『稲作の起源・伝来と“海上の道”』と『“流求国”と“南島”』
駆け足になるが、来間泰男の古代以前の沖縄論を見ておく。
まず、本人が『稲作の起源・伝来と“海上の道”』上下について、整理しているので、そこから入っていく。
1.新人が4万年ほど前に日本列島に入った。窓口は北海道と北九州と沖縄。順序は北から。
2.沖縄諸島に住みついた人びとも、北すなわち九州から南下してきた人びとの影響が大きく、また、現代日本人の特質を構成する要素としては、南からの要素は、沖縄人を含めて希薄である。
3.沖縄には旧石器時代の人骨が多く残っているが、それはいずれも「旧石器」などの遺物を伴わず、「旧石器文化」があったということは難しい。
4.縄文時代に入って、日本列島と沖縄諸島とは基本的に同一の文化、すなわり「縄文文化」を共有することになる。従来、沖縄の独自性を強調する立場から「貝塚時代」の呼称が用いられてきたが、近年は沖縄も「縄文時代」というようになってきた。
5.しかし、沖縄諸島の縄文時代は、日本列島に比べて開始が遅く、終了も遅い。終了が遅いのは、「弥生時代」の文化構成要素である水田稲作と青銅器・鉄器の伝来が遅いことによる。沖縄諸島は「暑い」ために、日本列島に伝来する時までに温帯型に変化していた稲作は、伝わって来ても立地・定着できなかったのである。
6.それでいて、諸家のなかには、日本列島への稲作の伝来について、沖縄諸島を経由した「海上の道」があったし、場合によってjはそれが先行したかのような議論をする者がおり、それはありえないことを主張した。
7.その検討のなかで、照葉樹林文化論の欺瞞性に気づかされた。
まず、「旧石器」などの遺物が伴わないから「旧石器文化」はなかった、というのは筋が分からない。「沖縄地域には旧石器時代はなかった」とも書くのだが、それは「旧石器」を遺していないからだという。ぼくは、時代の有無に関心はないが、人間がいたのが確かなら、文化があったのも確かだ。いや、文化の有無を云々したいわけでもなく、人間が一人でもいたというなら、語るに値するものはあると、ぼくは思う。なぜ、こう断言するのだろう。
2については、本文ではもう少し、ニュアンスが読み取れる。
これまで検討してきたように、南方からの人と文化の流入は否定できないであろう。それは、古くは港川人などとして、またミトコンドリアDNAに含まれる南方的要素が、日本の中では南の方ほど多く残っていることなどで了解できる。そして、そのような南方的要素の流入は、古い時代だけでなく、その後も繰り返しあったと考えるべきであろう。
しかしながら、それは八重山から宮古を経由して、さらに沖縄諸島、奄美諸島にまで進むうちに、しだいに希薄になっていく。それが日本本土にまで影響したとは、ほとんど考えられない。南からの文化の流れは、あるが、強力とはいえないのである。
この文脈が耳新しいわけではないが、了解に苦しむ。それこそ、神話や言語や民俗を含めて南方的要素は、「日本本土にまで影響」している。多くの文献を当たってきたにも関わらず、来間は「ほとんど考えられない」というところで、自分の思い込みして考えていないだろうか。南方的要素は、日本本土にも渡った。奄美、沖縄では、北からの流入も多かったから、南方的要素は奄美、沖縄で希薄になる、と考えるのが自然である。
来間は膨大な文献に当たりながら、その引用を主軸に自身のコメントを加える形で本を構成している。その間の思考から、ふいに思考を離れた言葉が出るときがあって、それがぼくには気になった。
このように、沖縄人の祖先は、三万二千年前の山下洞人、一万八千年前も遡る港川人などの旧石器人にではなく、六~七千年ほど前に当たる縄文時代に流入した人びとに求めなければならない。この人びとがどこから来たのかは分からないが、おそらく北からも南からも来たのであろう。しかしながら、それもなかなか定着できなかったのであり、最終的には、考古学でいう「グスク時代」につながっていく時代、沖縄縄文時代の後期や晩期も終わって、「弥生~平安並行時代」の終盤にまとまって渡来してきた人びとこそが直接の祖先なのである。それは、北から、すなわち九州からやってきたのである。時代としはグスク時代(一〇/一二世紀以降)の少し手前、八/九世紀であり、日本史では平安時代の後半となっている。
この、「祖先」というところで、来間は学者としてではなく、祖先崇拝を背負った島人として書いているのではないだろうか。そもそも、「直接の祖先」とは何だろう。間接の祖先もあるということか? ここは学者らしからぬ書きっぷりではないだろうか。穿ってしまうと、直接の祖先ではないことが、旧石器時代はなかったという断定を引き入れていないだろか。
