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2015/06/20

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

 矢部宏治のこの本には、ありうべき態度という点で強い示唆を受けた。

 「日本国憲法の真実」を突き詰めると、

 1.占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。
 2.その内部の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。

 このふたつは、同時に受け入れることが難しい。1が事実なら、2は間違っているはずになる。逆に、2が事実なら、1は間違っているはずだ。だから、これまでどちらかを受け入れる態度が多かった。

 2の内容を高く評価し、そのため1の歴史的事実を全否定してきたのがいわゆる左派の人たちです。共産党や大江健三郎さん、井上ひさしさんなどです。
 一方、1の事実を強調することで、2の内容を全否定し、変更しようとする。国民に人権をあたえすぎているのが気に食わないから、後退させようというのが右派です。安倍首相や石原慎太郎・元東京都知事んばどです。
 もちろん、どちらもまちがいです。正しくは1の歴史的事実をきちんと認めたうえで、2を超えるような内容の憲法を自分たちでつくるというのが、どこの国でも当たり前のあり方です。

 そうした「戦争への道」を食い止めるため、「指一本ふれてはいけない」という護憲神話が、これまで戦術論として有効だったことは事実だと思います。しかし、そうして問題を先送りできる時期は過ぎました。二〇一四年七月一日、安倍政権は日米安保条約や地位協定にはいっさい手をつけぬまま、歴代自民党政権が自粛しtきた「集団的自衛権の行使容認」という解釈改憲をついに強行しました。このままでは、おそらく日本が海外で、アメリカの侵略的な戦争に加担することを止められないでしょう。
 それなら、ちゃんと書き直して、本当にそうした戦争をできなくしてしまえばいい。核兵器や原発がいやなら、それも憲法に書けばいい。日本以外の国では、どこでもふつうにやっていることです。過去の歴史、本当の事実にもとづき、本質的な議論をしなければならない時期にきているのです。

 そこで矢部が注目するのは(それは憲法改正の本丸にもなっている)憲法九条第二項だが、そこには、三つの歴史的事実が刻印されている。

 ひとつは、第二項の「戦力と交戦権の放棄」は、「国連が世界政府として機能すること」、「世紀の国連軍が編成され、戦争する権利を独占すること」を前提とされていたが、それは冷戦の開始とともに、不可能になってしまったこと。

 このことに対応するように、第二項は、「人類史上最大の攻撃力をもつ米軍の駐留」という絶対的な矛盾とセットで生きることになってしまった。

 また三つ目には、「敗戦国の武装解除」という意味が刻印されていること。そこには、国連憲章の「敵国条項」が控えている。

 だから、矢部によれば、「在日米軍基地」と「憲法九条第二項」、「国連憲章の「敵国条項」」は、三つをセットに同時に解決されなければならない、ということだ。

 このことが、最も示唆を受けた点だ。

 矢部は、第二項の代案として、「自衛のための必要最小限の防衛力はもつが、集団的自衛権は放棄する」ことを挙げている。ただし、それは強い主張というわけではなく、むしろ、日本と同じく戦争放棄条項をもつ、フィリピンやイタリアの憲法に学び、「前項の目的を達成するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ、すべての国と平和および友好関係を堅持する」と、国連中心主義の立場を勧めている。

 もうひとつ、大切だと思えたのは次の指摘だ。

 なにより重要なのは、そのとき同時に、今後は国内に外国基地をおかないこと、つまり米軍を撤退させることを必ず憲法に明記し、過去の米軍関係の密約をすべて無効にするということです。
 なぜならこれもほとんど知られていないことですが、日本国内で有事、つまり戦争状態になったとアメリカが判断した瞬間、自衛隊は在日米軍の指揮下に入ることが密約で合意されているからです。

 この明記は、日本の国民が作ったという主体の立ち上げという意味でも大切だと思う。これらのことは、矢部も言うように議論のしどころで、英知を結集すべきことだ。

 そこでぼくは、吉本隆明が、「一般大衆の無記名直接の投票によって政府(政策決定の最高機関)が、いつでもリコールできること」を検討の素材に入れたい。これを吉本は、村山政権が1995年に「自衛隊を合憲」として認めたことを受けて強調したが、もともとはそれ以前、1994年の細川連立政権の際に主張していたことだった。

