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2015/07/31

鯨の腹の中に稲種が入っていた

 伊藤幹治の「奄美の神祭」(「国学院大学 日本文化研究所紀要」3号、1968年)に、「琉球弧の作物起源神話の濃度」「まれびとコンプレックス」を補足できる内容があった。

 なお、ネリヤは鯨と絡んで次のような伝承がある。この地方では一般に鯨をクジラと呼んでいるが、押角ではもともとオーメガナシ・ウフムンガンバシとよんでいたという。この鯨はネリヤ神が育てられた魚で、ネリヤ神の使いであると説かれ、漁に出て鯨に遭ったりすると、人々はよくトートガナシと唱えたと弘く伝えられている。於斉の女神役たちは、鯨を神の魚という理由でこの肉を食べることが禁じられている。俵では、鯨の腹の中に稲種が入っていたと伝承されている。木慈では、稲種はネリヤの底の泥の中から生れたと伝えられている。押角の老漁師から採録したネリヤ資料の中に次のような伝承がある。宇検村の屋鈍部落と枝手久島との間の海底に、牛の横臥しているような恰好をした大きな瀬がある。仲間内でここをネリヤと呼んでいる。この附近は雑魚のよく獲れるところで、むかし宇検村の名柄部落の漁師がここで獲った雑魚の腹の中に稲種が入っていた。これは糯米の種で、蒔いて育てたところがかなりの収量をあげた。この稲種は魚の腹の中から出てきたので、イューゴロと称したと伝えられている。

 鯨は「神の使い」であり、於斉では食べることが禁じられているということは、トーテム的観念を示している。ただし、トーテムとして表象したか、はじめから「神の使い」であったかは分からない。

 俵の、「鯨の腹の中に稲種が入っていた」という伝承は、琉球弧の有用植物の伝来の性格をよく伝えていると思える。

 伊藤はまた、「女の御馳走」の伝承はあるものの、「穀物の死体化生モチーフが認められない」と指摘している。かわって、「琉球の穀物起源神話のほとんどは、天界または海の彼方から穀物がもたらされるというモチーフを基調としている(「日本神話と琉球神話」『講座日本の神話〈10〉日本神話と琉球 (1977年)』)」。

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2015/07/30

『稲作の起源・伝来と“海上の道”』と『“流求国”と“南島”』

 駆け足になるが、来間泰男の古代以前の沖縄論を見ておく。

 まず、本人が『稲作の起源・伝来と“海上の道”』上下について、整理しているので、そこから入っていく。

 1.新人が4万年ほど前に日本列島に入った。窓口は北海道と北九州と沖縄。順序は北から。

 2.沖縄諸島に住みついた人びとも、北すなわち九州から南下してきた人びとの影響が大きく、また、現代日本人の特質を構成する要素としては、南からの要素は、沖縄人を含めて希薄である。

 3.沖縄には旧石器時代の人骨が多く残っているが、それはいずれも「旧石器」などの遺物を伴わず、「旧石器文化」があったということは難しい。

 4.縄文時代に入って、日本列島と沖縄諸島とは基本的に同一の文化、すなわり「縄文文化」を共有することになる。従来、沖縄の独自性を強調する立場から「貝塚時代」の呼称が用いられてきたが、近年は沖縄も「縄文時代」というようになってきた。

 5.しかし、沖縄諸島の縄文時代は、日本列島に比べて開始が遅く、終了も遅い。終了が遅いのは、「弥生時代」の文化構成要素である水田稲作と青銅器・鉄器の伝来が遅いことによる。沖縄諸島は「暑い」ために、日本列島に伝来する時までに温帯型に変化していた稲作は、伝わって来ても立地・定着できなかったのである。

 6.それでいて、諸家のなかには、日本列島への稲作の伝来について、沖縄諸島を経由した「海上の道」があったし、場合によってjはそれが先行したかのような議論をする者がおり、それはありえないことを主張した。
 7.その検討のなかで、照葉樹林文化論の欺瞞性に気づかされた。

 まず、「旧石器」などの遺物が伴わないから「旧石器文化」はなかった、というのは筋が分からない。「沖縄地域には旧石器時代はなかった」とも書くのだが、それは「旧石器」を遺していないからだという。ぼくは、時代の有無に関心はないが、人間がいたのが確かなら、文化があったのも確かだ。いや、文化の有無を云々したいわけでもなく、人間が一人でもいたというなら、語るに値するものはあると、ぼくは思う。なぜ、こう断言するのだろう。

 2については、本文ではもう少し、ニュアンスが読み取れる。

これまで検討してきたように、南方からの人と文化の流入は否定できないであろう。それは、古くは港川人などとして、またミトコンドリアDNAに含まれる南方的要素が、日本の中では南の方ほど多く残っていることなどで了解できる。そして、そのような南方的要素の流入は、古い時代だけでなく、その後も繰り返しあったと考えるべきであろう。
 しかしながら、それは八重山から宮古を経由して、さらに沖縄諸島、奄美諸島にまで進むうちに、しだいに希薄になっていく。それが日本本土にまで影響したとは、ほとんど考えられない。南からの文化の流れは、あるが、強力とはいえないのである。

 この文脈が耳新しいわけではないが、了解に苦しむ。それこそ、神話や言語や民俗を含めて南方的要素は、「日本本土にまで影響」している。多くの文献を当たってきたにも関わらず、来間は「ほとんど考えられない」というところで、自分の思い込みして考えていないだろうか。南方的要素は、日本本土にも渡った。奄美、沖縄では、北からの流入も多かったから、南方的要素は奄美、沖縄で希薄になる、と考えるのが自然である。

 来間は膨大な文献に当たりながら、その引用を主軸に自身のコメントを加える形で本を構成している。その間の思考から、ふいに思考を離れた言葉が出るときがあって、それがぼくには気になった。

 このように、沖縄人の祖先は、三万二千年前の山下洞人、一万八千年前も遡る港川人などの旧石器人にではなく、六~七千年ほど前に当たる縄文時代に流入した人びとに求めなければならない。この人びとがどこから来たのかは分からないが、おそらく北からも南からも来たのであろう。しかしながら、それもなかなか定着できなかったのであり、最終的には、考古学でいう「グスク時代」につながっていく時代、沖縄縄文時代の後期や晩期も終わって、「弥生~平安並行時代」の終盤にまとまって渡来してきた人びとこそが直接の祖先なのである。それは、北から、すなわち九州からやってきたのである。時代としはグスク時代(一〇/一二世紀以降)の少し手前、八/九世紀であり、日本史では平安時代の後半となっている。

 この、「祖先」というところで、来間は学者としてではなく、祖先崇拝を背負った島人として書いているのではないだろうか。そもそも、「直接の祖先」とは何だろう。間接の祖先もあるということか? ここは学者らしからぬ書きっぷりではないだろうか。穿ってしまうと、直接の祖先ではないことが、旧石器時代はなかったという断定を引き入れていないだろか。

 ここまで来て、ぼくも些細なことに躓くのがわかってきたが、そうなるのは、ところどころで日流同祖論の再来を感じさせるからだ。もちろん、来間はそれとして議論を展開しているわけではない。グスク時代、按司時代ではなく、琉球古代という呼称を提案することろも普遍性への志向を感じて共感した(cf.「『グスクと按司〈下〉』(来間泰男)」)。それだから、少しちぐはぐな印象を受けるのだ。

 「縄文時代に入って、日本列島と沖縄諸島とは基本的に同一の文化、すなわり「縄文文化」を共有することになる」というのも、強引な言い方ではないだろうか。ぼくは貝塚時代という呼称を使うべきだと考えているわけではなく、一方で、沖縄は日本とは違う独自性があるということも主張しているので、なぜ貝塚時代の呼称では不都合なのかの理由がよく分からなくなってくるのだ。

 四季の変化は微妙で、緩やかである。厳しい寒さというものがなく、年中温暖な中で、少しずつ変化していく。春や秋がないという言い方もあるが、慎重に観察すればあるのであって、その期間は短いというべきであろう。このような季節の流れは、そこに住む人々の心が季節の変化によって急かされることがなく、ゆったり、のんびりの雰囲気となる。
 このような沖縄の気候は「亜熱帯湿潤気候」といわれている。亜熱帯の中で、雨量の多い地域に属するという意味である。亜熱帯は、熱帯的な夏と温帯的な冬との組み合わせであり、このことが農業、林業及び水産業の自然的背景としてある。冬季に短期間で栽培できる温帯作物なら適合するが、夏季に短期間でできる熱帯作物はなく、それは「寒い」冬を越さねばならないというハンディを背負うことになる。

 ぼくは琉球弧の島人の季節感覚を知りたい。もちろん現在は、本土の商品経済にすっぽり入っているから、四季を概念上認識しているけれど、文字以前の島人は、どう時を刻んでいたのかを知りたい。来間の議論からは、夏と冬というふたつの交替が読み取れる。本当は、冬というのは当たらないのかもしれない。春夏秋冬の言葉を使うとすれば、暑い夏と肌寒い春、だろうか。

 農耕の特色は得るものが多かった。夏、雲は多いが、まとまった雨が降らない。冬は、降雨量は多くないが降雨日数は多い。そこで、冬作の農耕システムを生み出す。つまり、古い時代には夏作は欠けていた。17世紀初頭に甘藷が伝わり、初めての夏作物になった。同時期に砂糖きびも伝わり、耕地の5~10%を占めた。

 律令国家である大和朝廷は、「南島支配」に乗り出した。しかし、律令国家の「南島支配」とはいうものの、その領域に「国」または「島」として編成されたのは熊毛諸島(屋久島や種子島)までであり、奄美諸島の島々は、せいぜい「朝貢」地域とされた程度であった。しかしそれさえも、律令国家側が主観的にそう思った、そう位置づけたにすぎなかったのであり、奄美諸島は「支配」されたのではない。「朝貢」は儀礼的な関係であって、「支配」とは別物であろう。さらに、それにより以南の沖縄諸島は、その「朝貢」さえしていない。この点は「信覚」を石垣島とみるかどうかにかかわるが、「信覚=石垣島」説に立つ山里純一も沖縄諸島は「朝貢」の誘いを拒否したとみている。
 私は「信覚=石垣島」説に同意しない。多くの論者がその地理的な隔絶性を指摘し、また社会の発展段階の差異を指摘して、この説に疑問を提起するようになってきたが、いまだ多数意見とはなっていない。しかし、ただ音の類似性だけから「信覚=石垣島」をいうのは、歴史の総合的な見方からすれば、恣意的な歴史解釈というべきである。

 前半には共感するが、後半はほんの少し躓く。では、来間は「信覚」はどこだと考えるのだろう。「球美」はまた。

 

『稲作の起源・伝来と“海上の道”〈上〉』

『稲作の起源・伝来と“海上の道”〈下〉」

『“流求国”と“南島”―古代の日本史と沖縄史』

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2015/07/29

『ポリネシア 海と空のはざまで』

 思い続けていると機会はやってくるものだろうか。マンガイア島のことが気になっているが、片山一道の『ポリネシア 海と空のはざまで』は、マンガイア島のエピソードが多くて助かった。

 そのマンガイア島に関するものから。

 1.ポリネシアには、「高い島」、「低い島」、「マカテア島」がある。「高い島」、「低い島」は、琉球弧もそうだ。「マカテア島」とはどういう島か。

 この名前はツアモツ諸島にあるテ・マイカア島に由来するが、ポリネシア語の意味は、おそらく「白い石塊」。たしかに島じゅう、ギザギザした巨大な石塊が、やたらゴロゴロしているが、それらはけっして白くはない。なぜ「白い」なのか、私にはわからない。(中略)
 マカテア島は、いわざ火山島と隆起サンゴ礁が複合したような島である。多くは島の中央部に、風化が進んだ玄武岩性の小山があり、隆起サンゴ礁が島の周りを包囲する格好をしている。火山島の「高い島」がひどく沈降する前に、その周りのサンゴ礁ごと、地殻変動するために海から浮上した島なのであろう。

 マカテアとは、「そうした隆起サンゴ礁のこと」で、マンガイア島もマカテア島に類型化される。

 「なぜ「白い」なのか」。片山さん、それは珊瑚岩はもともと白いからですよ。

 2.複雑な首長組織アロンガマナがある(あった?)。

 3.動物界は「海の動物」と「陸の動物」に区分できる。狭義には魚だが、海獣はマンガイカという。

マンガイカという言葉は、オーストロネシア語族の言語に広く共通するイカ(魚)に由来するが、マンガイアだけの言葉で、近くのどの島でも使わない。そもそもマンガイアという島名が、マンガイカに由来する言葉だとのたまう島びとさえいる。ちなみにマンガが食べ物の総称で、字義どおりだとマンガイカは「食用のイカ」(魚類)を意味するのである。

 4.オオコウモリ。

マカテアの内側に口を空ける多数の鍾乳洞を棲み家として、群れをなして繁殖する。

 この、マカテアの内側の洞窟の穴が、初期の他界の入り口を指すのだろう。

 5.男という男はことごとく、ことのほかオオコウモリ猟が好き。

 6.クジラ見物の絶好の穴場。

 7.ポリネシアは冗談が過剰気味。マンガイア島はそのなかでは、「まことしやかなうそ」が多用される。男女間の噂は千里を走る。

 8.ポリネシアはけったいな人名の宝庫。アチガアカウは失恋の意。マタオラは幸せの意。

 おかげでマンガイア島がだいぶ身近になってきた。

 その他、気づきを得たことをメモ。

 そのそも島じまを統合する名前などなかったから、ヨーロッパ人が命名したクック諸島を国名として使用している。この感覚は島人らしいと思う。

 「南国の楽園幻想」には、「ポリネシアの性の解放感」のイメージがつきまとった、とある。このことは、観光ブームだった頃の与論も同じで驚いた。つまり、「南国の楽園幻想」には性が含まれているわけだ。

 「青色だけが不自然すぎるほどに優位な世界」。これも与論と同じだ。

 ポリネシア人は、「おそらく社交性の豊かさでは、どの民族にも負けないだろう」。これは不思議な点で、島であれば人見知りのはずだが、どうしてそうではないのだろう。人見知りの反転形なのだろうか。

 イースター島のモアイ像は、ひとつのタイプでポリネシア中にモアイを彷彿とさせる彫像があふれている。クック諸島の男根を強調するタガロア像もそう。つまり、ニューアイルランド島のマランガンのような祖先像ともつながるのだろう。

 日本語にもオーストロネシア語族の要素がある。子音と母音、あるいは母音だけでひとつの音素を構成する日本語の発音体系は、まさにオーストロネシア語そのものといってよい。

 角田忠信は、虫の音を言葉として聞くのは、日本人とポリネシア人だけ書いていたが、オーストロネシア語の特徴でもあるということか。すると、琉球語もその範疇にあることになる。

ともかくポリネシア人の目には、日本人などのアジア人、ことに日本列島の南部の人たちは自分たちに非常に近い人間と映るようだ。ひとつの民族が経験した遠い記憶とか、民族間の系譜関係のようなものが、他民族を見る遠近感のなかにみごとに生きている実例といえよう。

 なるほど!

