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2015/06/30

『沖縄の「岐路」』

 この本は、近世以降の琉球・沖縄の歴史を振り返ったものだ。出版されたばかりではあり、琉球・沖縄の自己認識の現在形であると言っていい。ところで、このテーマは、いまだに感情に翻弄されてすっきりした視点に辿り着けないので、個別の箇所にコメントを付していくしかない。

(前略)明治政府は、1872年の琉球藩設置から79年の沖縄県設置などを経て、琉球を自国内に段階的に併合。
 中国との朝貢関係の断絶や王権剥奪で、王権国家の基盤は無くなり、琉球は近代日本の一部に位置づけられた。この一連の歴史的、政治的過程が「琉球処分」と呼ばれる。

 この本では、「処分」か「併合」かを巡って記述の揺れを指摘しているが、そのことの前に、「琉球処分」とは、1879年の「沖縄県設置」に終るだけではなく、同時に「鹿児島縣大隅國大島郡」も併走している。そういう認識を示してほしい。

 沖縄と奄美は、薩摩の間接統治と直接統治の違いはあれ、対清としては、「琉球国」としては同じだったのだから、「琉球処分」が、沖縄諸島と先島諸島に留まるものではなく、奄美諸島も隠れた処分対象としてあったのだ。 

 「琉球民族独立総合研究学会」が、「学会の名前に『琉球』とあるが、決して王を据えて琉球国に戻るという復古主義ではない。王府と離島との関係など琉球国が抱えていた問題を直視し、新しい形を作るのが目的」と、「王府と離島との関係など琉球国が抱えていた問題を直視し」と言うなら、なおさらそうだ。

 ぼくは「琉球国」の版図を重視しているのではない。いまさら「琉球国」を持ち出すのは、主体化の方便、手段として有効ではあるが、中途半端だと思う。持ち出すのであれば、「琉球国」以前に遡るべきであり、ぼくなら、自然と文化とそこで培った島人の思考の共有を根拠にする。「琉球国」が奄美を武力によって版図にし、ろくな政治はしなかったとしても、そこには島人として似たもの同士という基盤がある。それが、1609年の薩摩の琉球侵略とは決定的に違う点だ。

 そうでなければ、大は小を、中央は辺境を無視することに対して、批判が根底的にならないし、自分たちだって似たことをしているという気づきを得ていないことになってしまう。 

琉球民族独立総合研究学会に代表されるように、沖縄を一つの民族としてとらえる動きが登場し、日琉同祖論の無効性が明らかになっている(照屋信治)。
日琉同祖論が乗り越えられようとしている今、伊波普猷から継承すべきは、いかに民衆をエンパワメントしようとしたか、その闘う姿勢にあるべきではないか(照屋信治)。

 とあるように、「民族」はすっかり政治になってしまった。「沖縄を一つの民族としてとらえる動き」が出てくると、「日琉同祖論」は無効だと言うのだから。もちろん、伊波普猷の「日琉同祖論」は政治性を持っている。それは、「大和文化の南漸」を強調するあまり、それ以前はまるで無いかのような認識になってしまうことだ。だが、伊波の論考は、個別には、「大和文化の南漸」以前に遡るものがふんだんにあり、そこをさらに掘り下げてゆくことが、彼から継承できる豊穣さがある。求められるものがあるとしたら、伊波を政治から解放してあげることではないか。

 方言論争について、日本民芸協会が標準語励行運動の行き過ぎを指摘したのに対し、県は「県民性が明朗闊達となり進取的気風が養成されつつある」「標準語励行こそ県民を繁栄に導く唯一の道」として協会側に反発した。これに対して、「今日さまざまな形で捉え直されている」。

 中でも論点として指摘されるのは、民芸協会が沖縄文化を尊重する姿勢の背後にある、次のような視線だ。
 「日本において現存する各種の地方語のうち伝統的な和語を多量に含有するのは東北の土語と琉球語とである、就中後者はその点において寧ろ国宝的価値をすら有する」(柳宗悦「敢て沖縄県学務部に答ふの書」)
 標準語の「純正」強調のため「方言」を重視する視点は、沖縄語の価値を「純正な和語」に貢献させ、日本のナショナルな枠組みを強化する。
 他方、この柳の主張に対して県内世論は共感とは逆に、強く反発。新聞投書では「復古病者」「沖縄の前進を阻む」などとして、標準語を徹底し県民の劣等感を払拭すべきだとする声も相次いだ。
 珍重される地域個性を持った沖縄語の保存を訴える民芸協会と、標準語獲得を急ぐ県民の心情はねじれた。

 問うべきことは、民芸協会の主張の背景にあった「日本のナショナルな枠組みを強化する」側面だけでは不充分だ。それを批判するのであれば、現在、日本で英語を学ぶ人が、誰も日本語を話せなくなることを目標とはしないのに、なぜ当時、「標準語励行運動の行き過ぎ」というそれ自体は妥当な指摘に反発して、方言を「撲滅」しようとしたのか、という島人の洞察まで至る必要がある。

 途中、飛ばします。

 この本を編んだ沖縄タイムスの記者は「あとがき」で書いている。

 ヤマトとは違う自意識を、かつてないほど自信を持って鍛え直している沖縄で、歴史観が現在どうあるのかを捉えること。この連載の意味はそこにあると感じた。
 近世、近代、復帰前、復帰後とたどりながら書いていく中で、現在の沖縄の人々の歴史観が「日本復帰史観」の超克の途上にあることがよくわかった。沖縄住民の権利が守られない米国の支配下、「祖国」日本への復帰を求める中で、沖縄の歴史の主体を日本史の一部に位置付ける歴史観を「日本復帰史観」と定義し、論を展開していった。
 復帰40年以上を経ても変わらず国家の矛盾が集中する沖縄には、「日本復帰史観」では解けない問題が山積している。今沖縄独自の軸から歴史論が展開するのは、復帰以降の社会認識の積み重ねの結果である。

 「「日本復帰史観」の超克」というのは、その通りなのだと思う。小さな島の出身者からみれば頼もしく逞しい歩みだと思うし、ぼくも沖縄の言説が厚いからこそ考えていく足場をつくろうとすることができている。その上でいえば、「ヤマトとは違う自意識」を、「対ヤマト」に過剰に取り込まれないように、そこからはみ出るように築かれるといい。それは、主体を尖らせるというより、厚みを持たせるということではないか。この本を読んでそんな感触を持った。


『沖縄の「岐路」』

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2015/06/29

『ぼくの“那覇まち”放浪記―追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』

 新城和博の那覇アースダイバー、『ぼくの“那覇まち”放浪記―追憶と妄想のまち歩き・自転車散歩』を読んだ。アースダイバーのモチーフのひとつは、かつて島だった那覇の掘り起しだ。

 しかし、なぜ那覇は“浮島”と呼ばれたのだろうか。実際はもちろん浮いてなぞいない。おもろそうしに記された〈うきしま〉とは、かつては対岸の泉崎の高台あたり、いや首里からも見えた風情であろうか。ゆらりゆらりと漂うような小さな島だったに違いない。西町・東町あたりも、「那覇どまり」と呼ばれていた港湾が発展してできた埋め立てのようだ。いずれにせよ、何百年も前の話ではある。

 那覇の「浮島」は、奄美大島の南の「請島」と地名として同じだ。請島もとなりの与路島と対にすれば、「浮く島」と「寄る島」とイメージしてみたくなる。あるいは、浮島(請島)は、「沖」の三母音読みで、「沖の島」という意味かもしれない。

 考えてみれば、琉球弧の「沖の島」モチーフの地名は多い。もう半世紀以上も前、石垣島出身の宮良当壮は波照間島を「果ての珊瑚礁(ウルマ=珊瑚礁)」と考えたのに対して、人類学者の金関丈夫は、波照間が地元では、「パトロー」と呼ばれていることと、台湾の先住民の言葉の類似から、「沖の島」の意味に近いという仮説を出して論争が交わされたことがあった。この論争が、現在地元でどう解されているのか知らないけれど、金関の方に説得力がある。すぐに分かることで言えば、地名をつけた島人にとって、「沖」の概念はあっても、「果て」の概念はないだろうからだ。しかも、波照間島を「果て」としてしまったら、そのとき琉球を区切るような境界の概念も持っていなくてはならなくなる。

 波照間島を「沖の島」として捉えると、音韻の転訛から、加計呂麻島もそうだということが分かる。他にも、鳩間島、多良間島、来間島、慶良間(諸)島がそうで、ひょっとしたら古宇利島もそうだ(cf.「「沖の島」七つ」)。

 ことの当否はともかくとしても、とても自然な名づけだと思う。

 また、奥武(おう)と呼ばれる島は、言語学者の崎山理の考察をもとにすると、「地先の島」として理解することができる(cf.「青の島は、間を置いた島」)。奥武(おう)系の島は、琉球弧にいくつもあるから、こうしてみると、広義には「沖の島」系だらけだと言っていいのかもしれない。

 これらいくつかの「沖の島」の系列の言葉は、それぞれ厳密な違いを指摘しにくいから、種族や時代の違いとして言うことができるのだと思う。

 ところで、奥武(おう)系の島は、本部と屋我地の間の奥武が、「後生(ぐしょう)」と呼ばれたように、「あの世」の島を意味したところもある。「聖域」とされることが多いのは、その名残りだ。ぼくの考えだと、ニライカナイはいま、海上はるか彼方ということになっているけど、もともとそうだったわけではない。それは「この世」と隣り合わせに、島人の近くにあったのだ。その代表的な例が、奥武(おう)の島のような「地先の島」だった。

 つまり、「沖の島」の系列のなかには、地名とは別に、それが「この世」と地続きだった頃の「あの世」の島だったものもあると考えられるので、ぼくは漠然と、浮島としての那覇も、「あの世」の島だったのかしらんという思いで、新城の街歩きの供をしたのだが、そう単純なことではない。

 新城は「那覇の岬の突端である三重グスク」について書いている。

 そもそも長堤で陸地と繋ぎ、要塞として石垣が築かれ城となる前から、ここは聖域だったのではないだろうか。グスクの基礎となった海上に浮かぶ岩礁は、小さな離れ島のようだったに違いない。こういう奇岩的な佇まいが信仰の対象となるのは、よくあることである。
 離れ島(岩)が陸と結ばれ、岬の突端となり、要塞としての機能が失われた後も、遥拝所として現在まで残り続けたのには、それなりの理由があるはずだ。
 岬は、陸と海が接する境界である。
 それは「この世」と「あの世」の境界の象徴でもある。岬の「さき」とは「先」、つまりこの世の先にある世界との境界・インターフェイスとしての聖域(御願所)となる。

 これを継ぐようにいえば、「三重グスク」は、かつては「あの世」の島だった。「あの世(ニライカナイ)」が海上のはるか彼方へ遠ざかると、そこは瞬間転移を可能にする「御通し(うとぅーし)」、遥拝の機能を持つようになったのだと思う。

 新城のこのエッセイは、「この世」と「あの世」を行き来しているような幻想的な雰囲気が漂っていて、いっしょに彷徨っている気分に誘われる。こんど那覇へ行くときは、旅の供としたい。


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2015/06/28

グスクは地形の地名

 グスク(グシク)は、それが何であるかについて論争がある(あった)ようだ。

 間宮厚司は、従来の説を紹介しながら、その語源について、「キ(城)+スク(壁・垣)」であるとしている。スクは、「珊瑚礁や石灰岩を海から採取して屋敷の)周囲に設けた石壁・石垣」だという。

 従来の説は、

 ゴ(御)+スク(宿) 民間語源
 ゴ(御)+ソコ(塞) 伊波普猷
 ゴ(御)+シキ(磯城) 鳥越憲三郎
 ゴ(石)+シキ(城郭) 中本正智

 思うにグスクは地名ではないだろうか。その意味は、崖のある高い所ということだ。具志川(グシチャー、グッチャー)などとも類縁を持つ地名だと思う。(cf.「琉球弧の地名」

 嵩元政秀は、グスクを三つに分類している。

 A式 政治的権力者の居城、その支城、支配地域の防塞、要塞、見張り所、烽火台、貿易品公庫
 B式 原始社会から古代社会へ移行する時期の防塞された集落
 C式 発生当初からの墓地、拝所としてのグスク
 (「沖縄のグスク」『城 (日本古代文化の探究)』

 この分類が示すように、「御嶽」なら拝所、「仮屋」なら武士の役所という役割が一定しないのなら、古くからある地名とするのが理解しやすい。友寄英一郎はそれに近い解釈をしている。

 私は、「グスク」の「スク」は「石囲いの高い処」と解釈したい。地理的には山の頂または中腹、丘、崖、海の小島、屋敷内であれば一段と小高くなった場所、そういう「高い処」である。(「再グシク考」『北方文化と南島文化』)。

 ただ、「石囲い」という人為を置いているので、自然物、地形に名づけられたものとは解していないようだ。

 ぼくは、もともとも地名だと思う。それが、住居や葬所や城に使われたということだ。

 嵩元政秀はグスクの立地について書いている。

 グスクの立地は岩石(沖縄本島中・南部では琉球石灰岩)からなる丘陵、小高くなった岩丘、河川に沿った丘陵、海岸に突出した岩丘など、周囲またはある部分がけわしい断崖をなす険阻な地形上にあるのが大部分である。もちろん例外もあり、岩石のない第三紀層の丘陵にあったり、海岸砂丘の場合もある。
 村落との関係でみると、村の後背の丘陵、村はずれの小高くなった丘に多く、現在はその村落の聖域、墓地地帯となっているのがほとんどである。(「沖縄のグスク」『城 (日本古代文化の探究)』

 これを、グスクという地名の示す意味とみなせば、ひとつの概念として成り立つのではないだろうか。

 重要なのは、嵩元がB式グスクについて、「原始社会の終末期より古代社会に移行する時期頃の防禦された又は自衛意識をもって形成された集落」(「「グシク」についての試論」「琉大史学創刊号」)と規定していることだ。

 重要だという意味は、これが平地に居住地が移り、御嶽を構える前段の集落に当たることだ。嵩元は、稲村賢敷がマキョの立地は殆んど例外なしに山の頂か丘陵の上に居住地を営んだとしたことに注目している。B式グスクが、御嶽共同体以前の親族組織の居住地であることを示す可能性をもつからだ。これを踏まえると、御嶽は、親族を脱した共同体を構成する契機をなしたと考えられるのだ。
 
 嵩元政秀の論考を受けて、吉本隆明は話している。

 そして、農耕がしだいに大きなウェイトを占めてきたときに、集落は丘陵地みたいなところから平野地のところへ移るわけです。平野地へ移った村落共同体の山側、つまり丘陵に近いところの森を、いわば神聖な場所というようなことで信仰の対象としていったわけです。本土でいえば鎮守の森のようにヤシロの代用品みたいに扱って、いわば、そこの森の木自体に神性がある、るいは木に神が降りてくるというような信仰です。
 平野地に村落共同性が住処を移した後に、そういう森林信仰というのがでてきます。けれども、恐らく森林信仰よりも以前の段階において、丘陵地帯におけるグスクというのが集落の中心となって、平野地に移って農耕が主になってからの村落共同体にとっては、ウタキというのが、つまり部落のはずれの森林というもの、ある方角にある森林というものが神聖なものとかんがえられていたとすれば、その神聖なものの次元のところに、集落を移して、その集落の中心をなすのがグスクの古型であるといえます。(「家族・親族・共同体・国家」『「信」の構造〈3〉』

 グスクを聖地と考えたのは仲松弥秀だ。仲松は、「グスクとは神の居処、または神が来臨滞在なされる場所に対する呼称である」とした。墓所がグスクと呼ばれることがあるが、「ようするにグスクは古代の葬処が聖地化したところということができる」(「沖縄のグスクと聖域」『北方文化と南島文化』)。ただし、聖地化した葬処でないグスクもある。それは、ニライカナイの神が招請されたり、雨乞いの場所になっていたりする。しかし聖地に変わりはない。

 ぼくが立ち止まるのは、吉本の言からは、樹木、巨石信仰が、そして、仲松の言からは、死者への信仰が御嶽の発生に関わっているように見えることだ。御嶽は、樹木、巨石信仰と祖霊信仰とが二重化されているのではないだろうか。つまり、自然の系列と死者の系列が交点を結ぶまで抽象化されるところに高神は発生するのではないだろうか。

 もうひとつ整理したいのは、葬処が聖地化される条件だ。なぜなら、仲松はほとんどが拝所であるにもかかわらず、そうではないところもあるとしている。

その拝処になっていないグスクではあっても怖れ敬遠されてはいる。このような敬遠されているグスクは奄美の島々に多く見られるが、おそらく近世以降に発生したグスク、いわば明治近くまで風葬地だった処と思われる。

 仲松は、立地の背景はそれが怖れ敬遠される理由には触れていない。つまり、拝所になっていない理由を回答してない。国分直一の考えはこうだ。

 琉球の諸島の各地にはグスク(またはグシク)、ウワー(拝所)とよばれる聖所がある。かつて葬所であったが、葬所が集落の展開とともに、集落に附属して崖地から離れて集落に近い地区に営まれるようになる。そのような過程においてグスクあるいはウワーは後葬の穢から解放され、そのために聖化され、特に開拓祖神あるいは文化英雄、政治的英雄などを祀る聖地と化したものが多いと見られる。(『環シナ海民族文化考』

 しかし、「崖地」と「集落に近い地区」は、「崖地」から「集落に近い地区」ではなく、その逆の場合と、等価である場合とがあり、「崖地」から「集落に近い地区」という移行は後代のものだと思える。つまり風葬を止めた後である。

 「集落に近い地区」というのが、B式グスク内に収まるほど近ければ、「集落に近い地区」から「崖地」へと移行する。また、B式グスク内に収まらないほどの距離があれば、「崖地」と「集落に近い地区」は等価である。

 B式グスクが葬所でもある場合、聖地化されるのは、生と死が移行の段階にあり、死者は忌避されていないことを意味している。しかし、同じ地名のグスクでも、仲松が挙げているように怖れられ敬遠されるのは、それが住居の近くから遠くへと離れた風葬所だからである。つまり、この場合は、生と死が分離され、死者が忌避される、死穢が発生した段階のものだと考えられるのだ。

 仮にB式グスクは生と死が移行の段階にあり、平地に移ったところで御嶽が発生したとすれば、琉球弧は相当に長いあいだ、生と死の移行の段階にあったことになる。

 上野佳也は、「グシクとチャシの比較考察--弥生系高地性集落との対比において」(考古学雑誌66巻3号)で、そのタイトルが示す通り、グスクもアイヌのチャシも、弥生系高地性集落も、「部族、ムラなどの集団間の緊張状態が発生したこと、そしてその危険から逃れるため日常生活の不便を忍んで長期あるいは短期の高地生活を行ったということがいえる」と書いている。高台に住むのはそんな理由であってほしくないと思ってきたが、やはりそうなのか。

