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2015/06/04

精神を残したままでは、物語ることはできない

 モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人が、自己と世界を分離してないことを、興味深いエピソードで伝えている。

メラネシア人は物語るのを聞けば、彼らの自己の位置取りが不確かであることがよく分かる。面白いことに、彼らは場所の地誌的な名前を忘れたからという口実で物語を語るのを断ることがよくある。または今はその名前を口にすべき時ではない、という断り方もする。どんな理由で、このように言いしぶるのだろうか。
 それは彼らが、聞き手を前にして今自分がいる場所に精神を残したままでは、物語を語ることができないからなのである。彼らは、言葉をとおして、物語が展開するまさにその場所に身を移さなければならないのである。彼らははるか遠くの、物語の中心に身を置く。そうしてはじめて、物語のなかで彼らが口にする方向がすべて自分から放射し、あるいは自分に向って収斂して彼らが位置を占める想像上の場所との関係で矛盾が起こらないようになる。だからこそ彼らは、物語に出てくる場所の地誌的な名前を忘れると語るのを拒む。そうなってしまうと、彼らは中心との関係で所与の場所を位置づけられず、どういう方向の副詞を使うべきか分からなくなる、たとえていえば、川上なのか川下なのか、こちら岸なのか向こう岸なのか分からなくなるのである。彼らは不確かな感じになって文字どおり物語のなかの地理的世界で迷ってしまう。彼らは物語が展開する空間に自分の身を移すことができず、なおのこと聴衆をそこに連れていくことができずに、物語は彼らにとってはもはや存在しなくなってしまうのである。かくして物語をほんの少し語るにも、精神を本当に連動させることが必要なのである(p.147)。

 これは世界と自己が未分離であることがどういうことかをよく教えてくれているのではないだろうか。そして同時に、これは自然な脱魂行為の例であることも。「今自分がいる場所に精神を残したままでは、物語を語ることができない」。物語るとは精神の遁走なのであり、名前を忘れることは「神隠し」に会うような恐怖を伴う。ここに文字のない社会という背景を置くと、余計にリアルだ。

 なかなか思い出せない時の、あのもどかしさ。 


『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


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