そもそもポリネシア人の宗教観では、天に生まれたり天に還ることはない。人間という存在、海に生まれ海の彼方に還るものと考えられてきた。あるいは地中で生まれ、ふたたび地中に還るものと考えられてきた。これは同じこと。なぜなら地中深くにも海がある、つまり自分たちの島は浮き島であると信じられてきたからである。

 他界の地下と海上の二重性は、「浮き島」によって矛盾を解消されている。これがポリネシア人の見解なのか、片山の解釈かは分からない。

 伝承では、そのほかに遺体をカヌーで海に流したり、岩盤の穴に落としたり、樹上に放置したりする埋葬法があったという。しかし考古学では確認できない。

 海上他界観を持つから、樹上葬があったという伝承はその通りなのだと思う。彼らの祖先はポリネシアに拡散した時、すでに焼畑農耕の技術を持っていたのだから、原郷の地の他界観も携えていたということだ。つまり、島の歴史は浅くても、その思考は深いということだ。これは、与論島にも当てはまる。

 ニュージーランドのポリネシア人でも相当に流行していたようだ。螺旋模様の入墨を顔一面に彫った人物画が多く残っている。ここでは入墨はタタウではなく、モコと呼ばれた。
 モコとは、ポリネシア語の本来の意味はヤモリとかトカゲである。トカゲが入墨を意味するように転訛した理由は定かではない。おそらくニュージーランド・マオリの入墨のパターンが、そもそもヤモリなどの図柄を様式化したものであったからだろうか。

 片山さん。それは、入墨が霊魂やトーテムを指したからではないでしょうか。

 気になるのは、片山は「そもそもポリネシア人の宗教観では、天に生まれたり天に還ることはない」としているが、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』では、天上と地下が対置されているのがポリネシアの特徴だった。マンガイア島もそうなのだ。そして、天上と地下が対置される場合、社会階級によって天上と地下が分かれること、この文化複合は種族の混合があったためだと考察されていた。片山の話題はそれに触れられていない。それは、触れていないだけなのか、ポリネシア人は単色な民族で、二重の他界は、同じ種族内の階級化から生まれたものか、それが疑問点として残った。

 cf.『ポリネシア人―石器時代の遠洋航海者たち』


『ポリネシア 海と空のはざまで』


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2015/07/28

マンガイア島の貝利用

 生と死の分離、分離後の死者の他界への道行きについて示唆を与えてくれるマンガイア島について、五十嵐由里子の論考を助けに理解を深めたい。

 cf.「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」「他界への道を塞ぐ(生と死の分離の契機)」

 マンガイア島は、ポリネシアのクック諸島の最南端に位地する。平均気温は、21度から27度。面積は、51.8K㎢、人口は2141人(1991年度)。与論島の面積は20K㎢だから2倍以上ある。地形は、中央部の火山円錐丘(169m)、それを囲む隆起サンゴ礁段丘(マカテア)。マカテアは、幅250-2000m、標高は70m。裾礁は幅が120-300m、最深部の深さが1m。これは浅い。

 先史時代に確実に利用された貝は、マルサザエ、オオウラウズガイ、コオニノツノガイ、ムカシタモトガイ、リュウキュウヒバリガイ、シシガシラザル、シオオナミガイ、アラヌノメガイ、リュウキュウマスオガイの9種類。9種類の貝は、いまでも島民の重要な食用種。

遺跡の人びとは貝を採集するために、礁池の陸に近い部分から沖に近い部分まで、さらに干瀬から礁斜面にいたるまで、裾礁全体を利用していたと考えられる。(「先史ポリネシア人の貝利用--南太平洋クック諸島マンガイア島の先史遺跡から出土した貝殻遺物の分析」『エコソフィア (3)』

 ところでワイロガ遺跡の人は、遺跡近くの海岸(オアウ・トカテア間)で採集した。五十嵐は、「ではなぜ、人びとは限られた範囲の海岸で貝の採集を行ったのだろうか」と自問している。

 沿岸の漁場が分割され、各区域が特定の集団に占有されている例が太平洋の各地でみられる。マンガイア島では、一九世紀ごろには土地と裾礁が分割され、各人が利用できる土地が厳密に定められていた。一九世紀のよな裾礁の分割がワイロロガ遺跡の時代にもあり、人びとが利用できる裾礁の範囲が定められていたとすれならば、約八キロメートル離れたカタンガヌイ海岸へも、また南へ約二・五キロメートル離れたテクル海岸へも貝の採集に出かけなかった、という可能性も考えられる。

 この状況は、琉球弧からもよく理解できる。五十嵐の推測は当たっているのではないだろうか。

 実は、アレマウク(Aremauku)という他界への出発点の地名の場所を知りたくて、当たってみたのだが、さすがに見当たらなかった。

 cf.「Subsistence activities of prehistoric Polynesians : analyses of shell artifacts and shell remains excavated at prehistoric sites on Mangaia, Cook Islands」(五十嵐由里子、1999年)



 

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2015/07/27

「焚字炉」と「御字拝み」

 井谷泰彦は、『沖縄の方言札』のなかで、沖縄の文字信仰について触れている。

 それは、「明治以前に琉球全土に広がっていた」もので、「球陽」にも記されている。

 本年、焚字炉ヲ創建ス。冊封正使林鴻年、国ニ臨ムノ後、国人ヲシテ焚字炉ヲ設ケテ字紙ヲ敬惜セシメント欲シ、特に字紙ヲ惜ムヲ勧ムノ文ヲ賜フ。即チ国中ヲシテ場を察シ、焚字炉ヲ設ケ以テ字紙ヲ敬セシム

 文字や紙を敬い惜しむ。そのために焚字炉を設けて、もって字紙を敬わせる。

 びっくりするが、井谷は、道教には「敬箋」という文字に対する信仰があり、明治以前は文字を書いた紙片を踏みつけることは決してなく、道に落ちた紙は「焚字炉」に投じた。一つ投じると一つ善根を積んだことになったという解説を引用している。これは東アジアに古くから広がる古代的な文字信仰の残滓であると井谷は書いている。

 井谷は「方言札」を論じるに当たり、文字信仰に触れいてるのだが、ぼくには別の意味で驚かされる。文字は神だったのである。来訪するものをすべからず神とみなす、まれびとコンプレックスのもとでは、文字の受容も同様だったに違いない。そう考えてきたが、やはりそうだったということだ。

 名護市役所には、「御字拝み(みじうがみ)」という儀式があった。17世紀から18世紀にかけて生きた琉球氏族、程順則の没後に始められたとも言われる。沖縄戦で中断されたが、戦後も復活した。拝んだ「御字」とは、程順則が書いた「六諭(りくゆ)」という文字だ。「六諭」自体は、14世紀の明、洪武帝が宣布したものだ。

 孝順父母
 尊敬長上
 和睦郷里
 教訓子孫
 各安生理
 毋作非為

 戦前から名護の役場に勤めていた比嘉親功は、「私は書いてある文字の意味はわかりませんでしたが、御字は〈読む〉というより、皆が心を清めて『聖人、名護親方の字を拝む』ということが大事であったように思います」(一九五五年談)と話している。(『名護市史 本編 6 (教育)』)

 ぼくたちは、ここにも文字信仰の現われを見ることができる。道教の影響はあれ、ここには、まれびとコンプレックスが底流しているのを見ることができる。


『沖縄の方言札―さまよえる沖縄の言葉をめぐる論考』


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2015/07/26

「解離論の新構築」(森山公夫)

 森山公夫の「解離論の新構築」について、「シャーマニズムと狂気」と重なる部分は除きながら、見ていこう(『解離の病理―自己・世界・時代』)。

 ヒステリーは、森山の観察によれば、1995年以降、「解離」、「身体化障害」という新たな名のもとに還ってきた。

 「解離」、「つまり人間一般に潜む「遁走と憑依」の原初的体験の背景にあるのは、(中略)「母体的なところ、原始的な心性」に帰ること、およびその裏面である「母親から離れる恐怖と寂しさ」に帰着すると考えることができる」。

 「母親ないし母親代理存在の喪失を基にした「憧れと寂しさ・恐怖との体験」が、軽重さまざまな形態であれ、人を解離様世界へと誘う」という視点が、「解離論の出発点」。

 森山は、シャーマンの錯乱(狂気)を「原狂気」として、「癲癇(てんかん)・解離」に通底する特徴を持っていると考えたい、としている。

 脱魂と憑依の対が実は、病的解離における「遁走」と「多重人格・憑依」の対に相当することは、よく見れば明らかである。諸精霊や神々を求めて飛び立つ脱魂は、原母的なるものを求めて脱出する遁走に通底し、諸精霊や神々がシャーマンに憑く憑依は、原母性の不在による寂しさ・絶望に怯える人が原母性を代理する存在(人・動物など)に取り憑かれる憑依・多重人格に通底することは明らかである。

 ぼくにとっては、脱魂と憑依の対応が見いだせたことが学びだった。

 ・解離性障害:トランスという変性意識状態を基盤に遁走(フーグ)と多重人格(憑依)を両極とする形

 ・解離性遁走:絶対的孤立(「居場所の喪失」)によるトランス下で「失われた母性」を求めての彷徨
 ・多重人格:絶対的孤立(「居場所の喪失」)の中で「母性喪失」の欠落を補完する

 これらは対幻想の障害として理解される。躁鬱病は個的幻想の障害(森山は農耕社会になって発現すると書いている)、統合失調症は共同幻想の障害。

 解離性離人症の特徴は「体外離脱体験様」。これは遁走にも言えて、「観察者自分から離れた当事者自分が飛び回るのが遁走だ」。解離の離人症は、「遁走・多重人格の原初的姿」。

この離人が進行し独自な形をとったのが体外離脱的体験である。その状況がさらに悪化し、孤立と生リズム崩壊がより進む時、病状としての自己解体も進行し、遂には遁走・多重人格の成立に至る、といえよう。

 こうした体外離脱体験は、臨死体験など、人間生活の例外的局面にもよく現われる。


 本当は、遁走が男性に多く、多重人格が女性に多いのはなぜなのかを知りたくて論考に当ったのだが、それには触れられていなかった。けれど理解に厚みを持たせてくれる内容だ。離人が進行すると、遁走・多重人格を生む。これを技術化したのがシャーマンだ。一方、臨死体験での体外離脱体験は、他界の内実を示唆した。ユタが死の世界を扱うのも頷ける。

 


『解離の病理―自己・世界・時代』

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2015/07/25

葬法とシャコ貝

 木下尚子は、『南島貝文化の研究』のなかで葬法とシャコ貝の関係を考察している。

 シャコ貝は「葬送行為に関連してのみ認められる」。その最古の例は、具志川島岩立遺跡。縄文晩期から弥生時代併行期には、地上標識や地下の遺体に伴い、使用率も4割を越える。古代から中世併行期には、岩陰墓や洞穴墓の入り口付近に置く風習が見られる。

 私は、南島の貝塚人が葬送の具としてとくにしゃこがいを選んだのは、結局、その生態的特徴と貝殻の造形的特徴に導かれたためではないかと考えている。これらがある解釈によって人の死と結びつけられることになったのであろう。両者連結の鍵は"海底に開いた口"から連想される海底の奥の異界ではなかっただろうか。古代人はしゃこがいを異界と現実の世の通路を開け閉めする装置として認識していたのではないか、私はこのように考えてみたい。

 また、「しゃこがいを伴う被葬者の大半は、伏臥葬であった。南島においても伏臥葬は稀な葬法である」。

彼らは東武に巻貝の尖った頂部をあてられていたり、斜めに葬られていたり、不自然な二次葬であったりした。しゃこがいを伴う被葬者から受ける印象は、死の安静ではなく死の不気味さであり、異常さに対処しようとする遺された人々の抵抗である。
 しゃこがいは、死の異常性に対する役割を負ってとくに使用されたのではないだろうか。私には被葬者の身体のある部分にしゃこがいを配することで、この異常さを具体的に処理しようとしているようにみえる。

 死者に伴うしゃこがいは、「頭部への集中がいちじるしい」。

これにすばやく閉じるしゃこがいの海中でのイメージを重ねると、被葬者は海底のしゃこがいに捕獲されていると見立てられる。しゃこがいの口に海底の異界入口のイメージを重ねると、被葬者は異界へ引き込まれていると見立てられる。この場合、しゃこがいによって異界に封じ込められるべき対象は頭部にある、とみなされたのではないか。人の死が異常であればあるほど、これを厳重に異界に封じ込める必要があったのではないか。このようにして強引に封入されるべき対象は、やはり、死霊であろう。

 こうして、木下は、シャコ貝を「死霊の捕獲・封入の呪具」と見ている。嵩元政秀・当間嗣一も、「明らかに死者の霊魂を鎮圧、封じ込めようと意図する呪術的な習俗を示している」(「南島研究22号」)と書いた。酒井卯作も、ここには「強い死霊観念」があり、「死霊の封じ込めを意味していたとしか考えられない」(「南島研究」25号)と同様の認識を示している。

 さらに木下は、シャコ貝の呪力の変遷図を試みている。

 1.捕獲・封入の呪力Ⅰ(貝塚時代前期~)
 2.捕獲・封入の呪力Ⅱ)第一尚氏~)
 3.阻止の呪力(近世琉球~) アジケーの成立
 4.返しの呪力(近代~) 石敢當やシーサーと同様。

 ⅠとⅡは、本来と派生。アジケーの成立は、十字形に交差することが呪力を持つことの意味だ。

 これらの解釈を前にすると、ぼくはなんだか、死霊への恐怖一辺倒で気持ちが塞がってくる。木下の変遷図によれば、それは貝塚時代の前期からだとうのだから、なおさらだ。

 いま、新里貴之の整理をもとに、木下が、シャコ貝を伴うとした遺跡をプロットしてみる。

Photo

 確認された範囲では、シャコ貝が伴うのは、貝塚時代前4期以降になる。前4期(4000年前)は、琉球弧が定着期に入って1000年を経過している。岩陰墓も見られるので、生と死は、移行から分離の段階に入っている。その意味で、「古代人はしゃこがいを異界と現実の世の通路を開け閉めする装置として認識していたのではないか」という木下の視点は面白い。「開け閉め」は過剰解釈で、他界への「お通し」ほどの理解のほうが受け取りやすい。

 死霊の鎮圧、封じ込めという一辺倒の理解に違和感を持つのは、シャコ貝がトーテムとみなされた段階、地域があったと考えられるからだ。

 酒井が「きわだって貝の産地として知られている」(「南島研究」25号)宮古島には次の創世神話がある。

昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。(宮古島)

 この、人間の前に出現するシャコ貝のポジションは、石垣島の創世神話におけるアマム(ヤドカリ)と同位相にある。つまり、シャコ貝をトーテムとみなした段階、地域があった。それは琉球弧だけでなく、ポリネシアに於いては、貝や蟹がトーテムになっている。

 こうしたトーテムとしての象徴性を持つシャコ貝が、死霊の封じ込めの呪術としてのみ語られることに違和感がある。それは、あったとすれば、アマム(ヤドカリ)が、トーテムから神や神の使いまで身をやつしていく解体過程の表現として存在するのではないだろうか。

 エリアーデは、「イメージとシンボル」(『エリアーデ著作集〈第4巻』のなかで、牡蠣、鹹水(かんすい・塩分を含んだ水)の貝殻、巻貝、真珠のシンボリズムンを挙げている。

 月、水、そして「女陰との類似による」女性とのむすびつき。

貝殻と牡蠣はこんな風にして子宮の呪術的な力を分有するものである。汲めども尽きぬ泉のように女性原理のしるしならどんなしるしからも迸(ほとばし)り出る創造力がそれらの中にたち現われ、力を振るっているのである。

 そこから、女性に受胎を容易ならしめて、女性を保護する。さらに、「愛と婚姻のしるしに囲まれて姿をあらわす」。貝殻と牡蠣は、「生誕と再生のシンボリズムを表わす」のだ。

 貝殻は、インドネシア、メラネシア、オセアニアにおいて、第二の生誕でもある加入礼でも現われる。そこから葬礼のなかで果たす使命も出てくる。

 中国の陵墓では、硬玉と真珠が用いられる。

 硬玉と貝殻はあの世でよきめぐり合せに逢うよう競って力を貸すというのだ。もし硬玉が死体の腐敗を防ぐ役目を果すとすれば、真珠と貝殻は亡き人に新しい誕生をかなえてやるだろう。

 「貝殻の聖なる力は、螺旋をその本質的な要素とする装飾モチーフ」に及んでいるとし、エリアーデは書いている。

しかし渦巻きのシンボリズムはもう少し複雑であり、その《起源》はなお不明であるということを付け加えておかねばなるまい。暫定的になら、少なくとも、渦巻きの象徴的多価値性、その月との親縁関係、稲妻、水、多産性、生誕と死後の生との親縁関係などは書きとめておいてもよいだろう。しかし、貝殻が死者崇祀のほかには用いられていないということは心にとめておいてもよいだろう。それは人間と集団の生活のいっさいの本質的行為、すなわち生誕、成年式、婚姻、死、農業儀礼、宗教儀礼といった行為の中に姿を現わすのである。

 三木成夫の言葉を借りれば、「渦巻きのシンボリズム」の起源は、リズムと並んだ生命現象の本質として言うことができる。

 生を象徴する「波」ということばは、もちろん水波から来たものだが、それは波頭の巻き込みが物語るように「渦巻き」の連なりから説明され、分解していけば、ついには「螺旋運動」に行き着くのであろう。(『胎児の世界』

 「貝殻が死者崇祀のほかには用いられていない」は、木下のいうシャコ貝は「葬送行為に関連してのみ認められる」と符号している。

 ぼくには、シャコ貝がトーテムでありえたことを踏まえれば、「死霊の封じ込め」よりは、エリアーデのいう「生誕と再生のシンボリズム」という理解がはるかに根源的であると思える。

 木下は、人の誕生や幼児の死にシャコ貝がかかわる例も挙げている。

赤子の死んだ時はしゃこがいに入れて便所の申の方向に埋める(宮古島)、死産児を家の後ろに埋めてその上にアザイ(しゃこがい)をかぶせておく(竹富島)、かつて嬰児を埋殺する時クバの葉につつみ上からしゃこがいでおさえた(八重山)などである。

 木下は、「しゃこがいが、幼い幼霊のもつ呪力に対して使用されたとは考えられないだろうか」としているが、便所を意識したり、クバの葉も用いるこれらの例が、再生への呪術でなくて何だろう。

 シャコ貝が、トーテムとして「生誕と再生のシンボリズム」を持つ呪力を持つからこそ、後代には、魔除けの呪術を持つことができたのだと思う。

 沖縄ではシャコ貝はありふれた貝である。御嶽にゆけば神聖な木であるクバの木の根もとにシャコ貝の殻がおいてある。それはアザカの貝殻の十字の形が魔除けになるからだ。(「シャコ貝幻想」『谷川健一全集〈第3巻〉』

 谷川のこの理解も「魔除け」に引きずられている。御嶽の発生に遡れば、クバと同様に「生誕と再生のシンボリズム」を持ったかもしれない、せめて、他界へのお通しとして見なすことができる。

