ユタはアマテラスにならなかった「太陽の妻」
アマテラス女神には、太陽神の娘、強烈なマザコンである弟神スサノオの姉、機織りの女神などといった特徴が、あからさまに表現されているが、ただひとつ「産む女性」としての特性だけが、表面からは消されている。そのために、伊勢に大きなモリ(古代コリアのコソ)を得て、そこに住まうようになってからは、生命循環や食物連鎖や死の要素にかかわることは、外から迎えた「トヨウケ(豊受)」という別の女神に一切まかせて、自分はひたすら永遠の光のなかにとどまっていることになった。アマテラス女神は、アンチエイジングにはげむ現代女性の先駆者である。(中沢新一『大阪アースダイバー』)。
言い得て妙だけれど、こう言われると、ユタはアマテラスに似ているところがある。太陽神にかかわり、機を織るところだ。
ただし、ユタの起源伝承の主役であるオモイマツガネは「太陽の妻」なのであり太陽神ではない。それに産むこともやめていないし、アマテラスがトヨウケ(豊受)に任せた「死の要素」に関わることを専らにしている(山下欣一『奄美のシャーマニズム』)。
むしろ、アマテラスは祝女に似ていると言うべきかもしれない。祝女の最高位、聞得大君は、太陽子の王の姉妹であり、それこそ「死の要素」はユタに任せて関わらない。独身であることも多い。「ひたすら永遠の光のなかにとどまっている」のも、自ら高神として振る舞うこともある祝女と共通している。
ユタはアマテラスにならなかった「太陽の妻」であり、祝女はアマテラス化したユタだ。
ユタの由来である日光感精説話は、ユタがあからさまに共同幻想を対幻想の対象にしている巫女であることを告げているが、これは、家のことに関わるようになって以降に神話として受容したもので、もともとは自己幻想を共同幻想に同調させる巫覡として出現したはずだ。オモイマツガネの子は、トキユタ(男性巫覡)になるが、彼が天空飛翔の試練を受けるのは、脱魂型のシャーマニズムを連想させる。
けれどぼくたちの視野には、琉球弧にその段階があったのか、分からないと言うしかない。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント