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2015/06/28

グスクは地形の地名

 グスク(グシク)は、それが何であるかについて論争がある(あった)ようだ。

 間宮厚司は、従来の説を紹介しながら、その語源について、「キ(城)+スク(壁・垣)」であるとしている。スクは、「珊瑚礁や石灰岩を海から採取して屋敷の)周囲に設けた石壁・石垣」だという。

 従来の説は、

 ゴ(御)+スク(宿) 民間語源
 ゴ(御)+ソコ(塞) 伊波普猷
 ゴ(御)+シキ(磯城) 鳥越憲三郎
 ゴ(石)+シキ(城郭) 中本正智

 思うにグスクは地名ではないだろうか。その意味は、崖のある高い所ということだ。具志川(グシチャー、グッチャー)などとも類縁を持つ地名だと思う。(cf.「琉球弧の地名」

 嵩元政秀は、グスクを三つに分類している。

 A式 政治的権力者の居城、その支城、支配地域の防塞、要塞、見張り所、烽火台、貿易品公庫
 B式 原始社会から古代社会へ移行する時期の防塞された集落
 C式 発生当初からの墓地、拝所としてのグスク
 (「沖縄のグスク」『城 (日本古代文化の探究)』

 この分類が示すように、「御嶽」なら拝所、「仮屋」なら武士の役所という役割が一定しないのなら、古くからある地名とするのが理解しやすい。友寄英一郎はそれに近い解釈をしている。

 私は、「グスク」の「スク」は「石囲いの高い処」と解釈したい。地理的には山の頂または中腹、丘、崖、海の小島、屋敷内であれば一段と小高くなった場所、そういう「高い処」である。(「再グシク考」『北方文化と南島文化』)。

 ただ、「石囲い」という人為を置いているので、自然物、地形に名づけられたものとは解していないようだ。

 ぼくは、もともとも地名だと思う。それが、住居や葬所や城に使われたということだ。

 嵩元政秀はグスクの立地について書いている。

 グスクの立地は岩石(沖縄本島中・南部では琉球石灰岩)からなる丘陵、小高くなった岩丘、河川に沿った丘陵、海岸に突出した岩丘など、周囲またはある部分がけわしい断崖をなす険阻な地形上にあるのが大部分である。もちろん例外もあり、岩石のない第三紀層の丘陵にあったり、海岸砂丘の場合もある。
 村落との関係でみると、村の後背の丘陵、村はずれの小高くなった丘に多く、現在はその村落の聖域、墓地地帯となっているのがほとんどである。(「沖縄のグスク」『城 (日本古代文化の探究)』

 これを、グスクという地名の示す意味とみなせば、ひとつの概念として成り立つのではないだろうか。

 重要なのは、嵩元がB式グスクについて、「原始社会の終末期より古代社会に移行する時期頃の防禦された又は自衛意識をもって形成された集落」(「「グシク」についての試論」「琉大史学創刊号」)と規定していることだ。

 重要だという意味は、これが平地に居住地が移り、御嶽を構える前段の集落に当たることだ。嵩元は、稲村賢敷がマキョの立地は殆んど例外なしに山の頂か丘陵の上に居住地を営んだとしたことに注目している。B式グスクが、御嶽共同体以前の親族組織の居住地であることを示す可能性をもつからだ。これを踏まえると、御嶽は、親族を脱した共同体を構成する契機をなしたと考えられるのだ。
 
 嵩元政秀の論考を受けて、吉本隆明は話している。

 そして、農耕がしだいに大きなウェイトを占めてきたときに、集落は丘陵地みたいなところから平野地のところへ移るわけです。平野地へ移った村落共同体の山側、つまり丘陵に近いところの森を、いわば神聖な場所というようなことで信仰の対象としていったわけです。本土でいえば鎮守の森のようにヤシロの代用品みたいに扱って、いわば、そこの森の木自体に神性がある、るいは木に神が降りてくるというような信仰です。
 平野地に村落共同性が住処を移した後に、そういう森林信仰というのがでてきます。けれども、恐らく森林信仰よりも以前の段階において、丘陵地帯におけるグスクというのが集落の中心となって、平野地に移って農耕が主になってからの村落共同体にとっては、ウタキというのが、つまり部落のはずれの森林というもの、ある方角にある森林というものが神聖なものとかんがえられていたとすれば、その神聖なものの次元のところに、集落を移して、その集落の中心をなすのがグスクの古型であるといえます。(「家族・親族・共同体・国家」『「信」の構造〈3〉』

