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2015/06/10

『戦争はどのように語られてきたか』

 戦時下の文章は、雰囲気で書かれていることが目を引く。多田憲一は最たるもので、数多の思想家の名前を列挙したペダンティックな書きぶりで意味不明なのだが、結論は「枢軸三箇国は、実に「飛躍」と「創造」によつて哲学せられてゐるのである[!]」(1943年)と現状追認も甚だしく、過剰意匠と内容の空疎さにおいて際立っている。

 また、雰囲気というだけでなく書き手の高揚感も著しい。暁烏敏は、「今度の戦果をみると、人間と人間との戦争ではない気がする」、「戦争は神が人類を浄化せられるみそぎはらいの活動である」、「東洋の諸民族に対して我が万世一系の天皇の大御心を知らしめることが大東亜戦争の目的ではないか」、「我等日本人には万国の思い及ばない偉大な天皇精神のあることを確信するのである」(1942年)などと書く。戦争は「禊払い」とまで見なされていたのだ。

 大川周明は、「熟々考へ来れば、ロンドン会議以後の日本は、目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引張られて往くのであります」、「此の偉大なる力は、私の魂に深き敬虔の念を喚び起します。私は此の偉大なる力を畏れ敬ひまするが故に、聖戦必勝を信じて疑はぬものであります」と、高揚感がすさまじい。「聖戦」という言葉は、日本でも使われていたことを覚えておきたい。

 橘孝三郎は、「圧倒的闘力の現化者が同時に世界救済文明の創造者たることに依って、始めて人類は近世西洋唯物文明の人類否定状態から救済され得る」(1943年)と、まるで新興宗教だ。そしてその根には、

それにしてもかかる現人神信仰は東西に普遍しておったのであるという事を知らねばならん。ただ幸いにして日本は之を滅ぼす事なしに、その正反対にこのアキツカミ信仰によって国体の本源を創造し出したと云う事実を考えられる国にせねばならん。

 という「現人神信仰」がある。「生き神」の信仰はここまで膨化できる、ということだ。

 石原莞爾の「最終戦争論」は壮大で軽い。「建国精神」から「昭和維新」。「昭和維新」は一方で「生産力の大拡充」から「産業大革命」の流れを生む。他方では「東亜連盟結成」を生み、それは「産業大革命」による「決戦兵器」を受けて「最終戦争」へと至る。「産業大革命」は「物資の充足」、「建国精神」は「思想・信仰の統一」、「最終戦争」は「政治的統一」を生み、「八紘一宇」が成就される(1940年)。石原はこれを図解化しているのだが、企業の中期計画のプレゼンテーションみたいだ。石原が今の人であれば、pptが大好きだったろう。

 このなかにあって小林秀雄の「戦争について」は、今も立ち止まらせる。しかし、核心の部分は同意はできない。

 日本に生まれたといふ事は、僕等の運命だ。誰だつて運命に関する智慧は持つてゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であつて、運命をこの智慧の犠牲にする為にあわてる事ではない。

 現在でも「運命」とする感性は強いと思えるが、ここには小田実の言葉を対置しておきたい。

戦争が終結に近づくにつれて、国家原理と個人が背理して行ったことはまえに書いたが、そのことによって、おそらく、私たちは国家と自分が別ものであるという意識を、それとはっきり意識しないまでも次第に育て上げていったのだろう(1966年)。

 1942年2月14日。近衛文麿は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と上奏している。

敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候、随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕候。

 ここで天皇が動いていれば、沖縄戦も原爆投下も無かったかもしれないのだ。

 また、敗戦の詔勅には「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」という文言が見られる。いまの政治家が流用する他人事発言は、少なくとも戦後、ここに端を発していると気づかされる。

 敗戦後。

 しかし国民は、軍国日本の討伐を、国民みずからやったのではなかったということをいっそうよく心得ていねばならぬ。われわれ国民は、大体のところ最後までだまされていた。(1946年)

 中野重治の「だまされていた」という言葉は軽い。しかし、「日本の人民は、自己の力で日本を独立国とせねばならぬ。それが、日本の敗けたことを、ほんとうに知るということである」と、「敗戦」を「終戦」と言い換える欺瞞は免れている。

 坂口安吾の「もう軍備はいらない」(1952年)は胸がすく思いがした。

 人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。
 戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。

 これは、戦後心情の起点にあるものだ。

 竹内好は、日清、日露、「大東亜戦争」の開戦の詔勅を分析している(1959年)。

 日清、日露の差は小さいが、この二者と大東亜戦争の差は大きい。

 1.「百僚有司」(政府関係者)と「衆庶」までが「朕」に組み込まれた。「億兆一心」が期待され、「国家の総力を挙げ」という総力戦の性格規定がなされた
 2.開戦の意志主体が国家でも元首でもなく、「皇祖皇宗の神霊」であり、「祖宗の偉業を恢弘」するための戦争だと説明されている
 3.国際法規の遵守が条件として示されていない