 

『沖縄古語の深層―オモロ語の探究』

「信」の構造〈3〉天皇制・宗教論集成

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2015/06/27

顔の見える島・与論島

 神田孝治は、「観光地と歓待」(『観光学評論 Vol.3-1』)のなかで、与論島の観光の経緯を整理している。それは、三段階に分けられる。

 1.70年代 「自由」と「恋愛」イメージ
 2.80年代 観光客の減少を受けた観光振興
 3.2007年以降 映画『めがね』による、「観光」ではなく、「たそがれる」。

 上記の三段階は、おおよそ、1が「ヨロン島(とう)」、2が「パナウル王国」、3が、「この世界のどこかにある南の海辺」というコピーに対応させることができる。

 神田は、2の観光振興のなかで、「与論献奉」を取り上げて、酒の回し飲みを「与論の憲法」と通称していたのを、「与論献奉」と名称を考案したのは、1979年だということを明らかにしている。酒の回し飲み自体は古代からあるが、「与論献奉」は観光ブームにあやかって登場したもので、言うほどの歴史の古さはないと見なしてきたので、この明記はありがたい。

 日本国憲法の条項をめぐる議論がかまびすしいなか、「与論献奉」の条項を取り上げるのは気が引けるが、いい機会だから見てみよう。

 与論献奉

 与論献奉は島の永遠の繁栄を念願し、お客に感謝し心から歓迎して町民の誠の心を献上するもので永禄4年(1561年)から施行された。

 第一条 与論献奉は与論固有の献奉で与論島の象徴(誠の心)である。
 第二条 与論献奉は全町民の真心を主賓に献上してから関係者全員に施行する。
 第三条 与論献奉は適物適量を厳かに一回だけ献上する。
 第四条 与論献奉は平等に施行し何人たちろともこれを断ることはできない。
 第五条 与論献奉施行者は主賓等の適量をあやまってはならない。
 第六条 与論献奉施行者は施行前に趣旨等を口述し味美(ママ)をしてから施行する。
 第七条 与論献奉綬杯者は献杯する前に自己紹介等スピーチして献杯する。
 第八条 与論献奉施行中は何人たりとも離席せず思語(ママ)をつつしみ献杯者のスピーチを拝聴しなければならない。
 第九条 与論献奉施行者は献奉終了した旨を全員に報告しなければならない。
 第十条 与論献奉施行者は献奉施行者の一切の権利と義務を負うものとする。

 附則
 1.この献奉永禄四年(ママ)1561年8月15日(旧)から施行する。
 2.この献奉は自作自演で一切の責任は負わないものとする。

 ふぅ。筆記してて恥ずかしくなってきた。この恥ずかしさは、この条項が、まじめなのか冗談なのか、よく分からないところから来るような気がする。いや、冗談なのにやけに真面目な装いをしているところもあるのが余計なのだろう。冗談なら与論人らしいユーモアで塗りつぶすのがいい。ここでは、真面目に受け止めた場合の見方にすると、

 前文および附則1は虚偽だから削除。第一条の「与論献奉」は「島の象徴」ではないから削除。第二、五、十条、附則2は意味不明だから削除。第四条の「断ることはできない」、第八条の「何人たりとも離席せず」は、禁止ではなく、可能の表現に改める。

 すると残るのはこの三つ。

 第三条 与論献奉は適物適量を厳かに一回だけ献上する。
 第六条 与論献奉施行者は施行前に趣旨等を口述し味美(ママ)をしてから施行する。
 第七条 与論献奉綬杯者は献杯する前に自己紹介等スピーチして献杯する。

 これを基本にして、第三条を厳格にするのが必要なことが見えてくる。

 と、真面目に考えるとこうなる。これは逆に、与論人の得意なユーモア一色にしてもいいのだ。どちらにしても、この十箇条はリニューアルしないと、ちょっと恥ずかしい。

 気を取り直して、神田の説明を補足すると、彼は、

祖先崇拝の強い与論島では、まず先祖の神に酒を捧げるという。(中略)与論島においては、来訪神ではなく祖先が神であることにその特徴がある。

 と、書いているが、琉球弧では、来訪神も祖先も「神」であるのは共通している。「与論献奉」は、「まず先祖の神に酒を捧げる」のであるとしても、ポイントは、客を来訪神視しているところにある。表層的にはそれは人見知りが一夜で仲良くなるための苦肉の策(cf.「与論献奉」)だが、深層には、旅人を「まれびと」とみなす心性が潜んでいるものだ。


 これまでの観光論考に対して、神田が新しく付け加えていると思えるのは、「来訪者の現地への愛につながる感情が重要な役割を果たしている」ことに注目した点だ。

 「ギリシャ村」構想、NPO法人「e-○k」による島のIT化、「島人旅人・与論島」の文化活動、雑誌『かなしゃ』の発行、「サンゴ礁再生協議会」。これらの活動は、移住者を中心にしたもので、神田が指摘したポイントに当たる。

 けれどそれだけではない。神田がこの他にも紹介している、NPO法人「ウンパル学校」、ブログによる情報発信、「ゴミ拾い」は、島の出身者によるものだ。

 どちらの場合も、これらの活動は、島にとって無くてはならない人に支えられている。どの活動もそれを行っている個人がはっきりしているのだ。そして重要なのは、紹介された人物以外にも、与論には顔の見える活動をしている人がたくさん、いることだ。

 与論の象徴は、自然を除けば、「与論献奉」ではなく、一人ひとりの顔なのだ。むしろ、これらの活動をしている人たち自身が(観光)資産であると位置づけたい。それに、これを出身者と移住者が手を組んでできるところにも(そこにいろいろな問題があるにせよ)、与論の強みはあると思う。(観光)振興のためには、商品開発、とは限らない。

 神田の論考を読み、なかなかやるじゃないか与論島、と嬉しくなった。この論考を受けていえば、「顔の見える島づくり」を提案したいし、ぼくも手伝いたいと思う。

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2015/06/26

他界の島としての池間島

 源武雄は、「宮古島の民俗-産育と葬祭を中心として-」(『南島論叢』1937年)のなかで、宮古島の葬法と他界に触れている。

 宮古島の人々の霊魂遊離及末世に対する考へを覗つてみる。池間島にウプラスウタキ(大主御嶽)といふ拝所があるが、宮古島の人間は死ぬ時必ず此のお嶽を通過せねばならぬと一般に信ぜられてゐる。島人は死ぬ前にその魂が姿を現じて此のお御にゐる神司たちに見えるさうである。此のお嶽を来世への関所と考へているのかも知れぬ。宮古島の人々は来世の常住所がどこにあると考へてゐるのだろうか。これまでの学者達の研究に依つて死屍処分の形式と来世観念との関係とを分類してみると大体に於て、土葬をなす風習のある所では来世を地下にありとし風葬樹葬を為す所では来世を天上にありとし水葬をなす所では海上の離れ島にありと信じられてゐるらしい。宮古島では往古は水葬も土葬も行はれたらしいから来世の観念もごつたになつてゐるわけであるが、古典や伝説を見ると、来世を地下にありと信じてゐたらしい痕跡が多い。大神島には島の一角に「岩ヌバナ」といふ岩窟があり、それが底知れぬ深さなので、これが来世へ通じる所だと考へ島人は非常にそこを恐れてゐる。宮古の伝説にはよくニージャ(根入ジャ)の国といふ言葉が出て何れの伝説でも穴から通じてゐるやうに出てゐるが、之はわが古典に見ゆる根之国と同一語のやうである。

 死者の霊魂が池間島の御嶽を通過するということは、かつて池間島が宮古島の島人にとって他界の島であったことを意味していると思える。トロブリアンド諸島のトゥマ島のように。

 酒井卯作の『琉球列島における死霊祭祀の構造』では、「海上信仰を基本とする生活を保っているのに、なぜか水葬の慣習は存在しない(p.14)」とあったが、ここでは水葬も挙げられている。水葬の場合、「海上の離れ島」とされている。これは、海の彼方と同位相にあり、誰も行ったことのない島を指すのだと思う。池間島の「亥の島」と語られた(p.276)のも同じことだ。棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』では、水葬はメラネシアに、舟葬はポリネシアに見られる。

 「風葬樹葬」とあるが、樹上葬があるのか気になる。その場合、「来世を天上にあり」としているので、天上と地下が対置された後に、天とむすびつく葬法として樹上葬になったのかもしれない(cf.「宮古島における天上と地下の対置」)。

 大神島の「岩ヌバナ」は、まさに他界への入口を明示している例だ。「島人は非常にそこを恐れてゐる」ように、生と死が分離して以降の感覚をにじませている。

 源の報告は、短い文章だけれど、示唆が多い。

 

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2015/06/25

新シェーバ-第一印象記

 シェーバーを交換した(たまにはこういう話題もご容赦を)。これまで使っていたのは、フィリップスの回転式の三枚刃。もともとブラウンのスチール網刃を使っていたのだけれど(といっても80年代から90年代にかけての相当、昔)、剛毛だからか、当てが強すぎるのか、網刃がパキッと割れてしまうのを何回か経験して、割れる心配のないフィリップスの回転式に代えたのだった。

 ぼくの髭ときたら、堅くてしかも伸びるのが速い。学生のころに一度だけ伸ばしたことがあるが、三ヶ月でアルムのオンジ状態になっていた。当時、居酒屋へ行くと、髭を生やしたおじさんが近づいてきては、どのくらいでそこまで伸ばしたのか、よく聞かれたものだ。男性には、豊かな髭を蓄えたいという願望があるのだなと、そのとき知った。まぁ、もう一度機会があれば思う存分生やしてみたいと思うのだから、ぼくもその一員かもしれない。

 ともかく、フィリップスの回転式も長いお付き合いをしたが、そろそろ切れ味も鈍くなっているのを認めざるを得なくなった。もともと身支度の律速段階は髭剃りというのが、成人以降のぼくの思い込みだった。だから、髭剃りは鏡に向かってするものではなく、スマホや本を読みながらするという、立派に、ながらを要求する作業だったのだ。それでも、だ。あるアンケート調査で髭剃りに10分以上かけている人は1割にも満たないことを知ったのは衝撃だった。大方の人は、3分、5分以内に済ませている、というのである。信じがたかった。剛毛を嘆けばいいのか、伸びる速さを諦めればいいのか。しかし、ひょっとして、フィリップスとの長い付き合いのせいかもしれない。何年も使っているから、剃り時間が延びているのに気づいていないのかもしれない。

 そう思い直して、今回は、IZUMI VIDAN シリーズの、いちばん強力そうなシェーバーを選んでみた。山脈が四つ並んだような4枚刃を使うのはもちろん初めてだ。

 私用で自宅を4日離れたが、その間は身内にしか会わないのをいいことに、横着して旅荷をできるだけ軽くするべくシェーバーも持たなかったので、4日分、伸びた髭を剃ることに。もちろん、前のシェーバーではゆうに10分を越すコースだ。

 スイッチを押し当ててみると、剃れてるのかどうか覚束なかった。なにしろ、剃り音がしてない気がするのだ。これまでの経験から、剃れ具合いは、音で確かめていた。むしろ、音がする割にはなかなか進まないという気がしていた。それだから、音がしないのは、とても心もとない気がしたのだ。何か、効果的ではないやり方をしているのか、とスイッチを押してみると、往復音が増した。あとで見たら、ターボモードといって、より速く剃るためのものらしい。それを使ってもよかったのだけれど、初使いだから、標準でどうなるのか試したかったので、モードを戻してやってみた。

 で、音が小さいのが心もとないのは変わりなく、さらにあちこちのスイッチや切り替えボタンを押してみて、色んな機能が付いているのは分かったが、肝心の剃り味はどうなのだろう。不安だ。

 しかし、ふと鏡を見ると、髭が薄くなっている。あれ、剃れてる。ちょっとびっくりした。音が少ないのに、すでに結構、剃れている。そういうものなのか。ちょっと嬉しくなり、それからは音を気にせずに続けてみた。使い古したフィリップスでは、鼻下や顎から首にかけての剃り残し退治に結構な時間を使ってしまうのだけれど、それがスムーズに行っているのにも気づいた。これはいいではないですか。

 ひと通り、これで充分と思って、記念にセットしてみたタイマーを切ると、9分9秒。10分を切ったではないですか。わずか、1分のことではあるけれど、あちこちいじりながらの髭剃りだったので、感触としては5分台でいけたのではないか。毎日の髭剃りなら3分以内も望めるかもしれない。とにかく、この4枚刃は、音が小さいのに剃れているのが一番の驚きだった。

 パッケージをみると、「約4週間充電不要」とある。当分、定期的に旅する日々が続くので、これは頼もしい。その威力は、旅先で実感できるのを期待しよう。かくして、シェーバー交換は失敗ではなかったと安堵した初使いだった。

 

『IZUMI VIDAN 【日本製・深剃りシリーズ】 往復式シェーバー 4枚刃 シャンパンゴールド IZF-V85N』



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2015/06/24

「戦後の起源へ-いま、私の考えていること」

 加藤典洋の「戦後の起源へ-いま、私の考えていること」に魅力を感じた。加藤は思考の経緯を丹念に辿っているので、ほんとうは全文を引用したいくらいだが、その余裕はないので、ニュアンスが削がれるのに目をつぶって核心的な箇所を引く。

 (前略)私の考えでは、いま、日本に必要なものがあるとすれば、この二つの政治目標につきる。「戦後」を終わらせる、といういい方が意味をもつとしたら、その内容は、東アジア圏での信頼回復と本格的な友好関係の確立、そして対米従属を脱した日米関係の再構築、この二つ以外にないのである。

 ありうべき目標として頷ける。そのずっと先に加藤は続ける。

 つまり、これが「外国基地の存在を認めず」という点を明記し、従来の米国との「従属」関係から脱することを宣揚し、なおかつ「統整的理念としての戦力保持と交戦権の放棄」をあくまで堅持した憲法改正であること。
 そうすることが、今後も日本がこれまで同様の「平和と経済的安定」を堅持し、これに加えて「自分の国の将来を自分たちで決める政治的自由」を回復し、日本社会をよりよくするために、必要なのである。
 矢部の観点は、じつは現在の憲法九条が、自衛隊の存在とではなく、在日米軍の永続的存在といまや「相補的に支え合っている」ことに、私たちの目を向けさせるのである。

 矢部が誘ったのは、そもそも九条と安保がセットであるという視点だと思う。

 ダグラス・ラミスは、『要石:沖縄と憲法9条』(cf.記事)のなかで、「沖縄の人」の「九条は沖縄には一度も来たことがないよ」という声を紹介している。この声は、「本土の九条」と「沖縄の安保」という二つの仮象の、一方の声を象徴している。辺野古基地が強制されれば、「本土の九条」と「沖縄の安保」は対立の仮象が決定的になってしまう。「沖縄」は、「憲法の下に帰る」つもりで「復帰」をした。だから、「復帰」は果たされていない、ではなく、「復帰」は果たされない、という認識になる。その先には、「復帰」はすべきではなかった、という声が強まってしまうだろう。その認識がどう、ということではなく、「本土の九条」と「沖縄の安保」という二つの仮象の向こう側に行かなくてはならない。

 憲法九条の平和理念は、じつは理念として透徹したものではないのではないか。ニューディーラーの理想主義者たちが考えてくれたすばらしい憲法ではないけれども、それはやはり、「核兵器以前」、第一次世界大戦終結時の「理念」との間に、一つの断裂をかかえているのではないか。現行の憲法九条の平和理念によって、それを足場に、なぜ私たちは米軍基地を沖縄から撤去させることができないのか。外国基地を日本からなくし、国連を強化しつつ、別の平和な国際秩序を構想するうえで、なぜ憲法九条は、それだけでは、無力なのか。
 それを、現状がさらに悪くならないための砦として考えているだけでは、それを生かせないのではないか。それによってさらに理想に近づこうと考えるとき、はじめて憲法九条の現在の姿が「課題」として見えてくるのではないか。これをより平和理念として徹底することで、私たちは、対米従属から脱し、政権交代後の民主党政権が掲げた東アジア圏の平和的構築、対米、対ロ平和友好関係の構築へと、向かえるのではないか。
 私はまだはっきりしないながら、そんなことを考えている。

 この雑誌の発行は、今年の四月。加藤の考えの末を待つ、というのではなく、考え続けていかなければならないのだと思う。
 

『myb 新装第1号―団塊の世代の明日へ 特集:団塊の世代に問われるこれから』

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2015/06/23

『憲法九条は私たちの安全保障です。』

 鶴見俊輔の文章を読みたくて、この本を手にしてみたが、

 今、動けないのが、残念です。戦争への動きを止めなくてはなりません。
 「九条の会」に、思いを託します。

 とだけあって残念、というより、焦った。

 書き手が書いているとおりに書けば、梅原猛が「数えの九十歳」、大江健三郎が「来年八十歳」。焦りは増す。ぼくはこれらの人々のよい読み手ではないけれど、分かるのは、戦争の経験の抑止力が消えかかろうとしていることだ。

 気を取り直してみると、「グッドルーザーであることを誇りに(池田香代子)」、「誇りのもてる国となるために(奥平康弘)」と、「誇り」がキーワードになっている。言い換えれば、今のぼくたちがそれからいかに遠くにいるか、ということだ。

 書き手たちの考えは穏当に見えるのに、それではなぜ、にもかかわらず窮地に追い込まれるようになるのか。阪田雅裕は、「最後に決めるのは国民の声」と題しているが、この点については韓国の金泳鎬の文章が面白い。

 今日の民主主義は、市民の声と新聞の記事と政府の反応との間に大きなギャップを抱えている。Voting Democracy は投票を通じて主権の委任を受けるが、小選挙区制の金権選挙、縁故主義、ポピュリズム、そして野党が分裂すれば野党支持層の総計は多くても与党が当選する事態などにより、一強多弱の寡頭政権が成立して市民の意思を代弁することができなくなる。いわば代議(representation)の危機に陥ることになる。そうなれば、投票で当選した代議士は誰の影響を受けるか。その背後に時々「ビッグブラザー」が登場する。この場合、代議士は市民の意思よりビッグブラザーの意思を代弁する傾向が強い。
 問題はマスコミさえ企業メディア的な性格を持ち、市民の声より寡頭政権の意思を代弁するようになることである。市民は企業メディアに徐々に閉じ込められ、影響を受けながら操られる状況に陥る。民主主義は到るところでこのような落とし穴に陥る。私は日本がこのような落とし穴に陥っていると断定することには同意しない。しかしこの落とし穴から遠く離れているということにも同意しない。
 今日の民主主義は Voting Democracy を越え、Voicing Democracy を求めている。