 グスクを聖地と考えたのは仲松弥秀だ。仲松は、「グスクとは神の居処、または神が来臨滞在なされる場所に対する呼称である」とした。墓所がグスクと呼ばれることがあるが、「ようするにグスクは古代の葬処が聖地化したところということができる」(「沖縄のグスクと聖域」『北方文化と南島文化』)。ただし、聖地化した葬処でないグスクもある。それは、ニライカナイの神が招請されたり、雨乞いの場所になっていたりする。しかし聖地に変わりはない。

 ぼくが立ち止まるのは、吉本の言からは、樹木、巨石信仰が、そして、仲松の言からは、死者への信仰が御嶽の発生に関わっているように見えることだ。御嶽は、樹木、巨石信仰と祖霊信仰とが二重化されているのではないだろうか。つまり、自然の系列と死者の系列が交点を結ぶまで抽象化されるところに高神は発生するのではないだろうか。

 もうひとつ整理したいのは、葬処が聖地化される条件だ。なぜなら、仲松はほとんどが拝所であるにもかかわらず、そうではないところもあるとしている。

その拝処になっていないグスクではあっても怖れ敬遠されてはいる。このような敬遠されているグスクは奄美の島々に多く見られるが、おそらく近世以降に発生したグスク、いわば明治近くまで風葬地だった処と思われる。

 仲松は、立地の背景はそれが怖れ敬遠される理由には触れていない。つまり、拝所になっていない理由を回答してない。国分直一の考えはこうだ。

 琉球の諸島の各地にはグスク(またはグシク)、ウワー(拝所)とよばれる聖所がある。かつて葬所であったが、葬所が集落の展開とともに、集落に附属して崖地から離れて集落に近い地区に営まれるようになる。そのような過程においてグスクあるいはウワーは後葬の穢から解放され、そのために聖化され、特に開拓祖神あるいは文化英雄、政治的英雄などを祀る聖地と化したものが多いと見られる。(『環シナ海民族文化考』

 しかし、「崖地」と「集落に近い地区」は、「崖地」から「集落に近い地区」ではなく、その逆の場合と、等価である場合とがあり、「崖地」から「集落に近い地区」という移行は後代のものだと思える。つまり風葬を止めた後である。

 「集落に近い地区」というのが、B式グスク内に収まるほど近ければ、「集落に近い地区」から「崖地」へと移行する。また、B式グスク内に収まらないほどの距離があれば、「崖地」と「集落に近い地区」は等価である。

 B式グスクが葬所でもある場合、聖地化されるのは、生と死が移行の段階にあり、死者は忌避されていないことを意味している。しかし、同じ地名のグスクでも、仲松が挙げているように怖れられ敬遠されるのは、それが住居の近くから遠くへと離れた風葬所だからである。つまり、この場合は、生と死が分離され、死者が忌避される、死穢が発生した段階のものだと考えられるのだ。

 仮にB式グスクは生と死が移行の段階にあり、平地に移ったところで御嶽が発生したとすれば、琉球弧は相当に長いあいだ、生と死の移行の段階にあったことになる。

 上野佳也は、「グシクとチャシの比較考察--弥生系高地性集落との対比において」(考古学雑誌66巻3号)で、そのタイトルが示す通り、グスクもアイヌのチャシも、弥生系高地性集落も、「部族、ムラなどの集団間の緊張状態が発生したこと、そしてその危険から逃れるため日常生活の不便を忍んで長期あるいは短期の高地生活を行ったということがいえる」と書いている。高台に住むのはそんな理由であってほしくないと思ってきたが、やはりそうなのか。

 

『沖縄古語の深層―オモロ語の探究』

「信」の構造〈3〉天皇制・宗教論集成

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