「日本人の死生観」(吉本隆明)
吉本隆明は、未開、原始の時代に日本人が死後についてどう考えていたかについて話している(「日本人の死生観Ⅰ」『心と生命について』)。
・死んだあと人間の魂はあまり遠くへは行かない
・魂は繰り返し、繰り返し、また帰ってくる
・この世とあの世の間には、そんなに断絶、分け隔てがない
・いつでも呼ぼうとすればやってくるし、いつでもじぶんのほうがから行くことができる
あの世はどうか。
あの世をどのように思い描いていくかと考えると、日本人が考えていたあの世は三つあると思います。ひとつは、もちろん村里のそばの山です。山の頂にあの世があって、死んだ魂は山の頂にとどまっている。またいつでも迎えに行けば帰ってくると考えるので、ひとつは山だと考えるべきだと思います。
もうひとつは海、海のかなただと考えていたと思います。海のかなたにあの世があって、船に乗っていけばそこへいつかは行ける、またそこからは何らかのかたちでやってきて、いつでもこの世には生きているものがあると考えていたと思います。
そしてもうひとつ考えられるのは、地下です。海岸の洞窟みたいなものを通して、その洞窟の向こう側の地下にあの世があって、いつでもそこへ行けるし、また洞窟のところに行くと、いつでもあの世と行き来する、交感することができると考えていたと思います。
この「山」、「海の彼方」、「洞窟の向こう側」の三類型を琉球弧に引き寄せていえばこうなる。
1.「洞窟の向こう側」
2.近くの島。「山」に対応
3.「海の彼方」
琉球弧でも、「山」はありえるが、普遍的とは言い難い。「村里のそばの山」に対応するのは、「近くの島」だ。この「近くの島」は必ずしも、死者を葬った島のことではない。それはむしろ「洞窟」に対応している。「近くの島」だという伝承はほとんど残っていないように見える。しかし、海の彼方からやってくるニライ・カナイの神が、いったん近くの島に着いてから島に来るという、来訪の途次に寄るその島が、かつては他界と考えられた「近くの島」を意味していたと思える。
それが「海の彼方」になるのはなぜか。吉本は書いている。
たぶん海のかなたに人間が死んだあと魂のあり場所があると考えた人たちは、稲作を持って日本に渡ってきた人たちではないかと思います。つまり海のかなたから渡ってきて、そして稲作を持って平地・里に入ってきて、そこで農耕に従事した人たちの伝承が、たぶん海のかなたにあの世があって、そこから魂はいつでも帰ってこられるという考え方をとったと考えられそうに思います。
琉球弧の方へ引き寄せてみると、「近くの島」が「海の彼方」へ遠隔化されるのは、ふたつの契機があると思う。ひとつは、再生信仰の弱まりにより他界が遠隔化されるということ。つまり、自由な行き来ができなくなるということ。もうひとつは、稲作をはじめとした新たな人工物や技術をもってきて島々へやってきたこと。そこで、それを迎えた島人たちが他界を遠隔化するのである。
吉本がはじめに挙げている魂のありかについては、生と死が移行の段階にあり、かつまだ空間化されていないときのものだ。その段階の思考を日本もよく保存してきたし、それは琉球弧も同じだ。
この講演は1986年のもので、「詩魂の起源」の少し前になる。約30年前の内容を咀嚼できるところまで、ぼくたちもやっとたどり着いたわけだ。
「洞窟の向こう側」の地下という空間化の契機は、霊力思考の合力化を受けると、地上化して、近くの島や海の彼方という空間化も受ける。だから、地下と海の彼方が併存するように二重化する。トロブリアンド諸島では、他界は実在するトゥマ島だが、これについて島人の見解は一致しない。
ある者はトゥマ島にあって、バロマはそこに住んでいると言う。別の者は、地下のトゥマに行くという。この二重化は統合されて考えられていない。マリノフスキーがそこに加えた注釈はとても重要なものだと思う。
ともあれ私は、彼らの観念は、固定化されない形のままになっていること、定式化されるよりは感じられ、バロマの性質やさまざまな存在条件を分析的に検討するよりは、バロマの種々の活動に関わっているものだということだけは確信できるのである(p.40、『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』)。
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