 的確な解説だと思う。「投票の民主主義」を越えて、「声の民主主義」を。澤地久枝は、「たとえば「五〇パーセントを割った選挙は無効である」というような決まりを持つべきだったと思っています」と書くのも、このことに向いて言っているのだろう。ただ、金の言う「声の民主主義」は、「投票の民主主義」の矛盾、代表性の不足を越えるために考えられているので、澤地の考えよりも、より直接的で、住民投票や国民投票を指すものだ。

 金泳鎬は、こうも書いている。

 日本は中国との戦争の危険に直面して「安保か、憲法九条か」という二者択一の構図に市民を閉じこめて集団的自衛権に対する支持率を引き上げようとしている。

 しかし、「安保」を、米軍基地と言い換えれば、そもそも「米軍基地」と「憲法九条」はセットで埋め込まれているのだから、このふたつは本来、選択肢にはなりえない。これは、「安保と憲法九条」か、「非安保と改憲法九条」というように書き改められなければならないのだと思う。

 
『憲法九条は私たちの安全保障です。』

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2015/06/22

『「こうしよう」と言える日本』

 ロナルド・ドーアは、「つたない日本語」であることを断ったうえで憲法九条の「焼き直し」を提案している。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(原文そのまま)
 2 以上の決意を明確にするために、日本国民はここに宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は以下の目的以外には、これを発動しない。
 一、日本の国際的に認められている国境に悪意をもって侵入するものに対する防衛。
 二、国内外の災害救援。
 三、国連の平和維持活動や、国連憲章第四七条による、国連の直接指揮下における平和回復活動への参加。

 ロナルド・ドーアは、憲法九条の「焼き直し」だけを提案しているのではない。国連の再建を推し進めるなかで、これを行なう。かつ、その国連の再建を担うのに最もふさわしいのは日本ではないか、という問題意識から、この提案をしている。

 最後の、「平和回復活動」は、「武力の行使によって侵略者に対処すること」を指している。

第四七条は、湾岸戦争の場合の米国の総司令官の指揮下における「多国籍軍」ではなく、国連自体が任命する司令官の指揮を規定している。今まで発動されたためしはないが、日本の憲法がこう改正されたら見直されるかもしれない。

 つまり、「特に米国にとって代わって国連が、真の人類社会の警備隊を形成できるか」という問題意識がここにはあるわけだ。ここでの「武力の行使」には、抵抗を覚えるが、それでもロナルド・ドーアがこう言うのには、頷かざるをえない。

政府は「平和四原則」のように、「これだけでお終い。軍事力、軍部の行動の自由をこれ以上拡大することは絶対しない」と約束してきた。そして次の段階でその約束を徐々に浸蝕してゆく。その歴史的過程をほこりをもって顧みられる日本人がいるだろうか。

 少なくとも、「徐々に浸蝕」される標的が九条第二項であるとしたら、浸蝕の余地を許さない第二項を作るべきである、という考えに導かれる。

 この本は、1993年に書かれている。書名で察しがつくように、1989年の『「NO」と言える日本』をもじってつけられたものだ。なぜ、この時代に書かれているのか。それは著者が、冷戦の終結を、新しい国際社会形成の好機と見なしているからだ。それから二十年以上が経り、状況は変わっている。けれど、この本は、日本が国連中心外交に舵を切った際に、起きうる問題や対処について、詳細な検討を加えていおり、「浸蝕」が限度を越えてきた現代においても、とても参考になるものだと思う。
 

『「こうしよう」と言える日本』

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2015/06/21

『崖っぷち国家 日本の決断』

 私は、日本は今、戦後最大の危機にあると思います。
 原発は再稼働する。消費税を引き上げて法人税の切り下げを模索する。集団的自衛権の行使で自衛隊を海外に派遣し、結果として日本にテロを呼び込む危険性を高める。格差社会を推進する。「特定秘密保護法」の施行で情報を国民から隠し、民主主義国家から離れていく。
 それは、今日の日本の政治をどうこうするという問題にとどまりません。明確に未来の世代に負の遺産を残します。

 「はじめに」で、孫埼はこう切り出している。ためになることが多かったが、対談は孫埼が聞き手にまわるよう努めているためか、ニューヨーク・タイムス東京支局長のマーティン・ファクラーの主張が印象的だった。ファクラーはこの対談のなかで、何度も、「主権は国民にあるんですよ」と繰り返す。それがまるで、民主主義の気風がちゃんとあった古き良きアメリカからの声のように聞こえてきた。

 備忘を絞ると、ファクラーの沖縄認識が興味深かった。以下、ファクラーの見方を辿るために、孫埼の発言を省略する。

 ですから、当時の琉球(ペリー来流の頃-引用者)は日本とは全く別の国家だったのです。ハワイも同じような状況だったと言えます。このように、日本の支配の歴史とは意外に薄弱なのです。(中略)
 米軍の基地が沖縄から去ったら、日本の沖縄支配も消えるのではないかということfrづ。その問題は意外に大きく重なっているように思います。今、日本が支配されていることの、いちばん目に見える形の存在は駐留米軍です。沖縄に駐留米軍がいなくなったら、日本はどうやって沖縄を統治するのでしょうか。米軍が沖縄を去ったら、沖縄の将来はどうなるかわからないと思います。
 必ず新しい展開が出てくると思います。日本がほんとうに沖縄を統治できるかどうかはわからないですよ。自衛隊の存在はそれほど大きくないし、米軍のベース(基地)が日本支配のシンボルになっている感じなのです。

 まず、ファクラーは琉球の日清両属について認識がないようにみえるが、それでも、「日本の支配の歴史とは意外に薄弱」という観点が新鮮だし興味深かった。また、ニューヨークタイムスの記者に、米軍が沖縄から去ることが非現実的に見えていないことも同様に。それから、沖縄から見れば、米軍基地は、米軍の支配であると同時に日本の沖縄支配のシンボルに見えているという観察。この観察は妥当なものに思えた。

 

『崖っぷち国家 日本の決断』


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2015/06/20

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

 矢部宏治のこの本には、ありうべき態度という点で強い示唆を受けた。

 「日本国憲法の真実」を突き詰めると、

 1.占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。
 2.その内部の多く(とくに人権条項)は、日本人にはとても書けない良いものだった。

 このふたつは、同時に受け入れることが難しい。1が事実なら、2は間違っているはずになる。逆に、2が事実なら、1は間違っているはずだ。だから、これまでどちらかを受け入れる態度が多かった。

 2の内容を高く評価し、そのため1の歴史的事実を全否定してきたのがいわゆる左派の人たちです。共産党や大江健三郎さん、井上ひさしさんなどです。
 一方、1の事実を強調することで、2の内容を全否定し、変更しようとする。国民に人権をあたえすぎているのが気に食わないから、後退させようというのが右派です。安倍首相や石原慎太郎・元東京都知事んばどです。
 もちろん、どちらもまちがいです。正しくは1の歴史的事実をきちんと認めたうえで、2を超えるような内容の憲法を自分たちでつくるというのが、どこの国でも当たり前のあり方です。

 そうした「戦争への道」を食い止めるため、「指一本ふれてはいけない」という護憲神話が、これまで戦術論として有効だったことは事実だと思います。しかし、そうして問題を先送りできる時期は過ぎました。二〇一四年七月一日、安倍政権は日米安保条約や地位協定にはいっさい手をつけぬまま、歴代自民党政権が自粛しtきた「集団的自衛権の行使容認」という解釈改憲をついに強行しました。このままでは、おそらく日本が海外で、アメリカの侵略的な戦争に加担することを止められないでしょう。
 それなら、ちゃんと書き直して、本当にそうした戦争をできなくしてしまえばいい。核兵器や原発がいやなら、それも憲法に書けばいい。日本以外の国では、どこでもふつうにやっていることです。過去の歴史、本当の事実にもとづき、本質的な議論をしなければならない時期にきているのです。

 そこで矢部が注目するのは(それは憲法改正の本丸にもなっている)憲法九条第二項だが、そこには、三つの歴史的事実が刻印されている。

 ひとつは、第二項の「戦力と交戦権の放棄」は、「国連が世界政府として機能すること」、「世紀の国連軍が編成され、戦争する権利を独占すること」を前提とされていたが、それは冷戦の開始とともに、不可能になってしまったこと。

 このことに対応するように、第二項は、「人類史上最大の攻撃力をもつ米軍の駐留」という絶対的な矛盾とセットで生きることになってしまった。

 また三つ目には、「敗戦国の武装解除」という意味が刻印されていること。そこには、国連憲章の「敵国条項」が控えている。

 だから、矢部によれば、「在日米軍基地」と「憲法九条第二項」、「国連憲章の「敵国条項」」は、三つをセットに同時に解決されなければならない、ということだ。

 このことが、最も示唆を受けた点だ。

 矢部は、第二項の代案として、「自衛のための必要最小限の防衛力はもつが、集団的自衛権は放棄する」ことを挙げている。ただし、それは強い主張というわけではなく、むしろ、日本と同じく戦争放棄条項をもつ、フィリピンやイタリアの憲法に学び、「前項の目的を達成するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ、すべての国と平和および友好関係を堅持する」と、国連中心主義の立場を勧めている。

 もうひとつ、大切だと思えたのは次の指摘だ。

 なにより重要なのは、そのとき同時に、今後は国内に外国基地をおかないこと、つまり米軍を撤退させることを必ず憲法に明記し、過去の米軍関係の密約をすべて無効にするということです。
 なぜならこれもほとんど知られていないことですが、日本国内で有事、つまり戦争状態になったとアメリカが判断した瞬間、自衛隊は在日米軍の指揮下に入ることが密約で合意されているからです。

 この明記は、日本の国民が作ったという主体の立ち上げという意味でも大切だと思う。これらのことは、矢部も言うように議論のしどころで、英知を結集すべきことだ。

 そこでぼくは、吉本隆明が、「一般大衆の無記名直接の投票によって政府(政策決定の最高機関)が、いつでもリコールできること」を検討の素材に入れたい。これを吉本は、村山政権が1995年に「自衛隊を合憲」として認めたことを受けて強調したが、もともとはそれ以前、1994年の細川連立政権の際に主張していたことだった。

 どこの政府でも現在までの世界ではじっさいの政策決定の場面の半ばは水面の下にもぐっておこなわれ、あとの半分と一緒にはじめて一般民衆の誰でもが、知ろうとおもえば知り得る公開の場面に浮上してくる。もっと極端なばあいは政策決定の場面はまったく水面下にあり、決定されて動かせなくなったあとで公開の場面に登場してくる。これは現在までのところ人民民主主義であれ、社会民主主義であれ、自由民主主義であれ、いわゆる〈民主主義〉という名の政策決定の過程につきまとう限界だといっていい。そして人民民主主義を名乗る政体のほうが、社会民主主義や自由民主主義よりも閉鎖的という逆説が成り立ってきたことも率直な実情だといっていい。
 どうしてこうなるかといえば、現在までどんな政治過程にも大なり小なり政策者の人格が関与することが、否定できないからだ。この人格にかかわる内密さや親疎や偏向を帳消しにするには、一般民衆の人格の総和を、決議権の総和に転換するより仕方がない。(「税と景気の話」『超資本主義』)。

 こう前置きしてから「真正の民主主義」のための方法のひとつとして、吉本は書いているので、必ずしも憲法九条に照準して考えられたものではない。けれど、国家の宿痾が究極的に問われる条項だけに、ことによれば、九条以上に根本的な条項になると思う。

 また、この本では、日本と同様の敗戦国だったドイツの事例が、学ぶべき重たさをもって迫ってくるのだが、1970年代のヘルムート・シュミットは、

日本の外交問題について意見を求められるたびに、
「日本は周囲に友人がいない。東アジアに仲のいい国がいない。それが問題です」
 と礼儀正しく、しかしはっきりと助言してくれていました。

 こういうのを、本当の助言というのではないだろうか。思い出されるのは、鳩山元首相が唱えた「東アジア共同体」だ。ぼくはここには、太平洋の島々も入れたい。どうも、東アジアの大陸と半島と大きな島だけでは息苦しい気がする。東アジア・太平洋というのが、広すぎるなら、東アジア・ネシア共同体と言ってもいい。


 ところで、この本のよさは率直さにあると思う。

 ひと言で言うと、憲法がまったく機能しない状態になる。沖縄の人たちも、普段はみんな普通に暮らしているのですが、緊急時にはその現実が露呈する。米軍は日本国憲法を超えた、それより上位の存在だからということが、この事故(沖縄国際大学・米軍ヘリ墜落事故-引用者)の映像を見るとよくわかります。
 このビデオを見ると、
 「沖縄の人は、なんてかわいそうなんだ」
 と、最初は怒りのような感情がこみあげてきます。しかしすぐに、そのかわいそうな姿は、本土で暮らす自分自身の姿であることが、わかってくるわけです。

 2010年の『要石:沖縄と憲法9条』で、ダグラス・ラミスは、「九条を守る運動」をやっている東京の女性と沖縄でドライブをして基地の隣に密接した住宅街を通ったとき、彼女が、「私は、あんなところに住めない」と発言したのを紹介していた。ダグラス・ラミスはこう書いている。

基地問題を、沖縄問題の範疇にする。安保条約という言葉はまずあまり使わない。なるべく安保条約という言葉に触れない。安保条約の話は、ダサい、古い、怖いということでなるべく出さない。基地問題は、沖縄問題と呼びます。基地問題を見ようと思えば、例えば修学旅行で沖縄へ行って基地を見てくる。安保が見える丘に上って基地を見て、ああ、かわいそうな沖縄と言ったり、あるいは沖縄の人は何でもっと闘わないのか、どうしてそんな我慢ができるのか分からないと言って、本土へ帰ってきて、日本国憲法の第九条が世界遺産になるかもしれないという自己満足の気持ちに戻ることがあるわけです。みんながそうだとは思わないんだけれども、そういう精神構造は存在していると思います。

 矢部の、「沖縄はかわいそう、いやこれは自分の姿だ」という展開は、ダグラス・ラミスの憂鬱に風穴を開けてくれるだろう。両者の態度を隔てているものは、状況の変化だけでも欺瞞の有無だけでもなく、党派性のなさにも由来すると思う。
 


『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

『超資本主義』

『要石:沖縄と憲法9条』


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2015/06/19

『永続敗戦論―戦後日本の核心』

 「永続敗戦」とは、「敗戦」を「終戦」と言い換えるように、「敗戦」を否認すること。

敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。

 ことを指している。その通りだと思う。ただ、白井聡は加藤典洋の「敗戦『語』論」という枠組みに対して、「敗戦後」は存在しないと指摘しているが、加藤は、だからこそ、「敗戦後」を立ち上げようとしたのだから、むしろモチーフを共有しているのだと思う。

 しかし、そのことくらいで、あとは共感すること、学ぶことが多かった。

 たとえば、と吉田樽彦の推論の紹介だ。

 豊下が外務省および宮内庁による情報公開の不十分さ、秘密主義に苦慮しながらも十分な説得力を持って推論しているのは、当時の外務省が決して無能であったわけではなく、安保条約が極端に不平等なものとならないようにするための論理を用意していたにもかかわらず、結果として日米安保交渉における吉田外交が-痛切に反して-拙劣なものとならざるを得なかった理由である。それはすなわち、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した(ダレスとの接触など)形跡である。

 天皇が沖縄をアメリカに差し出すという、いわゆる天皇メッセージのことは知っていたが、それが積極的な動きであったことや、旧安保条約の締結交渉に影響したという可能性は初めて知った。「近衛文麿上奏文」で動かなかった天皇は、沖縄戦と広島、長崎への原爆投下に道筋をつけただけではなく、沖縄の米軍基地の正当化にも手を貸していたわけだ。この仮説は覚えておきたい。

 また、白井の引いた河原宏の「国体」に関する議論も興味深かった。近衛文麿が天皇に「「敗戦は遺憾ながら最早必至」と上奏した際、共産主義の脅威をその根拠に挙げていたが、その詳細をみると、「国体を否定する者=共産主義者=左右を問わない革新論者」となっていることから、白井は「国体とは、一切の革新を拒否することにほかならない」としている。河原によれば、戦争終結の決断の本質は、「革命よりは敗戦がまし」ということだった。

 本土決戦が行なわれれば、「それは組織論的な「国体」の否定、つまり革命に通じてしまう。天皇制支配層が危惧したのもこの点にあった」。この事態が避けられたのと引き換えに、体験し損なったことがある。河原はこう書いているという。

日本人が国民的に体験しそこなったのは。各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。(中略)近衛らが“革命よりも敗戦がまし”という形で、なんとしても避けようとした「革命」とは、究極のところ各人が自主的決意と判断によって行動するに至る状況のことだったのではないか。

 本土決戦において、こうした「個人」がむき出しになる状況が生まれえたかについては懐疑的にならざるをえないが、こう問うことで、天皇制支配層が怖れたのが、個人幻想が共同幻想に逆立することが露呈することだったということは見えてくる。

 支配層がなんとしても護ろうとした「国体」について、久野収と鶴見俊輔は、「密教と顕教」の比喩で腑分けしてみせた。「天皇は神聖にして侵すべからず」という「現人神としての天皇」が、大衆向けの顕教であり、明治の元勲たちが、「天皇親政」を表向きに掲げながら、実権を持たせず、立憲君主制国家として明治国家を運用したのが密教の部分に当たる。しかし、大正から昭和にかけて、顕教と密教の使い分けは崩壊へと進む。「戦前天皇制の顕教的部分が密教的部分を浸蝕し、ついに滅ぼしてゆく」ことになった。

 白井は、戦後の「国体」を「永続敗戦」であるとし、久野と鶴見にならって、ここでの顕教と密教を解いている。それは、「顕教」の部分では、「戦争は負けたのではない、終わったのだ」というものとして機能し、「平和と繁栄」の神話はそこに大きく寄与した。また、「密教」の部分は、「対米関係における永続敗戦、すなわち無制限かつ恒久的な対米従属をよしとするパワーエリートたちの志向」である。

 しかし、この顕教と密教も「耐用年数を終え」ている。「顕教」を維持するためには、アジアに対する配属を否認しなければならないが、それは東アジアにおける「日本の経済力の圧倒的な優位によってこそ可能になる構図だった」。

 そしてここにおいて、われわれは戦前レジームの崩壊劇の反復を目撃している。すなわち、顕教的部分による密教的部分の浸蝕、呑み込みである。大衆向けの顕教として掲げられてきた「われわれは負けてなどいない」という心理の刷り込みが、抑えの利かない夜郎自大のナショナリズムとして現象する。そしてこのとき、永続敗戦レジームの主役たちは、これを食い止める能力を持たない。なぜなら、彼らこそ、「負け」の責任を取らず、「われわれは負けてなどいない」という心理を国民大衆に刷り込むことによって自らの戦争責任を回避した張本人たちの後継者であるからだ。永続敗戦レジームの顕教的領域を否定することは、彼らの政治的正統性、もっと言えば、戦後レジーム総体の正統性を直撃するのである、それゆえ実行不可能である。