 死者とともにあるシャコ貝は、トーテムとしての意味が強ければ、再生への呪力であり、トーテムとしての解体過程であれば、他界へのお通しとして、あの世へのスムーズな道行きを託したのかもしれない。「死霊の封じ込め」という理解は、現在の琉球弧における死霊に対する恐怖を全過去に投影してしまったものだと思える。


『南島貝文化の研究:貝の道の考古学』

『エリアーデ著作集〈第4巻〉イメージとシンボル』

『胎児の世界―人類の生命記憶』

『谷川健一全集〈第3巻〉古代3―古代史ノオト 他』

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2015/07/24

『シャマニズムの淵源を探る』と『葬墓制』(鈴木克彦)

 『シャマニズムの淵源を探る』(鈴木克彦編、弘前学院大学地域総合文化研究所 2014年)は、考古学からのアプローチだ。

 鈴木は、北方のシャマニズムを参照し、縄文時代にアニミズムと比べ、「人々は、もっと発達した形而の神観念を持っていたと考え」、「縄文文化にシャマニズムが実存する」としている。

 詳細にたどる余裕がないので、核心的な箇所を引用する。

土偶は、天地、動植物などの万物神や形而の観念による神を、人間の姿に似た存在として確信したときに作られた信念の創造物と考える。そういう神々を背負いシャマンの働き掛け、助け(例えば憑依)により、天(宇宙)の神と直結する存在の唯一の神が土偶であろう。
 その世界観は、自然界の法則(生物、無生物の精霊)と死霊観(霊魂)にあると考える。また、縄文文化の葬法の原則は遺棄葬(風葬)であり(鈴木克彦二〇一〇)、死霊が地下にあると考えるのは埋葬を意識した現代的な考え方であり、風葬は他界観と密接な関係にある。また、縄文文化の信仰に係わる他の石棒、石刀などは何らかの形而の観念による神の依り代であり、動物形は狩猟文化の動物儀礼つまり豊猟の安全を祈る狩猟儀礼の動物信仰を物語り、人形と同様に動物の魂を具象化した習俗の造形物と考える。

 鈴木は、「土偶」の背後に「神」の観念を見ている。しかも、神を「人間の姿に似た存在として確信したときに作られた」としている。こうした神観念は、人間を自然から分離したときに現れる相当に新しいものだと思える。それを、土偶全般に該当させるのは無理があるのではないだろうか。一方、「縄文文化の葬法の原則は遺棄葬(風葬)」であるとしているのは、共感できる。

 葬墓制について、鈴木の問題意識をもう少し追ってみる。

事実として縄文時代約1万年余間に想定される延人口(1億人位?)である死者の累積数と同等数の墓が発見されているわけではない。
 考古学は、この乖離の現実を直視していない。逆説的に言えば、現実に縄文時代において把握されている墓数から推して人は必ずしも一様に墓穴に埋葬されておらず、それ以外の弔葬があったと考えねばならない。縄文時代の弔い行為に可視的な竪穴の造墓という形態のほかに、発想を転換して民族誌にみる風葬、水葬など(大林 1965)不可視的な非造墓という葬送形態もあったと考えるべきであろう。(「縄文時代の葬墓制研究の諸問題」『葬墓制』、2010年)

 この指摘は、ぼくたちの視点にも重なるものだ。

 「東北北部では9割以上の墓抗に人骨が出土せず、化学分析でもその片鱗さえ認められない」。「有機物ゆえに日本の酸性土壌では溶けて消失する場合が多いとされてきたが、少量の遺骨改葬なら有り得ても、そういう合理的解釈だけが果たして真実だろうか」。

 推定延人口と墓数の現実を直視すれば、時期差、地域差はあるとしても縄文時代の葬送の主体は遺棄葬や改葬ではないかと考える。改葬による部分的な少量の遺骨が土壙墓や土器利用の設備墓に埋葬されることが多いが、入れられたのは毛髪などの形見で、当初から遺体、遺骨が入れらていなかった可能性も考えるべきである。とすれば、人骨が遺存している実体墓こそが特異なものであった可能性が生じ、従前の考え方が大きく転換することになり、縄文時代の葬法および葬墓制を根本的に考え直す必要が生じよう。

 「縄文時代の葬送の主体は遺棄葬や改葬ではないかと考える」という指摘も、太平洋の葬法をモデルにしてきたぼくたちにとっては、日本の本土に適用できる可能性を示唆するものだ。

 認識が異なるのはどこか。

遺体を海川に流し山に遺棄する弔葬は、野蛮で倫理無きものでなく、埋葬や改葬とともに死してなお霊魂が存在すると考えていた文化の一形態である。

 「遺棄する弔葬」は、むしろ「霊魂」観念が存在しなかった段階に普遍的だ。

 埋葬規制とは、どのように遺体を安置し埋葬するのかという慣習、仕来りのことである。縄文時代には屈葬・伸展葬、仰臥・伏臥葬、甕被り葬など様々な埋葬風習があり、一般的には屈葬→伸展葬で、そこには背景にある信仰に基づく慣習などの意味を考えるべきである。
 民俗誌によると、諸民族の階層的な世界観に基づいて、天空、地上、地下の埋葬が行われている。天空を飛ぶシャマンの樹上葬はそういう世界観、地下埋葬(土壙墓)は地下他界観に基づき、アイヌ社会の埋葬頭位も死生観によって決められている。

 ぼくたちは、「屈葬→伸展葬」となるのは、遺棄葬をしてきた人たちが埋葬するようになったとき、伸展葬を行ったからだと考えてきた。また、樹上葬は、もともと天空に結びつくものではないと思える。オーストラリアでの樹上葬は、結びつく他界を持たず、むしろ再生とむすびつく。オーストラリアの方が古層だと思えるのは、そこに他界が存在していないからである。シャマンの樹上葬は、天界を生み出したとき、葬法はそのままで、その再生観念を保存させたものだと思える。オーストラリア東南部では、天界は伸展位埋葬に対応している。天界に対する葬法は一様ではない。


『葬墓制』


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2015/07/23

『海からの贈りもの「貝」と人間―人類学からの視点』

 『海からの贈りもの「貝」と人間―人類学からの視点』は、線を引いて読むのがはばかれる、図版の美しい本だ。ぼくのわがままな問題意識には届いてくれなかったが、たくさんの貝の民俗品が連想を助けてくれる。

人類の歴史が始まってまだまもない頃に、人々は一年中間違いなく、蛋白質が得られた。そこで、もう動物の群れを追ったり、野生の植物を求めて移動する必要もなくなった。ほとんどの考古学者がいまだに思い込んでいる事に、人類は農業を発展させるまでは定住社会にはならなかった、というのがある。だが、いまや明言できることは、確実な食糧源としての軟体動物の有効な利用、これによって、人類は農業へ進展する前に、海岸地帯に住む人たちによって、すでに遊牧の生活をすてさせ、定住社会を確立させるようになったにちがいないということである。

 このことは、ぼくもやっとわかってきた。

貝殻が生活にそれほど大きな役割を果していない地域と違って、これらサンゴ礁に住む人たちは、貝殻に依存する傾向が特に強い。タヒチ島に近いツアモツ諸島のサンゴ礁の島では、シャコガイが島民の蛋白源であり、lこれを補うかたちで、ハマグリやヤコウガイやタコを食べている。ツアモツ島の人たちは、オオジャコガイから作った杵と臼で食事の支度をし、貝殻製の削ぎとり器でココナッツの果肉を削ぎとり、貝殻のナイフで食べ物を切り、大きなクロチョウガイでふみ鍬を作り、タロイモの根を掘りかえす。食物を収穫するために土地を耕したり、家を建てるのに木を切るときの手斧や他の斧類はオオジャコガイから作られる。美しい繊細な木彫りを刻むための道具は、マンボウガイの外縁を薄く削ったもので作り、釣針は真珠貝から作る。貝殻から作った道具でパンダナスの葉を引き裂き、表面を滑らかにし、屋根を葺いたり籠や敷物を編んだりする。カメの甲羅や外から持ち込まれた石や木などからも道具類や台所用品は作られたにちがいないが、そのような材料は簡単に手に入らなかった。ツアモツ諸島のほとんどの家族にとって、貝殻製品は生活の必需品であり、太平洋やコロンブス以前の時代のカリブ海のサンゴ礁の島々でもその事は同じであった。

 琉球弧も似たようなものだったろう。ただし、他の島々においても、「貝殻製品は生活の必需品」であるというだけでなく、神聖なものだったはずだ。

ポモ族(北アメリカ-引用者)は、さまざまな機会に貝数珠を交換したり贈ったりした。死者に捧げる供物にしたり、貝数珠で遺体を飾ったり、親類縁者は死者の直属の家族へ貝数珠を贈ったりした。殺人の被害をうけた家族へは数珠玉で支払われ、犯罪者を殺すかわりに罰金を受け取ることで怒りの気持を静めた。結婚には、花嫁花婿の家族同士で決められた一連の交換儀式がかならずおこなわれた。嫁が妊娠すると婿の家から〈よく妊娠した〉ということで、八連から一〇連の貝数珠が贈られ、子供が誕生したときは、それ以上の数珠が嫁の家から贈られた。

 死者への供物としての貝は琉球弧にも見られる。そして、社会的な場面での交換もあったのではないだろうか。それがあればこそ、後年、ヤポネシア北方域との貝をめぐる交流も可能になったと思える。

メラネシアの二ニューブリテン島に住むトライ族にとっても、貝を財産として貯めることは、地位や権力獲得への道である。

 琉球弧において、貝の蓄積が地位や権力獲得につながったかどうかは、分からない。

ビットジャントジャラ族(オーストラリア-引用者)の呪術師は、この真珠貝の円盤を、主に病気の治癒に用いている。祈祷師のことをこの土地の言葉で〈マ・バンバ〉と呼び、その意味は貝の円盤〈マ・バン〉を所有している人ということである。祈祷師になるための入門式には〈貝の円盤を自分のからだのいろいろな部所へ射ち込むこと〉が課せられる。耳の中へ入った円盤は聴く力とあらゆることを理解する力を与え、顎に入った円盤は、精霊と話すことを可能にし、胃の中に入った円盤は、負傷しても不死身の力を与え、額に入った円盤は神からの力を授けられ、患者のからだの中に入って病気の箇所を診断することができるのである。祈祷師がこのようなX線透視によって患者を診断するとき、この呪術医は、病気治癒用の円盤を患者のからだに押しつけている。貝の円盤が、からだを貫いて病気の原因となっているものから引き離してしまうのだと信じられているのである。

 祈祷師の入門式は、北方のシャーマンの入巫の際の、体の改造とそっくりだ。


 琉球弧にとって貝は、聖なるものや食糧源だったというだけでなく、他者を引き寄せてしまう魅力も持っていた。柳田國男の「海上の道」は、北上する道というより南下する道として重大な意味を持った。貝と砂糖きびが、北方からの干渉を受ける二大物産だった。


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2015/07/22

『ポリネシア人―石器時代の遠洋航海者たち』

 なんといっても片山が挙げているオセアニアの半球にうっとりする。オセアニアを中心におけば、日本列島は世界の縁だ。そして、ヤポネシアとして見えてくる。島尾敏雄はこの角度から地球儀を眺めたことはあったろうか。

Oseania1

 だからオセアニアの先史学を扱うには、東のアメリカ大陸よりもむしろ西方の、東南アジアや東アジアの島嶼部、さらには東南アジアの大陸部を視野に入れておかなければならない。インドネシアの島じま、フィリピン、台湾、さらには日本列島弧(ヤポネシア)までもが近隣地域ということになる。また、東南アジアの大陸部では、マレー半島、インドネシア半島、さらには中国の揚子江以南あたりを念頭に置いておこう。

 また、近いオセアニアと遠いオセアニアの図解もありがたい。

Oseania2

 人類の歴史は、ハックスリー・ウオーレス線の内側では百万年以上も前まで、そしてリモート・オセアニア線の内側では一万年以上前に遡る。しかるに、リモート・オセアニアの人類の歴史は、せいぜいのところ何千年か前のラピタ人の頃、そして安山岩線を越えたポリネシアでは、ポリネシア人の対航海時代のころまで待たなければならないのである。

 ただし、オーストラリア・アボリジニは5万年以上前とも言われているのだから、上記の説明には違和感が残る。また、日本列島と琉球弧が大陸棚でつながっているのも気になる。ただ、「ラピタ人が縄文人につながる可能性だって否定できないのである」という指摘は面白いと思う。

 私自身は最近、広く南シナ海一帯をラピタ人のホームランドとして視野に入れたほうがよいのではないか、なにも台湾とかフィリピンとかスラウェシなどに限定する必要はないのではないか、という考えを披歴した。そして、日本列島の縄文人も含めて、ラピタ人のオリジンを探していくべきであることを指摘した。

 松村博文は、「縄文人骨の情報」(『人と社会―人骨情報と社会組織 (縄文時代の考古学)』)のなかで、縄文人の起源について考察している。

 アジア人の進化は北方アジア系とスンダランドの集団の二系統に由来すると考えられる。日本列島の縄文人は、

先住スンダランド系集団をベースに、多少の北方アジア系の集団との混血によって成り立ったのではないであろうか。このような先住集団と北方から南下してきた人びととの混血は、大陸辺縁部における平行現象としてとらえることが可能である。

 この説明では、日本列島もスンダランド系の先住集団がいたという理解になるが、合っているだろうか。

『ポリネシア人―石器時代の遠洋航海者たち』

『人と社会―人骨情報と社会組織 (縄文時代の考古学)』


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2015/07/21

まれびとコンプレックス

 琉球弧でハイヌウェレ型神話の体裁を持っているものに、名瀬浦上の「女の作った御馳走」がある。

女の作った御馳走
 旅をしている若い侍がいた。旅をしているうちにいつのまにか夜になった。侍は泊る所を探すと、すぐ側に宿があり、年とった女の人がいた。侍が夕食をたのむと、その女の人は、暫く待って下さいといって、戸を全部しめてしまった。そしれこの戸をあけないで下さいとたのんで外へ出て行ってしまった。女が帰るのが遅いので不思議に思って侍がのぞいてみると、女は盛んに歯のくそ、目のくそ、目やり、鼻くそ、耳のくそなどを入れて御馳走を作っていた。侍はまったく驚いた。暫くして女が持ってきたのは、そんなものを入れたものと思われないほど立派なものだった。侍はしゃくにさわって女を殺してしまった。また不思議、女の口から米、鼻から麦、目から野菜、耳からは芋がすくすく生えたという。(名瀬市浦上、田畑英勝『奄美大島昔話集』)

 しかし、死体化生型の説話になているとはいえ、女は自分の分泌物から直接、有用なものを出すのではなく、「歯のくそ、目のくそ、目やり、鼻くそ、耳のくそなどを入れて」と、料理に混ぜることになっている。また、「女の口から米、鼻から麦、目から野菜、耳からは芋」と、「野菜」に限っては種類は特定されない。特に、女の身体が直接、有用物を生み出すのではなく、料理に混ぜてというところは、この神話の心が削がれており、説話が伝承される時点では、霊力の持つ意味は希薄化されてしまっていると思える。

 煙草の起こりも、ハイヌウェレの体裁を持っている。

 「思い草」
 たいへん仲のよい夫婦がいて、人もうらやむむつまじく暮らしていました。ところがふとした病気がもとで、愛する妻は死んでしまいました。夫は泣く泣く妻の野辺の送りをすませましたが、どうしてもなき妻を思いあきらめることができず、毎夜のように妻の墓場にいって妻の名をよんで泣き暮らしていました。ところがある夜、夫の夢枕になき妻があらわれていうのでした。
「あなたが、私を愛してくれるのはうれしいのですが、あまりに私を恋したうものですから、私は天国にのぼれないで中間の世界で迷っています。ですからもう、お墓にはおいでにならないでください。その代り、あしたの朝、墓にきてくだされば、そこにいままであなたのごらんになったことのない草が生えていますから、それを持って帰って大事に育ててください。その葉をかげ干ししてきざみ、私のことを思いだすときは、それに火をつけて吸ってください。」
 そういうと妻は消えて、夫は目をさました。夫は夜明けを待って、妻の墓にいってみました。ほんとうに見たことのない草が生えていました。その草を持って帰り大事に育てると、だんだん大きくなってきれいな花が咲きました。そこで、その葉をとってかげ干しにしてきざんで吸ってみると、いい香りがして、いままでのなやみが消え去り、心が安らかになりました。それ以来、夫は妻を思いだすごとに、その葉をきざんで吸うようになったのでした。それは今日の煙草の始まりです。そして、煙草のもうひとつの名を、思い草というのです。(採集地不明、長田須磨『奄美の生活とむかし話』
 「煙草の起り」
 一人娘を失った母が墓の前で泣暮していると、ある日娘の墓の上に見た事もない一本の草が生え、見る見る伸びて大きい葉を沢山出した。その葉を持って帰って、煮たり茹でたりしてみたが、苦くて食べられない。そのうちに葉が枯れてしまったので、それを竹の管につめて火を点けて吸ってみると、何ともいえない良い味で、どんな悲しいことにも気慰めになる。それが段々流行って誰も彼も吸うようになった。(柳田國男編・岩倉市郎採録『喜界島昔話集』