ここまで来て、ぼくも些細なことに躓くのがわかってきたが、そうなるのは、ところどころで日流同祖論の再来を感じさせるからだ。もちろん、来間はそれとして議論を展開しているわけではない。グスク時代、按司時代ではなく、琉球古代という呼称を提案することろも普遍性への志向を感じて共感した(cf.「『グスクと按司〈下〉』(来間泰男)」)。それだから、少しちぐはぐな印象を受けるのだ。
「縄文時代に入って、日本列島と沖縄諸島とは基本的に同一の文化、すなわり「縄文文化」を共有することになる」というのも、強引な言い方ではないだろうか。ぼくは貝塚時代という呼称を使うべきだと考えているわけではなく、一方で、沖縄は日本とは違う独自性があるということも主張しているので、なぜ貝塚時代の呼称では不都合なのかの理由がよく分からなくなってくるのだ。
四季の変化は微妙で、緩やかである。厳しい寒さというものがなく、年中温暖な中で、少しずつ変化していく。春や秋がないという言い方もあるが、慎重に観察すればあるのであって、その期間は短いというべきであろう。このような季節の流れは、そこに住む人々の心が季節の変化によって急かされることがなく、ゆったり、のんびりの雰囲気となる。
このような沖縄の気候は「亜熱帯湿潤気候」といわれている。亜熱帯の中で、雨量の多い地域に属するという意味である。亜熱帯は、熱帯的な夏と温帯的な冬との組み合わせであり、このことが農業、林業及び水産業の自然的背景としてある。冬季に短期間で栽培できる温帯作物なら適合するが、夏季に短期間でできる熱帯作物はなく、それは「寒い」冬を越さねばならないというハンディを背負うことになる。
ぼくは琉球弧の島人の季節感覚を知りたい。もちろん現在は、本土の商品経済にすっぽり入っているから、四季を概念上認識しているけれど、文字以前の島人は、どう時を刻んでいたのかを知りたい。来間の議論からは、夏と冬というふたつの交替が読み取れる。本当は、冬というのは当たらないのかもしれない。春夏秋冬の言葉を使うとすれば、暑い夏と肌寒い春、だろうか。
農耕の特色は得るものが多かった。夏、雲は多いが、まとまった雨が降らない。冬は、降雨量は多くないが降雨日数は多い。そこで、冬作の農耕システムを生み出す。つまり、古い時代には夏作は欠けていた。17世紀初頭に甘藷が伝わり、初めての夏作物になった。同時期に砂糖きびも伝わり、耕地の5~10%を占めた。
律令国家である大和朝廷は、「南島支配」に乗り出した。しかし、律令国家の「南島支配」とはいうものの、その領域に「国」または「島」として編成されたのは熊毛諸島(屋久島や種子島)までであり、奄美諸島の島々は、せいぜい「朝貢」地域とされた程度であった。しかしそれさえも、律令国家側が主観的にそう思った、そう位置づけたにすぎなかったのであり、奄美諸島は「支配」されたのではない。「朝貢」は儀礼的な関係であって、「支配」とは別物であろう。さらに、それにより以南の沖縄諸島は、その「朝貢」さえしていない。この点は「信覚」を石垣島とみるかどうかにかかわるが、「信覚=石垣島」説に立つ山里純一も沖縄諸島は「朝貢」の誘いを拒否したとみている。
私は「信覚=石垣島」説に同意しない。多くの論者がその地理的な隔絶性を指摘し、また社会の発展段階の差異を指摘して、この説に疑問を提起するようになってきたが、いまだ多数意見とはなっていない。しかし、ただ音の類似性だけから「信覚=石垣島」をいうのは、歴史の総合的な見方からすれば、恣意的な歴史解釈というべきである。
前半には共感するが、後半はほんの少し躓く。では、来間は「信覚」はどこだと考えるのだろう。「球美」はまた。
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コメント
長年に亘る不定期訪問者です。初めてコメントします。沖縄のチャンプルーがバリ島Ubudのナシチャンプルーとほぼ同じ意味だと4年前知り、またバリ人と中国系マレー人がマレー語で会話するのを見て、大昔Island Hopper
が活躍していた文化伝播・貿易交流に興味を持っております。貴ブログではいつも知的刺激を有り難く受けております。これからもご活躍されますよう楽しみにしております。喜界島での砂鉄鋳造遺跡発見には驚きました。
投稿: 深本敬 | 2015/07/30 16:47
深本さま
コメントありがとうございます。南島古代期の喜界島の存在感はどんどん大きくなってきますね。
ぼくはもっぱら前古代に関心を寄せています。大昔のIsland Hopperたちの精神世界。
長く、訪ねてくださり、感謝いたします。これからもよろしくお願いします。
投稿: 喜山 | 2015/07/31 07:54