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2015/06/03

『日本人の霊魂観』(山折哲雄)

 山折哲雄は『日本人の霊魂観』のなかで書いている。

 (前略)憑霊と生命霊の葛藤の場面がいわば狂気(もの託(くる)い)の磁場であったとすれば、生命霊が肉体から遊離する機会はいうまでもなく霊肉分離による、死の危機的場面である。それは忘我・脱魂の状態ともいわれる。憑霊(ポゼション)がどちらかといえば狂への通信であるのにたいして、このような脱魂(エクスタシー)は死との交信ということができるかもしれない。

 として、「憑霊的水準(狂・託のシンボル)」と「脱魂的水準(死・擬死のシンボル)」とを設定している。これは森山公夫が、精神医学の立場から「解離」における「憑依」と「遁走」との類似を抽出しているのに対応している。「憑依」とは多重人格(同一性障害)であり、「遁走」は神隠しのテーマにつながる。(cf.「「シャーマニズムと狂気」(森山公夫) 1」)。

 だが、脱魂にしても憑依にしても、共同幻想との関わりを想定しなければ、ただの言葉遊びに過ぎなくなる気がする。

 山折は「殯」についても考察している。身体から遊離した霊魂が、他界遍歴、死への旅路にあるときに、もとの肉体がどのように処置されているかは重大な問題だった。古代信仰にとって最も危険なことは肉体の消滅である。危機は最大限、引き延ばされなければならない。そこで、「遊離魂の蘇生という観念にもとづく象徴儀礼」が採用される。それが「殯」であり、「擬死-受容器」の考え方だった。

 ぼくの方からいえば、これは生死の境を見定めようとする霊魂思考から見られた殯である。これは危機回避という対処療法から生まれたのではなく、食人の弱められた変換としての添い寝と同位相にあるものだ。ここで、思考されているのは、霊力の転移である。

 山折は、「「もがり」儀礼がたんなる一時的な死体遺棄でも洗練された風葬というのでもない」と書いているが、その通りだとしても、意味は違う。それは、死が生からの移行になった段階での、霊力思考の発現である。

 大化2(648)年、薄葬令が出される。

 庶民亡なむ時には、地に収め埋めよ。其の帷帳の等には、鹿布用ゐるべし。一日も停むること莫れ。凡そ王より以下、庶民に至るまでに、殯(もがりや)営(つく)ること得ざれ。凡そ機内より、諸の国等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく処処に散し埋むること得じ。

 山折は、この殯禁令から、当時、「殯の風習は上下の広範な階層によって保持していたのであろう」としている。しかし、平安時代に書かれた『日本霊異記』の蘇生説話のなかの殯期間は、最低で二日、最高で九日であることから、必ずしも遵守されていなかった可能性はかなり高いと考えている。

 また、他界については、「わが国の黄泉国や常世国および根の国などの「他界」は、現世の延長として、その水平もしくは足下に接続する構造」であると指摘する。これは、記紀神話の冒頭が、生と死が移行から分離の段階にあることを示している。

 堀一郎は、『万葉集』の「挽歌」を見、死者の霊魂は、50%を占める「山」をはじめ、「岩、雲、霧、樹木」などの「高き」につく場合が圧倒的に多く、「海、島、野腹、川、谷」などの水平的に鎮まる場合もある。これに対して、「冥道」、「黄泉」、「地下」などの「いわば宇宙論的な他界に赴く場合はわずか七例を数えるのみなのである」と指摘している。

 ぼくは、「雲」、「霧」の場合は、霊力思考の目線が入るのではないかと推測するけど、これは実際の歌謡を見なければ確かめられない。ここからは、本土においても地上の他界が大勢を占めていることが分かる。これは、琉球弧において、地下が痕跡のようにしか見いだせないことと似ている。ただ、地上の他界の存在は、地下の他界を前提とするから、不自然ではない。また、「高き」と「水平的」は同等である。

 稲作農耕が席巻した列島本土においても、霊力思考が強く働いたことは面白いと思う。

 山折は、憑霊について、『源氏物語』と『栄花物語』をケーススタディに挙げている。

 1.葵上

 験者が祈禱すると、葵上にとり憑いていた物の怪がものを言い始める。それは様子といい物言いといい、六条御息所にそっくりだった。葵の上は無事に出産する。すると、憑人(よりまし)に乗り移った物の怪どもが騒々しい叫び声をあげる。のち、葵上は亡くなる。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けようとした。
 ・物の怪は、憑人に憑いた

 2.紫上

 紫上が病に臥す。物の怪の仕業であるとして、験者が祈禱。物の怪は憑坐の小童に乗り打つ手叫び声をあげる、紫上は蘇生。物の怪は次第に六条御息所の姿をほうふつとさせる。彼女の死霊だった。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けた
 ・患者は蘇生した。

 3.頼道

 頼道が病になる。験者は一週間ほどしてようやく霊媒(憑人)に憑かせることに成功。物の怪は貴船の神であると名乗る。頼道は失神する。物の怪はそばに仕える女房に乗り移る。それは死霊であり、その言い分を聞くと物の怪は消失する。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けた
 ・物の怪は、人のものではなく神の霊気だった
 ・物の怪は、憑人ではなく、女房に憑いた

 4.教通室

 教通室が懐妊してから物の怪に憑かれる。なかなか巫女(憑人)にも憑かない。加持を強化すると、憑きなれている女房に物の怪が憑く。僧都の霊であることが分かる。加持を止めてくれという願いを聞き入れると、教通室は亡くなってしまう。その後、口寄せすると、教通室は巫女に乗り移り、後悔を述べる。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けようとした
 ・物の怪は、女房に憑いた
 ・死霊は、憑人(巫女)に憑いた。

 このなかで、神の霊気が憑人に憑くのがもっとも古い。この固有の基本形にたいして、

密教修法は加持祈祷の機能を導入することによって、憑く、憑ける、憑けられる、の三極構造を生み出し、それによって病気と憑霊現象との相関関係を解こうとしたということができるのである。

 ぼくたちの方から言えばどうなるだろうか。霊魂概念が生まれると、トランス状態は脱魂と憑霊の表現形態を持つようになる。永久の脱魂は死であり、憑霊は病をもたらす。巫覡は、その病や臨死を自身のなかで人為的につくりだす霊魂の技術者である。ここで、「験者」は憑ける技術で関与した。

 山折は、「物怪が霊界において確固たる座を占めるようになったのは、おそらく平安時代になってからであろう」としている。上記のケーススタディでは、物の怪は死霊と同義にもなっていたから、ここでは霊魂概念成立以降の憑霊現象の登場人物という意味に受け止めておく。 


『日本人の霊魂観---鎮魂と禁欲の精神史』

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