 3つ目について竹内は、「行為が法をつくるという考え方である。つまり戦争そのものが目的化されている」と指摘するが、そのまま現政府の思考に当てはまるものだ。

 安保闘争のさなかに書かれた谷川雁の「私のなかのグァムの兵士」(1960年)は骨太だ。

 新憲法感覚や民主主義を守るという観念と安保根性を打破するという命題とのいずれかがその内包において豊であり、その外延においてフレキシブルであるか。私は後者をとる。

 これはそっくり今でも通用するのではないか。

 また、鶴見俊輔の「平和の思想」(1968年)も太い。たとえば、

 現代の世界の状況は、どういうものか?
 現代では、平和はどういうメカニズムで守られているか?
 現代の条件で、平和を守るために何をなし得るか?
 このような発想からなされる平和論も、平和の思想の領分だろう。しかし、戦中、戦後の日本の言論の歴史は、このように世界の大勢からときおこす人々が、平和の思想から平和以外の思想にかわりやすいことを示している。世界の大勢の論議は、外からつたえきいた知識として成立する他ないし、それは、きわめてたやすく別の世界像におきかえられる。したがって、大量の知識にうらづけられてるように見える状況論も、その大部分が、他のものと自在にとりかえ得る部品からなりたっている。

 これは、情報過多な現在にも通用する視点を与えてくれる。

 この本のなかでは、最後の二論文、渡辺京二の「戦争と基層民-天皇制国家の円環」(1976年)と加藤典洋の「戦後再見」(1985年)が、重量感を放っている。

 渡辺は、戦前社会の特徴として、「強烈な排外的好戦主義の衝動」を挙げている。しかもそれは「基層民」発のものだった。それは憑きもののようなもので、終わってみれば、なぜそうなったのか、分からなくなる。なぜ、戦前社会において戦争という憑きものは必然だったのか。

 明治国家の創出者たちにとって、「天皇制とは、近代的市民社会国家への過渡である明治国民国家の分裂的構成要因を統合するひとつのフィクションであった」。「明治維新はもとより封建制の絶対主義的再編成でもなければ、たんなるブルジョワ革命だったのでもない。それは国家による資本制の創出という特異な任務をになった革命であっ」た。「富国強兵」とは、「国家による資本主義の創出」ということと同義だった。

 明治の支配エリートは、「日本近代市民社会国家は同時に天皇制国民共同体なりという仮定の重みにたえかねたのである」。

明治の支配エリートが創り出した神話は奇妙な独り歩きを開始した。共同体的遺制に封鎖された基層民を統合するためのシムボルであったはずのものが、基層民の欲求を奇怪に変形して吸いあげるサイフォンの役割を果しはじめた。この逆転が中間イデオローグの軍部への浸透という昭和前期特有の下剋上の過程をとり、端的には統帥権的天皇の木間接的天皇への反逆という現象として現れたことについては、ここで委細を分析するまでもあtるまい。

 「基層民の欲求」とは何か。宮崎滔天(とうてん)は、日清戦争時、召集を避けるために国外に逃げようと軽口をたたいて、母親に叱責される。そのときの言葉が、「世間に顔出しが出来ぬ」というものだった。彼らを拘束し駆り立てたのは、「近代的ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であった」。母親の怒りは、「村落共同体の倫理の表明であったというべきである」。

明治国家とは国家規模に拡大された共同体であるという天皇制的擬制は、庶民意識におけるこのような国家と村落共同体の短絡に支えられてこそその機能を全開的に働かせることができたのだった。
 天皇制共同体国家という擬制に対する「観念的昂進」は、「村落共同体ないし下町共同体という現実の媒介が崩落あるいは変質して、市民社会的現実のなかに基層生活民が個として投げ出されることによって生じたのである。彼はそのなかで依然として共同性の幻を追いつづけるとすれば、いまや媒介を欠いて個として天皇に直通するほかなかった。昭和前期の右翼的狂乱の心理的基礎はかくしてつくり出されたのである。
 わが国の基層的生活民が十五年戦争を黙々として支持したのは、市民社会的現実からたえず剥離してゆく自分たちの欲求を戦争がみたしてくれるのではないかという幻想があったからである。

 渡辺は結論的にこう書いている。

 誤解をおそれずに断定すれば、戦争へとなだれうつ基層生活民の欲求は、彼らのあらゆる欲求のなかでもっとも本質的に人間らしい美しい欲求であった。ただ彼らはそれを政治的に表現しようとするとき、中間イデオローグの媒介と収奪をまぬかれることができなかった。近代天皇国家には、支配エリートが天皇制イデオロギーを基層生活民になげかけ、それにもとづいて培養された基層生活民の天皇制的共同体幻想が中間イデオローグに思想的発条(ばね)を提供し、中間イデオローグはそれを右翼ナショナリズムのイデオロギーに変形して支配エリートを脅迫するという、基本的円環が存在した。基層生活民の欲求はこの円環からぬけだすことができなかった。