 情緒を喚起する印象的な伝承だけれど、琉球弧への煙草伝来は17世紀と考えられるので、かなり新しい伝承で、何かが煙草に置き換えられたことが考えられる。しかし、この二つの伝承とも、作物を出す人物は殺害されるのではない。

 大昔神が怒ってこの世を出てしまったため、この世は真っ暗になった。そこで七人のノトと一人のグジが今のイベヤマのところで神に祈ったところ、神はこの八人の前に現れ、八人は死んでしまった。しかし神は再びこの世に帰り、太陽も出て、もとの明るさにもどった。亡くなった八人の死体をそこに埋めて墓をつくったところ、七人の体から七本のクバの木が、グジの体からはウブの木が生えたという。(与路島、J・クライナー「南西諸島における神観念、他界観の一考察」『沖縄文化論叢〈第2巻〉民俗編』

 与路島の伝承では、殺害はされるが、殺すのは神である。

 人間以外のものから有用作物が生じるタイプもある。

 俵では、鯨の中に稲種が入っていたと伝承されている(伊藤幹治「奄美の神祭」)。
 宇検村の屋鈍部落と枝手久島との間の海底に、牛の横臥しているような恰好をした大きな瀬がある。仲間内でここをネリヤと呼んでいる。この附近は雑魚のよく獲れるところで、むかし宇検村の名柄部落の漁師がここで獲った雑魚の腹の中に稲種が入っていた。これは糯米の種で、蒔いて育てたところがかなりの収量をあげた。この稲種は魚の腹の中から出てきたので、イューゴロと称したと伝えられている(伊藤幹治「奄美の神祭」)。

 鯨や魚の腹の中からとされる。大林太良はこれをハイヌウェレ型と漂着型の結合形と見なしている(「南島稲作伝承の系譜」)。後藤明は、それと同時に、「人食い大蛇や鰐の腹に財宝が宿るという観念と通ずるものであろうと思う(p.218、「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話)。

 大林太良によれば、琉球弧の作物起源神話は、ハイヌウェレ型の他に、鳥がもたらした、持ち帰った、盗んだというモチーフのものがある。なお、記紀の神話以外、「後世の民間伝承においては、この形式の典型的な事例は本土にはない」という(「南島稲作伝承の系譜」)。

 さて、琉球弧に、殺害による作物生成という伝承が希薄であることが重要ではないだろうか。岩倉敏明は、「女を殺し、その屍体から産まれた価値物を享受する欲望」をハイヌウェレ・コンプレックスと呼んだが(「可食性の人類学」2014/07/19)、希薄な、殺害による作物生成伝承は、「母殺し」による原罪化の希薄さを意味するように思える。殺さない、けれど、死者の食人を行っていた。だから、「屍体から産まれた価値物を享受する欲望」のもとにはあった。

 代わって、鳥がもたらした、持ち帰った、盗んだとされる。死体である場合には、人間である以外にも、鯨や魚であり、むしろ有用なものは、鯨や魚で語られる。有用なものは、むしろニライ・カナイからもたらされるのだ。

 言い換えれば、自然に対する人間の優位性を打ち立てていないと言ってもいい。

 ぼくは、中山太郎の「人身御供の資料としての『おなり女』伝説」を思いだしてしまう。本土においては、おなり女は穀物生成の生贄として殺害されたという伝承が残っている。谷川健一は、「ヒルマモチは田植のときに弁当をはこぶ役であるが、オナリとも呼ばれる。神酒をかもす早乙女の十七は神に仕える巫女であり、また南島で言うオナリ神とみて差支えない」(『南島文学発生論』)と断言している。琉球弧のおなり女は、同じ神でも、殺されることはなく、制度に生きる神と化していった。このことは、殺害される女の神話の希薄さと深いかかわりがあるのではないだろうか。

ひと口に「神」の代りに擬人化され、命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、「父」の代りに対乳児に反映された「母」の存在が登場しするところに、わたしたちの大洋のイメージがある。そしてわたしたちが設定させたいのは前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包含し、母音の波をそのなかに含み拡張された普遍化された大洋のイメージなのだ。(「大洋論」『『母型論』』)

 「母」との関係は、吉本隆明の言う大洋のイメージが近いと思える。琉球弧の場合は、ハイヌウェレ・コンプレックスというより、すべての関わりにおいて受動的な「まれびとコンプレックス」とでも呼ぶのが相応しいのではないだろうか。

 

「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話

『母型論』

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2015/07/20

ユタはアマテラスにならなかった「太陽の妻」

 アマテラス女神には、太陽神の娘、強烈なマザコンである弟神スサノオの姉、機織りの女神などといった特徴が、あからさまに表現されているが、ただひとつ「産む女性」としての特性だけが、表面からは消されている。そのために、伊勢に大きなモリ(古代コリアのコソ)を得て、そこに住まうようになってからは、生命循環や食物連鎖や死の要素にかかわることは、外から迎えた「トヨウケ(豊受)」という別の女神に一切まかせて、自分はひたすら永遠の光のなかにとどまっていることになった。アマテラス女神は、アンチエイジングにはげむ現代女性の先駆者である。(中沢新一『大阪アースダイバー』)。

 言い得て妙だけれど、こう言われると、ユタはアマテラスに似ているところがある。太陽神にかかわり、機を織るところだ。

 ただし、ユタの起源伝承の主役であるオモイマツガネは「太陽の妻」なのであり太陽神ではない。それに産むこともやめていないし、アマテラスがトヨウケ(豊受)に任せた「死の要素」に関わることを専らにしている(山下欣一『奄美のシャーマニズム』)。

 むしろ、アマテラスは祝女に似ていると言うべきかもしれない。祝女の最高位、聞得大君は、太陽子の王の姉妹であり、それこそ「死の要素」はユタに任せて関わらない。独身であることも多い。「ひたすら永遠の光のなかにとどまっている」のも、自ら高神として振る舞うこともある祝女と共通している。

 ユタはアマテラスにならなかった「太陽の妻」であり、祝女はアマテラス化したユタだ。

 ユタの由来である日光感精説話は、ユタがあからさまに共同幻想を対幻想の対象にしている巫女であることを告げているが、これは、家のことに関わるようになって以降に神話として受容したもので、もともとは自己幻想を共同幻想に同調させる巫覡として出現したはずだ。オモイマツガネの子は、トキユタ(男性巫覡)になるが、彼が天空飛翔の試練を受けるのは、脱魂型のシャーマニズムを連想させる。

 けれどぼくたちの視野には、琉球弧にその段階があったのか、分からないと言うしかない。


『大阪アースダイバー』

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2015/07/19

『朝鮮・琉球航海記―1816年アマースト使節団とともに』

 ベイジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』は、異人に対する島人の歓待ぶりが書かれていて心を和ませてくれる。ぼくたちの心の動きと地続きなので、思わず感情移入してしまう個所がいくつもあった。

 1816年 ベイジル・ホール(イギリス)
 1844年 フォルカード(フランス)
 1853年 ペリー(アメリカ)

 この三者の琉球体験は、一世紀という期間に収まるなかで行われているが、まるで違ったように感じられている。「解説」によれば、フォルカードは「ホールの記述には批判的であった」といい、ペリーは「ベージル・ホール艦長の記述は単なる物語に過ぎない。即ち歴史的真理について対して厳密でない一著作家の創作的頭脳からの産物である」と酷評している。

 この間、ペリー来航直前の1848年には、「異国人への返答の心得」が琉球王府によって作成されているので、ペリーに対しては、応対のかたくなさは増してはいるが、逆に、ベイジル・ホール、フォルカード、ペリーの順に、琉球に対する態度も高圧的になっているのも確かだ。つまり、彼らの態度が、島人の素顔を見せない要因にもなっている。それは、国王への謁見がかなわないと知るや諦めるイギリス艦隊の艦長と、断られても、首里王府までの行軍を威圧的に強行するペリーの態度に顕著に表れている。アメリカの押しつけ癖は歴史的なものだ。別の面からいえば、国家を介さなければ、人間はすぐに打ち解けあうものだということも分かる。(cf.『幕末日仏交流記』

 一行に対する島人の歓待ぶりは、わずか一ヵ月半弱のあいだに二艘の軍艦に贈られた物品を見ても分かる。

 去勢牛 27
 豚 33
 山羊 22
 鶏 318
 魚 41
 鶏卵 1375
 薩摩芋(袋入り) 86
 カボチャの一種 48
 焼酎の壺 9
 オレンジ(籠入り) 13
 ジンジャー・ブレッド 11
 玉ネギ 24
 二十日大根 42
 セロリー 17
 ニンニク 12
 ロウソク 10
 薪 24
 カボチャ 90
 素麺(籠入り) 10
 砂糖(箱入り) 3
 捺染の布地(巻いた反物) 21
 紙(束) 9

 冊封で慣れているとはいえ、またこの裏面で、ふつうの島人は苦労させられているとはいえ、これは島人の贈与的態度の現われであることは疑えない。

 風習のなかで、ベイジル・ホールの興味を引き、ぼくもやってみたいものだと思ったのは、ピクニック気分のようなものだ。

 われわれが交わりをもった人々の生活の様式は、自由闊達であった。なかでも御馳走を箱に入れて持ち歩き、ピクニックの小宴をはる慣習は、とりわけ心魅かれるものであった。土地の人々は、このようにして集うことの意義をよくわきまえているようであった。そしてわれわれがこのような無礼講に即座に対応し、仲間入りするのを見て、きわめて満足しているようであった。

 また、この辺が、フォルカードの態度とも異なる点なのだが、ベイジル・ホールは島の言葉も記述していて楽しい。

 しかし、食卓にタルトが出されると、最初のうちはなぜか理由もいわずに、手を付けるのを拒んでいた。ところがついにそれを味わってみるようにと説き伏せられて、口に入れるやいなや、「マサ! マサ!」(うまい! うまい!)と叫んだ。この菓子はスコッチ・マーマレードで作ってあったが、次良は友人たちにむかって、それが「ニジャサ、アマサ」(苦くて甘い)と説明していた〔原文 injassa, amasa. インジャサは誤記であろう〕。こういう苦さと甘さという組合せは、これまえ経験したことがないらしかった。

 与論語の感覚から注記しておけば、「インジャサ」はそのまま通じるもので、誤記ではない。

 

『朝鮮・琉球航海記―1816年アマースト使節団とともに』

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2015/07/18

『戦後史の正体』

 強力な磁石があって、周囲の鉄は必ず、磁場に添った向きをとらされてしまう。そんなイメージがやってくる。日本は属国というより、アメリカの準州とでも言ったほうがよさそうなポジションだ。この本は、強力な磁力で日本の変化が余儀なくされていること、強力な磁力の影響を背景に想定すると解けること(たとえば、ロッキード事件)、強力な磁力が働いているのではないかと勘繰らせてしまう事象(たとえば、関係者の不可解な早すぎる死)という三層くらいを腑分けして読めば、読み誤ることなく受け取ることができるのではないかと思う。

 この磁力場を想定すれば、短命内閣と長命内閣の占いすら、ある確率でできてしまう塩梅だ。この構図に則れば、追随するのでなければ、政権は短命を条件づけられた抵抗戦をするしかない。それを試みた胆力のある政治家もかついてはいたが、次第に絶えつつあり、猫まっしぐらのように、追随一辺倒の政権に至っている。この先には別のところから、アメリカの州になろうとする運動も起きるのかもしれない。すでに公用語を英語にする企業も出てきているように。アメリカのGo West は大陸では終わらずに、太平洋をまたいで続行中。陸と洋の違いはあれ、インディアンと日本人は西に追い詰められた先住民。

 
孫崎享 『戦後史の正体』


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2015/07/17

『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』

 エドワード・スノーデンが、アメリカのNSA(国家安全保障局)が、米国民および世界のインターネットと電話回線が傍受されていることを暴露したとき、思い出さなきゃいけないことがある気がしていたが、これだった。米軍は、日本占領時、私信、電信に対しても検閲を行い電話も盗聴していた。

 たとえば、こうだ。

「十日に出したはずの手紙に、まだ御返事をいただいておりません。一月に撮った写真を同封したのですが、どうなったか知りたいと思います。博多の進駐軍検閲係は悪名高いので、お手紙を出したあとで心配しております。それだけに御返事が一層待たれます。写真は途中で失くしてしまったのかも知れません。」

 この文章のうち、「博多の進駐軍検閲係は悪名高いので、お手紙を出したあとで心配しております。それだけに御返事が一層待たれます」の箇所が削除されている。

 これを調べた江藤淳によれば、検閲は膨大な数にのぼる。

 ところで、スートランドで私が発見した哀切な恋文(つまり、検閲された手紙-引用者)は、CCD郵便部が取り扱っていた月平均千九百万通から二千万通にのぼる郵便の、ほんの僅かな一滴にすぎない。CCDはそのうち四百万通の私信を開封し、詳細に検討していた。さらにCCD電信電話部は、毎月三百五十万通の電信を検閲し、二万五千に達する電話の会話を盗聴していた。

 1900万~2000万通のうちの400万通といえば、20~21%である。アメリカはやることが度を越して徹底しているし、その行動様式は現在も変わっていないことを思い知らされる。しかも、開封した私信は世論の動向を掴むのに活用されていたというのだから唸ってしまう。

 “正義は力なり”を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や独ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しのつかなぬ事実を率直に披瀝し日本の民主主義的復興、国際貿易加入が米国の利益、世界の福祉と相反せぬ事実を認識せしむることに努力の基礎を置き、あくまで彼をして日本の復興に積極的協力を行はしむるごとく力を致さねばならぬ。

 この談話を書いたのは、1945年9月の鳩山一郎である。こんな発言もありえたのかと驚いたが、掲載しようとした朝日新聞は発行停止命令を受ける。

 同時期、どうも分かってないね君たちとばかりに、米軍は報道関係者に対して次のような声明を出している。

 マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等と見なしていないことを明瞭に理解するよう欲している。日本はいまだ文明国のあいだに位置を占める権利を認められていない敗者である。諸君が国民に提供して来た色つきのニュースの調子は、あたかも最高司令官が日本政府と交渉しているような印象をあたえている。交渉というものは存在しない。国民は連合国との関係においての日本政府の地位について、誤った観念を抱くことを許されるべきではない。
 最高司令官は日本政府に命令する・・・・・交渉するのではない。交渉は対等のもの同士のあいだで行われるのである。日本人は、すでに世界の尊敬を獲得し、最高司令官の命令に関して“交渉する”ことのできる地位を得たと信じるようなことがあってはならない。

 現在も米国と日本は対等ではないということは、占領期の状況が継続されているということだ。

 米当局は、「War guilt information program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」を展開する。具体的には、『太平洋戦争史』と題した記事が新聞に連載される。その前書の一部にはこうある。

 日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことにならう。
 これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜および非戦闘員に対する国際慣習を無視した軍部の非道なる取扱ひ等であるがこれらのうち何といつても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう。この真実の「管制」は一九二五年(大正十四年)治安維持法が議会を通過した瞬間に始つたものである。この法律が国民の言論圧迫を目的として約二十年にわたり益々その過酷の度を増し政治犯人がいかに非道なる取扱を受け人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。

 一九三〇年(昭和五年)の初頭日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてその頃漸く擡頭しつつあつた軍閥の専制的政策に反対した政府の高官の暗殺とによつて一大転換期を劃したのであつた。

 一九三三年(昭和八年)から一九三六年(昭和十一年)の間に、所謂「危険思想」の抱懐者、主張者、実行者といふ「嫌疑」で検挙されたものの数は五万九千を超えるに至つた。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成せられ、国民に対し、その指導者の言に盲従することと一切の批判を許さぬことを教へることになつた。この時期が軍国主義の上昇期であつたことは重要な意義を持つものである。一九三六年(昭和十一年)二月二千四百名以上の陸軍々人は叛乱を起し、斎藤内府、高橋蔵相、渡辺教育総監を暗殺し時の侍従長鈴木貫太郎大将に重傷を負はしめた。軍国主義者の支配力が増大するに伴ひ検閲の法規を強化し、言論の自由を剥奪するための新しい法律が制定された。そしてこの制度こそは支那事変より聯合国との戦争遂行中に継続された。

 日米、日英戦争の初期においては日本の勝利は比較的国民の反駁を受けずに宣伝することが出来たが、戦局が進み軍部の地位が次第に維持し得なくなつてくるにつれて当局の公表は全く真実から遠いものに変つて行つた、日本の多くの戦線において敗退しその海軍が最早存在しなくなつてからも、その真実の情勢は決して公表されなかつた。最近においても天皇御自身が仰せられてゐる通り日本が警告なしに真珠湾を攻撃したことは陛下自身の御意思ではなかつたのだ。憲兵はこの情報が国民に知られることを極力防止したのだ。

