『永続敗戦論―戦後日本の核心』
「永続敗戦」とは、「敗戦」を「終戦」と言い換えるように、「敗戦」を否認すること。
敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。
ことを指している。その通りだと思う。ただ、白井聡は加藤典洋の「敗戦『語』論」という枠組みに対して、「敗戦後」は存在しないと指摘しているが、加藤は、だからこそ、「敗戦後」を立ち上げようとしたのだから、むしろモチーフを共有しているのだと思う。
しかし、そのことくらいで、あとは共感すること、学ぶことが多かった。
たとえば、と吉田樽彦の推論の紹介だ。
豊下が外務省および宮内庁による情報公開の不十分さ、秘密主義に苦慮しながらも十分な説得力を持って推論しているのは、当時の外務省が決して無能であったわけではなく、安保条約が極端に不平等なものとならないようにするための論理を用意していたにもかかわらず、結果として日米安保交渉における吉田外交が-痛切に反して-拙劣なものとならざるを得なかった理由である。それはすなわち、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した(ダレスとの接触など)形跡である。
天皇が沖縄をアメリカに差し出すという、いわゆる天皇メッセージのことは知っていたが、それが積極的な動きであったことや、旧安保条約の締結交渉に影響したという可能性は初めて知った。「近衛文麿上奏文」で動かなかった天皇は、沖縄戦と広島、長崎への原爆投下に道筋をつけただけではなく、沖縄の米軍基地の正当化にも手を貸していたわけだ。この仮説は覚えておきたい。
また、白井の引いた河原宏の「国体」に関する議論も興味深かった。近衛文麿が天皇に「「敗戦は遺憾ながら最早必至」と上奏した際、共産主義の脅威をその根拠に挙げていたが、その詳細をみると、「国体を否定する者=共産主義者=左右を問わない革新論者」となっていることから、白井は「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない」としている。河原によれば、戦争終結の決断の本質は、「革命よりは敗戦がまし」ということだった。
本土決戦が行なわれれば、「それは組織論的な「国体」の否定、つまり革命に通じてしまう。天皇制支配層が危惧したのもこの点にあった」。この事態が避けられたのと引き換えに、体験し損なったことがある。河原はこう書いているという。
日本人が国民的に体験しそこなったのは。各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。(中略)近衛らが“革命よりも敗戦がまし”という形で、なんとしても避けようとした「革命」とは、究極のところ各人が自主的決意と判断によって行動するに至る状況のことだったのではないか。
本土決戦において、こうした「個人」がむき出しになる状況が生まれえたかについては懐疑的にならざるをえないが、こう問うことで、天皇制支配層が怖れたのが、個人幻想が共同幻想に逆立することが露呈することだったということは見えてくる。
支配層がなんとしても護ろうとした「国体」について、久野収と鶴見俊輔は、「密教と顕教」の比喩で腑分けしてみせた。「天皇は神聖にして侵すべからず」という「現人神としての天皇」が、大衆向けの顕教であり、明治の元勲たちが、「天皇親政」を表向きに掲げながら、実権を持たせず、立憲君主制国家として明治国家を運用したのが密教の部分に当たる。しかし、大正から昭和にかけて、顕教と密教の使い分けは崩壊へと進む。「戦前天皇制の顕教的部分が密教的部分を浸蝕し、ついに滅ぼしてゆく」ことになった。
白井は、戦後の「国体」を「永続敗戦」であるとし、久野と鶴見にならって、ここでの顕教と密教を解いている。それは、「顕教」の部分では、「戦争は負けたのではない、終わったのだ」というものとして機能し、「平和と繁栄」の神話はそこに大きく寄与した。また、「密教」の部分は、「対米関係における永続敗戦、すなわち無制限かつ恒久的な対米従属をよしとするパワーエリートたちの志向」である。
しかし、この顕教と密教も「耐用年数を終え」ている。「顕教」を維持するためには、アジアに対する配属を否認しなければならないが、それは東アジアにおける「日本の経済力の圧倒的な優位によってこそ可能になる構図だった」。
そしてここにおいて、われわれは戦前レジームの崩壊劇の反復を目撃している。すなわち、顕教的部分による密教的部分の浸蝕、呑み込みである。大衆向けの顕教として掲げられてきた「われわれは負けてなどいない」という心理の刷り込みが、抑えの利かない夜郎自大のナショナリズムとして現象する。そしてこのとき、永続敗戦レジームの主役たちは、これを食い止める能力を持たない。なぜなら、彼らこそ、「負け」の責任を取らず、「われわれは負けてなどいない」という心理を国民大衆に刷り込むことによって自らの戦争責任を回避した張本人たちの後継者であるからだ。永続敗戦レジームの顕教的領域を否定することは、彼らの政治的正統性、もっと言えば、戦後レジーム総体の正統性を直撃するのである、それゆえ実行不可能である。
戦前の顕教的部分による密教的部分の浸蝕は、渡辺京二の言を借りれば、都市に個として投げ出された「基層生活民」の共同体への欲求だった(cf.『戦争はどのように語られてきたか』)。いま直面している「抑えの利かない夜郎自大のナショナリズム」の母体になっているのは、格差と「自己責任」の名のもとに個として分断された都市生活者であると仮定してみる。この都市生活者は、戦前の「基層民」のようにもともとあった共同体をあらかじめ失っている。それゆえ、ナショナリズムによって希求する共同体もは排外性の強調によってしか表現できないものになっているのではないだろうか。
ところで、この「永続敗戦」レジームの神話から醒めた場所がある。それが沖縄だ。
すなわち、戦後日本においてデモクラシーの外皮を身に纏う政体がとにもかくにも成立可能であった(特に、五五体制においては親共産主義勢力が国会における不動の第二勢力を占めた)のは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、少々の「デモクラシーごっこ」を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じたからにほかならない。この構図にあてはまらない、言い換えれば、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられたのが沖縄であり、ゆえにかの地では暴力的支配が返還以前はもちろん返還後も日常的に横行してきた。日本の本土から見ると沖縄のあり方は特殊で例外的なものに映るが、東アジアの親米諸国一般という観点からすれば、日本の本土こそ特殊であり、沖縄のケースこそ一般性を体現するものにほかならない。
白井の踏み込みを感謝しつつ受け取ると、こういう内省もやってくる。本土とは異なり、沖縄は「沖縄戦」を経験した。それなら、河原宏が、「体験しそこなった」という、「各人が自主的決意と判断によって行動する」を体験することができたのか、ということだ。もちろん、それはできなかった。本土決戦によって想定された「国体の否定」は、戦場が本土ではなく、「国体」は護持されるがゆえに、個がむき出しになる体験ではなかったからだ。だから、沖縄においても、「各人が自主的決意と判断によって行動する」ことは、その時点においては、本土と同様、「体験しそこなった」ことだった。
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