 戦前の顕教的部分による密教的部分の浸蝕は、渡辺京二の言を借りれば、都市に個として投げ出された「基層生活民」の共同体への欲求だった(cf.『戦争はどのように語られてきたか』)。いま直面している「抑えの利かない夜郎自大のナショナリズム」の母体になっているのは、格差と「自己責任」の名のもとに個として分断された都市生活者であると仮定してみる。この都市生活者は、戦前の「基層民」のようにもともとあった共同体をあらかじめ失っている。それゆえ、ナショナリズムによって希求する共同体もは排外性の強調によってしか表現できないものになっているのではないだろうか。

 ところで、この「永続敗戦」レジームの神話から醒めた場所がある。それが沖縄だ。

すなわち、戦後日本においてデモクラシーの外皮を身に纏う政体がとにもかくにも成立可能であった(特に、五五体制においては親共産主義勢力が国会における不動の第二勢力を占めた)のは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、少々の「デモクラシーごっこ」を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じたからにほかならない。この構図にあてはまらない、言い換えれば、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられたのが沖縄であり、ゆえにかの地では暴力的支配が返還以前はもちろん返還後も日常的に横行してきた。日本の本土から見ると沖縄のあり方は特殊で例外的なものに映るが、東アジアの親米諸国一般という観点からすれば、日本の本土こそ特殊であり、沖縄のケースこそ一般性を体現するものにほかならない。

 白井の踏み込みを感謝しつつ受け取ると、こういう内省もやってくる。本土とは異なり、沖縄は「沖縄戦」を経験した。それなら、河原宏が、「体験しそこなった」という、「各人が自主的決意と判断によって行動する」を体験することができたのか、ということだ。もちろん、それはできなかった。本土決戦によって想定された「国体の否定」は、戦場が本土ではなく、「国体」は護持されるがゆえに、個がむき出しになる体験ではなかったからだ。だから、沖縄においても、「各人が自主的決意と判断によって行動する」ことは、その時点においては、本土と同様、「体験しそこなった」ことだった。

 
『永続敗戦論―戦後日本の核心』


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2015/06/18

『いちばんよくわかる!憲法第9条』

 西修の『いちばんよくわかる!憲法第9条』には説得されなかった。なんというか、憲法九条改正が必要だとする議論について、リアリティを感じなかった。それは、彼が、わかりやすくするためにしている説明に顕著なのかもしれない。

 私たちの身近な例を引き合いに出してみましょう。
 いじめっ子の暴力に対して、みずからの力で対抗するのが個別的自衛権です。
 いじめっ子が親友のA君に暴力を振るうときに、A君を助けていっしょにいじめっ子の暴力に対抗するのが集団的自衛権です。
 教室にいじめっ子がいて、暴力を振るったりすれば、教室のこともたち全体でいじめっ子に対抗して、なんらかの制裁措置をとるのが、集団安全保障といえます。集団的自衛権より効果的といえますが、教室の生とのうち、かならずある特定の5人の賛成が必要ということになれば、なかなか決まらないおそれがあります。
 わが国の場合、政府は、長年にわたり、憲法上、個別的自衛権を行使できるけれども、集団的自衛権を行使できないという立場をとってきました。
 親友のA君との関係で、自分がいじめられたら助けてほしいというけれども、A君がいじめられ、助けを求めているにもかかわらず、「家の決まりで君を助けることができない」といって何もしなかったら、A君との関係はおしまいになるでしょう。また、他からなんて自己中心的なのだろうと見られるでしょう。
 一方、ふだんからいじめっ子に「A君をいじめれば、僕はA君といっしょに闘う」ことを告げ、またA君も「彼がいじめられれば、自分も闘う」といっておけば、いじめっ子に対して容易に手出しできないという抑止力になることでしょう。この場合、A君だけではなく、B君やC君など仲間を増やし、おなじような約束を交わしておけば、さらに強い抑止効果を発揮するでしょう。

 親友がいじめられているときに、その場で彼を助けようと一緒に闘うことは個別的にはありえる。けれど、「自分がいじめられたら助けてほしい」と、ふつう親友には言わない。そうすることで、親友自体もいじめに巻き込まれることを、A君は恐れるからである。仮に「助けてほしい」と言えるだけの元気があり、いじめっ子が一人であるとしたら、A君は立ち向かう契機を潜在的に持っているし、それがいじめを脱する近道であるとも言える。また、いじめっ子に、「A君をいじめれば、僕はA君といっしょに闘う」ことを告げ」るということにもリアリティはない。それは、「僕」もその場でいじめの対象になると宣言しているも同然だからだ。誰が誰に対して、いじめいじめられの関係になるかが分からないのだから、「約束を交わ」しておくこともできない。ただ、A君には親友がいるのなら、それだけでもいじめに耐える支えを持っていることになる。

 こんな風に思えるので、そもそもこのたとえ自体にリアリティが感じられない。人間関係と国家間関係は次元が違うのだから、同列にすること自体に無理があると言いたいのではなく、わかりやすく説明しようとする際に、リアリティが感じられないということが、この本全体を通じて抱く印象を象徴しているように感じられた。

 後半の「国家緊急事態条項を導入すべし」、「集団的自衛権を考える」、「安全保障法制の再構築に向けて」は、政府答弁をなぞるようなもので、西修自身の声が聞こえてこない。いや、個別には政府の方針への是々非々も云々しているのだが、独立した声として響いてこない。むしろ、読む者を思考停止に追い込むような話の道筋が、政府と似ているようにも思える。

 このもやもやとした感じを抱きながら、後半へ来て、ぼくにも判断できる箇所があった。

 日米安保条約がわが国の安全に役立っていることについて、82.9%もの高い比率の支持が出されていることを勘案すれば、わが国の平和と安全にとって、自衛隊の存在と日米安保条約にもとづく米軍の駐留の果している役割が、あらためてはっきりします。

 西は、日本が米国に従属していることは不問に付しているわけだ。A君は相当ないじめっ子としてならしている親分の後をいつもくっついている。そして最近、いつも後をくっついているだけだったのを改めて、親分が何か手出しされそうになったら、自分も闘うことを親分に伝えたいと思うようになった。西のたとえ話にならえば、こういうことだろうか。しかし、これでは果てしない現状追認にしかならず、沖縄の米軍基地を本土からの不可視のまま置くことにしかならない。

 そこで私は提案したい。第9条を誰が読んでも自衛戦力さえもてない非武装条項に改めることと、誰が読んでも自衛戦力(軍隊)をもてるような条項に改めるための二者択一の国民投票を実施することを。いい加減、第9条に決着をつけるべき時期ではないでしょうか。

 という提案が「あとがき」に出てくる。この、あっさりした二択は、その中間のねじれを生きてきた日本国憲法制定から68年の身もだえが抜かれている。それはこの間の智恵も無意味化されるということだ。この方の主張には、三百万人とも言われる太平洋戦争の日本人死者の声が込められていないと感じるのだが、同時に、この68年の先人の努力の上にも立とうとしていない、むしろご破算にしたいのだと思えた。

 西修は1940年生まれとある。敗戦を通過した世代だが、少年の彼はそこで何を記憶していて、後年、それをどう捉え直して今日に至ったのだろう。何を背負って、一連の主張をしているのか、そこが見えない。そこで主張は知的エリートの概念操作にみえて、その分、響いてくるものがなかった。

 

『いちばんよくわかる!憲法第9条』


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2015/06/17

『憲法九条の軍事戦略』

 この本が出されたのはわずか二年前なのに、もう現実に追い越されてしまっている。松竹伸幸は、憲法九条の「制約」と言われているものを「優位性」に変えるとして、「専守防衛」と「集団的自衛権の禁止」を挙げているが、後者は政府が勝手に行使可能に、前者も危うくなっっているのが現状だ。

 この本の意義は、「護憲派」(というのが誰を指すのか、よく分からないが)にとってタブーだった「軍事戦略」を語り、具体的なアイデアを提示していることにあると思えるが、本が出されて以降の二年間で明らかになったのは、その「護憲派」の空洞化ではないだろうか。

 それは、具体的な政策に対しては反対が多いのに、依然として内閣支持率が不支持率を上回っていることである。これは、不支持の反対に支持するものが不在であることの現われのように見える。

 松竹は、憲法九条の軍事戦略として、「専守防衛」、「経済制裁」、「安全保障共有」の三つの角度から、戦略内容を提示しているが、そこには教えられることが多かった。しかし、最後のところでぼくは躓いてしまった。

 憲法九条の軍事戦略は、「安保条約」とは矛盾する。そこで、「安保条約」の廃棄は目標になる。ところが、松竹は、一方でこうも書いている。

 しかし、それでもなお私は、安保廃棄という戦略にくわえて、もうひとつの戦略も選択肢にいれておかねばならないと考える。とりあえず、安保条約そのもには手をつけない状態で、しかしアメリカの抑止戦略は変更させるという選択肢である。日本が九条の軍事戦略を確立するにとどまらず、アメリカにもこの戦略への同調を求めるということである。

 松竹のこの配慮は、「日米安保が役立っている」81.2%(2012年)という世論に目配せしたものだと思えるが、ぼくには、この選択肢の方が、廃棄以上に非現実的なものに思えた。

 憲法もそのまま、安保もそのまま、で、憲法九条の軍事戦略は展開できるのか。というより、もうひとつ説得されないのは、ここには理念の輝きが感じられないからなのかもしれない。松竹は、「護憲派」にも軍事戦略が必要だという問題意識からスタートしている。しかし、これも時代に追い越されてしまった。いま必要なのは、「護憲派」の空洞化に応える憲法九条の軍事戦略なのではないだろうか。

 

『憲法九条の軍事戦略』


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2015/06/16

『要石:沖縄と憲法9条』

 この本は、主に2004年から2010年までのエッセイや講演録を元にしているから、2015年の現状に対応したものではない。けれど、現在にも耐えうるタフなエッセイ集だ。

 共感し、多くのことを学んだが、ここには数少ない、唯一と言ってもいいかもしれない、小さな違和感の方をメモしておく。ダグラス・ラミスは書いている。

 同化・皇民化教育を受けていた「二流臣民」は、一九四五年の段階で、日本民族から離れ、別の国の国民になったと書いたが、言うまでもなく、その中の一つは戻ってきた。それが沖縄だ。沖縄の復帰は沖縄にとってよかったかどうかに関して議論があるが、ここで問題にしたいのは、復帰が日本の自己意識に対してどう影響をしたかということだ。帝国の下で支配していた地域をすべて失うことと、その一つを持ち続けることとは、かなり違うだろう。「沖縄大好き!」と言いだす日本人が多いのは当然だ。そして、あんなに多くの日本人(毎年沖縄の人口の四倍ぐらいの数)が沖縄に観光する理由もわかるだろう。美しい海ではなく(本土にも美しい海はある)その純植民地的な雰囲気が魅力なのだろう。沖縄が日本に戻ってくることによって、日本人の優位民族の自己意識が具体的な対象が帰ってきた。それを感じさせることが沖縄の「癒し」だろう。

 このところで、ぼくはぎょっとした。「日本人の優位民族の自己意識」があるのだろうか、と驚いて、驚きのあまり、考え込んでしまった。最近のあからさまなヘイト・スピーチを見ていても、個別にはいるだろうことは分かる。しかし、「沖縄」の「癒し」が、「日本人の優位民族の自己意識」であると一般化できるだろうか。

 ダグラス・ラミスは続けている。

 日本国憲法は戦後日本人の思想と行動に大きな影響を与えたはずだと書いた。しかし、憲法と同じぐらい、あるいはそれ以上の権威をもつ法律文書がある。それが日米安保条約だ。
 この安保が、戦後日本人の自己意識に与えた影響は何だろう。
 普通の、安保に反対しない日本人に、日本にある米軍基地について意見を聞くと、以下の四つの答えのうちの一つが返ってくるだろう。
 (1)われわれにとって米軍基地は不要だが、アメリカのような強い国の要望を断ることは無理だろう。
 (2)日本を敵国から守れるのは、アメリカだけである。
 (3)安保条約があって始めてわれわれの大事な平和憲法を守れる。
 (4)米軍基地がなければ、日本の右翼は復活し、また軍国主義になる。
 この答え方の共通点は、アメリカに対する下位意識だ。この文脈の中、「沖縄の癒し」はありがたいだろう。その侮辱的な米軍基地のほとんどを沖縄に置くと、侮辱感は減る。安保条約の具体的な結果、つまり基地と米軍は本土で薄い存在になる。沖縄にある基地を見に行く楽しみもある。日米安保条約の恥は日本の恥ではなく、沖縄の恥だ、と。そして、沖縄にある米軍基地は、日本の沖縄に対する優位性の具体的な証拠だ。それを見ることで、日本の優位を肌で感じることができる。日本人が「沖縄大好き」と言い、行くと気分がさわやかになるのは、「無理のない」ことだろう。

 ここでもぎょっとするわけだが、半歩進んで、「沖縄にある基地を見に行く楽しみ」を持つ人がどれほどいるだろうか、という疑問が浮かぶ。沖縄に旅行するほとんどの人は、目の端に基地が入らない限り、意識することすらないのではないだろうか。

 この本の後半の方で、もう少し問いを進めることができる。

 つまり、主流世論を代表している個人は、以下の考えを持っている人だろう。

 1 私は平和を愛している人です。平和憲法の日本に住んでいるのは、居心地よい。憲法九条をなくすのは、反対です。

 2 日本の近くに怖い国があるので、米軍が近くにいないと不安です。

 もちろん、この二つの意見は見事に矛盾していて、一つの社会の中で、または一人の個人の頭の中で成り立つはずがないだろう。その成り立つはずのない、二重意識はなぜ崩れないのか。
 答えは沖縄だ。
 日米安保条約から生まれる基地を「遠い」沖縄に置き、基地問題を「沖縄問題」と呼ぶ。基地のことを考えたいとき(福生や横須賀ではなく)「遠い」沖縄まで旅し、「ああ、大変」と思い、平和な日本へ戻ってくる。つまり、軍事戦略の要石として沖縄の位置は特によくないが、日本の矛盾した政治意識をそのまま固定するために、遠いけれども遠すぎてはおらず、近いけれども近すぎてもいない、ちょうどいい距離だ。
 その「距離」とは、地理的なことだけではない。ヤマト日本人の(潜在)意識の中で、沖縄は二つあるらしい。ひとつは日本の一部としての沖縄で、もうひとつは海外としての沖縄、である。日米安保条約の下で、米軍基地を日本に置かなければならない。沖縄は法的には「日本」になっているので、なるべく多くの基地を沖縄に置けば、条約の義務を果たすことになる。また、平和憲法の下で日本本土に外国の軍事基地を置くことはふさわしくないので、なるべく多くの基地を「海外」の沖縄に置けば、自分が平和な日本に住んでいるという幻想を(辛うじて)維持できる、ということだ。
 これは、沖縄が要石となっていあるアーチの応力図だ。そのアーチが崩れないためには、もうひとつの条件が必要である。それはなるべく考えないということだ。だからこそ、もっとも聞きたくないのは、基地の県外移設のことだ。その話は、アーチの要石を抜くことになるので、極めて怖いのである。自分が支持している(または大して反対していない)安保条約は、米軍基地を自分の住んでいるところに置く、という意味の条約だということを、なるべく考えたくないのだから。

 「二重意識」が崩れないのは、「沖縄」との「距離」だというのは、半ば同意できる。同意できるのは、本土で基地問題が顕在化しないのは、基地が不可視化されていることが関与していると思える点でだ。同意まで至らないのは、わざわざ基地を見に沖縄に行くという行為が行なわれるためには、「1」と「2」は矛盾であると意識されているのではないかと感じられるからだ。それよりは、「1」と「2」が矛盾と意識されないほど隔たっている、そこに道筋がつけられていないことが、問題になるのではないかというのが、ここから感じることだ。つまり、ここで取り上げられている個人は、「主流世論を代表している個人」ではないのではないか。

 もう少し先に、こうある。

 であるならば、平和ツアーに参加する本土日本人は、実際何をしに来るのだろうか。沖縄戦の跡地、資料館などを見て、「最後の地上戦が本土ではなくてよかった」という(潜在意識の)考えは、かなりの癒しにんるだろう。そして、米軍基地がどれだけ迷惑で侮辱的な存在であるかを学び、「絶対に米軍基地を私の住んでいる場所に置かせない。沖縄はかわいそうだけれども、やっぱり沖縄に置くしかない」と、基地はちゃんと沖縄に片付いてあるのを、自分の目で確認することも、気持ちのいい癒しになるだろう。
 そのような感覚がまったく入っていなければ、「沖縄旅行」と「反安保」との無縁さをどう説明すればいいのだろうか。

 ここまで来てようやく、ダグラス・ラミスが対象にしているのが、「平和ツアーに参加する本土日本人」であることが分かった。それなら、ダグラス・ラミスの言う構図は、想像することができる。想像することができるが、「沖縄」に対置させるなら、「平和ツアー参加者」ではなく、参加を思いつきもしないようなふつうの人にして、ぼくは考えたい。

 

『要石:沖縄と憲法9条』

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2015/06/15

『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』

 三上智恵監督の映画『戦場ぬ止み』には、「戦場に止めを」という硬いタイトルと内容であるのには違いないけれど、それとは全く逆の柔らかい優しい印象がやってくるのが新鮮だった(cf.『戦場ぬ止み』)。それをもう一度、確かめたくて、書籍になった『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ): 辺野古・高江からの祈り』を手に取った。

 そういう印象がやってくるのは、反対派の人だけではなく、容認派、警備会社の社員、機動隊、建設資材の運搬人等々のそれぞれの立場を、人間としては等価だと見なす視線が、映画に染み透っているからだが、この本でも、その視線は折々に顔を出している。