 聯合国最高司令官は一九四五年(昭和二十年)十月五日治安維持法の撤廃を命令し、新聞に対するこの制度を破壊する方法をとり戦争に関する完全な情報を日本国民に与へるやう布告した。今や日本国民が今次戦争の完全なる歴史を知ることは絶対に必要である。日本国民はこれによつて如何にして敗れたか、又何故に軍国主義によつてかゝる悲惨な目に遭はねばならぬかを理解することが出来よう。これによつてのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識と気力を持ち帰るのである。かゝる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件を取り扱つた特別記事を提供するものである。

 どんな洗脳めいた文章なのか入力してみたが、むしろ天皇が守られていることの方が印象を残す。同じときに、「大東亜戦争」という呼称は禁止され、「太平洋戦争」に取って代わられる。江藤に言わせればこれは、「日本の敗北を、「一時的かつ一過性のものとしか受け取っていない」大方の国民感情に対する、執拗な挑戦であった」。

 江藤のこの本を読み、やってくる印象は、アメリカの言うことを聞くという政府の態度は、このときから貫徹されているのではないかということ。それによって、敗戦は「一時的かつ一過性のもの」ではなく永続していること。また、同時にこの史観の押しつけに対する反発も生まれるが、その「日本を取り戻す」史観からみれば、押しつけ史観にまんまとやられたように見える歴史認識が、「自虐史観」と呼ばれていることが分かる。

 吉本隆明は、戦後一夜にして民主主義に鞍替えして、戦前も戦争に抵抗していたとうそぶいた文学者たちの「戦争責任論」を展開した。そのことを指して、江藤は、「私がいまやっているのと同じことを、やろうとされたのだなあと思ったのですね」(現代文学の倫理」1982年)と吉本に向かって語ったことがあった。しかし、吉本は、江藤が解き明かしたからくりを知らない場所から、実感に基づいた批判を、当事者たちに向けて行ったもので、からくりを解明しようとした江藤とは、厳密にいえば「同じ」ことをしているわけではない。

 こう言いたくなるのは、江藤に「同じ」ことをやってほしかったと思うからだ。現政府と太くつながっている日本会議の前身である、「日本を守る国民会議」の代表委員を江藤は勤めていた。江藤に、この仕事のあとやってほしかったのは、「太平洋戦争史観」にやられて民主主義に雪崩うった人々とは別に、「日本を守る国民会議」が、それに反発したことによって蒙った変質の吟味だ。「閉ざされた言語空間」を資料に基づいて明らかにする作業すら「文学」として行っているという江藤だ。「日本を守る国民会議」に頭脳をすべて預けてしまっていることはなかったはずだ。戦前からの連続性を重視した江藤であれば、「日本を守る国民会議」内部から、何を連続性として持たせるべきなのか、議論を深めてくれていたら、日本会議の退行した思考を食い止められていたかもしれないと思う。


 
『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』

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2015/07/16

「タケ信仰」(吉成直樹)

 吉成直樹は、御嶽と山岳信仰との類似について、触れている。

 伊勢・志摩の境にある朝熊山周辺では、死者を埋葬した翌日などに、女衆は口寄せの巫女を喪家に招いて死者の口寄せを行うとともに、男衆は朝熊山にタケ参りをする。四十九日忌、命日、春秋の彼岸、年忌ごとにタケ参りを行うこともある。男女とも十三歳になると、十三参りと呼ぶタケ参りをするが、これは成年式、成女式のイニシエーションの意味を持つ。厳禁されていた霊山の登拝のタブーを破ったのは密教系の山伏修験者だった。

 タケ参りは、久高島のタキマーイと類似する。

 1.名称が一致する。タキマーイ=タケ参り
 2.本来は、十四五才までの女性が参加しており、「十三参り」に見られるような成女式の性格を持っていたと考えられる。
 3.集落のはずれの境界より北には墓(グショウ)があるが、死霊の場である世界に入っていき儀礼を行なうことには死者供養の意味合いが考えられる。

 久高島の最高海抜高度は、わずか十七メートルほどだが、そこにある御嶽が、山岳信仰である「タケ信仰」の山に見立てられているのである。

 この指摘は重要だと思う。吉成は、久高島の「タケ参り」が山岳信仰に何らかの影響を受けていると考えられるとしているが、ぼくには山岳信仰による山への見立てがより本質的に重要なものだと思える。

 
『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』

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2015/07/15

『グスクと按司〈下〉』(来間泰男)

 来間泰男は、『グスクと按司〈下〉』で、按司は武士ではないし、琉球王国は内発的に生まれたのではないと書いている。

 来間が共感を寄せ紹介している池田栄史の議論と来間の考えを記そう。

 6世紀、古代日本の土師器の影響を受け、奄美諸島で兼久式土器が生まれる。その影響で沖縄諸島でもくびれ底土器が生まれる。奄美大島北部や喜界島では日本の古代国家の働きかけを受け、社会の階層かや貢納組織の編成が進む。この頃、日本の古代国家は、西の境界領域をあいまいがならキカイガシマ、イオウガシマと称しており、キガイガシマと呼ばれる行政機関も設置していた。

 11世紀に入ると変化が生まれる。ヤコウガイやホラガイなどの南島物産の調達のために、大宰府などの公的機関や八郎真人のような私的商人が動く。この調達先は、宮古、八重山まで拡大され、琉球列島全域において、文化的社会的変容が引き起こされた。この変容は、「外部すなわち日本からの働きかけ」によるものだった。

 外来集団は日本からの集団だけでなく、その系譜につながる人々、いずれかの地から移動させられた人々、それぞれの島で徴用された人々を含む集団だ。

これらの拠点の人々は世代を重ねるに連れて、しだいに土着的要素を強めていったと考えられる。また、並行して沖縄諸島および宮古・八重山諸島では従前から居住していた、狩猟・漁撈・採集を生業とする人々の取り込みを進め、一三世紀に入るころにはそのほとんどを取り込んだと考えられる。このことは沖縄諸島において、グスク土器と併存していた、くびれ平底土器が一三世紀にはほとんど姿を消すことからも首肯される。在地の人々の取り込みは南島物産の量的増加と安定的供給、さらには農耕による食糧生産の拡大と、これによる人口の増大を生じさせるとともに、沖縄諸島や宮古・八重山諸島へ移動した人々と、従前から住んでいた人々の融合と、階層化を進めたと考えられる。ただし、この場合、外部から移動した人々の中に存在した階層性を基本としたことが推測される。(池田栄史「琉球国以前-琉球・沖縄史研究におけるグスク社会の評価をめぐって-」『日本古代の地域社会と周縁』
   来間の主張を列記する。

 琉球王国は外部の力、とくに中国(明)によって、しかも「倭寇」の活発な活動という状況のなかで「つくられたもの」だ。按司も武士ではない。

按司は地域の有力者ではあろうが、武力の日常的な鍛錬者であり戦闘のプロ集団である「武士」ではなかったろう。「人を殺す」という行為は、尋常な人間に普通にできることではない。その意味で、日本中世でも「武士」は恐れられ、敬遠される存在であった。日本史では一二世紀後半に至って、その武士が権力の中枢に駆け上がったが、それは彼らが荘園の実質的な経営者となり、「領主」となることと対応していた。したがって、さまざまな起源を持ちながらも、結局は「武士は領主となる」のである。
 沖縄の歴史には、荘園も現われないし、領主も現われないし、武士も現われない。琉球王国の成立は、農耕・農業の発展を基礎において論じることはできない。その発展から階級が分化していったのではない。国家が成立したのではない。琉球王国は、もっぱら外部(具体的には中国・明)からの働きかけによって「国家」として生まれたのである。そこにはまだ「官僚機構」もなく、その下での「武官」もいなかった。住民を上から支配する仕組みもなかった。租税は徴収されていなかった。王国成立の初発においては、中国人の主導と下支えが不可欠であった。

 両者の議論はともに共感する。正直いえば、沖縄の内部からこうした議論が出ていることに安堵した。

 来間は、大城立裕が、「沖縄人ののんびりさ加減は、たんに南方的だということのみではなく、やはり封建的な近世社会をへていないために、生産向上の努力を鍛えられていないのである」と書いていることに触れ、

やはりこのテーマは、現代を論ずるのに不可欠なものである。

 としているが、ぼくもそう思う。「生産向上の努力を鍛えられ」る必要があるとは思わないけれど、歴史的経験を欠如させているという意味において。

 最後に、来間は「琉球古代」という概念、フレームワークを提案している。

 グスクが城塞・城砦・城郭ではなく、按司が武士ではないとなれば、グスクや按司によって時代を語ることはできなくなる。つまり「グスク時代」も「按司時代」も、時代を表す用語としては無意味にある。
 そこで、私は「琉球古代」という用語を提案するものである。

 ぼくも、これに半ば賛成だ。

 樋泉岳二が、「脊椎動物からみた琉球列島の環境変化と文化変化」(『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』)で示している脊椎動物利用の変遷図をみると、貝塚時代にはほとんど魚類であるのに対して、グスク時代に入ると、ブタ、ニワトリ、ウシが出始め、近世には、目見当で、魚類:ブタ:ウシ・ニワトリ等=4:3:3 になっている。ウシが穀類農耕の普及に伴う需要の高まりに応じたものかどうかは今後の課題だとしている。

 一方、黒住耐二は、「貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」(同前掲)において、グスク時代に入り、貝類遺体が激減することを指摘している。「貝類利用の極端な低下は、農耕従事による社会的な制約の可能性が高い」と考えている。

 
『グスクと按司〈下〉―日本の中世前期と琉球古代』

『日本古代の地域社会と周縁』

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/07/14

「先史琉球列島における貝製品の変化と画期」

 琉球弧の貝活用について、山野ケン陽次郎の考察を辿ってみる(「先史琉球列島における貝製品の変化と画期」-貝製装飾品を中心に-」『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究』)。


Photo

 1.貝製実用品の登場

 絶対数は少ないが、爪形文系土器とともに、鏃状貝製品が出土している。

 2.貝製装飾品の登場 

 少ないながら装飾品が出土している。トカラからは、貝輪、小玉、貝匙、螺蓋製敲打器、沖永良部島から小玉、貝匙、螺蓋製敲打器、刀器。沖縄島から貝輪等。

 3.南島貝文化の盛行期

 実用品、装飾品ともに盛行。
 ・獣の牙やサメの歯、動物の姿を模したような具象的モチーフを持つ貝製装飾品。貝輪。
 ・貝殻の造形を活かしながら穿孔を施して装飾品とした貝製玉類。
 ・鏃状貝製品、螺蓋製敲打器、刀器、貝匙の他にも、漁網錘と推定される。
 ・スイジガイ製利器、ホラガイ製煮沸具、少量ながら錘状貝製品や釣針状貝製品。

 人間の諸活動のあらゆる場面において貝殻が恒常的に利用されている。サメ歯状貝製品や獣型貝製品の初期のものは比較的写実的あるいは具象的な表現が認められるが、時期が下ると抽象化していく傾向にある(p.280)。

 イモガイ科製貝輪が登場。「当該製品が、後続する時期に開始される「貝交易」の交易品として盛行することは留意すべき点である」。

 4.南島海産貝輪交易

 ・腹面利用のゴホウラ製貝輪、イモガイ科製貝輪、指輪状貝製品。この時期は遺跡が海岸砂丘に立地するようになる。

 5.広田遺跡との関連

 種子島の広田遺跡に貝殻大量消費遺跡。従来は、この時期の奄美、沖縄の出土品は、広田遺跡の影響を受けたものとされてきたが、再検討が進んでいる。

新里貴之は広田遺跡にみられる貝製装身具習俗が九州・本州の首長層の装身具内容を情報として把握し、材質を貝で置換したものとみている(p.285)。

 6.広田上層タイプの隆盛と南島貝文化の衰退

 山野は、「貝製品からみると第1段階から㈹段階までの流れは変化と画期を持ちながらも連続的であり、その画期の背景にはサンゴ礁を主とする島嶼を取り巻く自然・地理環境を基盤とし」、と書いている。

 貝塚前4期から前5期にかけての「南島貝文化の盛行期」は、定住の深まりを感じさせる。一方、比較的写実的あるいは具象的な表現が、時期が下ると抽象化していくのは、社会の流動化が背景にあるのではないだろうか。

 島人は、珊瑚礁とともに、貝とともに生きてきたわけだ。山野のおかげで、交易によって見い出されたのは、貝ではなく貝文化だということが分かった。


『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』

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2015/07/13

シャコ貝の位相

 松木武彦は、弥生期の沖縄について書いている。

 弥生に相当する段階に入った沖縄で目立つのは、独特の埋葬方式だ。サンゴ礁からできた岩を組んで遺骸を組み、しばしばシャコガイなどの大型の二枚貝の殻を頭のまわりに立てたり、額に載せたりしている。海に由来するものと死者とを関連づける、この社会特有の世界観や思想が定まってきたのだろう(p.227、『列島創世記』)。

 例に添えられている写真は、木綿原遺跡(第5号箱形石棺墓の成人男性)のものだ。これは、前Ⅴ期末~後期初頭(約2500年前の前後)に相当する。シャコ貝とともに埋葬された例は、渡名喜村の西底原遺跡(後期?)もあった。頭蓋骨はなく(後世の攪乱とみなされている)、シャコ貝は腹部に置かれている。

 松木は、「海に由来するものと死者とを関連づける、この社会特有の世界観や思想」としているが、酒井卯作は、「シャコ貝を人骨の上においた痕跡があり、これが海上他界を意味するとも考えられるが、私はむしろこれを死霊の鎮圧と考えた」(cf.「39.「豊饒と死」」)と見なしている。

 ここにある「世界観や思想」はトーテム的思考ではないだろうか。

 宮古島に近い多良間島には、人の始まりに、最初に生まれたのがヤドカリではなく、シャコ貝である神話があった。

昔々大昔のことヴナゼー兄妹があった由。或る晴れた日のこと外の人々と共に野良に出て畑を耕していると、にわかにはるか彼方の海から山のような波がよせて来るのを見つけ、兄は妹をいたわりつつ高い岡にのぼって難をしのいだとのことである。周囲見まわして見ると人は一人もなく地上に一切のものと共に津波にさらわれてしまった。兄妹は致し方なく草のいほりを作り妹背のちぎりを結んだのであった。そして二の間から先づ一番初めに生れたものはアジカイ(シャコ貝)で、その次に始初めて人間の子が生れて、これからだんだんひろがってこの島一ぱいに人々が繁昌したと云うとのことである。島人は今ヴナゼー御拝(オガン、一種のお宮)を二人を島立ての神として祭ってある。(多良間島)

 これはトーテムとして同位相にあり、「シャコ貝」をトーテムと見なした段階が宮古島にあったことを示唆するものだ。脱皮型の死の起源神話は、メラネシアでは「蛇」が登場するのに対して、蛇のいないポリネシアやミクロネシアでは、「蛇」が「蟹」や「貝」に代わる(cf.『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』)。たとえば、ソロモン諸島マライタ島のランガランガ族のトーテムは、「鮫、鰐、海蛇、シャコ貝」などだ(p.139、『「物言う魚」たち』)。宮古島でもシャコ貝遺物は採取されている。宮古島で、ヤドカリではなく、シャコ貝がトーテムとして選択される可能性はあると思える。

 埋葬時にシャコ貝を副葬したのは、女性のアマムの入墨と同じ他界へのパスポート、または他界への道連れ、トーテムとしての次の生への呪術などの、どこかの思考に当たるのではないだろうか。

 

『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』


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2015/07/12

「南海産貝交易」への視点

 黒住耐二は南海産貝交易について、面白い視点を提供している。

 出荷したゴホウラ等の対価としては、「三翼鏃(ぞく)・ガラス玉等」がある。稲作技術や穀類は確認できず、絹等の織物や液体等も確認されていない。ところで、「三翼鏃(ぞく)・ガラス玉等」のいわゆる威信財は出土量として少なすぎるのではないか。墓域、住居跡からの出土はほとんど知られていない。この状況自体、社会の階層化を示していないのではないか。

 一方、沖縄に残された貝類残滓は多いが、黒住はそれに「"出荷し忘れた"ものが極めて多いという印象」を持つ。黒住自身、異端的な考えと断っているが、「"出荷し忘れても、根本的に困ることはなかった"と考えることはできないだろうか」と言うのだ。

 つまり、社会の複雑化は確実に存在するものの、「交易品のゴホウラ等は"威信財・食用穀類等の多大な見返りを期待した物品とは考えにくいのではないか"」。

もちろん、ゴホウラ等は別集団に渡っているわけであり、交流自体は当然存在している。そうだとすると、通常イメージされる交易とは異なった一方通行的な関係だった可能性もある(p.62)。

 それではなぜ、ゴホウラのような得にくいものを渡したのか。黒住は「ある種の贈答品」と見なしている。

贈答に対する極めて大きな見返りはなかったかもしれないものの、長期的な"互恵的な関係"は強まると考えられよう。

 貝交易の時代、沖縄の人々は貝を採り、集めることに執着している。貝交易が衰退した時期は、「貝交易時代の熱気が冷め、安定したサンゴ礁地域の環境で暮らしていた時代だったのではないだろうかとも想像している」。

