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2015/06/14

アマム(ヤドカリ)の身をやつした姿

 アマム(ヤドカリ)がトーテム原理の崩壊とともに、どう身をやつしていったのか。伝承や神話を拾い上げてみる。

 1.国頭

 大昔、天と地は今日のように隔たってなく、当時の人間たちは立って歩くことができず、蛙のように這って歩かなければならなかった。アマンチューはこれを不便に考え、ある日のこと、堅岩を足場にし、両手で天を支えて高く持ち上げた。これにより天地は今日のようにはるかに隔たった。某所の大きい足跡は、そのときのアマンチューが踏ん張った足跡である。(国頭、佐喜真興英『南島説話』)

 2.石垣島1

人の始まり
島の最初に、方言アザブネラ(あだん科)自生し、常緑の葉繁茂せり
二番目に、やどかり(方言アマッザ)が樹根の下より穴を穿ちて、
「カブリー」といって出てきた。
三番目には、其の穴より、
「カブリー」と唱へつつ、男女二人が現はれた。
二人は、日を逐うて飢餓に迫られたとき、ふとアサネブラを仰ぎ見るに、巨大なる球の果実(方言、アサヌナリ)が黄赤色を呈し熟せるを、手づから探りて、一日の食となして安楽な生をつなぐ事が出来、子孫繁殖した。(石垣島、岩崎蝶仙「鼠の花竜(一)」「旅と伝説」1931年)

 3.石垣島2

アマン神が、日の神の命で、天の七色の橋からとった土石を大海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種を下すと、最初にやどかりがこの世に生れ出た。地中の穴から男女が生れた。神は、二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱き合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。(石垣島白保)

 4.宮古島

 昔、天の神が親太陽、母太陽の神をこの世につかわして、宮古の島建てを命じた。島造りのはじめは中骨をつくることで、あたまは来たの島尻、狩俣、しっぽは保良の岬をつくった。そのまわりもみごとにつくり、浜々も完全につくって宮古島と命名した。そして親太陽、母太陽の神の住居に万古山が決められた。人間をつくるには、まず蛙をしらべてそれを手本に苦労してつくった。しかしはじめの子は「水の子」であった。それから多くの人間をつくった。最初の村建てを平井村と名づけた。これは万古山のすぐ近くにある。この村は数年の間さかえたが、ある年の十五夜の日に、村民がブタを殺して神にささげたので、神は血だらけのものは非礼だと怒り、他の神々とも相談して、この村から追い立てた。数日間ヤドカリで攻めさせたので、村人はこの村を立ちのき、八重山に新しく平井村を建てた(p.409、谷川健一『南島文学発生論』)。
 「この宮古の海岸の洞窟には大きな蟹のようなヤドカリがたくさんいる。そしてヤドカリは神の下等な使いと思われている(p.409)」

 5.与那国島

 大昔、南の島から陸地を求めて来た男がありました。その男は大海原の中に、ぽつんと盛り上がった「どに」を発見しました。その「どに」には人間は住んでいませんでした。南から来た男は、この「どに」に人間が住めるかどうかを試みるために、「やどかり」を矢で放ちました。そこから幾年か経って、この「どに」に来てみると「やどかり」は見事に繁殖していました。それで、その男は南の島から家族をひきつれて来て、この「どに」に住みました。(池間栄三「与那国伝説」)

 6.沖永良部島

 アマムすなわちヤドカリに言い入れて相手の屋敷に放つアマムグチ(柏常秋『沖永良部民俗誌』、cf.「呪言の思考」)。

 琉球弧でも珍しい山岳の景観を持つ国頭にふさわしく、山そのものを擬人化した精霊としてアマムは現れている。石垣島の前者の方は、二人の男女が土中から現れるのに先立って、アマムは地上に現われる。次の石垣島の例でもそれは変わりないが、神がそれに先立つものとして存在している。宮古島の例では、もうアマムは出現するものではなく、「神の下等な使い」とされている。また、沖永良部島では、呪具になってしまている。宮古島や沖永良部島の例は、アマムがもっとも身をやつした姿だ。

 与那国島の場合は、すでに神話的なベールははがれているが、島に住むというモチーフをめぐって人間とアマムとのつながりは保たれている。アマムはそう身を落とすことなく、存命したようだ。


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