漁協の辺野古や汀間支部、宜野座を含めて、周辺の漁師たちは、海上の反対運動を批判しながらも、その数倍心配をしてくれている。船の係留が甘くて流されれば追いかけていってくれる。つなぎ直しをしてくれた後には大目玉もくらう。でもそれは、彼らがロープの結び目ひとつで生死を分ける経験をしてきているからだ。台風対策だって、ひとつ間違って反対運動の船が転がれば(風であおられた船が転倒すること)、港は大損害だ。運動団体の船など係留させるなという意見も当然ある。あんな年寄りに操船させて大丈夫か、誰が責任を取るんだという海人の意見を、私もよく聞かされた、「大迷惑だ」と言いながらも、視界のどこかで反対運動の船を気にかけ、徹底排除しないでいてくれるのは、この海を埋められたくない必死の思い、危険を知らずに海に出て行く無謀さと、あきれるほどの情熱を含めて、同じ海を大切に思う漁師たちの心に通じる何かがあるからだと、私は思う。
(前略)ずっと辺野古のテント村を守ってきた安次富浩さんはこう言った。「最後にやり逃げするような知事は沖縄の歴史にいなかった。(昨年末、仮病を使いながら政府の言いなりになったが)今度は県民のために、仮病を使ってでも手続きをしないでほしい」。とても優しい言い方だ。安倍政権に無理強いされているのだろう? 最後に自分を、沖縄を汚すようなことはやりなさるな、という忠告なのだ。立場は違えども同じ県民どうし、仲間だと思うからこそ、誤った判断をさせてはならないと必死で説得もするのだ。
 博治さんが上品とはいえない沖縄の言葉を羅列している映像だけを切り取って批判するズレた人たちもいる。うちなー青年たちに対する彼の愛と信頼がわからないのか。「同じ島に生きる人たちはみんな親戚みたいなものなんだ。仕事だからってこんなことをして、沖縄戦で死んでいった先祖にどう説明するんだ。わかれ、馬鹿野郎」。これを渋谷の街で標準語で叫んでも奇人で終わるが、名護署員や沖縄出身の機動隊員のなかには、心の柔らかい部分で受け止めてくれる人もたくさんいることだろう。映画の冒頭の排除シーンでも、私は編集をしながら、沖縄県警はつくづく優しいなと思った。トラメガを口から離さぬ博治さんをそのままトラメガごと、5人がかりでそっと脇に運んでくれている。「しょうもないおっさんだ」と呆れても、大嫌いにはなれない。島の言葉を介して、お互いのあいだに通うものが確かに存在すると、私も現場で感じている。

 反対派と容認派、仲井間知事と反対派、運動リーダーの山城博治と沖縄県警。辺野古を「戦場」として描けば、ふつう両者は対立の構図のなかに描かれる。「沖縄vs本土」のように。そしてそうには違いないのだけれど、それだけで語り尽くせるわけではない。いやむしろ、語り尽くせないことを、補足ではなく、そこにこそ力点がかけられている。そのことを強く感じるのは、辺野古の集落を描写した箇所だった。

 じっさい辺野古は、沖縄の他のどの地域よりも基地との交流がさかんで距離が近い。もちろん、ベトナム戦争の時代には、精神的にすさんだ兵士による区民の殺害事件がいくつもあった。軽犯罪などは数えきれない。それを少しでも減らすために辺野古地区は苦心してきた。占領下の警察が、アメリカ主導の民政府が、いったい何をしてくれたか。明日ベトナムに飛んで命を落とすかもしれない米兵が、歓楽街で酒を浴びて女性にすがりつく。朝方まで働く母や姉たちと入れ違いに、そのなかで学校に通い成長する青年たちは、どこの誰よりも地域の安全を確保する手段を真剣に考えただろう。その大きな柱が、キャンプ・シュワブと辺野古地区でつくる親善組織だった。イベントの共催だけでなく、旧部落の中は日没後は歩かない、この通りから向こうにはデイ入りしないなど、県も政府も解さない両者の合意が数々あって、それらはいまもキャンプ・シュワブの中でちゃんと守られているという。これは、日米合同委員会で決めて上から下ろしても護られない規律などと違って、顔が見える関係性を築いてきたからこそ「守らせている」「人間としての尊厳を認めさせている」のであって、辺野古の地域だけがもつ力だと思う。
 軍が悪い、政府が悪いと人のせいにして動かないのではなくて、面倒でも正面から向きあい、交流を重ねてきた結果、事件や事故を最小限に食い止めてきたという自負がへの国民にはあるのだ。だからこそ誇らしく運動会や角刀大会を取材させてくれるのであって、その結果「基地とその恩恵が大好きな辺野古」のような偏見で報道されたら、彼らがどんなに悲しい思いをするか、わかってほしい。

 「わかってほしい」。この切実さは、映画の画面からは押しつけがましくなく、過酷さを知らない者が素手で受け取れるものになっていた。

 基地の押しつけと他国の戦争に翻弄されつづけた沖縄の歴史。それは確かに負の歴史であるが、その負の歴史を地域の力で、日米の組織など当てにしない、人間対人間の力で前向きに転換してきた辺野古区民のありようは、もっと知られていいはずだ。でも、それを「今後もアメリカ軍と生きていくのも悪くないでしょう?」というロジックに絡めとられずに伝えることが本当に難しい。

 そう三上監督は言うのだけれど、辺野古の取材に限らず、映画全体として、都合のよい消費に絡めとられない力を持っていた。それがこの映画の勝利だと思う。

 そして、三上監督の視線を、「人の情」として言うのだけでは足りないと、この本を読んで思う。

 とはいえ、私はヘイトスピーチは沖縄には関しては定着しにくいだろうという楽観論ももっている。冒頭にも書いた通り、沖縄では誰かをおからさまに否定することは極力しない。人を追いこんだら逃げ場がない島で、非難される人よりも、人を責める人のほうが社会から嫌われる、そういう力学がある。加えて、まだまだ「言霊」に対する信仰が広く残っている。
 少々民俗学者のふりをさせてもらえば、沖縄で「言葉」は「クチ」とか「フツ」と呼ばれ、悪意をもった「ヤナフツ」は邪悪な力をもって相手に取り憑くと信じられている。軽口で「死ねばいいのに」と言ったつもりでも、強い言葉は相手の生命力まで奪い、その呪力は強く、一周して自分に返ってくるとも言われている。
 だから沖縄のおばあたちは「言葉には気をつけなさい」とよく諌めるし、言葉が強い人を敬遠する。本当の意味で、悪い言葉が命取りになることを知っているのだと思う。

 三上監督の楽観論はぼくも同感だ。言葉には霊力があるから、大事にしなければならない。それが島人の生活思想だ。そうではなく、言葉の持つ概念の力を生かして、対立する要素として抽出し、止揚するという方法がヨーロッパでは組み立てられ、それは「精神の運動」と呼ばれた。その「対立」は、この映画タイトルが指し示しているものでもある。けれど、ここにはもうひとつ別の考え方があって、避けがたく分け隔たったものを、つなぎ直そうとする力がいつでも働いている。ぼくはそれを培ったのは、珊瑚礁だと思っている。海と陸は隔たれたふたつの別の世界だ。けれど、その中間に、珊瑚礁が形成するイノー(礁池)は、陸でもあれば海でもあることによって、海と陸の境界を揺らめかせ、両者をつなぐ。言ってみればそれは珊瑚礁の思考だ。三上監督のいう「辺野古の地域だけがもつ力」が本当だとしたら、それは辺野古の珊瑚礁が大いに寄与していると思う。そして、三上監督はそれを彼女自身の共感力で察知し、映像に収めたのだ。

 だから、辺野古の海が傷つくのを島人は、自分の身体の痛みのように感じるのだし、次の指摘も胸が痛む。

 国際IPCC(気候変動に関する政府間パネル)によれば、2050年を待たずに地球上のサンゴは成長不可能になると予想されている。サンゴ礁の海は、地球の海全体から見てたったの2%の面積しかないにもかかわらず、魚種の65%がそこをすみかとしている。であれば、サンゴ礁が消滅すれば、海は人類を食わせていくことができなくなるだろう。

 食は欠かせないけれど、ことは食のことに限らず、珊瑚礁が培ったつなぎ直しに力を削ぐことになるだろう。けれど、それはまだ資産として活かせる。なにしろ、珊瑚礁の思考には五千年の歴史があるのだから。

 問題なのは、珊瑚礁の思考のように生活思想にまで根を張っているかどうか覚束ないもののことだ。思えば、ぼくたちは戦争について、ずいぶん経験者の抑止力に頼ってきたのではないだろうか。島袋文子が、前線に立つ。そういう姿に、天晴れな「をなり神」をみて頼みにしてきた。けれどもう、経験者の抑止力に頼れないことは、政治の世界が露骨に見せているとおりだ。経験を持たない者が、それをどう受け取り、展開していけばいいのか。三上監督の作品は、そこにひとつの切開面を見せてくれていると思う。

 

『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ): 辺野古・高江からの祈り』


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2015/06/14

アマム(ヤドカリ)の身をやつした姿

 アマム(ヤドカリ)がトーテム原理の崩壊とともに、どう身をやつしていったのか。伝承や神話を拾い上げてみる。

 1.国頭

 大昔、天と地は今日のように隔たってなく、当時の人間たちは立って歩くことができず、蛙のように這って歩かなければならなかった。アマンチューはこれを不便に考え、ある日のこと、堅岩を足場にし、両手で天を支えて高く持ち上げた。これにより天地は今日のようにはるかに隔たった。某所の大きい足跡は、そのときのアマンチューが踏ん張った足跡である。(国頭、佐喜真興英『南島説話』)

 2.石垣島1

人の始まり
島の最初に、方言アザブネラ(あだん科)自生し、常緑の葉繁茂せり
二番目に、やどかり(方言アマッザ)が樹根の下より穴を穿ちて、
「カブリー」といって出てきた。
三番目には、其の穴より、
「カブリー」と唱へつつ、男女二人が現はれた。
二人は、日を逐うて飢餓に迫られたとき、ふとアサネブラを仰ぎ見るに、巨大なる球の果実(方言、アサヌナリ)が黄赤色を呈し熟せるを、手づから探りて、一日の食となして安楽な生をつなぐ事が出来、子孫繁殖した。(石垣島、岩崎蝶仙「鼠の花竜(一)」「旅と伝説」1931年)

 3.石垣島2

アマン神が、日の神の命で、天の七色の橋からとった土石を大海に投げ入れて、槍矛でかきまぜて島を作り、さらに人種を下すと、最初にやどかりがこの世に生れ出た。地中の穴から男女が生れた。神は、二人を池の傍に立たせ、別方向に池をめぐるように命じた。再び出会った二人は抱き合い、その後、八重山の子孫が栄えたという。(石垣島白保)

 4.宮古島

 昔、天の神が親太陽、母太陽の神をこの世につかわして、宮古の島建てを命じた。島造りのはじめは中骨をつくることで、あたまは来たの島尻、狩俣、しっぽは保良の岬をつくった。そのまわりもみごとにつくり、浜々も完全につくって宮古島と命名した。そして親太陽、母太陽の神の住居に万古山が決められた。人間をつくるには、まず蛙をしらべてそれを手本に苦労してつくった。しかしはじめの子は「水の子」であった。それから多くの人間をつくった。最初の村建てを平井村と名づけた。これは万古山のすぐ近くにある。この村は数年の間さかえたが、ある年の十五夜の日に、村民がブタを殺して神にささげたので、神は血だらけのものは非礼だと怒り、他の神々とも相談して、この村から追い立てた。数日間ヤドカリで攻めさせたので、村人はこの村を立ちのき、八重山に新しく平井村を建てた(p.409、谷川健一『南島文学発生論』)。
 「この宮古の海岸の洞窟には大きな蟹のようなヤドカリがたくさんいる。そしてヤドカリは神の下等な使いと思われている(p.409)」

 5.与那国島

 大昔、南の島から陸地を求めて来た男がありました。その男は大海原の中に、ぽつんと盛り上がった「どに」を発見しました。その「どに」には人間は住んでいませんでした。南から来た男は、この「どに」に人間が住めるかどうかを試みるために、「やどかり」を矢で放ちました。そこから幾年か経って、この「どに」に来てみると「やどかり」は見事に繁殖していました。それで、その男は南の島から家族をひきつれて来て、この「どに」に住みました。(池間栄三「与那国伝説」)

 6.沖永良部島

 アマムすなわちヤドカリに言い入れて相手の屋敷に放つアマムグチ(柏常秋『沖永良部民俗誌』、cf.「呪言の思考」)。

 琉球弧でも珍しい山岳の景観を持つ国頭にふさわしく、山そのものを擬人化した精霊としてアマムは現れている。石垣島の前者の方は、二人の男女が土中から現れるのに先立って、アマムは地上に現われる。次の石垣島の例でもそれは変わりないが、神がそれに先立つものとして存在している。宮古島の例では、もうアマムは出現するものではなく、「神の下等な使い」とされている。また、沖永良部島では、呪具になってしまている。宮古島や沖永良部島の例は、アマムがもっとも身をやつした姿だ。

 与那国島の場合は、すでに神話的なベールははがれているが、島に住むというモチーフをめぐって人間とアマムとのつながりは保たれている。アマムはそう身を落とすことなく、存命したようだ。


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2015/06/13

『太平洋―東南アジアとオセアニアの人類史』

 ピーター・ベルウッドの大著、『太平洋―東南アジアとオセアニアの人類史』は、棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』を補う参照用辞典のように使えそうだ。

 たとえばマンガイア島の他界への道行きで、この世とあの世をつなぐ穴が塞がれる契機になったのは、死者が「生者を病気や死で苦しめて、とても面倒を起こすようになった。彼らは、食糧を盗んだり、妻を奪ったりもした」からだった。ぼくはそれを、現世の地上の利害の矛盾を他界の共同幻想に押しやったものと見なしたが、この本で得られる解説は、裏づけてくれるものだった。

不毛な土地が多いマンガイア島に関して述べるなら、食料の多くが塩田からとれるタロイモであったので、当然住居もこの湿田付近に寄り集まることになった。食料源が特定の場所に集中していることから、マンガイア島ではよく争いがみられることとなった(p.467)。

 ニューヘブリデスのエファテ島には、ロイ・マタという酋長はレトカ島に埋葬されたが、多くの家臣が自発的に殉死したという伝承が残っている。そして実際、レトカ島で、計35体の埋葬骨が発掘された。うち、11対は男女のペアだった。その写真が載っているのだが、まさに添い寝というのが相応しく、女性が男性に寄り添っている。けれど、ロマンティックに見なすわけにはいかない。

集団埋葬された中で男たちは、埋葬前にカヴァ飲料水で麻痺させられていたかのように無防備で、しかし女たちの多くは生きて意識をもったまま埋められたことを推察させる姿勢であらわれた(p.358)。

 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態』では、エファテ島の葬法は、坐位埋葬だが、死体を墓穴に納めると、一頭の豚を連れてきて頭を切り、胴体もろとも副葬をする。やはり、霊魂思考が強く、豚を他界へ伴だたせている。これが人間の代わりであるということだ。

 また、老人が「その要求により」生きたまま埋葬されることがある。深い穴に老人を坐位にして沈め、豚を連れてきて老人の腕と豚を綱でつなぐ。そして綱を切り、葬宴で豚を食べる。そして老人に蓆を被せ土をかける(p.230)。

 この習俗をみれば、殉死が行われるのに無理がないのが分かる。また、殉死者は伸展位を採っており、これは坐位と異なることも、麻痺させた上での殉死であることを裏づけるのかもしれない。ただ、『太平洋』では、「食人風習の結果と思われる散乱する人骨やブタ骨もあらわれ」と出てくるのだが、直接的な霊力思考も強いことを示すものなのか、分からない。

 琉球弧や日本については、見るべき記述がなかった。


『太平洋―東南アジアとオセアニアの人類史』


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2015/06/12

『与論島慕情 YORON BLOOD』(川畑兄弟)

 与論の島人が口ずさめる島唄がほしい。与論(ユンヌ)の島人なら、誰でもそう思っているのではないだろうか。もちろん、与論の島唄ならいくつもある。けれど、最初の一節から鳴るやいなや、あああれだと誰もが心ほぐれる一曲は、ないと言っていい。

 「与論島慕情」があるじゃないか。そう思うかもしれないけど、これは与論島の観光ソングで、島人のための島唄ではないのだ。けれど、ぼくは批判したいのではない。面白いことに、にもかかわらず「与論島慕情」は、与論ではもはや島唄の地位を占めているのかもしれない。かく言うぼく自身も、この曲のイントロが流れただけで、涙する準備ができてしまうくらい、やられてしまう。帰島や離島の際に、客船クイーン・コーラルでいつも聴いていたので、その時のたまらない気持ちが蘇ってしまうのだ。

 与論の島人は、高校を卒業すれば一度は、島立ちをする。ほとんどの島人は、帰島や離島の際に「与論島慕情」の洗礼を受けることになる。そこで、観光ソングであるにもかかわらず、まるで島人のための曲のような顔つきをして、島人(ユンヌンチュ)の琴線に触れ続ける。これは、そういう特別な曲なのだ。

 だから、川畑兄弟が「与論島慕情」をカバーするのはよく分かるし、これはカバーされるべき曲だった。同じように、「与論島慕情」の前に、その地位にあった「与論のサンゴ祭り」がカバーされているのも頷ける。

 「YORON BLOOD」。与論の血とはどんな血だろう。お茶目で、万事にこだわりなく、大人しい。長いものに巻かれるんじゃなくて、長いものに巻かれるものにくっついていく。放っておかれることは常なので、諦念はそれと気づかないほどの習い性。これも皮肉ではなく、小さな島の、それでいて過酷ではなかった自然がもたらした性分だ。ヌガ、ナユンマーニ。

 けれど、血が騒ぐ。そういうことはあるものだ。「川畑兄弟」という、よく響くユニット名を得て、川畑アキラの血も騒ぐのだ。こうして生まれたのがこの作品だと、ぼくは当て推量した。ウトゥショー。

 この試みがもっともっと続けられ、いつか、島言葉を含んだ、琉球音階メロディの島唄誕生まで、辿り着くといいなぁと思う。ションシ。


『与論島慕情 YORON BLOOD』

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2015/06/11

「日本人の死生観」(吉本隆明)

 吉本隆明は、未開、原始の時代に日本人が死後についてどう考えていたかについて話している(「日本人の死生観Ⅰ」『心と生命について』)。

 ・死んだあと人間の魂はあまり遠くへは行かない
 ・魂は繰り返し、繰り返し、また帰ってくる
 ・この世とあの世の間には、そんなに断絶、分け隔てがない
 ・いつでも呼ぼうとすればやってくるし、いつでもじぶんのほうがから行くことができる

 あの世はどうか。

 あの世をどのように思い描いていくかと考えると、日本人が考えていたあの世は三つあると思います。ひとつは、もちろん村里のそばの山です。山の頂にあの世があって、死んだ魂は山の頂にとどまっている。またいつでも迎えに行けば帰ってくると考えるので、ひとつは山だと考えるべきだと思います。
 もうひとつは海、海のかなただと考えていたと思います。海のかなたにあの世があって、船に乗っていけばそこへいつかは行ける、またそこからは何らかのかたちでやってきて、いつでもこの世には生きているものがあると考えていたと思います。
 そしてもうひとつ考えられるのは、地下です。海岸の洞窟みたいなものを通して、その洞窟の向こう側の地下にあの世があって、いつでもそこへ行けるし、また洞窟のところに行くと、いつでもあの世と行き来する、交感することができると考えていたと思います。