 この視点を面白く思うのは、「出荷し忘れる」、「贈答品」、「貝を採り、集めることへの執着」、「熱気の冷め」ということが、島人らしい姿を見せていることだ。黒住の言うように、約5000年間、グスク時代のある意味での強制を受けるまで、漁撈-採集生活を島人は続けていた。自然の贈与は、本土が森を根拠にするのに対して、琉球弧ではその役は、海、なかでも珊瑚礁からもたらされた。この安定は、交易者に対して、贈与をもって対応したとしてもおかしくない。むしろ、ありそうな姿だと思える。「南海産貝交易」というけれど、黒住が、「ゴホウラ等は別集団に渡っているわけであり、交流自体は当然存在している」というように、琉球弧の側にしてみれば、「交流」だったのかもしれない。

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/07/11

珊瑚礁と大酋長

 松木武彦は、旧石器から縄文、縄文から弥生への時代転換を、日本列島の温暖化と寒冷化という大きな視点で考察していた。では、気候変動は琉球弧の歴史のなかで、どんな転換と結びついているのだろう。

 松木は書いている。

 沖縄本島と周辺の島々では、縄文時代早期の終わりごろにあたる七〇〇〇年前ごろよりのち、海岸の砂丘を中心に貝塚がつくられる。おりからの温暖化で、今以上に水温が高かったサンゴ礁の海にあふれる水産資源に食料の多くを頼った生活を、これら南の島々のは送っていたらしい。ただし、はっきりとした長期の定住を示す集落の跡が明らかでないことから、たくさんの人びとが寄り集まって集中的に資源をとるのではなく、少人数のグループに分かれ、季節や時機に応じて、海岸線沿いに魚介類を求めて遊動するような暮らしをしていたと考えられる。先にみた本州西部や九州などの縄文時代前半と同様だ。
 このような状況が大きく変わりはじめたのが、縄文後期にあたる四五〇〇年前ごろである。沖縄本島では、はっきりとした集落が見られるようになり、その立地も、従来の海岸沿いから内陸部へと広がる。さらに、およそ三〇〇〇年前の縄文晩期のころには、数十棟の竪穴住居からなる大きな集落が、やはり内陸の台地上に営まれるようになる。
 この動きは、水産資源から陸上の植物資源へという、主たる食料源の交替を伴う生活戦略の転換を示すものだろう。そして、その背後には、気候の変動により、それまで頼ってきた水産資源の種類や量や分布などが変わってしまい、旧来の技術や社会システムではうまくいかない局面が多くなり、そのことが、もとは副次的な食料源だった陸上植物の集中的な獲得や管理に力を向けさせた、という経緯が想定できる。沖縄県宜野湾市上原濡原遺跡で見つかった畑の畝らしい地面の凹凸は、その証となるかもしれない(p.175、『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』)。

 まず、この文章のチューニングから行いたい。七〇〇〇年前に「遊動するような暮らし」を行っていたのには違いないが、このときはまだ圧倒的にイノシシ、つまり狩猟が優勢だ(cf.「「ウミアッチャー世」と「ハルサー世」」)。たしかに、「約7000年前以降、多くの遺跡ではサンゴ礁の形成された周辺に遺跡を立地させてきた」が、「サンゴ礁の形成は局所的であった可能性が高」いのだ(黒住耐司「貝類遺体からみた沖縄諸島の環境変化と文化変化」『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』)。

 菅浩伸によれば、「多くの島々でサンゴ礁が海面付近に到達するのは約6000~4000年前」(「琉球列島のサンゴ礁形成過程」同前掲)だ。「約4000年前には多くの海岸でサンゴ礁が沖側に形成された」。珊瑚礁の形成に符号するように、伊藤慎二は琉球弧が定着期に入るのは、約5000年前だ(cf.「ヒトはいつどのようにして琉球列島に定着したのか?」)。

 松木の考察を手掛かりにすれば、後期旧石器時代後半~縄文時代前期(約2万年前~7000、6000年前まで)の温暖化を受けて、食物資源への依存が高まり、縄文前~中期(7000~4500年前)にかけて定着が促される。これとの同位相を求めれば、琉球弧では、約5000年前の定着期への移行が対応することになる。琉球弧の場合は、珊瑚礁環境の出現が大きなインパクトをなしたのだ。ただ、この時期は珊瑚礁形成の島ごと場所ごとによる差を考慮すれば、それより以前から定着は行われたと考えるのが自然だ。黒住は遺跡からもその可能性を指摘している。

前1期前半の貝類遺体の多い出土量や礁斜面でのヤコウガイ等の採集は、一時的な利用とは考えにくく、イノシシの集中的な廃棄も考えあわせると、沖縄貝塚時代にはかなり早い段階から定住的な生活が存在したのではないだろうか。(黒住耐二、同前掲

 この漁撈-採集社会は、グスク時代に入るまでの約5000年間、継続する。定着につぐ大きな転換は、約2400年前に交易期になるが、この時期にすっぽり入る。このインパクトをもたらしたのは何か。

 弥生時代初頭に底を打った気温は再び上昇に転じ、弥生時代中期に頂点に達する。ここで起きた変化について松木は、九州から東海西部では「イネの生育条件が向上し、コメは増産されて人口増加に拍車をかけただろう。耕地の開発は容易だが平野の狭い九州では、これが集団同士の競争と序列化をまねき、きらびやかな装身具や舶来の品々や武器にいろどられる大酋長を生み出した」。また、瀬戸内、近畿、東海西部では大きな環濠集落を発達させた、としている(p.232)。

 松木は大酋長を厳密に定義しているわけではないが、小さな国家の首長だとみなしていいと思える。ここで関わりがあるのは、「きらびやかな装身具」だ。これが交易期への転換を促したインパクトである。気候との関連でいえば、気温上昇→米の増産→集団同士の競争と序列化→大酋長という本土西部の変化がもたらしたと考えられる。

 伊藤は交易期、遺跡は「沿岸に近い砂丘上に極端に集中し、小規模遺跡が激増する」としている。この後に、B式グスクという高地性集落が出現するのだろう。


『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』

『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究: 研究論文集』


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2015/07/10

『幕末日仏交流記』

 この本の第一印象はまず、暗澹たる気分になることだ。1844年、ペリー来琉の9年前、フランスは琉球を訪れ、通商条約の締結を求める。その二年後、暗に断った琉球に対し、艦隊の提督は、その旨、皇帝に伝え、遅くとも一年後には別の艦が来ることを記した書簡を琉球側の総理官に渡した後の、二人のやりとりはこうだ。

[総理官] 「大変に重大な事柄なので、即答はできかねます」
[提督] 「用はすんだし、答はいりません。そちらが私の要請を拒絶したので、そのことを皇帝に報告すると、私は言ったではありませんか。皇帝が決定を下すまで、これ以上どうしろと言うのですか」
[総理官] 「大変に重大な問題ですから、よく考えて答えさせていただきます」
[提督] 「閣下自身がここで応えられるのですか。それともまた首里に戻らなければならないのですか」
[総理官] 「分かりません。書簡をもう一度読み、よく考えてから決めさせていただきます」
[提督] 「閣下がすぐにご自身で答えられるのなら、待ちましょう。そうではなくて、また首都に帰らなければならないのなら、二ヵ月後にサビーヌ号を派遣しますから、艦長に返事を渡して下さい。私はもう待てません。朝鮮で大事件が起きたので、できるだけ早く行かなければなりません。同国の王府がフランス人三名を死刑にしたということなのです。この処刑が正当か不当かを調べに行くようにとの皇帝の命令を受けました。もし不当なものであれば、莫大な賠償を要求しなければなりません。というのもフランス人は世界のどこにいても皇帝の臣民であり、保護されているからだということで、[それを]よく覚えておいて下さい」

 総理官は、目に見えて動揺して言った。
[総理官] 「いつご出発なさいますか」
[提督] 「できるだけ早く」
[総理官] 「先の件については前向きに対処しなければならないと思っております。明日か明後日には何らかのお返事を申し上げましょう」
[提督] 「朝鮮遠征の帰路に、私がここに来ることもできるので、その場合は首里まで最終的な解答を取りに行きます」

 総理官は、この心遣いをそれほど喜んでいないようで、この親切な申し出に何も答えない。提督は言った。
[提督] 「私の通訳としてフォルカード師とオーギュスタンを朝鮮に連れて行きます。前に言った通り、オーギュスタンは戻りませんが、フォルカード師はサビーヌ号で戻り、書簡で示した条件のもとに滞在します。ルテュルデュ師は、彼[フォルカード]が不在の間、泊に置いてある身の回りの品を管理し、彼[フォルカード]が戻ったら、一緒に暮らすことになっています」

 これに対しては、私の記憶に残るような答えはなかった。気の毒な総理官は、家畜小屋の中で狼と一緒になった羊のように、絶えず戸口の方を眺め、何かというと立ち上がって、辞去のあいさつを始めるのだが、その度に「少し待ってください、まだ終わっていません」と言われて、ひどくがっかりするのであった。
 やがて話がかの有名な度佳喇島に及ぶと分かると、彼は港の名や他のこともいろいろと聞かれると思ったようで、「私たちには分からないのです。ここにはそうしたことをお話しできる者はおりません」と、うわずった声で言った。
 そしてすぐに戸口に向かい、逃げ出したのである。

 暗澹たる気分になるのは、フランスの提督に対する琉球官僚の態度に怯えとことなかれを見てしまうからだ。しかし、この対応も、琉球側の政策であり、『ペリーと大琉球』で整理されていた「偽装策」と「遅延策」のたまものだ。遅延策の方便ではこの問答にも現れているし、「総理官」自体が偽装であり、実際の官僚である三司官はことに当たっていない。

 偽装に対して、フランス側は、琉球ができるだけ小さく貧しく見せようとしていることに対しては、すぐに見破っているが、「総理官」と「度佳喇島」の偽装については、この時点で気づいていない。しかし、提督ら一行は、日本本土に向かう際に、このうち「度佳喇島」の偽装については知ることになる。

 南西の正面に島が見えます。提督殿、昨日私が派遣されたにもかかわらず、誤解があったために上陸できなかったのはその島です。手で島を指して、その名を尋ねました。なんと驚いたことに、二、三人が度佳喇だと言いました。そこで私は沖縄の船長に、『それではあの島があなた方が通商を行っている度佳喇なのか』と言いました。彼はそうだと答えました。私はあ然としました。というのも沖縄の人たちの言うことを信じれば、あらゆるものがこの島から来るということだったからです。つまり彼らの国にとってこの島は貯蔵所であり、倉庫でもあるのです。ところが目の前にある島は、ご覧の通り、大変小さく、その土地は不毛でほとんど耕されていません。彼らが思い違いをしているか、嘘をついているのかもしれないと思って、その時は居合わせなかった別の日本人に後で聞いてみましたが、答は同じでした。もはやこれが事実だということは疑う余地がなく、沖縄ではこの点についても、他の多くのことと同様に、臆面もなく偽りを言っていたのだと結論せざるを得ません。

 「度佳喇」偽装が、実際に外からはどのように見えたのか、その一端が知れて興味を引く。もともと、日本との交流がないという見かけをつくるために「度佳喇」偽装は行われたが、一方で、琉球側が婉曲的にフランスとの通商を断るもに、日本が何と思うか、と言及しているのだから、偽装自体もほころびを見せる段階に入っていたのだろう。現在の単純な感覚からは、「なんのために?」と突っ込みを入れたくなるところだ。

 ただ、実際、フォルカードは滞在の二年間で、本来の目的である布教について何も成果を挙げられなかったのだら、その点については、偽装と遅延が効を奏したと言えばいえる。なにしろ、始終監視がついて、島人と自由に話すことも覚束なかったのだから。ただ、全くなかったわけではない。

 我々はもう一度屋我地島に散策に出かけた。散歩しても、尾行はなく、私は六十がらみの老人と出会って話をすることができた。とりとめのないことを少しばかり話してから分かれた。その後でまた彼が藁葺きの家の戸口に八十歳になる彼の父と二人の息子と共に経っているのに出会った。急いで持って来てくれた火で提督が葉巻を吸っている間、私は気軽に再び話をすることができた。善良そうなこの人たちは、私が彼らと同じ言葉を話すのを聞くのが嬉しくてたまらないようで、打ち解けて、素朴な気持ちで応じてくれた。別れ際には、「もしここに自由があれば、やがて事態は改善されるでしょうに」とお互いに言ったのである。確かにどの通りだ。

 ほんの何回か、フォルカードは島人との会話を書きとめていて、その間だけは気持ちのよいひと時を過ごすことができているし、読む方も、そこだけはほっとする。人は個人同士であれば、すぐに打ち解けることもできるのに、国を介した途端、訳の分からないことになるという今も同じことを感じさせる。その一方で、屈託なく異国の人と話す島人と、琉球官僚は全く別のタイプではなく、同じなのだと思う。偽装と遅延の策とはいえ、というか、その実行のなかから滲み出てくる怯えやことなかれは、自分のこととして、島人だと感じさせるからだ。

 琉球を北上した一行は、長崎に着き、こんどは、奉行所の面々の威圧的な態度に憤慨している。奉行所の武士たちも役割としてやっているとはいえ、慣れや武力は、人の態度を変えてしまうようにも感じられ、印象的だった。

 

『幕末日仏交流記―フォルカード神父の琉球日記』


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2015/07/09

『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』

 新崎盛暉のこの本は、2012年、民主党政権下で出されている。そのことを踏まえて、備忘。

 「防衛相も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視」という鳩山元首相の発言を受けて、

 この数十年にわかる思考停止状態の中での「沖縄の米軍基地に対する当然視」こそ、構造的差別にほかならない。

 ここには、米軍基地の不可視化も入れたい。

長らく日本戦後史の研究・記述の中からは、「沖縄の分離軍事支配」が欠落していた。
日米関係を安定させ、相互協力関係を深めるための六〇年安保改定は、占領政策として生み出された構造的沖縄差別の日本政府による積極的な利用の始まりであった。
朝鮮半島をにらんで岐阜県や山梨県に後方展開していた米海兵隊は、五三年の朝鮮戦争休戦によって、米軍事戦略上からも、一歩後退することが可能になっていたのであろう。

 そうであれば、普天間基地の移設先として、岐阜県や山梨県に返すという筋道もありうることになる。

一九六〇年、日本(ヤマト)の米軍基地は、五二年段階の四分の一に減少していた。沖縄の米軍基地は、二倍に増えていた。基地のしわ寄せである。こうして六〇年代には、日本と沖縄に、ほとんど同一規模の米軍基地が存在することになった。
彼(佐藤首相ー引用者)らにとって沖縄返還は、あくまで「戦争によって失われた領土の回復」であって、「異民族軍政下からの同胞の解放」ではなかった。
沖縄返還を間に挟む数年間で本土の米軍基地は、約三分の一に減少した。一方、沖縄の基地はほとんど減らなかった。その結果、日本の国土面積の〇・六%の沖縄に在日米軍基地の約七五%が集中するという状況が生じた。
(前略)全国的には、安保は米軍基地と共存することである、ということが実感できなくなっていった。基地問題は沖縄問題となった。
多くの政党や労組、市民団体などがヤマトの組織に系列化されたことも地域共闘の結束力を弱めた。
(大田知事の代理署名拒否は-引用者)、近代国家日本が成立して以来初めての政府(日本国家)対オール沖縄の対決でもあった。
辺野古は、米側にとっては、取引材料(グアム基地整備のための日本の財政支援獲得など)としての既得権の確保に過ぎず、日本側にとっては、米軍基地の沖縄への封じ込め策(基地問題・安保問題の全国化の防止策)であった。
SACOの共同議長として、辺野古移設に深くかかわtったジョセフ・ナイ・ハーバード大名誉教授までもが、「海兵隊を沖縄内に移すことは、沖縄の人びとから受け入れられそうにない。海兵隊をオーストラリアに移動させることは賢明な策だ」と主張(後略)。
 二〇一〇年九月、尖閣諸島海域で、中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突事故が起こった。当時、海上保安庁を所管する前原誠司国交省(沖縄担当相兼担)らは、この問題を利用して中国脅威論をあおり、在沖米軍基地、とりわけ普天間の海兵隊基地やそれに代わる辺野古の信基地建設の必要性を強調する根拠として、最大限利用しようとした。

 ここには、ジョセフ・ナイの「中国の弾道ミサイルの射程内にある沖縄に米軍基地が集中することが対中国の軍事戦略上、リスクになる」という見方を置いてもいい。中国の脅威を認めたら、逆に沖縄の米軍基地はリスクであるという専門家の見解もあるということだ。

 安保をどう考えるか。

 「維持すべき」 7.3%
 「平和友好条約に改めるべき」 54.7%
 「破棄すべき」 13.6%
 「多国間安保に改めるべき」 9.7%
 「わからない」 14.7%
 (2010年、沖縄県)

 日米安保体制を今後、どうしていくべきだと考えるか

 「現在の体制を維持していくべきだ」 43.5%
 「解消していくべきだ」 4.02%
 (1995年、日本経済新聞)