 ここに「生き神」への信仰を置けば、戦時中に高揚感のなかで書かれた文章にも届く説得力があると思う。

 現在、天皇制は共同体を幻想させる力を持っていない。しかし、「基層民」は都市に個として投げ出されるだけではなく、「自己責任」として分断されている。そこに新たな「中間イデオローグ」が跋扈する余地が生まれている。しかも、「基層民」は共同体幻想を持てないので、現状破壊への衝動を潜在させているように見える。そういう現在への視点へ示唆も与える論考だ。

 加藤典洋は、原爆投下までの流れを追っている。当初、ポツダム宣言には、「日本に立憲君主制を保持させることを明示する一項」が設けられていた。しかし、原子爆弾の完成の報を受けて、この一項は削除される。

 即ち、「原子爆弾」が現実のものとなった時、ほかの二つのカードはトルーマンの眼に取るに足らないものとみえた。トルーマンとバーンズの無意識の秤のふたつの受皿に、日本を降伏に追い込むカードとして原子爆弾という未知のおそるべき「威力」と、やはり未知の天皇という存在のおそるべき「威光」が置かれ、つりあい、等価交換されるという瞬間が存在したのは、この時であり、スチムソンのように天皇の「威光」と原子爆弾の「威力」の併用ということを考えなかった二人の考慮の中で、七月十六日の夜、「天皇」というカードは急速に魅力に乏しいものとなっていったのである。

 「天皇の威光から原子爆弾の威力へ」。

こうした等価交換のうちに「心変わり」を果したのは、トルーマン、バーンズだけではない、日本人のほとんど全部だったことを、この後のぼく達の歴史は示している(後略)。

 この等価交換のうちに潜むもの、それは天皇制国家観、無条件降伏という思想にも通底する。「つまり或る絶対的存在地点を持ち、そこを媒介にして世界を見ている」。

 このことへの注意は、何人もの論者がそれぞれに指摘している。

 戦争一般を原理的に否定するものは絶対平和主義しかない。しかし絶対平和主義は具体的状況への適応能力には欠けている(竹内好「近代の超克」)。
 反戦運動家は、核兵器の大量生産と高度化を、いったん戦争がはじまれば、全人類の絶滅をともなうほどの破壊力をもっているために、いわば戦争を実質的に不可能にさせる契機とみなしている。そして、今では、何はともあれ人間の絶滅をともなう可能性をもっている核戦争は排さねばならないとするのである。この考察は、一見すると申し分のないようにみえるが、ひとつの超越倫理であることをまぬかれない。いいかえれば、あらたな宗教性の情況的な復元を意味している。全人類の絶滅の可能性という前提のまえに、現実の体制も、そこでの矛盾をすべて帳消しにされて、もっぱら核戦争の危険だけが至上の命題におきかえられているのである。(吉本隆明「非行としての戦争」)。
 平和主義という思想は、どんな平和でも平和ならいいのか、平和のかげにどのようなひどいことがなされていても平和ならいいのか? という難問をかかえている。平和を、ただ戦争なしの状態と規定して、これを他のあらゆる価値の上におくならば、この難問をかえりみることなくはじめから切り捨ててしまうことになる。そうすれば、いかなる戦争にたいしても、いつもその当事者双方を責めるということになるだろうし、そういう立場のとりかたは、論理的には明晰だが、社会思想としては、不十分なものになろう。そのような平和主義は、もし文字どおり社会に適用されたなら、今の社会における富の不均等と権力の不均等を正当化することになり、平和の下で進行する飢えと搾取と差別とを見過すことになる(鶴見俊輔「平和の思想」)。
(前略)絶対平和主義は、「敵」もまたその立場をとらないかぎり、倫理としては成立しても、現実の論理としては成立し得ないという根本的欠陥をもち、現在の世界では、まだまだ、それは十分な力となり得ない。(小田実「平和の倫理と論理」)。

 これらの注意を、現在から照らすと、「超越倫理」に陥らないためのガイドラインではあるが、「超越倫理」に陥らずに展開される思想の言葉や運動は、あまり深化されずに来たのではないかという内省がやってくる。たとえば、それは、原爆投下の当事者たちを告発する、という小田実の主張のなかに具体化の一端を見ることができるが、それが議論として引き継がれてないように見えるのだ。

 ここで加藤の等価交換に戻ると、「天皇」から「原子爆弾」の次に、「原子爆弾」を含みながら、ぼくたちの前に置かれているのは、「日米安保」なのではないだろうか。それは、現在の平和運動のなかでもなかばタブー化されているという点で、天皇のあり方とも似ている。また、小田の主張が継続されていないことにも通じていると思える。

 

『戦争はどのように語られてきたか』


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