 この「山」、「海の彼方」、「洞窟の向こう側」の三類型を琉球弧に引き寄せていえばこうなる。

 1.「洞窟の向こう側」
 2.近くの島。「山」に対応
 3.「海の彼方」

 琉球弧でも、「山」はありえるが、普遍的とは言い難い。「村里のそばの山」に対応するのは、「近くの島」だ。この「近くの島」は必ずしも、死者を葬った島のことではない。それはむしろ「洞窟」に対応している。「近くの島」だという伝承はほとんど残っていないように見える。しかし、海の彼方からやってくるニライ・カナイの神が、いったん近くの島に着いてから島に来るという、来訪の途次に寄るその島が、かつては他界と考えられた「近くの島」を意味していたと思える。

 それが「海の彼方」になるのはなぜか。吉本は書いている。

 たぶん海のかなたに人間が死んだあと魂のあり場所があると考えた人たちは、稲作を持って日本に渡ってきた人たちではないかと思います。つまり海のかなたから渡ってきて、そして稲作を持って平地・里に入ってきて、そこで農耕に従事した人たちの伝承が、たぶん海のかなたにあの世があって、そこから魂はいつでも帰ってこられるという考え方をとったと考えられそうに思います。

 琉球弧の方へ引き寄せてみると、「近くの島」が「海の彼方」へ遠隔化されるのは、ふたつの契機があると思う。ひとつは、再生信仰の弱まりにより他界が遠隔化されるということ。つまり、自由な行き来ができなくなるということ。もうひとつは、稲作をはじめとした新たな人工物や技術をもってきて島々へやってきたこと。そこで、それを迎えた島人たちが他界を遠隔化するのである。

 吉本がはじめに挙げている魂のありかについては、生と死が移行の段階にあり、かつまだ空間化されていないときのものだ。その段階の思考を日本もよく保存してきたし、それは琉球弧も同じだ。

 この講演は1986年のもので、「詩魂の起源」の少し前になる。約30年前の内容を咀嚼できるところまで、ぼくたちもやっとたどり着いたわけだ。

 「洞窟の向こう側」の地下という空間化の契機は、霊力思考の合力化を受けると、地上化して、近くの島や海の彼方という空間化も受ける。だから、地下と海の彼方が併存するように二重化する。トロブリアンド諸島では、他界は実在するトゥマ島だが、これについて島人の見解は一致しない。

 ある者はトゥマ島にあって、バロマはそこに住んでいると言う。別の者は、地下のトゥマに行くという。この二重化は統合されて考えられていない。マリノフスキーがそこに加えた注釈はとても重要なものだと思う。

ともあれ私は、彼らの観念は、固定化されない形のままになっていること、定式化されるよりは感じられ、バロマの性質やさまざまな存在条件を分析的に検討するよりは、バロマの種々の活動に関わっているものだということだけは確信できるのである(p.40、『バロマ ― トロブリアンド諸島の呪術と死霊信仰』)。


『吉本隆明〈未収録〉講演集2 心と生命について』

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2015/06/10

『戦争はどのように語られてきたか』

 戦時下の文章は、雰囲気で書かれていることが目を引く。多田憲一は最たるもので、数多の思想家の名前を列挙したペダンティックな書きぶりで意味不明なのだが、結論は「枢軸三箇国は、実に「飛躍」と「創造」によつて哲学せられてゐるのである[!]」(1943年)と現状追認も甚だしく、過剰意匠と内容の空疎さにおいて際立っている。

 また、雰囲気というだけでなく書き手の高揚感も著しい。暁烏敏は、「今度の戦果をみると、人間と人間との戦争ではない気がする」、「戦争は神が人類を浄化せられるみそぎはらいの活動である」、「東洋の諸民族に対して我が万世一系の天皇の大御心を知らしめることが大東亜戦争の目的ではないか」、「我等日本人には万国の思い及ばない偉大な天皇精神のあることを確信するのである」(1942年)などと書く。戦争は「禊払い」とまで見なされていたのだ。

 大川周明は、「熟々考へ来れば、ロンドン会議以後の日本は、目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引張られて往くのであります」、「此の偉大なる力は、私の魂に深き敬虔の念を喚び起します。私は此の偉大なる力を畏れ敬ひまするが故に、聖戦必勝を信じて疑はぬものであります」と、高揚感がすさまじい。「聖戦」という言葉は、日本でも使われていたことを覚えておきたい。

 橘孝三郎は、「圧倒的闘力の現化者が同時に世界救済文明の創造者たることに依って、始めて人類は近世西洋唯物文明の人類否定状態から救済され得る」(1943年)と、まるで新興宗教だ。そしてその根には、

それにしてもかかる現人神信仰は東西に普遍しておったのであるという事を知らねばならん。ただ幸いにして日本は之を滅ぼす事なしに、その正反対にこのアキツカミ信仰によって国体の本源を創造し出したと云う事実を考えられる国にせねばならん。

 という「現人神信仰」がある。「生き神」の信仰はここまで膨化できる、ということだ。

 石原莞爾の「最終戦争論」は壮大で軽い。「建国精神」から「昭和維新」。「昭和維新」は一方で「生産力の大拡充」から「産業大革命」の流れを生む。他方では「東亜連盟結成」を生み、それは「産業大革命」による「決戦兵器」を受けて「最終戦争」へと至る。「産業大革命」は「物資の充足」、「建国精神」は「思想・信仰の統一」、「最終戦争」は「政治的統一」を生み、「八紘一宇」が成就される(1940年)。石原はこれを図解化しているのだが、企業の中期計画のプレゼンテーションみたいだ。石原が今の人であれば、pptが大好きだったろう。

 このなかにあって小林秀雄の「戦争について」は、今も立ち止まらせる。しかし、核心の部分は同意はできない。

 日本に生まれたといふ事は、僕等の運命だ。誰だつて運命に関する智慧は持つてゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であつて、運命をこの智慧の犠牲にする為にあわてる事ではない。

 現在でも「運命」とする感性は強いと思えるが、ここには小田実の言葉を対置しておきたい。

戦争が終結に近づくにつれて、国家原理と個人が背理して行ったことはまえに書いたが、そのことによって、おそらく、私たちは国家と自分が別ものであるという意識を、それとはっきり意識しないまでも次第に育て上げていったのだろう(1966年)。

 1942年2月14日。近衛文麿は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と上奏している。

敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候、随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕候。

 ここで天皇が動いていれば、沖縄戦も原爆投下も無かったかもしれないのだ。

 また、敗戦の詔勅には「遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」という文言が見られる。いまの政治家が流用する他人事発言は、少なくとも戦後、ここに端を発していると気づかされる。

 敗戦後。

 しかし国民は、軍国日本の討伐を、国民みずからやったのではなかったということをいっそうよく心得ていねばならぬ。われわれ国民は、大体のところ最後までだまされていた。(1946年)

 中野重治の「だまされていた」という言葉は軽い。しかし、「日本の人民は、自己の力で日本を独立国とせねばならぬ。それが、日本の敗けたことを、ほんとうに知るということである」と、「敗戦」を「終戦」と言い換える欺瞞は免れている。

 坂口安吾の「もう軍備はいらない」(1952年)は胸がすく思いがした。

 人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。
 戦争にも正義があるし、大義名分があるというようなことは大ウソである。戦争とは人を殺すだけのことでしかないのである。その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない。

 これは、戦後心情の起点にあるものだ。

 竹内好は、日清、日露、「大東亜戦争」の開戦の詔勅を分析している(1959年)。

 日清、日露の差は小さいが、この二者と大東亜戦争の差は大きい。

 1.「百僚有司」(政府関係者)と「衆庶」までが「朕」に組み込まれた。「億兆一心」が期待され、「国家の総力を挙げ」という総力戦の性格規定がなされた
 2.開戦の意志主体が国家でも元首でもなく、「皇祖皇宗の神霊」であり、「祖宗の偉業を恢弘」するための戦争だと説明されている
 3.国際法規の遵守が条件として示されていない

 3つ目について竹内は、「行為が法をつくるという考え方である。つまり戦争そのものが目的化されている」と指摘するが、そのまま現政府の思考に当てはまるものだ。

 安保闘争のさなかに書かれた谷川雁の「私のなかのグァムの兵士」(1960年)は骨太だ。

 新憲法感覚や民主主義を守るという観念と安保根性を打破するという命題とのいずれかがその内包において豊であり、その外延においてフレキシブルであるか。私は後者をとる。

 これはそっくり今でも通用するのではないか。

 また、鶴見俊輔の「平和の思想」(1968年)も太い。たとえば、

 現代の世界の状況は、どういうものか?
 現代では、平和はどういうメカニズムで守られているか?
 現代の条件で、平和を守るために何をなし得るか?
 このような発想からなされる平和論も、平和の思想の領分だろう。しかし、戦中、戦後の日本の言論の歴史は、このように世界の大勢からときおこす人々が、平和の思想から平和以外の思想にかわりやすいことを示している。世界の大勢の論議は、外からつたえきいた知識として成立する他ないし、それは、きわめてたやすく別の世界像におきかえられる。したがって、大量の知識にうらづけられてるように見える状況論も、その大部分が、他のものと自在にとりかえ得る部品からなりたっている。

 これは、情報過多な現在にも通用する視点を与えてくれる。

 この本のなかでは、最後の二論文、渡辺京二の「戦争と基層民-天皇制国家の円環」(1976年)と加藤典洋の「戦後再見」(1985年)が、重量感を放っている。

 渡辺は、戦前社会の特徴として、「強烈な排外的好戦主義の衝動」を挙げている。しかもそれは「基層民」発のものだった。それは憑きもののようなもので、終わってみれば、なぜそうなったのか、分からなくなる。なぜ、戦前社会において戦争という憑きものは必然だったのか。

 明治国家の創出者たちにとって、「天皇制とは、近代的市民社会国家への過渡である明治国民国家の分裂的構成要因を統合するひとつのフィクションであった」。「明治維新はもとより封建制の絶対主義的再編成でもなければ、たんなるブルジョワ革命だったのでもない。それは国家による資本制の創出という特異な任務をになった革命であっ」た。「富国強兵」とは、「国家による資本主義の創出」ということと同義だった。

 明治の支配エリートは、「日本近代市民社会国家は同時に天皇制国民共同体なりという仮定の重みにたえかねたのである」。

明治の支配エリートが創り出した神話は奇妙な独り歩きを開始した。共同体的遺制に封鎖された基層民を統合するためのシムボルであったはずのものが、基層民の欲求を奇怪に変形して吸いあげるサイフォンの役割を果しはじめた。この逆転が中間イデオローグの軍部への浸透という昭和前期特有の下剋上の過程をとり、端的には統帥権的天皇の木間接的天皇への反逆という現象として現れたことについては、ここで委細を分析するまでもあtるまい。

 「基層民の欲求」とは何か。宮崎滔天(とうてん)は、日清戦争時、召集を避けるために国外に逃げようと軽口をたたいて、母親に叱責される。そのときの言葉が、「世間に顔出しが出来ぬ」というものだった。彼らを拘束し駆り立てたのは、「近代的ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であった」。母親の怒りは、「村落共同体の倫理の表明であったというべきである」。

明治国家とは国家規模に拡大された共同体であるという天皇制的擬制は、庶民意識におけるこのような国家と村落共同体の短絡に支えられてこそその機能を全開的に働かせることができたのだった。
 天皇制共同体国家という擬制に対する「観念的昂進」は、「村落共同体ないし下町共同体という現実の媒介が崩落あるいは変質して、市民社会的現実のなかに基層生活民が個として投げ出されることによって生じたのである。彼はそのなかで依然として共同性の幻を追いつづけるとすれば、いまや媒介を欠いて個として天皇に直通するほかなかった。昭和前期の右翼的狂乱の心理的基礎はかくしてつくり出されたのである。
 わが国の基層的生活民が十五年戦争を黙々として支持したのは、市民社会的現実からたえず剥離してゆく自分たちの欲求を戦争がみたしてくれるのではないかという幻想があったからである。

 渡辺は結論的にこう書いている。

 誤解をおそれずに断定すれば、戦争へとなだれうつ基層生活民の欲求は、彼らのあらゆる欲求のなかでもっとも本質的に人間らしい美しい欲求であった。ただ彼らはそれを政治的に表現しようとするとき、中間イデオローグの媒介と収奪をまぬかれることができなかった。近代天皇国家には、支配エリートが天皇制イデオロギーを基層生活民になげかけ、それにもとづいて培養された基層生活民の天皇制的共同体幻想が中間イデオローグに思想的発条(ばね)を提供し、中間イデオローグはそれを右翼ナショナリズムのイデオロギーに変形して支配エリートを脅迫するという、基本的円環が存在した。基層生活民の欲求はこの円環からぬけだすことができなかった。

 ここに「生き神」への信仰を置けば、戦時中に高揚感のなかで書かれた文章にも届く説得力があると思う。

 現在、天皇制は共同体を幻想させる力を持っていない。しかし、「基層民」は都市に個として投げ出されるだけではなく、「自己責任」として分断されている。そこに新たな「中間イデオローグ」が跋扈する余地が生まれている。しかも、「基層民」は共同体幻想を持てないので、現状破壊への衝動を潜在させているように見える。そういう現在への視点へ示唆も与える論考だ。

 加藤典洋は、原爆投下までの流れを追っている。当初、ポツダム宣言には、「日本に立憲君主制を保持させることを明示する一項」が設けられていた。しかし、原子爆弾の完成の報を受けて、この一項は削除される。

 即ち、「原子爆弾」が現実のものとなった時、ほかの二つのカードはトルーマンの眼に取るに足らないものとみえた。トルーマンとバーンズの無意識の秤のふたつの受皿に、日本を降伏に追い込むカードとして原子爆弾という未知のおそるべき「威力」と、やはり未知の天皇という存在のおそるべき「威光」が置かれ、つりあい、等価交換されるという瞬間が存在したのは、この時であり、スチムソンのように天皇の「威光」と原子爆弾の「威力」の併用ということを考えなかった二人の考慮の中で、七月十六日の夜、「天皇」というカードは急速に魅力に乏しいものとなっていったのである。

 「天皇の威光から原子爆弾の威力へ」。

こうした等価交換のうちに「心変わり」を果したのは、トルーマン、バーンズだけではない、日本人のほとんど全部だったことを、この後のぼく達の歴史は示している(後略)。

 この等価交換のうちに潜むもの、それは天皇制国家観、無条件降伏という思想にも通底する。「つまり或る絶対的存在地点を持ち、そこを媒介にして世界を見ている」。

 このことへの注意は、何人もの論者がそれぞれに指摘している。

 戦争一般を原理的に否定するものは絶対平和主義しかない。しかし絶対平和主義は具体的状況への適応能力には欠けている(竹内好「近代の超克」)。
 反戦運動家は、核兵器の大量生産と高度化を、いったん戦争がはじまれば、全人類の絶滅をともなうほどの破壊力をもっているために、いわば戦争を実質的に不可能にさせる契機とみなしている。そして、今では、何はともあれ人間の絶滅をともなう可能性をもっている核戦争は排さねばならないとするのである。この考察は、一見すると申し分のないようにみえるが、ひとつの超越倫理であることをまぬかれない。いいかえれば、あらたな宗教性の情況的な復元を意味している。全人類の絶滅の可能性という前提のまえに、現実の体制も、そこでの矛盾をすべて帳消しにされて、もっぱら核戦争の危険だけが至上の命題におきかえられているのである。(吉本隆明「非行としての戦争」)。
 平和主義という思想は、どんな平和でも平和ならいいのか、平和のかげにどのようなひどいことがなされていても平和ならいいのか? という難問をかかえている。平和を、ただ戦争なしの状態と規定して、これを他のあらゆる価値の上におくならば、この難問をかえりみることなくはじめから切り捨ててしまうことになる。そうすれば、いかなる戦争にたいしても、いつもその当事者双方を責めるということになるだろうし、そういう立場のとりかたは、論理的には明晰だが、社会思想としては、不十分なものになろう。そのような平和主義は、もし文字どおり社会に適用されたなら、今の社会における富の不均等と権力の不均等を正当化することになり、平和の下で進行する飢えと搾取と差別とを見過すことになる(鶴見俊輔「平和の思想」)。
(前略)絶対平和主義は、「敵」もまたその立場をとらないかぎり、倫理としては成立しても、現実の論理としては成立し得ないという根本的欠陥をもち、現在の世界では、まだまだ、それは十分な力となり得ない。(小田実「平和の倫理と論理」)。

 これらの注意を、現在から照らすと、「超越倫理」に陥らないためのガイドラインではあるが、「超越倫理」に陥らずに展開される思想の言葉や運動は、あまり深化されずに来たのではないかという内省がやってくる。たとえば、それは、原爆投下の当事者たちを告発する、という小田実の主張のなかに具体化の一端を見ることができるが、それが議論として引き継がれてないように見えるのだ。

 ここで加藤の等価交換に戻ると、「天皇」から「原子爆弾」の次に、「原子爆弾」を含みながら、ぼくたちの前に置かれているのは、「日米安保」なのではないだろうか。それは、現在の平和運動のなかでもなかばタブー化されているという点で、天皇のあり方とも似ている。また、小田の主張が継続されていないことにも通じていると思える。

 

『戦争はどのように語られてきたか』


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2015/06/09

「産小屋の底になぎさの砂を敷く」

 出たばかりのころ手にした谷川健一の『失われた日本を求めて』を再読した。

 古代日本人は現世と他界は瓜二つの相似と考えた。今でも沖縄の与那国島では五月四日のハーリー船の競争のときには、あの世でもおなじ日に競舟がおこなわれると信じられている。この現世と他界の中心線にあたるものがなぎさであった。古代になぎさに産屋を作ったのは、海の彼方の他界にあるたましいは、ふたたびこの世に生まれ変わると思われたからであった。古代人は誕生はすべて再生と考えたのである。なぎさはもっとも神聖な場所であったばかりでなく、自然なリズムの一番感じられるところであった。潮がみち潮がひき、朝が去り、夕べが訪れる。渡り鳥はるとき、貝や海の藻はながれつく。このすばらしいなぎさを平然と破壊している企業や官僚の心根が私には分からない。

 魅力的な考え方だが、これは誤解ではないだろうか。他界が「海の彼方」にあるということは、すでに生と死は、移行から分離の段階に入っている。そこでは、再生信仰は、衰退あるいは断念されているはずだ。そして衰退あるいは断念された再生信仰に代って、来訪神がやってくるのだ。