 以下は、Webから(「世論調査報告書」

 ・日米安全保障条約についての考え方
 日本は現在,アメリカと安全保障条約を結んでいるが,この日米安全保障条約は日本の平和と安全に役立っていると思うか

 「役立っている」 81.2%(「役立っている」36.8%+「どちらかといえば役立っている」44.4%)
 「役立っていない」 10.8%(「どちらかといえば役立っていない」8.6%+「役立っていない」2.3%)

 ・日本の安全を守るための方法
 日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきだと思うか

 「現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」 82.3%
 「日米安全保障条約をやめて,自衛隊だけで日本の安全を守る」 7.8%
 「日米安全保障条約をやめて,自衛隊も縮小または廃止する」 2.2% 

 ・日本が戦争に巻き込まれる危険性
 現在の世界の情勢から考えて日本が戦争を仕掛けられたり戦争に巻込まれたりする危険があると思うか
 「危険がある」 72.3%(「危険がある」27.3%+「どちらかといえば危険がある」45.1%)
 「危険はない」 22.0%(「どちらかといえば危険がない」17.2%+「危険はない」4.9%)
 (2012年、内閣府大臣官房政府広報室)

 本に戻る。

 中国とアメリカのどちらの関係がより重要か(日本)。
 ・アメリカ 68%
 ・中国 15%

 日本と中国のどちらの関係がより重要か(アメリカ)。
 ・中国 50%
 ・日本 33%

 日本に米軍が駐留している目的
 ・日本を防衛するため 42%(日本)、9%(アメリカ)
 ・アメリカの世界戦略のため 36%(日本)、59%(アメリカ)

 日本が軍事大国になるのを防ぐため 14%(日本)、24%(アメリカ)
 (2010年、朝日新聞)

 新崎はこの結果を受けて、

日本の世論やその背後にあるメディアが、如何に「片思い」であるかを示している。

 と書いている。

 

『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』

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2015/07/08

『ペリーと大琉球』

 『ペリーと大琉球』は、1995年に全国放映された琉球放送の番組が元になって編まれたと解説されている。

 番組の反響は高かったようで、「沖縄に牧志朝忠のような先人がいたことを誇りに思います」という言葉に象徴されるという。

ペリーという強国を相手アメリカの提督に英語を駆使して対峙した一人の男の存在は、私たちウチナーンチュの心を強く揺さぶり、日本・中国・アメリカという列国のあいだで翻弄されつづける琉球史にとって、何か「魅力的」で嬉しくなる存在なのです。

 その牧志が中心になってという王府の外交方針は、「偽装策」と「遅延策」につきる(大城将保)とされている。「偽装策」とは、王府の国王や摂政、三司官という官僚が交渉に出ることはなく、摂政の代わりに総理官、三司官の代わりい布政官という架空役職の人物がことに当たることで、あたかも架空の王府にペリーと対応させたことを指している。「遅延策」は、ペリーの要請に対して、のらりくらりと交わして、交渉を延ばしのばしにしたことを指す。

 ダミーという点は琉米修好条約の締結書にまで徹底されていて、摂政でも三司官でもない、「総理大臣」と「布政官」が署名しており、高良倉吉はこれを、「条約締結の場面においてさえ、琉球側は王府ダミーを駆使するしたたかさを発揮したのである」と評している。別のところでは、「武力を背景に迫るペリーを手玉にとった最高の作品」とまで言ってのけている。

 ぼくは、牧志のような人物を頼もしく思う島人の心情は分かるが、琉球側の対応が「したたか」であり、ダミー署名を「ペリーを手玉にとった最高の作品」という評価には首を傾げざるを得ない。

 こう評する執筆者もいる。

 ペリーに対する琉球王府の応対を、ごまかしだ、まやかしだと非難する人もいるかもしれない。しかし、圧倒的な力に相対することができるのは智恵しかないのだ。僕は朝忠をはじめとする琉球の人々がもつしなやかな知恵に感服した。そしてそれは強靭な精神力があればこそだと実感したのである(松石泉)。

 また、別の執筆者はこうだ。

 軍事力を拝啓にした砲艦外交は、ペリーの時代も現在も、アメリカ外交の基本である。
 ペリーの交渉態度は終始、強硬で高圧的で半ば脅迫的ですらあった。まさに軍人そのもので固められた人物だった。
 これに対し、武器を持たない小国、当時の琉球はあくまでも交渉による平和外交に徹し問題解決にあたった。

 琉球王府の応対を「ごまかしだ、まやかしだ」という非難は当たらないと思うが、そこに「智恵」はあったと言えるだろうか。また、何らかの主張をしているわけでもないのだから、これを「平和外交」と呼ぶのもためらわれる。王府はむしろ「問題解決」を避けているようにしか見えない。

 思うに、「偽装策」は、中国に対して、奄美も琉球国の一部であり、大和との交流は一切ないという外交上の偽装の延長線で出ているものだ。そうだとして、架空の王府を設定することのメリットは何だっただろう。強いて挙げるとすれば、国王を事態に直面させないで守ろうとする意識かもしれない。そう考えると、それは戦前の天皇制のあり方と似ているという印象がやってくる。しかし、三司官まで登場しないのはなぜなのだろうか。これでは、王府そのものをペリーの目から隠していることになるが、言い換えれば、王府自体が事態に直面するのを避けていることになる。

 また、「遅延策」にしても、ペリーを苛立たせることに効を奏しても、それがどういうメリットをもたらすだろうか。むしろ、婦女暴行を起こしたウィリアム・ボード死亡の事件を、条約締結を迫られる材料として使われる結果を招いているのではないだろうか。

 もっと直截に、「偽装策」と「遅延策」は、琉米修好条約という不平等条約のどこかに、琉球の国益を高める結果をもたらしているのかを問えば、それは無いようにみえる。ダミー署名がそうだと、高良は言うのかもしれないが、それは当時の国益をいささかも高めるものではないし、現在では、この条約は無効であるという揚げ足を取られかねない弱みになる可能性だってあるだろう。

 この本を読み、ぼくが「智恵」だと感じるのは、「石炭倉庫」の設置要求に対して、アメリカの賃借料を「そのつど支払でなく、米艦が立ち去るときにまとめて受け取る方法」にしたことだ。

これらは、倉庫を恒常化して琉球が寄港地として位置付けられないための重要な方策であった(小野まさ子)。

 これは理解できるとともに、この「石炭倉庫」が、現在の米軍基地の前身であるのに気づかされる。

 しかし、その他の点では、「智恵」や「したたかさ」、「平和外交」を見い出すのは無理があると思う。琉球王府の対応は、どこまでも身を縮めて、自分たちを小さく卑小にして、取るに足らない存在として見せようとするものだ。あわよくば、無色透明に見なしてほしかっただろう。この弱く小さく見せるという処し方は、島人として、自分のことのようによく分かる気がする。ただし、それは一人ひとりの島人の個性としてであって、王府の対応としては、積極的な意義を見い出せない。

 ところで、1970年に島尾敏雄は、「ヤポネシアと琉球弧」で、こう書いている。

大雑把な言い方をしますと、日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが本土の方に送られてくるのです。そしてそのために日本全体がざわめきます。それなのに、そのざわめきがおさまってしまうと、また琉球弧は本土から切り離された状態になってしまうという、何かそんな感じがして仕方がありません。

 島尾の言うとおりなら、歴史はまた「曲がり角」に来ている。そして今回の琉球弧からのサインは、反日本政府という形を採っており、そのなかには琉球独立という声も含まれている。ここで、ペリー来航の際に、「偽装策」と「遅延策」で対するしかなかった琉球王府と異なり、「琉球弧は本土から切り離された状態」を厭い、仮に独立を果たしたとしてみる。

 するとその後、どうなる可能性があるのか。これは思考実験として行なうもので、願望を含むものではなく、言葉遊びにもならないようにしたい。「抑止力」が、どこまでがリアルで、どこからが幻(「抑止はユクシ(嘘)」)なのか、正体が定めにくいように、言葉遊びにならずに済ませるのは難しいのではあるが。

 現在の「日本」は、「アメリカ属国」であると位置づける。また、独立した「琉球」が奄美を含むかなど、範囲はここでは不問にする。

 1.琉球、日本
 2.琉球、日本(アメリカ属国)
 3.琉球、日本(中国属国)
 4.琉球(アメリカ属国)、日本
 5.琉球(アメリカ属国)、日本(アメリカ属国)
 6.琉球(アメリカ属国)、日本(中国属国)
 7.琉球(中国属国)、日本
 8.琉球(中国属国)、日本(アメリカ属国)
 9.琉球(中国属国)、日本(中国属国)

 1は、最も望ましい状態かもしれない。ただこういう絵が見通せるなら、現在の独立論は不要になる。
 2は、現在の状態から「琉球」のみが独立した場合だ。しかし、この立ち位置はただちに、8(琉球(中国属国)、日本(アメリカ属国))の不安を島人に喚起させる。
 3は想定しにくい。4はどうだろう。4は、「日本」が現状よりさらに「アメリカ」に「琉球」を差し出し、切り離すことで「日本」が独立するとしたら、考えられなくもない。この場合、「琉球」の反日本感情は修復できないほど固定化されることになってしまう。

 5は現状のままと同じだから、独立の意味を失う。6は想定しにくい。7と8の場合、「琉球」から「日本」への移民の増加が考えられる。そうなれば、またしても琉球人は日本における外国人という位置から始めなければならないことになる。そして、両者の関係は分断国家のようなきつい状況になるのではないだろうか。9は、今の「日本」が怖れていることで、「琉球」にとっても独立の意味を失う。

 この、素人の単純な思考実験では、2(琉球、日本(アメリカ属国))が果たせたとして、それは、8(琉球(中国属国)、日本(アメリカ属国))か、7(琉球(中国属国)、日本)への不安を喚起することが、独立論の考えるべきことのように思えてくる。それとも、独立もへちまもない。仮に果たせたとしても、「日本」もろともの「中国属国」化への不安のほうが大きいかもしれない。

 また、1(琉球、日本)は望ましいが、そうであれば「琉球」が独立する必要はなくなると考えたが、それでも、1(琉球、日本)が望ましい場合があるとしたら、「日本」が核保有国になり、それを厭う「琉球」ということならあり得るのかもしれない。すると、「琉球(日本属国)、日本」という不安を喚起するだろうか。止めよう、これは言葉遊びの部類になってしまう。


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2015/07/07

『日米同盟vs.中国・北朝鮮』

 民主党が政権にいた時に出版されたものだが、まず、かなり率直に、あけすけに語っていることに驚かされた。

 春原 日米同盟の進化・発展に向けて、日本がクリアすべき課題とは何でしょう。
 アーミテージ それは日本人が自ら決めることですね。それが第一に言えることです。次に憲法九条と集団的自衛権の問題は、この同盟関係にとって阻害要因となっています。それが二番目。三番目に言いたいのは、何も日本は憲法を改正する必要はないということです。ただ、内閣法制局による(憲法九条の)解釈を変えればいいのです。第四のポイントは繰り返しになりますが、ソマリア沖での自衛隊による活動(海賊対策)は集団的自衛権の行使と何ら変わりはないということです。
 中国が宮古海峡や尖閣諸島の周辺に海軍の艦隊を派遣して日本をいら立たせているのに、なぜ、日本はリスク・フリーの切符を中国に易々と与えているのでしょうか?

 別の場面でのアーミテージの発言。

 安倍さんは自立志向が強いでしょう。しかし、同時に敏感な人物であり、日本が望むものが自立しても得られないことをわかっていた。日本にとって次善の策は日米同盟の枠内でより強くなることです。

 これを合わせると、今、国会で進行していることをそのまま説明していると言ってもいいようなものだ。アーミテージはなぜ、こういう要求をするのか。利権が絡んでいるかどうかは、ぼくが知りようのないことだが、この要求も米国の国益に適うということは、儲かるということ以上に国力の低下があるのではないだろうか。

 また、春原は、議論の節目で「日本がすべきことは?」という質問をすると、「それは日本人が決めること」という応答が、このインタビューの文脈のパターンとして繰り返されている。この応答は、恫喝の意味も含まれているかもしれないが、滲み出る卑屈さへの苛立ちのようにも見える。

 もうひとりの(ジョセフ)ナイは、辺野古移設について、「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」(記事:「ナイ元国防次官補、辺野古「再検討を」 地元民意を重視」)と、今年4月に発言している。より理解を示そうとする発言は、このインタビュー集でも発見できるが、レトリックと思えるものもあった。アーミテージがジャイアンなら、ナイは出木杉くんとでも言うような。

 湾岸戦争の際、国際評価を受けなかった日本は、資金だけ提供したからだと受け止めているが、ナイは、

 しかし、湾岸戦争で日本は大きな資金的負担を背負ってくれました。ただ、そのことについて日本は渋々といった態度を見せ、しかも対応の速度は遅れ気味でした。だから、それに見合うほどの信任を得ることもなかったのです。

 と、対応の仕方だったと言及している。

 また、鳩山元首相の「対等な日米関係」の発言に対するナイの応答。

 真に対等な関係を築くためには、日本は核兵器を独自に開発し、独自の外交を実現するという決断をくださなければなりません。しかしながら、私は日本が独自の核を開発し、防衛政策において完全な自主・自立を求めているとは思いません。
 もちろん、そういった意味において、このパートナーシップにはある種の不平等があるというのは事実です。なぜなら、米国は核を保有する超大国であり、日本はそうならないことを決めたからです。
 一方、この関係は別の意味ではもちろん、平等なパートナーシップでもあります。たとえば、法的(国際法上)には、双方は完全に平等な立場にあります。仮に日本が明日にでも在日米軍兵力の国外退去を求めるのであれば、日本はそうできるのです。でも、実際には軍事的な不均衡、非対称性があり、不平等でもあります。それは単純に表現の問題と言えるでしょう。

 沖縄出身の経済人が、「日本は歴とした独立国であり、日米は同盟国である。にもかかわらず、現在は独立国、同盟国として扱われていない」と言ったところ、キッシャンジャーは、「何を言ってるんです。あなた方は一度負けたんですよ。お忘れですか?」と答えたという(『“悪の論理”で世界は動く!』)。

 このふたつの応答を並べてみると、ナイの表現はソフトに見えるし、議論は進めやすい。しかし、キッシンジャーの方が率直でことの本質を告げたもので、ナイはそれをクールに言い換えたものだとも見える。

 「核の抑止力」については、こう。

 これらの基地、米軍兵力はいずれも日本にとって、米国の核の抑止力を最も強く担保してくれるものなのです。(中略)沖縄に駐留する米軍は基本的に「人質」の役割も兼ねているのです。

 この手の話題の素人でもあるからだけれど、ぼくはこの発言はとても理解しにくかった。そう感じるのは、同じ言い方をすれば、米軍基地の兵士は実際に武装しているのだから、沖縄島の島人を人質に取られているとも言えることが頭をもたげてくるからだろう。ナイはとてもスマートな物言いをするけれど、キッシンジャーの言う本質を見えにくくさせてもいるのではないだろうか。

 ただ、沖縄の返還については、アーミテージと意見を異にしてこう言っている。

 個人的には我々はもっと早く沖縄を日本に返還すべきだった、と思っています。もちろん、沖縄には(軍事的な観点から)戦略的な重要性もあるのですが、たとえばあと十年ぐらい早く返還していれば良かったと思います。

 なぜなのか、春原がここで突っ込んでいないのが残念なのだが、これは返還が遅れた分、沖縄人の日本と米国への不信の強化につながったことが、ナイに考えられているからだろうか。そうだとしたら、「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」という発言とは辻褄が合う。

 

『日米同盟vs.中国・北朝鮮』

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2015/07/06

『“悪の論理”で世界は動く!~地政学』

 タイトルは怖いが、サブタイトルの「日本属国化を狙う中国、捨てる米国」はもっと怖い。装丁はさらに怖い。しかし、この本は扇動的な本ではない。

 琉球弧のことは対中国の話題として出てくる。

 中国人の考えている世界観、ビジョンを、ひと言で言えば「失地回復」(スペイン語で再征服」を意味する言葉)である。
 され、その唐の版図によれば、日本列島は「東夷」であり、中華の外の野蛮な地域と位置付けられる。しかし、沖縄は東夷と位置付けられていない。(中略)「沖縄はどこの国も属していない。だから、中国が獲ってもいいだろう」という戦略的な“悪の論理”である。
 ただし、沖縄を手中に収め、東シナ海を完全に自国領域(内陸海)とすることで、日本列島を西側諸国に対する防波堤として緩衝地帯にしたいというのが本音である。もちろん、一度は日本に攻め込まれて、国の一部を遷居されているから、日本に対する恐怖心も潜在的に持っている。日本が再び軍事大国化しないとも限らないので、そうならないように、適度に国力をそぎながら、人的侵略によって自分たちの管理下に置いておこうと考えても不思議はない。“悪の論理”は、そこかしこに存在している。