 どこの政府でも現在までの世界ではじっさいの政策決定の場面の半ばは水面の下にもぐっておこなわれ、あとの半分と一緒にはじめて一般民衆の誰でもが、知ろうとおもえば知り得る公開の場面に浮上してくる。もっと極端なばあいは政策決定の場面はまったく水面下にあり、決定されて動かせなくなったあとで公開の場面に登場してくる。これは現在までのところ人民民主主義であれ、社会民主主義であれ、自由民主主義であれ、いわゆる〈民主主義〉という名の政策決定の過程につきまとう限界だといっていい。そして人民民主主義を名乗る政体のほうが、社会民主主義や自由民主主義よりも閉鎖的という逆説が成り立ってきたことも率直な実情だといっていい。
 どうしてこうなるかといえば、現在までどんな政治過程にも大なり小なり政策者の人格が関与することが、否定できないからだ。この人格にかかわる内密さや親疎や偏向を帳消しにするには、一般民衆の人格の総和を、決議権の総和に転換するより仕方がない。(「税と景気の話」『超資本主義』)。

 こう前置きしてから「真正の民主主義」のための方法のひとつとして、吉本は書いているので、必ずしも憲法九条に照準して考えられたものではない。けれど、国家の宿痾が究極的に問われる条項だけに、ことによれば、九条以上に根本的な条項になると思う。

 また、この本では、日本と同様の敗戦国だったドイツの事例が、学ぶべき重たさをもって迫ってくるのだが、1970年代のヘルムート・シュミットは、

日本の外交問題について意見を求められるたびに、
「日本は周囲に友人がいない。東アジアに仲のいい国がいない。それが問題です」
 と礼儀正しく、しかしはっきりと助言してくれていました。

 こういうのを、本当の助言というのではないだろうか。思い出されるのは、鳩山元首相が唱えた「東アジア共同体」だ。ぼくはここには、太平洋の島々も入れたい。どうも、東アジアの大陸と半島と大きな島だけでは息苦しい気がする。東アジア・太平洋というのが、広すぎるなら、東アジア・ネシア共同体と言ってもいい。


 ところで、この本のよさは率直さにあると思う。

 ひと言で言うと、憲法がまったく機能しない状態になる。沖縄の人たちも、普段はみんな普通に暮らしているのですが、緊急時にはその現実が露呈する。米軍は日本国憲法を超えた、それより上位の存在だからということが、この事故(沖縄国際大学・米軍ヘリ墜落事故-引用者)の映像を見るとよくわかります。
 このビデオを見ると、
 「沖縄の人は、なんてかわいそうなんだ」
 と、最初は怒りのような感情がこみあげてきます。しかしすぐに、そのかわいそうな姿は、本土で暮らす自分自身の姿であることが、わかってくるわけです。

 2010年の『要石:沖縄と憲法9条』で、ダグラス・ラミスは、「九条を守る運動」をやっている東京の女性と沖縄でドライブをして基地の隣に密接した住宅街を通ったとき、彼女が、「私は、あんなところに住めない」と発言したのを紹介していた。ダグラス・ラミスはこう書いている。

基地問題を、沖縄問題の範疇にする。安保条約という言葉はまずあまり使わない。なるべく安保条約という言葉に触れない。安保条約の話は、ダサい、古い、怖いということでなるべく出さない。基地問題は、沖縄問題と呼びます。基地問題を見ようと思えば、例えば修学旅行で沖縄へ行って基地を見てくる。安保が見える丘に上って基地を見て、ああ、かわいそうな沖縄と言ったり、あるいは沖縄の人は何でもっと闘わないのか、どうしてそんな我慢ができるのか分からないと言って、本土へ帰ってきて、日本国憲法の第九条が世界遺産になるかもしれないという自己満足の気持ちに戻ることがあるわけです。みんながそうだとは思わないんだけれども、そういう精神構造は存在していると思います。

 矢部の、「沖縄はかわいそう、いやこれは自分の姿だ」という展開は、ダグラス・ラミスの憂鬱に風穴を開けてくれるだろう。両者の態度を隔てているものは、状況の変化だけでも欺瞞の有無だけでもなく、党派性のなさにも由来すると思う。
 


『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

『超資本主義』

『要石:沖縄と憲法9条』


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