 この考えを打ち出すもとになった見聞も谷川は別のエッセイで記している。立石半島の常宮では、「産小屋の十数メートル前の海の砂をはこんで底に敷き、その上にワラをのせた。ワラの上にはムシロを、ムシロの上には蒲団を敷いた。産婦は縄を握りしめてお産をした。この話に感動した谷川は、「産屋の砂が新生児の母胎となった」としている。

なぎさは常世の神が海の彼方からやってくるとき、最初に足跡を記す場所であった。トヨタマヒメの伝説に見るように、古代に産屋をなぎさに立てたのは、そのことと無縁ではないと私は考える。産小屋の底になぎさの砂を敷くのも、また産小屋の砂をウブスナとして神にまつるのも、もはや私たちが忘れてしまった太古の信仰の無意識の表白にちがいないと私は思っている。

 「産小屋の底になぎさの砂を敷く」のはとても魅力的だ。けれど、「南島産育資料」(「南島研究17号」)に当たったが、なぎさに立てる習俗は見当たらない。また、そうするには、海に近い平地に居住地を持った段階でなければ考えにくいと思う。

 徳之島の松山光秀は印象的なエピソードを書いている。子供の時分、秋の暮れごろの晩、祖父に連れられ四、五人で漁をするために松明をつけて浜辺に降り立ったが、少しはやく来てしまったらしく潮待ちをするこなった。その時、祖父が銛で、白砂の上に一辺四、五メートルほどの四角形を引き、その囲いのなかで、なにごとかを小声で唱えながら両手を合わせて祈り始めた。それから用意してあった筵を囲いのなかに敷き、祖父は子供たちをその上に座らせ、漁の終わりまで待たせたという。後年、松山は父から、「これだけの囲いは、今宵私に貸してください」という意味ではないかと聞く。

 松山は考える。祖父が、「貸してください」といった相手の神は、ニライの神だったろうか。しかし、海はニライの神のものでも、砂浜は陸地だ。また砂浜のそばには邪悪なものを含めてさまざまな神たちがいる。砂浜とかかわりを持つ神は多い。「なぜ砂浜にはこのように神々がつきやすいのか、不思議なことである」。(cf.『徳之島の民俗〈2〉』

 もし、祖父が海に向かって祈ったのなら、それはニライの神だと思える。田畑英勝は『奄美の民俗』のなかで、これと位相同型と思える口むとぅ(呪言)を紹介している。

 夜待ちをする時のたぶぇ

 とおとぅがなし  神様
 よね 一夜(ちゆゆる)  今晩一晩
 わんねぃん くぅま  私に ここを
 貸らしくんそーれじ  貸して下さい(名瀬市)

 *猪待ちをするために木の上などに棚をこしらえて待つがその時座敷の四隅に柴をさし、こう唱える。

 祖父はこの呪言を知っていたのだ。松山の経験している時点は、海の彼方の他界の段階に入っている。そこでは、砂浜も禁忌の場所でありえた。やはり、産屋の場所ではないのではないだろうか。

 

『谷川健一全集〈23〉評論2―失われた日本を求めて(抄録)評論 随想』


『徳之島の民俗〈2〉コーラルの海のめぐみ』


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2015/06/08

『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』

 『列島創世記』は、ボリュームに対してリーズナブルなのに驚いた。次にひとりの著者で四万年を横断しているのに驚いた。著者の松木武彦は、「文化と社会の全体を対象に、一貫した物質資料を分析と解釈の方法論の基軸として、ひとりの著者が日本列島四万年の歩みを綴ろうとする試みはまれだ。その意味で、私にとってもこの本の執筆は、能力の限界ぎりぎりに奮迅する大仕事となる」と書いている。これは、素人として琉球弧の思考に接近しようとするぼくなどには励みになる。

 社会変動の大きな引き金になった気候変動のアウトラインとその特徴を書いておく。

 1.[1寒]第一寒冷化期:後期旧石器時代の約2万年前まで
 2.[1温]第一温暖化期:後期旧石器時代後半~縄文時代前期(約2万年前~7000、6000年前まで)
 3.[2寒]第二寒冷化期:縄文時代前期~晩期(7000、6000年~2800、2700年前
 4.[2温]第二温暖化期:弥生時代前半(2800、2700~紀元前後)
 5.[3寒]第三寒冷化期:弥生時代後半~古墳・奈良時代(紀元前後~紀元後八世紀)

 [1温]:植物資源への依存が増し、定住という社会が生み出されたことにより、旧石器から縄文へ移行
 [2寒]:東日本を中心に、植物資源が減退し、それに依存して定着する集団的伝統の強い社会から、個人や小集団の才覚で資源を求めて動く機動的な社会への移行が出発点となり、縄文から弥生へ移行
 [3寒]:危機を迎えた農耕生産の立て直しを可能にする、鉄と遠距離交易の高まりに端を発し、弥生時代から古墳時代へ移行

 人工物の「凝り」、定着の高まり
 縄文前~中期(7000~4500年前)、弥生中期(紀元前3~1世紀)

 人工物の共通化、流動性の高まり
 縄文後・晩期~弥生時代初頭(4500~2800、2700)、紀元後1世紀~古墳時代

 まず、この本から得られた知見をもとに、「環状集落・環状列石・環濠集落」で書いた認識を更新したい。

 驚きから始まったこの本で最も驚いたのは、旧石器時代の環状ブロック群のことだ。

 環状ブロック群(旧石器時代、3万年前ごろまで)
 ・広場を真ん中にして円く並んだキャンプ地。一時的な集住の地

 これは、ぼくたちの観点からえいば、生と死がひとつながりだった霊力思考の全盛を示す最も美しい住居形態だと思える。

 環状集落(縄文時代前期、約7000年前)
 ・真ん中の広場に遺体を埋葬して墓地とした。ときに住む人々によりも明らかに多い数の墓穴が掘られた例も。
 ・環状集落は全集落数の一割に満たない。分布は派手な土器地帯と一致
 ・真ん中に葬られた十数人に、外側の大勢が対面するような形になっていた可能性が高い(西田遺跡)

 定住期間が長くなると、その場所で生まれて大人になる人間が出てくる。特定の土地と心をつなぐ人びとの出現だ。さらに定住期間がのびて数世代にまたがるようになると、そこで一生を過ごす住人がたくさん出てくる(p.71)。

 生と死が「移行」の段階になるのは、死者との共存だ。死者と共存することにより、次の生としての死という時間性の認識が生まれる。この霊魂思考によって、死は生から移行するものと思考される。

 環状列石(縄文時代後期、約4500年前)
 ・列石の内側は墓地
 ・二つ並ぶ万座環状列石と野中堂環状列石。
 ・万座環状列石の中心→野中堂環状列石の中心→冬至の日に太陽が昇る位置
 ・野中堂環状列石の中心→万座環状列石の中心→夏至の日に太陽が没する位置

環状集落の墓地の部分が肥大して飾られ、住居の部分が縮小して退化すれば、そのまま環状列石になる(p.124)。

 佐々木藤雄は、「住居と中央広場、日常の空間と非日常の時間、生者の世界と死者の世界がはっきりと区別されたことだと読み解く。そしてこれを、中央広場がまつりの場として純化され、その性格を強化されたことの反映だと考えている(p.125)」。

 環状列石について、以前は「他界の空間化の兆し」と見なした。これに少し修正を加えたい。

 佐々木は、環状集落と環状列石の中間形態として、中央広場に石組みの環をもった環状集落の出現を挙げる。そして、石組みの環が集落から独立し、そこから離れた特別な場として設営されるという。

 この中間形態を置くと、中央広場に石組みの環をもった環状集落の出現が、生と死の分離の契機、つまり他界の空間化の兆しであり、環状列石が他界の空間化が根拠を得たことを示す。現世と他界をつなぐ穴、くびれが塞がれるのだ。

 万座と野中堂の環状列石と冬至、夏至との関係は、マンガイア島で死霊が他界へ赴くのが冬至と夏至の日であることを思い出させる(cf.「ニライ・カナイ、地の底から海上への転位」)。もちろん、万座と野中堂の環状列石の構造は、マンガイア島の伝承と同一のものではないけれど、冬至と夏至を重視した思考が働いていることは共通している。

 環濠集落
 ・外敵の襲来から生命と財産を守ることと、自分たちと他の人々とを厳然と分ける(p.168)。

 他界の空間化の完成と遠隔化に対応する。

 琉球弧からみれば、環状列石に対応するモニュメントは、「洞穴」だ。

『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』


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2015/06/07

ソールイガナシ・注

 ソールイガナシを頂点とする男性年齢階梯組織は、「かなり古い時代まで遡れるように思う」と指摘したのは吉成直樹だ(『琉球民俗の底流』)。

 ソールイマッカネーでは、ソールイガナシが15歳の男子を伴って、各戸を訪れ、食物のもてなしをうけて、盃の交換をして家族の健康を祈願するとともに、儀礼用の神酒を集めて歩く。ソールイマッカネーの特徴は、仮面仮装の来訪神儀礼と同一系統にあることを示唆している。

カベール森の道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマターと呼ばれる蛇を二匹とったところ、それは兄弟と姉妹であった(小島瓔禮、「イザイホー調査報告書」1979年)。

 カベール森とは、ソールイガナシを加護する竜宮神のいる場所だ。これについて、吉成は、

久高島の来訪神、(ソールイマッカネー)が洞穴から出現する蛇であることを示唆するもの以外のなにものでもない。

 と書いている。それこそ示唆のある指摘だと思う。

 ぼくはソールイガナシが漁撈の長であることに関心がある。

ソーリィガナシは毎朝グルガーに瓢をもつてゆき沐浴してカベールの神に豊漁を祈願する。ソーリィガナシは庭に阿旦(パンダナス)の木を植えてウミジョー(竿)を立てておく。祝女や根神が農耕の司祭者であるのに対して、ソーリィガナシは海の神事の司祭者として、この地位にあるものは最早普通人ではないのである。この地位についたものは如何なる目上の人にも頭を下げて挨拶せず、合掌するだけである(p.53「久高島島の三月の祭」国分直一、1957年)

 このソールイガナシの態度は、神として振る舞う際の祝女と変わらない。シュクに関する儀礼キスクマーイは、ソールイガナシによって取り仕切られる。

スクが寄ってくるか否かは、ソールイガナシに選ばれた人の徳によると考えられていた。そして島ではスクは海から"湧いてくる"と表現される。(後藤明『「物言う魚」たち』

 ソールイガナシは、呪術的効果が期待されていたわけだ。そして、それだけではない側面を持つ。

 ソールイガナシは年齢順に、六十歳以上で村頭を勤めた者の中から二人選出される。任期は二年。任命を告げるのはニッチュである。ソールイガナシはいくつかのタブーがある。たとえば、島外に泊まることはできない。誰に会ってもけっして頭を下げないなど。また、祭の前には必ず禊をしなければならない。彼の家の屋内南側にはソールイ棚を設けて、タテマンのワカグラーという漁の神を祀り、庭の東隅にはアダンの木を植えてそこにソールイ棒を掛けておく。不漁の時は、彼は海へ投げ込まれたという。(下野敏見『ヤマト・琉球民俗の比較研究』

 同じ神でも、「不漁の時は、彼は海へ投げ込まれ」ることは、祝女では決してあり得ないことだ。このソールイガナシの絶対的な態度と絶対的な服従とは、アフリカ的段階の王のあり方と似ている。吉本隆明は、ソールイガナシの、「如何なる目上の人にも頭を下げて挨拶せず、合掌するだけである」姿を、「これは本土における生き神(祝〔ほふり〕)のかたちととても似ている」(「イザイホーの象徴について」)と指摘しているけれど、海へ投げ込まれるのは大祝的だ。

 ソールイマッカネーについて言えば、「蛇」と結びつけられていることもその古さを言うものだと思える。ソールイガナシから、竜宮神や来訪神的な被服を脱いでも残るのは、このアフリカ的段階の顔ではないだろうか。


『琉球民俗の底流―古歌謡は何を語るか』

『「物言う魚」たち―鰻・蛇の南島神話』

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2015/06/06

神とトーテム

 吉本隆明の『アフリカ的段階について―史観の拡張』)(Ⅲ)について、注釈を入れるようにして、以前の考えを更新しておく。(cf.「『アフリカ的段階について』Ⅲ-1」

(前略)ヘーゲルのいうとおり、人間の肉体も他の生物とおなじように<知覚する自然物>だとするナチュリズムでは、人間以上の存在は自然のうちにかんがえられないことになる。だから自然の動きで眼につく現象はすべて、人間によって統御できるものでなくてはならない。風が方向を変え、温度や強度を変え、それが季節ごとに循環する自然現象も、人間の力で変更したり、統御できないとすれば、人間以上の存在を認めるほかなくなってしまう。人間は自然の動きを変えさせることができる存在とみなされるほかない。人間の力能を最高だとすれば、他の動物や植物や無機物自然がもっていない何かがあるからだ。これが精霊、霊魂、守護神、悪鬼、物の怪を生みだす人間の想像力のはじめの形だとかんがえられる。人間がじぶんを最高の存在とみなすとすれば、精霊、霊魂、守護神等々の感官にうつらないものだけが尊崇されることになり、また感官に何とかしてうつる存在のようにみなしたい願望や錯覚や思い込みも当然生れてくる。この可視性(感覚性)と不可視性、あるいは天然の物象尊崇と霊魂尊崇とを接続する原点は、じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念と、先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念とが一致するところにあるといってよい。デュルケム的な言い方をすれば「霊魂とは、一般に、各個人の内に化身したトーテム原理そのもの」(『宗教生活の原初形態』下 岩波文庫)だということだ(p.79)。

 「じぶんの先祖をさかのぼることで、ひとりでに人間が神に変身するという概念と、先祖としてトーテム動物や植物や生物を設定する概念とが一致するところ」というのは、今の考えでは、霊力思考の母体のうえに、霊魂思考が駆動する地点と言うほかない。

 霊魂思考の進展とともに、霊力思考を凌駕し、「精霊、霊魂、守護神、悪鬼、物の怪」を生み出していった。

 吉本の思考の助けを得ると、この段階では、すでに「人間の力能を最高」だと認識していた、ということになる。


『アフリカ的段階について―史観の拡張』

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2015/06/05

「トーテム的表象の解体」

 トーテムは生命を産出し、生を統括するものだと、モーリス・レーナルトは書いている。

トーテムの神話は、メラネシア人にとって、生命を生む世界すなわち情緒的生全体に関する認識の最初の様式であった。大切なのはトーテミズムの向こうにこの同一性があって、それがわれわれが未開人とよぶ人々の精神的および情緒的行動の鍵であることを理解することである。

 ニューカレドニアのトーテムはとかげだ。レーナルトは、家のそばにおいて観察してみたことがあるが、「微動だにしない大木の幹にこのとかげがじっとしている様子は、さながら森と一体となった生き物であり、カナク人が自然の晴明とこのとかげとの間に、ある関係を設定したのも納得できるのである」。

 ただ、メラネシアにおいてもトーテミズムは解体過程にある。解体過程にあるが、その死はゆっくりと進むので、全面的ではない。それは、伝説上の怪物に変質していく途上にあるが、まだ物語のなかに命脈を保っている。

 怪物になって退治される物語、とかげが人間に変身して女性と婚約する話、人間を助けるとかげ。たとえば、バイの人々は、必要なときは鮫に助けてもらえると思っているが、もはや鮫をトーテムとは思っていない。それは、「守護の動物になる途上にある」。

 トーテムは神々と接触することでも解体する。

ところでこの神々というものに体操する表象は曖昧なので、それがトーテムの姿を借りて表現されるということが起こる。そういう地方では、神の名とトーテムの名と山の名が同じになっている。伝統が生きいきと保たれていて、祖先という新米のものに巻けなかったという以外に、これは一体何を意味しているだろうか。

 これらのことは、ことごとく琉球弧にも当てはまる。


『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


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2015/06/04

精神を残したままでは、物語ることはできない

 モーリス・レーナルトは、ニューカレドニアのカナク人が、自己と世界を分離してないことを、興味深いエピソードで伝えている。

メラネシア人は物語るのを聞けば、彼らの自己の位置取りが不確かであることがよく分かる。面白いことに、彼らは場所の地誌的な名前を忘れたからという口実で物語を語るのを断ることがよくある。または今はその名前を口にすべき時ではない、という断り方もする。どんな理由で、このように言いしぶるのだろうか。
 それは彼らが、聞き手を前にして今自分がいる場所に精神を残したままでは、物語を語ることができないからなのである。彼らは、言葉をとおして、物語が展開するまさにその場所に身を移さなければならないのである。彼らははるか遠くの、物語の中心に身を置く。そうしてはじめて、物語のなかで彼らが口にする方向がすべて自分から放射し、あるいは自分に向って収斂して彼らが位置を占める想像上の場所との関係で矛盾が起こらないようになる。だからこそ彼らは、物語に出てくる場所の地誌的な名前を忘れると語るのを拒む。そうなってしまうと、彼らは中心との関係で所与の場所を位置づけられず、どういう方向の副詞を使うべきか分からなくなる、たとえていえば、川上なのか川下なのか、こちら岸なのか向こう岸なのか分からなくなるのである。彼らは不確かな感じになって文字どおり物語のなかの地理的世界で迷ってしまう。彼らは物語が展開する空間に自分の身を移すことができず、なおのこと聴衆をそこに連れていくことができずに、物語は彼らにとってはもはや存在しなくなってしまうのである。かくして物語をほんの少し語るにも、精神を本当に連動させることが必要なのである(p.147)。

 これは世界と自己が未分離であることがどういうことかをよく教えてくれているのではないだろうか。そして同時に、これは自然な脱魂行為の例であることも。「今自分がいる場所に精神を残したままでは、物語を語ることができない」。物語るとは精神の遁走なのであり、名前を忘れることは「神隠し」に会うような恐怖を伴う。ここに文字のない社会という背景を置くと、余計にリアルだ。

 なかなか思い出せない時の、あのもどかしさ。 


『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


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2015/06/03

『日本人の霊魂観』(山折哲雄)

 山折哲雄は『日本人の霊魂観』のなかで書いている。

 (前略)憑霊と生命霊の葛藤の場面がいわば狂気(もの託(くる)い)の磁場であったとすれば、生命霊が肉体から遊離する機会はいうまでもなく霊肉分離による、死の危機的場面である。それは忘我・脱魂の状態ともいわれる。憑霊(ポゼション)がどちらかといえば狂への通信であるのにたいして、このような脱魂(エクスタシー)は死との交信ということができるかもしれない。