 なるほどそうであれば、いまの琉球独立の動きは、中国からみれば、しめしめに見えるだろうか。また、こうした推論は中国陰謀論の根拠にもなっているのだろう。

 台湾を獲って、第一列島線をシーレーンとする場合、中国にとって懸案になるのが沖縄の存在である。
 沖縄を獲れば東シナ海が完全に自国の内海になる。とはいえ、さすがに沖縄を軍事力で獲るわけにはいかない。日本から独立させて傀儡政権を樹立させるシナリオを考えている、というのが私の推論だが、本当にそんなことはあり得るだろうか。
 もともと琉球王国には、二つの歴史書があって、中国語で書かれている歴史書には、「中国にいかにつくしてきたか」が書かれている。一方の日本語で書かれている歴史書には、「薩摩藩や幕府とうまくやってきた」と書かれている。
 両国に朝貢をしていて、どっちにもいい顔をしていた。琉球王国には、そのような意外にしたたかな面がある。
 小さい国だっただけに、大きい国の庇護を受けて国を成り立たせるしかなく、そういう面で鍛えられたのだろう。琉球王国は感覚的にサバイバル戦略に長けている。つまり、「中国についたほうが得」と思えば、沖縄独立もあながちないとは言えないのである。

 独立論者は、傀儡政権を立てたいわけでも、「中国につく」という発想をしているわけでもないだろう。しかし、中国からみた場合、こう見えるという可能性は繰り込む必要はあると思える。

 著者の奥山真司は、日本が選択すべき道として、

 ・日米同盟の維持
 ・中国による属国化
 ・日本の独立

 を挙げ、三つ目しかない、と書いている。

 アメリカの同盟関係の維持は先がない、中国による属国化はきわめて不幸な事態を招くとすると、遺された道はこれしかない。独立である。

 奥山は険しい道としながらも、いくつか政策を挙げていて、そのひとつは、核廃絶のリードによる倫理的な優位性に立つことを謳っているが、共感できる。

 啓蒙されることの多い本だったが、これを読んで、「『琉球独立論』を読む」でも書いたように、琉球独立運動が、日本の独立を促すことにつながるのが望ましいのではないかと改めて思った。


『“悪の論理”で世界は動く!~地政学—日本属国化を狙う中国、捨てる米国』


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2015/07/05

『地球平和の政治学』

 SF的なタイトルだけれど、「平和学」という学問の記述になっている。しかし、結論は日本的というか、玉虫色だった。

 戦後は「平和国家」。1990年の湾岸戦争の際の経済支援が国際評価を得られなかったことに背中を押された国連PKOへの参加以降が、「国連平和維持国家」。9.11以降が「アメリカの同盟国」。そして第二次安倍政権以降は「普通の国」へと舵を切っている、という流れは分かりやすかった。

 著者が、日本の安全保障のアイデンティティのモデルとして使用しているモデルは、

1.古典的リベラリズム・平和国家
・憲法九条、戦争放棄

2.ネオ・リベラリズム・国連平和維持国家
・憲法前文、PKO法、国際協調主義

3.古典的リアリズム・普通の国
・自衛隊法、個別的自衛権

4.ネオ・リアリズム アメリカの同盟国
・日米安全保障条約、集団的自衛権

 こうした整理が平易で分かりやすいのだが、躓く箇所もある。

 それでは「平和」という視点から観た場合、日本政府によるイラクへの自衛隊派遣は正しい決断だったのであろうか。この問題について考える時、イラク戦争の正当性と、戦後の復興支援の二つを分けて考える必要がある。イラクへの武力行使が国際法上、十分な法的根拠に欠けていたからといって、国際社会がイラクの治安と国民を見放した場合、どうなっていたであろうか。それは、前章のカンボジアや東ティモールの例にかぎらず、世界各地でおこった大量虐殺の発生を思い起こせば、その答えは明白である。

 著者はこの後、戦争後の平和構築活動にさっと話題を移し、上記に関しては、国際法違反でも結果オーライと言って済ましているように見えるのだが、ただの現状追認で学問ではないのではないかという疑問が浮かぶ。

 「学問」と呼ぶことに躓くのは、現状追認と同時に、党派性を感じるところだ。

 阪田雅裕元内閣法制局長官が指摘しているように、この閣議決定による集団的自衛権「限定容認」には、「平和の党」を看板に掲げている公明党の意向が大きく反映されている。具体的には、集団的自衛権の「全面容認」を望む自民党の改憲路線に対し、自衛のための武力行使の限界を示すことで、明確な「歯止め」がかかげられたと認識されている。

 「「平和の党」を看板に掲げている公明党」という修辞は、党派性の告白に見えてくる。また、「認識されている」。誰に? と思わず突っ込みを入れたくなる。この主語不在のような現状追認ぶりは、結論にも現れていて、今後の日本の安全保障のアイデンティティは、「地球平和国家」だと言うのだが、それは上記の4つの整理を全部、含むものなのだ。

 つまり、日本は、平和国家、国連平和維持国家、普通の国、アメリカの同盟国、という四つの安全保障のアイデンティティの間を変動しつつも、そのコアとなる安全保障のアイデンティティは、「消極的平和主義」と「積極的平和主義」を基調とした「地球平和国家」であると結論づけることができる。少なくとも、日本国憲法が改正されるまでの間は、日本は地球平和国家として世界の平和と安全に寄与することできると考えられる。

 現状追認は未来追認まで続くような変な印象がやってくる。また、一冊を挙げて日本の安全保障を論じているのに、沖縄の米軍基地のことはひと言も触れることなく終わっていた。これは学問ではなくて、やはりSFなのではないか。

 

秋元大輔『地球平和の政治学』

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2015/07/04

『中国化する日本』

 歴史を「進歩」ではなく「反復」として、かつ一貫した視点で捉えること。そのことによって、ぼくたちが陥りがちな二項対立を相対化して、盲点に気づかせてくれる本だと思う。そこで、「外国人参政権」や「憲法改正」等にも新しい視点を提供している。また、今後どうしていくべきかという論調が、ネオ・アジア的専制とでも言いたくなるものと、江戸よ再び、という色合いに分かれる現状も、言い当てているように見えた。

 ひどい世の中になってもなんとかサバイブしていかなくてはいけない。そういう、持ちこたえようとする努力なのだと思う。それにしても、歴史が流れてゆかないどん詰まり感をつくづく感じた。
 

與那覇潤 『中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史』


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2015/07/03

『21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ』

 佐々木俊尚の『21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ』。タイトルより、サブタイトルの方が本書の主張を表わしている。

 それはどんな内容なのか。

 その可能性を考慮すれば(偶発的に戦端が開かれてしまう可能性-引用者)、日本は単独で中国と向き合うべきではなく、アメリカや東南アジア諸国と軍事的な連携を強めておく必要がある。だから集団的自衛権を容認し、備えをしておくのは当然のことだ。軍事大国になる必要はないが、軍事力は必要だ。これは中国を敵視するというようなことではなく、偶発的な戦争を恐れたうえでのリアルな戦略である。軍事的な均衡が平和のいしずえとなるという考え方が大切だ。
 いま日本にはグローバリゼーションという極めつけの論理が押し寄せ、「情」をどこで確保すればいいのかがわからなくなっている。この結果、一方には強い論理があって論理だけで押し通す世界と、ひたすら「情」に頼り切り、ノスタルジーや自分の皮膚感覚だけを根拠に非論理的な言説を打ち出す世界に二分されてしまっている。前者がリバタリアニズムの強者の論理だとすれば、後者は根拠なく「国民を戦地に行かせるな」「改憲反対」と繰り返す日本の「リベラル」だ。
 しかし私たちに必要なのは、この両極端ではない。理も情もともに大切にしながら、中庸の優しいリアリズムを目指していく政治である。
 優しいリアリズムを牽引する政治の主体は、もはや民主主義である必要はないのかもしれない。中国やシンガポール、そして戦後日本の自民党一党支配を振り返ってみれば、専制政治こそが社会を豊かにし、ある程度の平等を担保するというアジア的な仕組みが存在してきた。このありようを否定することは、もはやできない。

 印象としては、ネオ・アジア的専制とでも言うようなイメージを持った。そこで、アジア的専制のよさでもある相互扶助が、そこはかとなく浮かんでくる。それが、優しいリアリズムと言われているものではないだろうか。

 記者の文体で、抵抗の少ない導体を流れるように、ひっかかりというか、こちらが熱量を帯びることなく、通過してしまって、判断する足場を持てなかった。ただ、著者の真摯な姿勢はひしひしと伝わってきた。

 


『21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ』


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2015/07/02

『沖縄の自己決定権』

 この本は、「琉球処分」の過程が詳細に載っており、「沖縄の自己決定権」について、25人の学者などの声も寄せられているので刺激的だった。

 ふたつ、提案したいと思う。

 ひとつは琉球新報社の代表、富田詢一の書いたものから喚起されたことだ。

 子どもを里子に出して、子どもはつらく苦しい思いをしているのに、その里子に出した日を、親が主権回復の日として祝う。毎年やる予定だったはずだが、沖縄県民の強い反発にあい、式典は一回きりである。
 われわれは四三年前に、戦後のアメリカによる占領下で、父と頼り、母と慕った祖国に帰りたいと日本への復帰運動を展開して、ようやく祖国に帰ることができた。しかし、帰った祖国は、思い描いた祖国ではなかった。

 「復帰」について、本土を父母に喩えたのは知っているが、「里子」の比喩は、2013年の4月28日に予定していた政府主催の式典について述べたものだ。提案のひとつは、対日本(国家)の関係において、親子の比喩を使わないということだ。それは、「騙され続けた「琉球処分」」という言い方から採れば、騙され続けないための要件だと思う。騙され続けないために、言い換えれば、相手を等身大で捉えるために、必要だと思える。

 もうひとつの提案は、「琉球処分」に関する認識について、だ。「琉球処分」は、1872年の琉球藩設置から1879年の沖縄県設置までを指している。しかし、ここには同時に1879年の「鹿児島縣大隅國大島郡」設置も併走している。「琉球処分」には、大島処分とも言うべきものが同時に行われたのであり、「琉球処分」の概念には、まるで奄美の直接支配の隠蔽がそのまま延長されたように、大島処分が隠されている。

 1872年、第一回目の鹿児島官員の派遣の際、琉球側は「一六〇九年の薩摩侵攻の際に薩摩の領土にされた奄美五島の琉球への返還さえ期待したとあるように、「奄美」も琉球国の一部という認識を、琉球側は持っていた。

 また、「琉球処分」後、日清修好条規の改定を睨み、琉球分割が画策されたとき、日本側は奄美諸島と沖縄諸島を日本領、先島諸島を清国領とする二分割案を提示に対し、清国は、奄美諸島を日本領、沖縄諸島は琉球王国、先島諸島は清国領とする三分割案で応答している。この分割案のなかにも、奄美諸島は俎上に乗っている。

 こうした「琉球処分」前後の動きを見ても、「琉球処分」は沖縄諸島と先島諸島に下されただけではなく、その陰で、奄美諸島にも下されているのだ。

 この「琉球処分」という表現に対して、地元からは、「琉球併合」であるという捉え直しが行なわれているが、そうであればなおさらそこに、「琉球併合」は、奄美も含まれるという視点がほしい。

 「琉球処分」の間の「奄美」側の動きは、黒糖まみれだと言っていい。

 1873年 県、大島商社設立(黒糖の専売)
 1874年 大蔵省、「大島県」設置構想
 1875年 丸田南里の帰国(以降、砂糖自由売買運動の展開)
 1878年 勝手世運動による大島商社解散
 1879年 新大島商社開業

 要するに、沖縄、先島での「琉球処分」の過程は、「奄美」では黒糖をめぐる鹿児島県と国の争奪戦として展開された。1879年の「鹿児島縣大隅國大島郡」設置は、県による黒糖権益を確実にするものだった。これはまるで「琉球処分」の過程とは異なってみえるかもしれない。しかし、これとて、薩摩による1609年以降の奄美の直接支配の継続が織り込まれたものであり、「琉球国」を否定された流れのなかに位置づけることができる。仮に、当時の島人はそれどころではなかったとしても、後世にいるぼくたちは、こうした捉え方をする自由は持っているはずだ。
 


『沖縄の自己決定権』


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2015/07/01

沖縄の「忘却」から想起へ

 高江洲昌哉は、「近代日本の「文化統合」と周辺地域―「奄美」を事例にして」(2015年)において、市民社会の「包摂と排除」を、近代国家における文化統合と地域間関係の側面から捉えている。

 文化統合における「国民化」の政策は、実際には「皇化」だが、1874年の政策的テキスト「南島誌」には、

 1)古くからの版図であるにもかかわらず「内地ト気脈」が通じていない。
 2)そこで、改めて「皇化」を及ぼす対象になっている。
 3)「いと撫」するために、沖縄や植民地での旧慣調査とつながるような調査が必要である。

 と位置づけられる。

 これに対し、「奄美」自身は、昇曙夢が『奄美大島と大西郷』で、「殊に言語の如き、日本内地では既に国学者の間にすら意義が全く解らなくなつてゐる古代和詞が、大島や琉球では現に生きて使われてゐるので、時として我が学会に意外な発言を齎すことがある」と「原日本」としての「奄美」を見出すことになる。

 もうひとつ、昇の書名に示されるように、

 西郷隆盛は「奄美」と日本を結び付ける重要な人物(概念)として位置付けており、西郷顕彰は「奄美」と日本を架橋する実践であったといえよう。

 皇化(国民化)に対し、奄美自身は、「原日本」として「奄美」を位置づけ、西郷によって「奄美」を日本に接ぎ木しようとした、ということになる。

 これが文化統合の側面だとしたら、地域間関係はどうか。高江洲によれば、それは「奄美」―鹿児島関係と「奄美」―沖縄関係として表すことができる。それを詳細に言うと、「奄美」―鹿児島関係は、鹿児島との「序列意識」と薩摩を見返す「逆転願望」、そして「奄美」―沖縄関係は、「忘却と同胞意識」と言うことができる。この、対鹿児島の「逆転願望」のところで、ふたたび西郷隆盛は顕彰される。「先生は、島の為に精神的にも救世主であらねばならぬのである」(『西郷隆盛と沖永良部島』)というわけだ。「奄美」にとって、西郷は本土への接ぎ木の要であるとともに、鹿児島に対する「逆転願望」の象徴という二重の役割を担っていることになる。

 高江洲は、「"排除の構造"を好転させるにはどうすればよいのか」、「同質性を前提としない我々意識の共有は可能か」という問題意識で書いているので、それに対して繊細さを損ねてしまうかもしれないが、「奄美」-鹿児島関係には、「序列意識」と「逆転願望」の他に補っておきたいことがある。

 対鹿児島の「序列意識」には反薩摩意識が沈殿している。揶揄に使われた沖縄の"居酒屋独立論"になぞらえれは、"居酒屋反薩摩論"とも言うべきものだ。居酒屋と形容したくなるのは、反薩摩論は、文字化された途端、希釈されるからだ。それに代わって不思議なことに、反琉球意識が頭をもたげてくる。それは、直接的には琉球王国が「奄美」を武力によって版図化したことを指示するのだが、これは薩摩の琉球出兵が、現在に連なる問題を構成しているのに比べて、非常に理解しにくい。ぼくの理解では、言ってみばこれは、抑圧された反薩摩意識が、対沖縄へと転移されたものだ。「奄美」自身が、いちどは自分の発想の根を洗い出すために、直面すべき課題だとぼくは思う。

 対鹿児島関係における「序列意識」と「逆転願望」と、対沖縄関係における「忘却と同胞意識」には、同時に反薩摩意識の対沖縄への転移が潜んでいる。

 ここから、「奄美」という表記から括弧を解除して、与論島の立ち位置を確認しておきたい。まず、対鹿児島関係における「序列意識」と「逆転願望」のうち、「逆転願望」は削除され、対鹿児島関係における「序列意識」のみ残るだろう。「奄美」で濃厚とされる西郷信仰は、与論島には西郷が来島しておらず皆無と言っていいもので、それを梃子にした「逆転願望」のような気負いも見られない。与論人は西郷精神の及ばぬ化外の民なのだ。

 また、対沖縄関係においては「忘却と同胞意識」のうち「忘却」が削除される。与論島とて本土を向いていたのに違いはないとはいえ、いつも視野のなかに沖縄島を見ている与論では、「忘却」を特徴として言うことはできないだろう。

 そこで、与論島における地域間関係は、対鹿児島の「序列意識」と対沖縄の対鹿児島の「同胞意識」と言うことができる。

 ここで、「奄美」に対して与論島が寄与できることがあるとすれば、対沖縄の「忘却」に対する想起である。「序列意識」に対しては与論島が積極的に何かをするまでもなく、大島を中心にした奄美大島文化のポップ化を経由した流れが「序列意識」の解消をある程度は可能にしているように見える。

 高江洲は、「「包摂」と「排除」を可能にするには、私たち一人ひとりがマイノリティとの関係性やマイノリティ性などを「忘却」し、"創造された"マジョリティへの同一性を共有することで「包摂」と「排除」を行ってきたのではないか」と指摘する。沖縄の想起は、「排除」の解消につながるのだと思う。

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