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2015/06/24

「戦後の起源へ-いま、私の考えていること」

 加藤典洋の「戦後の起源へ-いま、私の考えていること」に魅力を感じた。加藤は思考の経緯を丹念に辿っているので、ほんとうは全文を引用したいくらいだが、その余裕はないので、ニュアンスが削がれるのに目をつぶって核心的な箇所を引く。

 (前略)私の考えでは、いま、日本に必要なものがあるとすれば、この二つの政治目標につきる。「戦後」を終わらせる、といういい方が意味をもつとしたら、その内容は、東アジア圏での信頼回復と本格的な友好関係の確立、そして対米従属を脱した日米関係の再構築、この二つ以外にないのである。

 ありうべき目標として頷ける。そのずっと先に加藤は続ける。

 つまり、これが「外国基地の存在を認めず」という点を明記し、従来の米国との「従属」関係から脱することを宣揚し、なおかつ「統整的理念としての戦力保持と交戦権の放棄」をあくまで堅持した憲法改正であること。
 そうすることが、今後も日本がこれまで同様の「平和と経済的安定」を堅持し、これに加えて「自分の国の将来を自分たちで決める政治的自由」を回復し、日本社会をよりよくするために、必要なのである。
 矢部の観点は、じつは現在の憲法九条が、自衛隊の存在とではなく、在日米軍の永続的存在といまや「相補的に支え合っている」ことに、私たちの目を向けさせるのである。

 矢部が誘ったのは、そもそも九条と安保がセットであるという視点だと思う。

 ダグラス・ラミスは、『要石:沖縄と憲法9条』(cf.記事)のなかで、「沖縄の人」の「九条は沖縄には一度も来たことがないよ」という声を紹介している。この声は、「本土の九条」と「沖縄の安保」という二つの仮象の、一方の声を象徴している。辺野古基地が強制されれば、「本土の九条」と「沖縄の安保」は対立の仮象が決定的になってしまう。「沖縄」は、「憲法の下に帰る」つもりで「復帰」をした。だから、「復帰」は果たされていない、ではなく、「復帰」は果たされない、という認識になる。その先には、「復帰」はすべきではなかった、という声が強まってしまうだろう。その認識がどう、ということではなく、「本土の九条」と「沖縄の安保」という二つの仮象の向こう側に行かなくてはならない。

 憲法九条の平和理念は、じつは理念として透徹したものではないのではないか。ニューディーラーの理想主義者たちが考えてくれたすばらしい憲法ではないけれども、それはやはり、「核兵器以前」、第一次世界大戦終結時の「理念」との間に、一つの断裂をかかえているのではないか。現行の憲法九条の平和理念によって、それを足場に、なぜ私たちは米軍基地を沖縄から撤去させることができないのか。外国基地を日本からなくし、国連を強化しつつ、別の平和な国際秩序を構想するうえで、なぜ憲法九条は、それだけでは、無力なのか。
 それを、現状がさらに悪くならないための砦として考えているだけでは、それを生かせないのではないか。それによってさらに理想に近づこうと考えるとき、はじめて憲法九条の現在の姿が「課題」として見えてくるのではないか。これをより平和理念として徹底することで、私たちは、対米従属から脱し、政権交代後の民主党政権が掲げた東アジア圏の平和的構築、対米、対ロ平和友好関係の構築へと、向かえるのではないか。
 私はまだはっきりしないながら、そんなことを考えている。

 この雑誌の発行は、今年の四月。加藤の考えの末を待つ、というのではなく、考え続けていかなければならないのだと思う。
 

『myb 新装第1号―団塊の世代の明日へ 特集:団塊の世代に問われるこれから』

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