 として、「憑霊的水準(狂・託のシンボル)」と「脱魂的水準(死・擬死のシンボル)」とを設定している。これは森山公夫が、精神医学の立場から「解離」における「憑依」と「遁走」との類似を抽出しているのに対応している。「憑依」とは多重人格(同一性障害)であり、「遁走」は神隠しのテーマにつながる。(cf.「「シャーマニズムと狂気」(森山公夫) 1」)。

 だが、脱魂にしても憑依にしても、共同幻想との関わりを想定しなければ、ただの言葉遊びに過ぎなくなる気がする。

 山折は「殯」についても考察している。身体から遊離した霊魂が、他界遍歴、死への旅路にあるときに、もとの肉体がどのように処置されているかは重大な問題だった。古代信仰にとって最も危険なことは肉体の消滅である。危機は最大限、引き延ばされなければならない。そこで、「遊離魂の蘇生という観念にもとづく象徴儀礼」が採用される。それが「殯」であり、「擬死-受容器」の考え方だった。

 ぼくの方からいえば、これは生死の境を見定めようとする霊魂思考から見られた殯である。これは危機回避という対処療法から生まれたのではなく、食人の弱められた変換としての添い寝と同位相にあるものだ。ここで、思考されているのは、霊力の転移である。

 山折は、「「もがり」儀礼がたんなる一時的な死体遺棄でも洗練された風葬というのでもない」と書いているが、その通りだとしても、意味は違う。それは、死が生からの移行になった段階での、霊力思考の発現である。

 大化2(648)年、薄葬令が出される。

 庶民亡なむ時には、地に収め埋めよ。其の帷帳の等には、鹿布用ゐるべし。一日も停むること莫れ。凡そ王より以下、庶民に至るまでに、殯(もがりや)営(つく)ること得ざれ。凡そ機内より、諸の国等に及るまでに、一所に定めて、収め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく処処に散し埋むること得じ。

 山折は、この殯禁令から、当時、「殯の風習は上下の広範な階層によって保持していたのであろう」としている。しかし、平安時代に書かれた『日本霊異記』の蘇生説話のなかの殯期間は、最低で二日、最高で九日であることから、必ずしも遵守されていなかった可能性はかなり高いと考えている。

 また、他界については、「わが国の黄泉国や常世国および根の国などの「他界」は、現世の延長として、その水平もしくは足下に接続する構造」であると指摘する。これは、記紀神話の冒頭が、生と死が移行から分離の段階にあることを示している。

 堀一郎は、『万葉集』の「挽歌」を見、死者の霊魂は、50%を占める「山」をはじめ、「岩、雲、霧、樹木」などの「高き」につく場合が圧倒的に多く、「海、島、野腹、川、谷」などの水平的に鎮まる場合もある。これに対して、「冥道」、「黄泉」、「地下」などの「いわば宇宙論的な他界に赴く場合はわずか七例を数えるのみなのである」と指摘している。

 ぼくは、「雲」、「霧」の場合は、霊力思考の目線が入るのではないかと推測するけど、これは実際の歌謡を見なければ確かめられない。ここからは、本土においても地上の他界が大勢を占めていることが分かる。これは、琉球弧において、地下が痕跡のようにしか見いだせないことと似ている。ただ、地上の他界の存在は、地下の他界を前提とするから、不自然ではない。また、「高き」と「水平的」は同等である。

 稲作農耕が席巻した列島本土においても、霊力思考が強く働いたことは面白いと思う。

 山折は、憑霊について、『源氏物語』と『栄花物語』をケーススタディに挙げている。

 1.葵上

 験者が祈禱すると、葵上にとり憑いていた物の怪がものを言い始める。それは様子といい物言いといい、六条御息所にそっくりだった。葵の上は無事に出産する。すると、憑人(よりまし)に乗り移った物の怪どもが騒々しい叫び声をあげる。のち、葵上は亡くなる。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けようとした。
 ・物の怪は、憑人に憑いた

 2.紫上

 紫上が病に臥す。物の怪の仕業であるとして、験者が祈禱。物の怪は憑坐の小童に乗り打つ手叫び声をあげる、紫上は蘇生。物の怪は次第に六条御息所の姿をほうふつとさせる。彼女の死霊だった。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けた
 ・患者は蘇生した。

 3.頼道

 頼道が病になる。験者は一週間ほどしてようやく霊媒(憑人)に憑かせることに成功。物の怪は貴船の神であると名乗る。頼道は失神する。物の怪はそばに仕える女房に乗り移る。それは死霊であり、その言い分を聞くと物の怪は消失する。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けた
 ・物の怪は、人のものではなく神の霊気だった
 ・物の怪は、憑人ではなく、女房に憑いた

 4.教通室

 教通室が懐妊してから物の怪に憑かれる。なかなか巫女(憑人)にも憑かない。加持を強化すると、憑きなれている女房に物の怪が憑く。僧都の霊であることが分かる。加持を止めてくれという願いを聞き入れると、教通室は亡くなってしまう。その後、口寄せすると、教通室は巫女に乗り移り、後悔を述べる。

 ・験者は、物の怪を憑人に憑けようとした
 ・物の怪は、女房に憑いた
 ・死霊は、憑人(巫女)に憑いた。

 このなかで、神の霊気が憑人に憑くのがもっとも古い。この固有の基本形にたいして、

密教修法は加持祈祷の機能を導入することによって、憑く、憑ける、憑けられる、の三極構造を生み出し、それによって病気と憑霊現象との相関関係を解こうとしたということができるのである。

 ぼくたちの方から言えばどうなるだろうか。霊魂概念が生まれると、トランス状態は脱魂と憑霊の表現形態を持つようになる。永久の脱魂は死であり、憑霊は病をもたらす。巫覡は、その病や臨死を自身のなかで人為的につくりだす霊魂の技術者である。ここで、「験者」は憑ける技術で関与した。

 山折は、「物怪が霊界において確固たる座を占めるようになったのは、おそらく平安時代になってからであろう」としている。上記のケーススタディでは、物の怪は死霊と同義にもなっていたから、ここでは霊魂概念成立以降の憑霊現象の登場人物という意味に受け止めておく。 


『日本人の霊魂観---鎮魂と禁欲の精神史』

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2015/06/02

「古層の村」(仲松弥秀)

 仲松弥秀の「古層の村」(『村落共同体:叢書わが沖縄〈第4巻〉』)で気づきを得たことがいくつかあった。これは1977年の文章。

 まず、御嶽のこと。御嶽には、「他の場所に鎮座している神を招請して、作為的につくられた御嶽がある」。「通し御嶽」と称されている。

 ニライの神を祭祀に際してのみ招請する通し御嶽。この場合は、そこから遠く海の開けた方に向って手を合わせて招請する。また、招請されたニライの神が鎮座している通し御嶽。この場合は鎮座する神に向って拝むが、海の方向を向くことがほとんど。

 ここで思い出されるのは、折口信夫の「琉球の宗教」だ。

 琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。
 御嶽拝所(オタケヲガン)は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻(シマジリ)に於ける久高(クダカ)島、国頭(クニガミ)に於ける今帰仁(ナキジン)のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。(中略)
 琉球神道に於て、香炉が利用せられたのは、何時からの事かは知られない。けれども、香炉を以て神の存在を示すものと考へ出してからは、元来あつたおとほしの信仰が、自在に行はれる様になつた。女の旅行者或は、他国に移住する者は、必香炉を分けて携へて行く。而も、其香炉自体を拝むのでなく、香炉を通じて、郷家の神を遥拝するものと考へる事だけは、今に於ても明らかである。また、旅行者の為に香炉を据ゑて、其香炉を距てゝ、其人の霊魂を拝む事すらある。(中略)
 此様におとほしの思想が、様々な信仰様式を生み出したと共に、在来の他の信仰と結合して、別種の様式を作り出して居る所もあるが、畢竟、次に言はうとする楽土を近い海上の島とした所から出て、信仰組織が大きくなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所(オタケヲガン)さへも出来て来たのである。だから、御嶽(オタケ)は、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。

 「通し御嶽」は仲松の言うように作為なのだから、「海上の島」が先にあり「天」が出てきたというのは誤解だが、折口の洞察はこの作為にも思考の必然性はあったということを伺わせる。「通し御嶽」は作為で新しくても、「お通し」の思考は古いということだ。「香炉」を含め、ここには、他界と家をつなぐ火の神のお通しの思考が息づいている。この「お通し」の思考によって、「通し御嶽」が可能になり、ニライ・カナイの神を招請するという作為が可能になった。

 もうひとつは、ニライの神の来方にかかわる。仲松は書いている。

久高島の神聖視も同様である。すでに名城村落の西方手前の小島に、ニライ神を祀ったアイゲナ森御嶽が在ることを記しておいたが、祭祀の場合は、その小島に渡ったものである。渡島することは手前の島であっても、何かにつけて不便であり、支障が生じることから、台地上の村の崖端に遥拝所が設けられている。ニライの神は、西方の海から来られて一応手前の島に渡られ、そこから村へと来訪されるのである。

 これを折口文の冒頭近くの、「海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。」に対応させてみる。

 ニライの神は手前の島に寄るが、その島も神のいるところとされている。これは、「海上の島」が他界であったことの痕跡ではないだろうか。海のはるかかなたのニライ・カナイへと他界が伸びていく、その前段としての近しい他界があったのではないか、ということだ。言い換えれば、他界が遠隔化されて海のはるかかなたのニライ・カナイが思考されたのは、これまでに掴んできたことだが、その中間地点の痕跡もあると考えられるのだ。

 そしてもうひとつ。

 草分家を中心とした血縁村落の葬所グスクが拝所となって、「森」(例、知念森グスク、真玉森グスク、コガネ森、見上森、その他)、「拝み」、「拝み山」、「神山」と言われ、それが首里方面からと思われる「御嶽」なる呼称が流布して、現在は御嶽という呼称が一般化している。

 ここで考えたいのは呼称のことではなくて、「祖先の葬所を屋敷に接した場所に選んでいる」ことだ。これは、死者と共存した段階の共同体であることを示しているのに他ならない。

 そうして振り返ると、「お通し」という信仰があり、祝女の神権による作為にも生きるのは、洞穴を介して他界と行き来できるという段階の思考が強く生きているからだ、と言うことができる。

 祖先を身近に感じる仲松は書いている。

 「死ねば神と成る」、と観じていたのが古代沖縄である。神と成っているものに供養祭祀するはずがなく、そこには祈りがあるのみであり、神と人との歓会と共食があったのである。三十三年などとはもっての他である。

 仲松がもっとも言いたかったのはこのことだろう。仲松の身体感覚もまた、生と死が移行の段階をよく保存している。
 
 
 

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2015/06/01

『琉球宗教史の研究』(鳥越憲三郎)

 鳥越憲三郎の『琉球宗教史の研究』は素晴らしかった。琉球弧の村落共同体の構築について本質的に把握することができる。これは、1962年に鳥越が博士論文として執筆したものが元になっている。こういうものを読みたかったと思うと同時に、なぜ琉球弧内部からこれに相当する考察が出なかったのだろうかという疑問も浮かぶ。


 御嶽は神に住み給う場所。村落の存立は、御嶽の神とそれと血縁関係をもつと考えられる成員との相互関係のもとに成立する。

 もちろん、生業もかかわった。「不定住な狩猟・漁撈の住民にとっても、やはり獲物の多寡或は移動によって彼等の住居は規定される」。この鳥越の見解に対して、現在の考古学の知見は、定住が漁撈から始まったことを教えている。

 村落の形成は御嶽の設定から始まる。それは、「中山世鑑」に見られるように、御嶽の生成から国土の発祥が語られていることにも現れている。

 御嶽は、タキまたは森(ムイ)とも呼ばれる。御嶽には石の香炉が置かれた「イビの前(めー)」があり、その奥に「イビ」がある。そこにある厳岩か老樹がイビ。老樹は蒲葵の木であることが多い。御嶽の神はその集落のみの神であって、その他の集落の御嶽とは排他的な関係にある。

 人の住む共同体には、開拓者・創建者に当たる「根所」があり、根所は御嶽の入口に構えられた。根所で神託を受ける者を「根神(にーがん)」、戸主であり根神の兄弟を「根人(にーちゅ)」と言う。「根所は祭事の実験者としての根神と、政事の実験者としての根人をもつことによって、根所の威厳を確保した」。

 ここで鳥越は、「古事記」の兄猾、弟猾などの名を挙げ、これを「兄は年上を意味し、弟は年下を示すもので、それらは兄妹か姉弟の何れかの組み合わせになっていたものと考えられる」として、「姫彦」であると見なしているが、これは「彦彦」であると思う。姫彦だけとは限らなかったのだ。彦彦もありえた。琉球弧でいえば、ソールイガナシがそれに当たる。両者に前後をつけることはできないけれど、初期において根神は、男女ともに可能性があったのだと思う。巫覡としてトキユタ、ユタの両性があったように。

 按司が出現すると崖の上に城郭を築き、その前面の斜面が集落が構成される。ここで、御嶽は城郭の内部に移動し、支配所の実質としての根所も、城郭内の按司家に移動する。集落の構造は以前と同じ。ただし、根所の向かいには「ノロ殿内」が設けられる。祝女は按司の姉妹から選ばれた。ただし、根所は按司家と血縁関係のない者に委ねられている。

 神アシャギは本質的に御嶽と同じ。「部落が山腹から平地へ移動したため、参詣の便宜上から御嶽に代わるべく拝所を部落内に設けるようになったものと考えられる」。島尻、渡嘉敷では神アシャギは僅少だが、国頭ではほとんどの村落に見られることにも示される。

 神アシャギの広場には御嶽から移植された聖木がある。しかしそのことは忘れられている。

神は聖木を依料として部落に迎えられるのではなく、巫女の長であるノロ自らが御嶽の神として臨場している。しかし原初的な形態においては、(中略)聖林の神は聖木を依料として部落に迎えられていた筈である。

 それが忘れられてしまった。思うにそれは、祝女が神として振る舞うようになったためではないだろうか。この聖木はコバデイジ、榕樹、松が多い。

 鳥越は沖縄県でカウントしているが、御嶽の数は901。このなかには城郭内の御嶽も含まれるから、そのことを斟酌すると「少なくとも七〇〇ほどの村落が発生したことになる」。

 火の神は家の神。家も竈の火と同時に発生した。それは所帯のことを「煙(けぶり)」と呼ぶことにも現れている。火の神には不絶火の信仰がある。それは主婦の責任。

 御嶽の聖名による分類。

 1.ツカサ(司) 120
 2.イベ 20 *
 3.森・御 25 *
 4.グスク(城) 4
 5.マキ・クダ(村) 20 *
 6.海・崎 8 *
 7.水・泉川 6 *
 8.植物 78(蒲葵系が60) *
 9.イシ(石)・イシラゴ(斎白砂) 60 *
 10.カネ(金)・コガネ(黄金) 30
 11.スズ(鈴) 4
 12.シマ(島)・クニ(国) 17
 13テン・アマ(天) 4
 14.アフリ(天降) 6
 15.ヨリ・ヨセ(寄) 10
 16.ヨリアゲ(寄上)・オシアゲ(押上) 23 *
 17.コシアテ(腰当) 15
 18.カサ(傘) 6
 19.ヨナフシ(世直) 5
 20.テル(照) 10
 21.タマ(玉・霊) 4
 22.ゲライ(嫌ひ) 6
 23.ニライ・カナイ 2
 24.キミ(君) 10
 25.セジ(神霊) 15
 26.ガナシ(尊称の接尾語) 7
 27.ヌシ(主) 15
 28.カミ(神) 16
 29.火 3
 30.弁財天 1

 鳥越はイザイホウに出席した感想も書いているのだが、それは「少しも楽しいもの、和やかなものを感じさせないものであった。それに反し怖ろしいほどの引き締まった厳粛さをもって神事が終始されたことである」。

 この雰囲気に呑まれた先に、こう書いている。

 祭の期間、特に神事の際は、ノロは人間としてではなく、神の憑依したノロというより、むしろ神自らとして感じているのである。この感じはノロだけではない。村人もその時の彼女を神として仰ぎ、又彼女自身も神としての態度をもって行動している。この島には海事を司る者として、古老の中から順番にソーレーガナシという神役を務める男が選ばれるが、ソーレーガナシはその一年の任期中、平常他の人から御辞儀をされても決して彼は返礼しない。ただ胸の前に両手を合わせて、神としての儀礼をもって相手に拝ます。男の神役でされそうなのであるから、まして巫女としてのノロが、人々から如何に神として崇められているかについては説明するまでもないであろう。私が御辞儀をした時も、ノロは顔を緊張させ、実は神としての態度を持して私に拝ませたのである。私は普通の挨拶のつもりであったが、彼女は神を拝む者として私を遇したのであった。

 臨場感のある印象的な文章だ。鳥越はこの印象を大事にとどめて仮説している。

 琉球では神の憑依者した者に先行して、神そのものとしての巫女が存した。

 これは、実感に裏打ちされた面白い仮説だと思う。だが、やはり観察の印象に呑み込まれてしまったのではないだろうか。

 神として振る舞う祝女は、仮面を取った来訪神のようにも見える。けれど、祝女のそれは高神に寄るのであり、やはり来訪神とは異なる。祝女の出現する以前、生きながらにして巫覡や老人はカミと見なされた。そして霊魂観念の成立とともに、仮面と高神は根拠を持ち、その元で、神として振る舞う祝女が出現したのだ。

 憑依者がいて、それとは別にあるいはそのなかに共同幻想である神を対幻想にする巫女が発生する。そのなかで、祝女は共同幻想そのものとして振る舞うことがありえたのだ。

 また、鳥越の考察を踏まえると、御嶽の神の発生は、定住化とともにその根拠を持ったと言えるかもしれない。旧居住域の聖なる樹木や巨石を神体として御嶽に連結したとき、御嶽の神は発生した。旧居住域は祖霊のいるところでもあるから、祖霊と樹木・巨石の二重化がここで起こっていると思える。

 定住化は他界の発生を促す。そこで、そのお通しの場として火のカミの観念も生まれた。

 鳥越の労に敬意を表して、分類された御嶽のなかで、名称から古層に属する可能性のあるものを、ぼくの考えでカウントしてみる(*を付した)。鳥越が挙げたのは、計550で、うち古層に属すると思しきものは240。約44%。それ以降のものが56%になるということは、これはグスク時代以降の集落の増大と拡大に対応するように思える。

 「ヲナリ神の霊力とは、要するにヲナリ神のもつこの「スヂ」の力によるものである。女性一般には男性と異なった、かかる神的霊力が生得的・本有的に保持されているものと信じられており」という記述を見ると、やはり、「霊力」に当たるものは「セヂ」であり、それが女性に特化されて男性から脱落したのかもしれない。

 


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