕生をかなえてやるだろう。

 「貝殻の聖なる力は、螺旋をその本質的な要素とする装飾モチーフ」に及んでいるとし、エリアーデは書いている。

しかし渦巻きのシンボリズムはもう少し複雑であり、その《起源》はなお不明であるということを付け加えておかねばなるまい。暫定的になら、少なくとも、渦巻きの象徴的多価値性、その月との親縁関係、稲妻、水、多産性、生誕と死後の生との親縁関係などは書きとめておいてもよいだろう。しかし、貝殻が死者崇祀のほかには用いられていないということは心にとめておいてもよいだろう。それは人間と集団の生活のいっさいの本質的行為、すなわち生誕、成年式、婚姻、死、農業儀礼、宗教儀礼といった行為の中に姿を現わすのである。

 三木成夫の言葉を借りれば、「渦巻きのシンボリズム」の起源は、リズムと並んだ生命現象の本質として言うことができる。

 生を象徴する「波」ということばは、もちろん水波から来たものだが、それは波頭の巻き込みが物語るように「渦巻き」の連なりから説明され、分解していけば、ついには「螺旋運動」に行き着くのであろう。(『胎児の世界』

 「貝殻が死者崇祀のほかには用いられていない」は、木下のいうシャコ貝は「葬送行為に関連してのみ認められる」と符号している。

 ぼくには、シャコ貝がトーテムでありえたことを踏まえれば、「死霊の封じ込め」よりは、エリアーデのいう「生誕と再生のシンボリズム」という理解がはるかに根源的であると思える。

 木下は、人の誕生や幼児の死にシャコ貝がかかわる例も挙げている。

赤子の死んだ時はしゃこがいに入れて便所の申の方向に埋める(宮古島)、死産児を家の後ろに埋めてその上にアザイ(しゃこがい)をかぶせておく(竹富島)、かつて嬰児を埋殺する時クバの葉につつみ上からしゃこがいでおさえた(八重山)などである。

 木下は、「しゃこがいが、幼い幼霊のもつ呪力に対して使用されたとは考えられないだろうか」としているが、便所を意識したり、クバの葉も用いるこれらの例が、再生への呪術でなくて何だろう。

 シャコ貝が、トーテムとして「生誕と再生のシンボリズム」を持つ呪力を持つからこそ、後代には、魔除けの呪術を持つことができたのだと思う。

 沖縄ではシャコ貝はありふれた貝である。御嶽にゆけば神聖な木であるクバの木の根もとにシャコ貝の殻がおいてある。それはアザカの貝殻の十字の形が魔除けになるからだ。(「シャコ貝幻想」『谷川健一全集〈第3巻〉』

 谷川のこの理解も「魔除け」に引きずられている。御嶽の発生に遡れば、クバと同様に「生誕と再生のシンボリズム」を持ったかもしれない、せめて、他界へのお通しとして見なすことができる。

 死者とともにあるシャコ貝は、トーテムとしての意味が強ければ、再生への呪力であり、トーテムとしての解体過程であれば、他界へのお通しとして、あの世へのスムーズな道行きを託したのかもしれない。「死霊の封じ込め」という理解は、現在の琉球弧における死霊に対する恐怖を全過去に投影してしまったものだと思える。


『南島貝文化の研究:貝の道の考古学』

『エリアーデ著作集〈第4巻〉イメージとシンボル』

『胎児の世界―人類の生命記憶』

『谷川健一全集〈第3巻〉古代3―古代史ノオト 他』

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