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2015/06/23

『憲法九条は私たちの安全保障です。』

 鶴見俊輔の文章を読みたくて、この本を手にしてみたが、

 今、動けないのが、残念です。戦争への動きを止めなくてはなりません。
 「九条の会」に、思いを託します。

 とだけあって残念、というより、焦った。

 書き手が書いているとおりに書けば、梅原猛が「数えの九十歳」、大江健三郎が「来年八十歳」。焦りは増す。ぼくはこれらの人々のよい読み手ではないけれど、分かるのは、戦争の経験の抑止力が消えかかろうとしていることだ。

 気を取り直してみると、「グッドルーザーであることを誇りに(池田香代子)」、「誇りのもてる国となるために(奥平康弘)」と、「誇り」がキーワードになっている。言い換えれば、今のぼくたちがそれからいかに遠くにいるか、ということだ。

 書き手たちの考えは穏当に見えるのに、それではなぜ、にもかかわらず窮地に追い込まれるようになるのか。阪田雅裕は、「最後に決めるのは国民の声」と題しているが、この点については韓国の金泳鎬の文章が面白い。

 今日の民主主義は、市民の声と新聞の記事と政府の反応との間に大きなギャップを抱えている。Voting Democracy は投票を通じて主権の委任を受けるが、小選挙区制の金権選挙、縁故主義、ポピュリズム、そして野党が分裂すれば野党支持層の総計は多くても与党が当選する事態などにより、一強多弱の寡頭政権が成立して市民の意思を代弁することができなくなる。いわば代議(representation)の危機に陥ることになる。そうなれば、投票で当選した代議士は誰の影響を受けるか。その背後に時々「ビッグブラザー」が登場する。この場合、代議士は市民の意思よりビッグブラザーの意思を代弁する傾向が強い。
 問題はマスコミさえ企業メディア的な性格を持ち、市民の声より寡頭政権の意思を代弁するようになることである。市民は企業メディアに徐々に閉じ込められ、影響を受けながら操られる状況に陥る。民主主義は到るところでこのような落とし穴に陥る。私は日本がこのような落とし穴に陥っていると断定することには同意しない。しかしこの落とし穴から遠く離れているということにも同意しない。
 今日の民主主義は Voting Democracy を越え、Voicing Democracy を求めている。

 的確な解説だと思う。「投票の民主主義」を越えて、「声の民主主義」を。澤地久枝は、「たとえば「五〇パーセントを割った選挙は無効である」というような決まりを持つべきだったと思っています」と書くのも、このことに向いて言っているのだろう。ただ、金の言う「声の民主主義」は、「投票の民主主義」の矛盾、代表性の不足を越えるために考えられているので、澤地の考えよりも、より直接的で、住民投票や国民投票を指すものだ。

 金泳鎬は、こうも書いている。

 日本は中国との戦争の危険に直面して「安保か、憲法九条か」という二者択一の構図に市民を閉じこめて集団的自衛権に対する支持率を引き上げようとしている。

 しかし、「安保」を、米軍基地と言い換えれば、そもそも「米軍基地」と「憲法九条」はセットで埋め込まれているのだから、このふたつは本来、選択肢にはなりえない。これは、「安保と憲法九条」か、「非安保と改憲法九条」というように書き改められなければならないのだと思う。

 
『憲法九条は私たちの安全保障です。』

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